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 冷えたビールの美味い季節がやって来た。近頃は今年の夏は例年より暑いのだという話をよく耳にする。とはいえ地球温暖化が問題視されるようにようになって以来、殆ど毎年同じ様な話を聞いている気がするのでテレビの中のアナウンサーの言葉や会社の同僚の言葉に真実味を感じることはなかった。夏は暑いものだ。そんなことは昔から決まっている。多少の違いなど気にもならない。何より、真田は今年よりも更に“熱”かった夏を知っている。
 照りつける太陽に身も心も焦がされた十数年前の夏、立海は生意気な一年ルーキーによって全国三連覇を阻まれた。無論試合に敗れたのは幸村だけではなかったが、部員の誰よりも三連覇を逃したことで落ち込んでいたのは幸村だった。幸村にとって自分たちの代で立海を三連覇させるということは掴みどころのない夢ではなく、約束された未来だったのだ。
 しかし、幸村は強かった。一年ルーキーとの試合が良い方向に作用したのかそれまで以上に練習に力を入れるようになった。メキメキと実力を伸ばす幸村のすぐ傍で真田はラケットを振るい続けた。中学を卒業した後、高校、大学とテニスを続けて、幸村がラケットを置いたのに合わせて自分もテニスをやめた。
 幸村と共にテニスを辞めたとき、こらえ切れないほどの寂寥感を覚えたことを二十八になった現在でも真田は覚えている。真田にとってテニスは幸村精市という男と唯一共に歩くことの出来る道だった。テニス以外で自分と幸村が同じ方角を向いて歩くことは出来ないのだと察していたのだ。故に、テニスを辞めた自分と幸村の距離は離れていくばかりなのだろうと思っていた。それでも構わないとも思っていた。テニスを辞めた真田は幸村の期待に応える手段を知らなかったのだ。
 それにも関わらず、大学を卒業して六年が経った現在、結婚し子供にも恵まれた真田の傍に幸村は親友として寄り添っている。素面の幸村は本音を漏らさない。気の良い友人として真田家を訪れ、彼の妻に信用され、仏頂面の父親以上に彼の子供に懐かれている。


*

 懸賞で当たったのだというビールを手土産に幸村が真田家を訪れたのは、七月の下旬、蒸し暑い晩のことだった。自宅で一人酒をあおっていた真田に、幸村が嫁と娘はどうしたのかと尋ねてくる。

「実家に帰省しているんだ」
「まさかお前、不倫でもしたのかい」
「そんなはずがないだろう。お義父さんの体調が思わしくないんだ」
「そんなことだろうと思った」

 小さく笑った幸村は勝手知ったる様子で食器棚からビアグラスを取り出すと、ローテーブルにそれを置いて真田の隣に腰掛けた。とはいえ人一人座れる程度の距離は開いている。そのまま持参したビールを取り出してプルトップに指をかける。

「飲むのか」
「飲まないのにこんなもの持ってくる奴はいないだろ」

 呆れ顔でもっともなことを言う幸村から缶ビールを取り上げて立ち上がる。不満気な表情を浮かべた幸村が真田を見上げていた。

「俺を酔わせたくないの?」
「そういうわけじゃない」

 冷えたものと取り替えるだけだと言ってキッチンに向かう。本当は幸村の言う通り彼に酒を飲ませたくはなかったが、とめて聞くような相手でないことは分かっていた。

「お前と酒を飲むのなんて何年ぶりだろうな」

 グラスに注がれた冷たいビールを眺めながら幸村が呟いた。幸村と初めて酒を飲んだのは中学三年生の夏のことだ。全国大会優勝を逃した夏、幸村が酒に弱いことと、酒に酔うと饒舌になることを知った。

「中三の夏が最初で最後だろう」

 妻にも幸村が訪れたときは酒は出さないよう言っていた。成人してから二人で酒を飲むのはこれが初めてだ。幸村は元々よっぽどのことがなければ酒を飲みたがらないので、ビールの懸賞に応募したことも意外だった。

「十年前のこと、忘れたのか」
「……なんのことだ」
「テニス部の打ち上げで焼肉屋に行っただろ」
「あの店には部活帰りにときたま寄ったな」
「思い出の店だ。高三の夏、皆であの店に行って、俺は酒を飲んだ」
「覚えていない」
「お前は素直だよな。俺の今日のことは向こう十年は忘れてろって言いつけをしっかりと守ってる……それとも、忘れていたかっただけなのかな」

