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*


 翌日ベッドの上で目が覚めると、既に幸村は家を去った後だった。鍵は開いたままになっているのだろうと思い玄関に向かう。眠っている真田を起こしもせずに去っていったのだ。幸村はもうこの家には来ないだろうと思った。五歳になる娘は幸村によく懐いていて、近頃は大きくなったら精市くんの結婚するだなどと言っているので、しばらくは寂しがるだろうが子供なのですぐに忘れるだろう。
 しかし真田の方はそうもいかない。幸村が自分に向けた感情も、自分が妻子を裏切ったことも忘れられない。姿が見えなくなればなおさら彼の存在は真田の中で大きくなるだろう。俺をこんな風にしたのはお前だろ、という幸村の言葉が胸にこびりついて離れない。ベッドのシーツの上で乱れた幸村の姿が忘れられない。こんな状態で、どうやって生きていけばいいのだろうか。
 深い溜息をつく。玄関の鍵に手をかけた。開かれた状態のそれを回そうとすると、真田が指に力を込めるより早くガチャリと音がした。ドアノブが傾く、しかし施錠されているので鈍い音がするだけでドアは開かない。扉の向こうから「あれっ」という声が聞こえた。妻の声だ。忘れかけていた罪悪感が心臓の拍動を激しくする。もう一度鍵が回る。開かれたドアの先に妻と、彼女に手をつながれた娘が立っていた。

「鍵、どうして開いて、」

 そこまで言って妻が黙りこむ。彼女の白い手が真田の首筋に触れて、鎖骨まで降りていった。昨晩は会社から帰宅してシャツを着たまま飲んでいたので、ボタンを二つほど外しくつろげたシャツの合間から肌色が覗いている。

「これ、どうしたの?」

 妻が震える声でそんなことを言った。しかし真田は彼女の言うところの“これ”が分からなかったので怪訝な表情を浮かべた。苛立った様な表情を浮かべた彼女が娘と繋いでいた手を離して肩にかけていた鞄から折りたたみ式の鏡を取り出す。そうして真田の目の前でそれを開いた。
 やられたな、と思った。小さな鏡に映る自分の首筋と鎖骨の下には小さな鬱血の跡が残されている。どう見てもキスマークだ。虫刺されだというには無理がありすぎる。

「私が実家に帰っている間に女連れ込んだの?」

 言い訳をする気にはなれなかった。相手は女ではないが、セックスをしたのは事実だ。

「……すまなかった」
「名前」
「名前?」
「相手の名前言って、電話かけて」
「電話をかけてどうするつもりだ」
「三人で話しあう。女にも文句言わないと気が済まない。早く、名前」

 怒りで震えてはいたものの、妻の声ははっきりとしていた。真田がだんまりを貫けば、怒り狂うことは間違いない。それでも、真田は相手の名前を出すわけにはいかなかった。自分が男を抱ける人間だと思われたくなかったし、男相手に不倫されたと知れば妻が傷つくだろうとも思った。なにより幸村を男を寝取るようなおかしな男だとも思われたくない。

「相手の名前は言えない」
「どうして」
「言えないんだ」
「それなら離婚する」

 妻の瞳がまっすぐに真田をとらえていた。幼い娘は不安げな表情を浮かべて、真田と彼女を見上げている。真田はやはり何も言えなかった。妻が額を手で抑える。

「一旦別居しましょう。私、荷物を取ったらもう一度実家に帰ります」

 彼女は一度決めたことは必ず実行する女だ。それが彼女の美点であるし、真田は彼女のそんな部分に惹かれた。
 そうして荷造りは一時間もかからない内に済み、彼女は言葉通りに娘の手を引いて再び家を出ていった。



*


 妻と娘が家を出てから二時間ほどが過ぎた。時計の長針と短針が綺麗に重なっている。腹が減った。勿論自炊なんてものは出来ないし、妻は健康志向だったのでインスタント食品も家にはない。とはいえ数時間前にあんなことがあったばかりだ。外出する様な気にはなれない。このまま眠りにでもつけば一時的にでも空腹を忘れられるのだろうが、眠気など少しも感じられない。
 せっかくの休日を鬱々としながら消費していると玄関のチャイムが鳴った。二人がけのソファに横たえていた体を起こして玄関に向かいながら、妻が帰ってきたのではないかと期待する。しかしよくよく考えれば彼女は家の鍵を持っている。チャイムを鳴らす必要はないだろう。肩を落としながら宅配便かなにかなのだろうと判断した真田はシャツのボタンを止めて、手櫛で髪を整えてからドアを開いた。

