8.5

 冷たい廊下を裸足の足で踏みしめてドアノブに手を掛ける。リビングには暖房が効いていて、暖かい空気が風呂あがりの俺の体を包んだ。
 リビングにはこたつがあるから暖房なんてつけなくてもそこそこ暖かく過ごせる。現に俺が風呂に入るためにリビングを出た時にはまだ部屋の空気は冷たかった。
 ここ最近こういうことがよくある。俺が風呂から出るのを部屋で持つ真田が、俺が湯冷めをしないように部屋を暖めていてくれるのだ。昔の真田ならきっとこんなことはしなかった。子を持つ親の気遣いを体全体で受け止める俺は、小さな毛玉を大量に喉につまらせたような息苦しさを覚える。
 今の真田は俺の物だ。水を含んだ綿のような俺の愛情に包まれた真田は強い後悔と息苦しさから逃れるために心の安寧を求めて彷徨っている。そんな状況でも、真田は真田なりに俺に真剣に向き合ってくれている。持てる限り全ての愛を俺に捧げようとしてくれている。これだけで充分贅沢なことなのに、欲深い俺は今より更に上を真田に求めてしまう。そのくせ卑屈だから今以上の幸せの具体的な像なんて想像もつかない。

「部屋に戻ったのならいつまでもそんなところに立っていない方がいい。湯冷めするぞ」

 リビングのドアの前で立ち尽くす俺に声をかけた真田は、キッチンに立って温かいお茶を入れてくれようとしていた。火にかけられたヤカンがカタカタと震えている。
 手持ち無沙汰の俺は、用もないのにキッチンに入り込んだ。湯のみなら出しているぞ、と見当違いなことを言う真田の背中は無防備だ。今なら刀を持って切り込めそうな気がする。
 思い返せば昔から、真田の背中はそうだった。正面から向かい合うと、何かを警戒しているようなピリピリとした空気を出すくせして、俺が視界から離れると肩の力を抜いて油断する。
 隙だらけのその背中にはきっと軽く手を伸ばせば触れることが出来た。だけど決して触れてはいけないと分かっていたから、俺は真田の背中が嫌いだった。あれを後ろから眺めているのに比べたら、厳しい顔で睨まれる方がずっと気楽だ。そう思っていたから学生時代の俺は極力真田の後ろには立たないようにしていた。だけど、今はもう違う。今の俺は真田の隙だらけの背中に触れることをためらう必要なんてない。
 小さく深呼吸をした俺は、ガスの火を消すために手を伸ばしかけた真田の背中に手を触れる……だけでは飽きたらず、その広い背中に抱きついた。大の大人がこんな狭い場所で何をやっているんだと自分に少し呆れたけど、今は何も我慢したくなかった。やりたいことは全部やっておかないと、きっと俺はいつか泣くはめになる。こんな関係いつまで続くか分からないんだから。これで最後だって言われたときの後悔は少しでも減らしておいた方がいい。

「体が熱いな」
「風呂上がりだから」
「肌の熱が心地いい」
「本当に? 不快じゃない?」
「不快だったら抱きつかれた瞬間に振り払っている」
「それされたら傷つくなぁ」
「よっぽどのことがない限りはそんなことはせん」
「じゃあずっとこうしてていい?」
「かまわ     いや、一瞬だけ離してくれないか」
「どうして?」

 ずっとなんて無理だってことは分かってたけど、この場でだけはかまわないって言ってくれることを期待してた俺はほんの少し拗ねた。二十七にもなってこんなことで拗ねるのはどうかとも思うけど、真田に受け入れられてからの俺はどうも幼稚だ。

「ヤカンの火を消すだけだ」
「そんなの後で、」

 後でいい、そう言おうとした俺の耳をヤカンの水が沸騰するキーキーという音がつんざいた。ぎょっとした俺が、体に回していた手を離して耳に当てた隙に、真田はさっさとガスの火を消してしまう。

「隙だらけなのは俺の方か」

 ポツリと呟くと、こちらを振り向いて怪訝な表情を浮かべた真田がなんのことだと尋ねてくる。それに対して「なんでもないよ」と返す声が少しだけ掠れた。

「もうすぐ準備が出来るからこたつに入って待っていろ」
「ここで待ってる」
「子供みたいなことを言うな」

 呆れた様に言った真田に背中を押されてキッチンを出る。こたつに下半身を埋めた俺は机に左頬をのせて視線を彷徨わせた。時計の短針は九の文字盤を通り過ぎたばかりなのに妙に瞼が重い。部屋が暖かいせいなのか、疲れているからなのか、体がずっしりと重たく感じられた。