 十年前の夏も幸村と酒を飲んだ。ジョッキでビールを一気飲みした幸村はあっという間にアルコールに体を侵されて普段であれば決して口に出さないような言葉をたくさん吐き出した。挙句の果てには今日のことは忘れろとまで言い始めて、忘れられるはずがないだろうと思ったが、実際知らない内に忘れていた。幸村の言うとおり、真田はその日の晩のことを忘れてしまいたいと思っていたのだ。

「もう十年経ったのか」
「俺もオッサンになるわけだ」
「お前はハタチそこそこにしか見えんだろう」
「見かけは若くても歳を重ねた分いろんなことを経験したよ。上司にこき使われることだって覚えた」
「お前はプロになるものだと思っていた」

 大学に入学して、体が大人になっても幸村の実力に陰りは見られなかった。むしろテニスプレイヤーとしての実力を増していくばかりの幼馴染の男は、真田の目にはまぶしすぎたくらいだ。

「テニスは好きだったよ」

 ぽつりと呟いた幸村がグラスに注いだビールを一気に煽る。そうしてグラスの中身が尽きるとグラスに注ぎ足すことすら面倒なのか缶の飲み口に直接口をつけた。そのまま中身が空になるまでそれを傾けると、カタンと音を立てて机に投げ出す。手持ち無沙汰になった利き手で膝をさすると、真田に潤んだ瞳を向けた。幸村は缶ビール一本で酔えてしまう安上がりな男なのだ。

「大丈夫なのか」
「……テニスは好きだった。だけどテニスはお前とするものだと思っていたんだ。そんな半端者がプロになんてなれるはずがないだろ」
「俺がいなくてもお前はプレイ出来た」
「そうだろうけど、したくなかった。俺はいつでもお前と一緒じゃないと気がすまなかった。だから普通の会社員になってこんな歳になってまでお前に付き纏ってるんだろ」
「……幸村」

 幸村の真っ直ぐな視線が真田を射抜く。目を逸らすことは出来なかった。幸村精市の幼馴染として、彼の傍で、居心地の良い時間を過ごす日々は今日で終わってしまうのだと察する。

「全部俺が悪い。お前は罪悪感なんて抱かなくていいんだ」
「そんなことは……」
「好きになった俺が悪い。お前を愛した俺が悪い。隠しきれなかった俺が悪いんだよ、真田」

 分かるだろ、と幸村が首を傾ける。真田はなにも言うことが出来ずにいた。いつかこの瞬間が来てしまうことは分かっていた。二人の関係が崩れるのは必然だったのだ。

「愛してる」

 妻にも久しく言われていない言葉に心臓が震える。真田弦一郎は幸村精市という男に怯えていた。
 幸村の男のものとは思えないたおやかな手が伸びてくる。

「やめてくれ……」

 その手を拒絶する言葉を吐いて、それが自らの頬に触れる寸でのところで払い落とす。幸村は驚いた様子も、傷ついた様子もなかった。そんな反応は予想していたとばかりの目をしている。

「もしも俺が女なら、真田は俺のことを受け入れた?」

 アルコールの影響で頬を赤く染めた幸村が囁く様に尋ねてくる。その潤んだ瞳の中には、苦い表情を浮かべる男の姿が映っていた。
 幸村が女なら、そんな仮定はしたことがなかった。しかし女である幸村を、自分の隣にあり続ける幸村の顔をした可憐な女の姿を思い浮かべてみると、馴染みはしないが悪くはないと思えてくる。それでも男である幸村の問いかけに是と答えれば彼は傷付くだろう、そう思うと結局何も言えなかった。

「だんまりか。それは肯定だろ」
「……お前は男だろう。仮定の話には意味がない」
「そうだね、俺は男だ。男だからお前を好きになったんだ。俺が女ならお前みたいに気難しい男好きにならなかった。そもそも俺が女なら二人して示し合わせて立海に入ることもなかっただろ。だから俺は、お前が女の俺なら受け入れてくれたんだとしても、男に生まれてよかったんだと思えるよ。お前が俺の愛を認めなくても、俺はお前を好きになれて幸せだって思ってる」

 幸村は酔うと饒舌になる。普段であれば洩らさない、いや洩らせない様な本音を洩らして後から後悔する。飾らない正直な言葉で真田の心を揺さぶって、苦しませて、しかし本音の中に浮かれた嘘を混じらせることも忘れない。真実の中にひっそりと混ぜ込まれた嘘を見抜くことは容易ではないが、幸村は騙された方が悪いのだ、くらいにしか思っていないのだろう。容赦なく自傷の様な嘘を吐く。

