8話

     仁王雅治」

 たくさんの人間がいるくせに静まり返った体育館に、かつての恋人の名前が響いた。丸井の肩が震える。
 丸井と、仁王と、それからその他たくさんの生徒は今日この学校を卒業する。
 見送られる側として卒業式に参加するのは人生で三度目だ。小学生のときは友達と別れるのが寂しくて少し泣いた。中学生のときはどうせ同じ様なメンツで高校に上がるのだからと冷めた気持ちで歌を歌った。
 そうして今日、高校の卒業式を迎えた丸井は少しばかり感傷的になっている。中学生のときと同じだ。この先も四年間は立海の生徒としてここに留まる。通学のときに制服を着なくてもよくなる以外は何も変わらない日常が待っているのだ     そんな風に、いくら自分に言い聞かせても駄目だった。胸にぽっかりと穴が空いた様な感覚は拭い去れない。中学と高校はひとつなぎだったが、大学はなんだか違う気がした。
 なにより大学には仁王はいない。地元四国の国立大学の受験に成功した仁王は、これからひと月も経たない内に神奈川を去っていくのだ。別れた男のことなど気にする必要もない、などと割り切れる程丸井は大人ではなかった。
 卒業証書を受け取るといよいよ自分も卒業するのだという実感が湧いてきた。中学に入学してからの六年間を振り返ってみる。
 入学式のことは殆ど覚えていない。初めてテニス部に行ったときのことははっきりと覚えている。柳生につまらない説教をされて苛立った記憶ははっきりと残っていた。こいつ変な名前だな、などと思っていたことまではっきりと。
 幸村と、それから真田のプレイを初めて見た時の記憶も鮮明だ。情けないことに一瞬にして自分とは格が違うのだと理解してしまった。柳のこともよく覚えている。賢そうな奴だと思った。
 入学一年目は仁王の記憶だけが不鮮明だ。仁王のことは互いがレギュラーになるまでは殆ど意識したことがなかった。初めて会話を交わしたとき、どんな話をしたのかも覚えていない。元々大した話はしていなかったのか、付き合い始めて以降の思い出が鮮烈過ぎるのでかすんでしまったのかも分からない。分からないがそれでもかまわないと思う。
 仁王雅治は丸井ブン太の恋人だったのだ。付き合い始める以前の記憶が殆ど残っていないということは、友人として接してはいなかったということだろう。丸井は恋人としての仁王を求めた。だから恋人になる以前の仁王のことなど思い出す必要はないのだ。
 とっくに壇上から降りて席についている仁王に視線を移す。視線を移すとは言ってもクラスも違う仁王との間にはたくさんの生徒が座っているので視界の中に彼の横顔を捉えることは出来ない。それでも丸井には仁王が今どんな表情を浮かべているのか予想がついた。
 中学の卒業式のときには、同じクラスで出席番号も二番しか変わらなかったから仁王の横顔を容易に捉えることが出来た。三年前のあの日、仁王は無表情だった。何も考えていない様な顔をして、壇上に掲げられた校旗を見つめていた。きっと今もあの日と同じ様に何の感傷もない様な顔をして校旗を見つめているのだろう。そうであってほしいと思った。三年もの間好きであり続けた男だ。この先も変わらないままでいてほしいと思う。

     幸村精市」
「はい」

 名前を呼ばれた男が凛とした声で返事をする。丸井の隣りに座っていた女生徒の肩が震えた。彼女が幸村に片思いをしていたことを察した丸井は小さく溜息をつく。壇上に上がりこちらに背中を見せる男は後ろ姿だけ見ても美しかった。あの美しく穏やかな男を好ましく思わない女生徒はいなかったと丸井は言い切れる。
 学校生活では穏やかで美しい姿を周りの人間に見せていた幸村だが、テニスの試合のときなど気が抜けない場では途端に厳しい顔になった。どちらの姿も偽りではなかったし、どちらの幸村にも熱心なファンがいた。
 しかし試合後の打ち上げなど、親しい人間しかいない場では妙に明るくて訳の分からないことばかり言っていた。日頃の姿しか知らない人間が聞けばぎょっとするような我儘を言って真田を困らせることも少なくはなかった。
 丸井の隣りに座る彼女は、幸村の全てを知っているわけではない。無論相手の全ての姿を知らなければ好意を寄せてはいけない、などという決まりはないので彼女が幸村に好意を寄せるのは自由だ。
 それでも丸井は彼女の恋を虚しいものだと思わずにはいられない。彼女は式のあと幸村に告白するかもしれない。いや、彼女だけでなくたくさんの女生徒が彼の第二ボタンを欲しがるだろう。しかし彼女たちの恋が報われることはない。幸村精市はなびかない。幸村の心はテニスと幼馴染の男でぎちぎちに詰まっていて、それ以上何か詰める様な余裕はないのだ。
 そうして、たくさんの恋を散らすであろう幸村の恋も報われない。真田は竿付きにはなびかない。そのことが分からないはずもないのに幸村の恋心は折れない。幸村は強すぎるのだ。丸井は強い幸村が羨ましくて、それと同時に強すぎる彼を哀れにも思っていた。

     真田弦一郎」
「はい」

 一際大きな声で返事をした男が椅子から立ち上がって壇上に向かって歩き始める。幸村はどうしているのだろう。真田のことなど意識していないふりをして無表情を装っているのだろうか。……存外素直な幸村にそんな真似が出来るとは思わなかった。
 想い人の名前が鼓膜を震わせた時、幸村もきっと肩を震わせたに違いない。壇上に向かう彼の背中を視界の端に捉えながら、これから先何年も続く甘く苦い感情を飲み干したのだ。
 そんな風に幸村の心の内を勝手に想像しながら、瞬きをする。自分はいつまで仁王のことを想い続けるのだろうかと考えた。幸村はどれほど長い時間真田を想い続けているのだろうか、とも。丸井は、出来ることなら一瞬でも早く仁王のことを忘れてしまいたかった。忘れなければ幸村と同じ様に前に進むことが出来なくなると分かりきっていたからだ。
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