「ただいま」

 笑顔で立っていたのは幸村だった。休日のはずなのにスーツを身にまとった幸村の肩には右肩には旅行用らしき大きめの鞄がかけられていて、左手では牛丼屋の袋を掴んでいる。

「お腹空いたんじゃない? 一緒に牛丼食べようよ」

 戸惑う真田に大きな鞄を押し付けた幸村は履いていた靴を大雑把に脱ぎ散らかすと、リビングに入った。ローテーブルに牛丼を置いて、食器棚からグラスを二つ取り出す。

「水入れるね」

 冷蔵庫から取り出した氷を数個グラスに入れると、浄水器の水をそれに注ぐ。氷の溶けるパチパチとした音が聞こえてきたところで、真田はようやく口を開く。

「何をしに来たんだ」
「戻ってきたんだよ。ただいまって行っただろ」
「質問を変える。なにをしに行っていたんだ」
「家に荷物を取りに行ってた」
「何の荷物だ」

 幸村に押し付けられた大きな鞄をリビングの床に投げ出す。ボスンという音がした。中に入っているのは衣服類といったところだろう。

「ここに籠城するための。スーツは皺になるといけないから着てきた」
「……なんのために籠城するんだ」
「お前の心を手に入れるために決まってるだろ」
「初めからそのつもりだったのか」

 ローテーブルの脇に座り牛丼屋の袋に入っていた割り箸を取り出した幸村が小さく頷く。真田は、幸村がこの家に訪れることはもうないだろう等と勝手な想像をしていた数時間前の自分が恥ずかしくなった。

「おかしいと思っていた……」
「なにが?」

 幸村は既に牛丼を食べ始めている。付属の紅しょうがを箸で摘んで「これが好きなんだよね」などと余裕な態度で笑う男が憎たらしい。
 目立つ場所につけられたキスマークは真田の意識のある内に付けられたものではなかった。ベッドの上で絡まり合っていたとき、幸村は真田に対してそんなアクションは起こしてこなかったのだ。昨晩は酒が入っていたがそのことは記憶は飛んでいないはずなので間違いない。つまり、幸村は真田が眠っている間にキスマークを付けたのだ。

「わざと目立つ場所に付けたのか」
「ああ、それのことか」

 真田が自らの首筋を撫でると幸村は瞬きをした。何の感慨もなさげに「奥さん帰ってきた?」などと言う。我関せずという幸村の態度に内心苛立ち始めている真田が首を縦に振ると、こともあろうに「出て行っちゃったんだ? あの人らしいな」と笑う。

「上手く行きすぎ。夢みたいだよ」
「悪夢だな」
「真田にとってはね。俺はこの状況に持ち込むために結構頭を捻ったよ」
「おかしなことに頭をつかうのはよせ」
「奥さんが不倫を簡単に許すはずがないっていうのは大学からの付き合いだし分かってたけど、お前をその気にさせるのは難しいだろうと思ってた。酔わせて眠ってる間にキスマークだけ付けて帰ろうかとも思ったけどお前は身に覚えのないことならきっぱり否定するだろうとも思ったから、なんとかしてヤらないといけないと思ってたんだ。実際お前に抱かれたかったし。だから嘘をつくことにした」
「嘘?」」

 幸村が頷く。真田は、自分がなにかとんでもない過ちを犯してしまったのだと察して身を硬くした。

「昨日の最後の、俺が童貞だって話。あれが嘘。いくらお前のことが好きでもこの歳まで童貞なんてありえないだろ。だけどああ言えばお前が俺を気の毒がることは分かってた」

 箸を置いた幸村がリビングの入り口でつっ立っている真田を見つめる。頭に血の上った真田は大股で幸村との距離を詰め、彼の胸ぐらを掴んだ。

「俺はお前のことを気の毒がっていたわけじゃない」

“俺をこんな風にしたのは真田だろ。お前は無意識だったかもしれないけど、俺は生き方の全てをお前に変えられたんだ”

 彼の言葉には真田の心を掴むだけの力があった。あの瞬間、真田は妻と子のことを忘れさせられた。一途でひたむきな幸村を愛おしいと思ったのだ。

「単純だな。俺は嫌な男だよ。お前、初めて付き合った女の子のこと覚えてるか。高校一年生のときに付き合ってた、おとなしくて可愛い子。最後には好きな人が出来たのって振られただろ。俺の初体験の相手あの子だった」
「な、にを……」
「俺がお前から寝取ったんだよ。もちろんあの子のことは少しも好きじゃなかったけどね。ただお前と別れてほしかっただけだから」
「……そんなことは知らなかった」
「真田は鈍かったよね。俺がお前の恋人を取ったこと、一度や二度じゃないよ。今の奥さん以外皆俺とヤってた。他の男に簡単に足を開く女ばかりと付き合うんだもん、真田は本当に女を見る目がないって思ってた――それですっかり安心してたら大学に入ってあんな気の強い女と付き合い始めたもんだから参ったよ。あの人は俺にはなびかなかった。そしてお前はあの人と結婚した。あの人は、いい女だよ。俺は勿論嫌いだけど」

 捲し立てるようにとんでもない事実を吐き出した幸村が笑う。昨日のしおらしい態度は計算ずくの嘘だったのだと思うと苛立ちを収めることが出来ず、真田は握りしめた拳を掲げた。幸村が遠い目をして口を開く。