「今の幸村は幸せそうには見えない」

 幸村自身、自らが幸せでないことに気づいていないとも思えなかった。もしも幸村が真田に想いを寄せることが出来て幸せだと感じているのであれば、アルコールが回らなければ本音の一つも言えない等という事態にはならないだろ。

「そう思うなら幸せにしてよ」

 幸村が縋るような声で呟く。そうして真田から視線を逸らすようにして俯いた。幸村の小さな頭がすぐ手の届く場所で震えている。男にしては長い髪が小刻みに揺れていた。

「……どうしろと言うんだ」

 小さな頭に触れて、ゆっくりと撫でてやる。幸村の肩が小さく震えた。小さな肩だ。テニスを辞めて筋肉が落ちた分昔に比べると頼りない。
 真田は自分の事を愛しているというこの男の幸せを願わずにはいられなかった。幸村は大切な幼馴染だ。誰よりも長い時間を共に過ごしてきた。それでも、真田は幸村を愛してやることは出来ない。自分を支えてくれる妻を、可愛い盛りの子供を裏切ることは出来ない。そもそも真田は男を愛することが出来る種類の人間ではないのだ。幸村と友人以上の関係を築くことは端から出来るはずもなかった。

「優しくするなよ」

 震える声で言われて頭を撫でる手を止めた。そのまま手を離そうとすると俯いていた男に手首を掴まれる。幸村がゆっくりと顔を上げる。手のひらに頬をなすりつけられた。滑らかで肌触りの良い頬はアルコールの影響なのか酷く熱い。

「幸村……」
「手に入らないなら優しくされたくない、そう思ってるのに……俺はこの手を離せない」
「これくらいで満足するのなら、」
「満足するはずないだろっ。小学生じゃない、三十手前の大人なんだよ。中途半端に触れられたって虚しくなるだけだ」
「俺にどうしろと言うんだ……」
「抱いてくれ」

 心臓が止まったような錯覚を引き起こされた。幸村がそれを望んでいることを知らなかったわけではない。それでも、彼はその望みを口にすることは出来ないと思っていた。口に出させてはいけないと思っていた……だからこそ真田は、酒の入った幸村と関わりを持つことを避けてきたのだ。

「幸村、お前は……酔っているんだ」
「酔ってるに決まってる。酔わなきゃこんなこと言えるはずがない。だけど俺は、ずっと言いたかったんだよ。そうでもなければ好きでもないビールの懸賞に応募したりするはずがない」
「本当に当たったのか」
「そうだよ、嘘じゃない。当たったら十年ぶりにお前と酒を飲もうと思ってた。当たるはずがないとも思ってた……それなのに、当たっちゃうんだよ。どこまでいっても俺は神の子なんだ」

 自嘲するように語る幸村の手が真田のそれを起点として腕を這うようにしてのぼっていく。そうして彼の肩を弱々しい力で掴むと、小さく笑う。

「三十年近く生きてきて、思い通りにならなかったものなんて三つくらいしかないんだ。中学生のとき、病気になって動かなくなった体、青学のぼうやに阻まれて逃した優勝……それから、お前の心。これだけは諦めがつかないで、今も俺は鬱々として生きてる。
だけどお前の娘と接しているときは明るい気持ちになれるんだ……あの子、本当に可愛いよね。あんな娘がいたら幸せだろうな。俺は子供は望めないから羨ましいよ」
「それなら女を好きになればいい」

 幸村の端正に整った顔が歪む。とめどなく沸き上がる罪悪感が真田の胸を激しく突いた。

「真田は、俺が女を好きになると安心するだろ」
「……そうだな」
「俺はお前の心の安寧なんて望んでない」
「望む必要もないだろう」
「愛してる」

 真っ直ぐに見据えられても何の言葉も返せない。真田は妻や子供以上に自分を愛しているであろう目の前の男から視線を逸らしてしまいたかった。

「求めろとは言わない。俺を受け入れてよ」
「それは出来ない」
「どうして」
「俺には妻も子供もいる」
「適当なことを言うなよ。それならお前は高校時代の俺がお前に今と同じことを言ったなら首を縦に振ったのか。振らなかったはずだ、そうに決まってる。あのときの俺はお前が俺に流されないことを知ってたからお前に何も言えなかったんだから。
……お前は男を受け入れられる人間じゃないってだけだろ。何も恥ずかしいことじゃない。むしろ恥ずかしいのは俺の方だ。はっきり言いなよ……男なんて愛せるはすがないだろって」