「眠たいのか」
「こんな時間に寝るはずないだろ。いい大人なんだから」

 湯気の立つ湯のみをこたつ机に置いた真田は、湯のみの熱によって温まった指先で俺の右頬に触れた。心地良い感触に目を細めた俺は、小さく瞬きをして顔を持ち上げる。そうして緩慢な動作で湯のみを引き寄せると、今度は左の頬を真田に差し出す。

「どうした?」
「右の頬に触れられたなら左の頬を差し出しなさい、って言うだろ」
「右の頬を打たれたら左の頬を差し出しなさいだろう」

 そうだっけ? と、俺が適当な返事をするよりも早く左の頬に触れた真田は、驚いて腰を引こうとした俺の肩を掴んで、頬に触れる指に力を込めた。

「タッ、痛い……」
「そこまでか」
「そこまでだよ。そんなに強くつままれたら穴があく。ほっぺに穴があいたらお茶も気軽に飲めなくなるだろ」
「無駄な心配をするな」
「早く手を離せよ。バカップルみたいで恥ずかしいから」
「……今更それを言うのか」

 人の背後からいきなり抱きついてくるような男が何を言うんだ、と真田は言った。要望通り、左頬は開放してくれる。

「あれはお前の背中が隙だらけだからいけないんだ」
「理屈が通ってないぞ」
「そんなのは今に始まったことじゃない」

 会話のやりとりを断ち切るように言った俺は真田の入れてくれた前茶を口に含んだ。温かく、適度に苦いそれは元々ドロドロに温められていた体にこもる熱を更に上昇させた。
 数回に分けてそれを喉に流しこみ、ぼんやりとした表情を浮かべる俺を、真田がじっと見つめている。なに? と首を傾げたら、真面目な顔で睨まれた。もっとも、真田は睨んだつもりなんてないかもしれないけど。

「俺の背中には隙があるか」
「ああ、そのこと? 昔も今も、お前の背中は隙だらけだよ。学生時代の俺は、油断してるお前の背中に触れたくて、だけど触れられなくて、いつも苦しい思いをしてた。それでもお前の後ろに立つとその隙だらけの背中を見つめずにはいられなくて、情念のこもった汚い目をお前に見られたくないから、絶対に振り向くな、振り向くなって、心の中で叫んでた」
「……そうか」
「実際そういうとき、お前は決して俺の方を振り向かなかった。油断して隙だらけの様に見えて、お前は危険を察知する力に富んでたから、俺は何度も命拾いしてきた」

 学生時代の苦い思い出を振り返って感傷的になる俺を見つめる真田は、何故だか達観した様な表情を浮かべている。今のこいつが見つめているのは今の俺じゃなくて、学生だった頃の幸村精市なのかもしれない。

「どうかした? お前の目、俺の体をすり抜けてるみたいだ」
「もっと早く振り向いていればよかったと、そう思っていた」
「は?」
「昔の俺は、後ろを振り返って俺を見つめるお前と向き合うのが恐ろしかった。振り向いたらお前に全てを持っていかれると分かっていたからだ」
「最終的に全部持っていかれちゃったわけだけど……」
「そうだな。遅かれ早かれこうなることは予想出来ていたのかもしれない。あの頃の俺がお前とまともに向かい合えるだけの心の強さを持っていれば、お前を長いこと苦しませることもなかった」
「……別に、いいよ。恋愛は片思いの時期が一番楽しいって言うだろ? 俺は一番楽しい時期をじっくり味わえたわけだし、今はお前がそんなことまで言ってくれて幸せだから。むしろそこまで優しくされると不安になる。知ってると思うけど、俺はすごく卑屈なんだ」

 湯のみを傾けて冷めかけたお茶を飲み干した俺は、温もり過ぎた下半身をこたつから出して真田の隣に腰掛けた。そのままがっしりとした肩に頭を預けるとどうしようもない睡魔に襲われる。震える唇から漏れだす吐息が温かくて、妙に心が落ち着いた。そうしている内に重みを増す瞼に抗う気力が失せていくのは、たぶん今の俺が幸せだからだろうと思う。


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