「懐かしいな。お前に殴られるのはこれで二回目だ。
入院中、弱気になった俺にお前は制裁をくわえた……いい思い出だな、誰にも踏み込めない俺とお前だけの、」

 そこまで聞いた真田は拳を床に下ろした。幸村が無言で真田を見つめる。彼は真田が自分を殴らなかった理由を理解しているようだった。
 真田は青春時代の幸村とのある種美しい過去をこんなことで塗りつぶしたくなかったのだ。

「お前は……どうしてそうまでするんだ」
「分からない?」

 頷く、真田には幸村の行動理念が分からない。
 幸村の手が床に下ろした真田の拳に重なった。整った顔が眼前に迫っている。思わず腰を引くと、勢いよく抱きつかれた。身動きの取れない状況で、無理矢理に唇を重ねられる。触れるだけのキスだ。すぐに離れていった幸村の唇が真田の耳元で開く。

「キスをしたことがなかったのは本当なんだよ。今のが正真正銘俺のファーストキスだ」
「……まさか」
「嘘じゃない。信用出来ないだろうけど。それでも俺は今までお前以外の人間と唇を重ねたことなんてないし、これからもお前としかこんなことしたくない」
「どうしてだ」
「愛してるからだって。お前の彼女を寝取り続けたのも、こんな真似したのも全部真田のことを愛してるからだよ。俺はお前のせいでこんな酷い男になったんだ。昨日言った生き方の全てを変えられたっていうのは嘘じゃない」

 背中に回された手に力を込められた。酷く息苦しい。無論幸村の力が強すぎるわけではない。同じ手に何度も引っかかりそうになっている自分が情けなくて苦しいのだ。

「愛があれば全てが許されるわけではない」
「……そうだね。だけど俺は許されなくてもいいよ。どんなに汚いものに成り下がって、周りから白い目で見られても、最後にお前を手に入れられるならいい。まだいくらでももがける」
「俺を巻き込むな」
「お前を巻き込まないと始まらない」
「お前は俺の家族まで不幸にしているんだぞ」
「……あの子には悪いことをしたな。お前に似て可愛かったのに」
「お前は俺に似ていると言ったことはなかった」

 真田家に訪れるたび、幸村は彼の幼い娘と遊んでやっていた。奥さんに似てるね、というのがそのときの幸村の口癖だ。

「俺はあの子のお前に似てる部分ばかり探してたよ。だけど口には出せなかった。出したら抑え続けた気持ちが爆発しそうだったからね」
「お前は嫌な男だ」
「そんなの自分が一番よく知ってる。だけど、俺以上にお前のことを愛せる人間はいないよ。今後のことだって保証出来る。お前の奥さんはいつお前に見切りをつけたっておかしくないし、子供は案外薄情だから一年も合わなければ親への情なんて忘れるだろうけど、俺は死ぬまでお前のことを好きでいられる」
「先のことは分からないだろ」
「……そうだね。だけど今のことは分かる。お前の奥さんはあの性格だからお前が全てを説明するまで戻ってこない。だけど全てを説明してお前が男と寝たなんて知ってももう戻っては来ないだろうな。どの道お前はこの家でひとりきりだよ。お前は案外寂しがりだ。一人の暮らしは辛いだろ」
「……辛いことなど今までいくらでもあった」
「青学に負けたとき? あのときは隣に俺がいただろ。あの時に限らずお前の隣にはいつも俺がいたよ」
「何が言いたい?」
「……俺でいいんじゃない?」

 首筋に噛み付かれた。驚いて、頭を掴むと切なげに見つめられる。まただ、真田は息が苦しくなった。

「俺はお前の様には生きられない」
「俺みたいに生きたって何もいいことなんてないよ」
「ひたむきではいられない」
「浮気してもいいよ。ああ、俺が浮気相手なのか。……もう奥さんが帰ってきてもいいような気がする。俺、真田の愛人になりたい」
「自分を卑下するようなことは言うな」
「じゃあ俺を愛してよ」
「それは……」

 出来ない、とは言い切れない。しかし妻と別れ、幸村と新しい人生を築いていく自信はない。自分はいつの間にこんな思い切りの悪い男になってしまったのだろうと考える。答えはすぐに出た。真田がおかしくなったのは幸村の好意に気がついてしまったときからだ。

「お前のせいだ……」
「何が?」

 この先どうすればいいのか分からない。幸村は自分を抱きしめたままだ。深い溜息をつく。床に投げ出していた自らの両の手を幸村の背中に回した。強く力を込めると、腕の中の男が息を詰める。

「……どうして」
「知らん」
「これからどうするの」
「知らん」
「らしくないよ」
「うるさい」
「今からなにする?」
「……とりあえず、腹が減った」

 呟いた瞬間、温もりを失いかけているであろう牛丼の香りが鼻孔をくすぐった。


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