 幸村は真田を愛し続けることに疲れているのだ。だから未練を断ち切るために真田を煽るようなことを言っている。

「それが言えないのなら抱いてよ。一度きりでいいから俺は真田との思い出がほしい。お前と過ごしたたくさんの日々の最後を飾るのがお前に抱かれたっていう記憶なら俺の人生も捨てたもんじゃない」
「それでも俺は、」
「真田はいいだろ……頑固なくせに楽しくやってたじゃないか。初体験なんか高校生のときだった……俺を不憫だと思わないの? 二十八にもなって童貞なんだぞ」

 それはかなり衝撃的な告白だった。幸村が自分を好いていることには中学時代から薄々感付いていたが、それでも調子のいい彼のことだから初体験など適当に済ませているのだろうと思っていた。

「……本当なのか」
「嘘なんかつく意味がない。当たり前だけど男とシたこともないよ」
「なぜ……」
「俺は真田以外には勃たないから」

 捕まれていた肩がとすんと押された。幸村の思わぬ告白に脱力していた真田はいとも簡単に床に転がる。仰向けになった真田の上に馬乗りになった幸村が彼を見下ろしていた。酷く切なげな表情を浮かべている。

「真田も知ってると思うけど、学生時代の俺はモテてモテて仕方がなかった。卒業式の日なんか両手足の指折っても数えきれないくらいの女の子にボタンを求められたよ。……だけど俺は自分を好いてくれる女の子に興味を持てなかった。卒業式の日だって女の子達に囲まれながら必死にお前の姿を探してた。
俺をこんな風にしたのは真田だろ。お前は無意識だったかもしれないけど、俺は生き方の全てをお前に変えられたんだ」

 幸村の瞳から落ちた涙を頬が受けたとき、心臓が固まってしまった。幸村の言葉、それから涙にはそれほどの破壊力があった。すべてを吐き出した幸村の唇は震えている。真田は、幸村の震える唇に自らの手を伸ばした。真田を見下ろす幸村が身動ぎをする。人差し指と中指の先が唇に触れた。


 その日の晩真田は幸村を抱いた。腕の中で白い肌を赤く染める幸村が愛おしく思えて、キスを求めて、拒まれた。幸村はファーストキスは自分を愛してくれる人間のためにとっておくのだと言う。
 学生時代、夕焼け色に染まった道を二人歩いた日のことを思い出す。あれは立海が青学に負けた日の帰り道のことだ。打ち上げのために焼肉屋に行くような気力も残っていなかったので、学校に戻り次第各自で解散した。真田と幸村は平素通りに帰路を共にしたのだ。
 試合に負けた後も幸村は涙を流さなかった。他の部員が悔し涙を流すのを渋い表情を浮かべて眺めていた幸村は、真田とふたりきりになった後も黙りこくったままだった。あのとき真田は尋ねてしまった。どうして泣かなかったのか、と。幸村が死ぬほど悔しい思いをしていたことを知っていたからだ。幸村は、自分のせいで負けたのに泣けるはずがないと言った。幸村は三連覇を成し遂げられなかったことに責任を感じていたのだ。
 真田は「自惚れるな」と返した。一人で全てを支えていたつもりか、とも。幸村は「真田のくせに生意気だな」と笑い、涙をこぼし始めた。次は絶対に負けないと言って唇を震わせていた。夕日を浴びて頬を茜色に染めながら涙を流す幸村が、真田には眩しかった。
 試合に勝とうが負けようが関係無かったのだ。幸村は柄じゃないと言って笑うだろうが、彼は真田の太陽だった。それは今でも変わらない。だからこそ、恋に溺れて地に落ちる幸村など見たくなかった。真田は自らに恋心を抱く幸村を許容出来ない。
 それなのに、何故だろうか愛撫に乱れる幸村を見下ろすとどうしようもなく興奮する。相手が男だからといって不快感など少しも覚えない。この時間が永久に続けばいい、などとらしくもないことを考えてしまうのだ。

「真田……っは、真田」

 行為の最中、幸村は何度も真田を呼んだ。瞳からは涙が溢れ、唇はやはり震えている。そこにきてようやく真田は気がついた。真田は神の子と呼ばれた男に俗っぽい感情を抱かれることを許容出来なかった。しかし、それと同時に、他の誰でもなく自分にだけ、人間らしい姿を見せるこの男に恋焦がれてもいたのだ。真田は、自分の前で涙を流した男の震える唇に触れたくて仕方がなかった。しかし真田は、幸村の望むものを何も与えてやれない自分にその資格はないことを知っている。だからこの先も焦がれるだけだ。真田は妻と、子どもと平穏に暮らし、幸村は神の子であり続けるのだ。


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