4話

 ニ週間前の夕刻、丸井ブン太は三年もの間付き合っていた恋人に振られた。それもかなりこっぴどく。
 あまりにも酷い振られようだったので、振られて数日は何をするにも力が入らず、周りの人間にも随分と心配をかけてしまったが、若いからだろうか、一週間も経つと別れた恋人のことを意識することも随分と少なくなった。
 丸井の恋人は男だった。彼は元々異性愛者だったが、幼い頃から自分がゲイだということを自覚していたという元の恋人に好意を伝えられ、引きずり込まれるようにしてその道に入った。今後も新しい男を見つけてゲイとして生きていくのか、男と付きあっていたことは青春時代のくだらない寄り道だったと割りきってヘテロに戻るのかは今のところは未定だ。
 先ほどは丸井が仁王のことを意識することも少なくなったと記述したが、それも互いが顔を合わせなければ……という話だった。生徒数の多い学校で、クラスは離れているとはいうものの丸井と仁王は二人ともテニス部に所属している。丸井がどれだけ仁王を避けていても部活の時間になれば顔を突き合わせなければならなかったし、長い前髪の隙間から覗く切れ長の瞳と視線がかち合えばどうしても振られた時分のことを思い出した。他からの指示でコートを挟んで向き合うときなど、これ以上に苦しい拷問があるものかと思う。そんな風に鬱鬱とした感情を持て余す丸井とは対照的に、彼を振った男は悩みの一つも無さそうな様子でラケットを振るっているのだった。丸井はそんな男が憎たらしくてたまらなかった。
 お前が好きだと言うから付きあってやったのに。一心不乱にラケットを振るい大会に備える仁王を見つめるたび、そんな汚い感情が胸から湧き出てくる。三年前、ヘテロだった丸井が仁王と関係を持つことを受け入れたのは彼が丸井に対して好きだと言ってきたからだ。クラスメイト、チームメイトである仁王がゲイであると知って、気持ち悪いと思った。それでも自分のことを真剣に好きだと言ったから、好意を受け入れて付き合ってやることにしたのだ。初めから遊びだなんて言われていたら殴り飛ばしていた。
 仁王はこの三年の間、数えきれないほどの愛の言葉を丸井に囁いた。彼の言葉は男に向けるにしては甘すぎることもあったが、それでも日頃他人と関わること自体少ない彼に愛されているという事実は丸井に優越感を与えた。そうして興味本位で始まった付き合いはいつしか本気の恋愛に変わってしまった。
 全て間違いだったのだ。仁王が丸井に対して吐いた愛の言葉はイミテーションだった。イミテーションを本物だと信じて、愛情を返した丸井は間違っていた。自分は愚かだったのだと胸の中で何度も反復して、そもそも仁王のことなど好きではなかったと思い込もうとするが上手くいかない。それも当然だ。憎んでくださいと言わんばかりの最低の振り方をされた今でも丸井は仁王のことを好いているのだから。




「それでどうするの?」

 部室に置かれたベンチに腰掛けた幸村が丸井を見上げている。既視感を覚える光景だ。ここ最近、幸村とはよく会話を交わす。

「どうするって何が」
「仁王のことに決まってるだろ」
「……どうもしねえよ」
「辛気臭い顔して部活に出られると迷惑なんだけど」

 都合良く部長の表情になった幸村が、薄汚れたベンチの空いたスペースをひっかく。立ち話を続けるのも難なので、隣に掛けると、丸井の視界に映る幸村の表情は分かりやすく強張った。

「男二人で尻並べてこんなのに座るのはおかしいよ」
「それは普通の人間の常識だろ。お互い男と密着して不快感覚えるような性癖してねえんだからいいじゃねえか」
「丸井がそんなことを言うようになるとは思わなかった」
「仁王が俺は違うって言ったからか」

 幸村が首を縦に振る。仁王は丸井を自分とは違うと言ったらしい。

「あいつ、幸村くんには話してたのか」
「俺が勘付いたんだ。仁王は、そんな部分じゃなくてテニスを見てくれって言っていたよ」
「……嫌な奴だよな」
「俺が?」
「仁王だよ。あいつ、結局俺のことを馬鹿にしてたんだろ。元は普通に女作ったりしてた俺を自分とは違うって区別して、笑ってたんだろ」
「そうだね。だから俺は二人の関係を終わらせるのは仁王の方だと思っていたよ」

 丸井はそうは思っていなかった。自分の方が振られるだなどとは全く予想していなかった。

「仁王はいつも、女の体が恋しくなったら自分を捨てろって言ってたんだよ」
「それはブン太が自分とは違うと思っていたからだろ。仁王は不安だったんだよ、ブン太は自分を捨てて女を抱きたくなるはずだって卑屈になってた」
「あいつ、俺のことを真剣に好きだと思ったことなんてないって言ってたぜ」
「……それは嘘だよ。俺は仁王がブン太のことを本気で好きだったって知ってる。卑屈な感情でがんじがらめになった仁王はブン太よりも早く恋心を磨耗させてしまうだろうって思ってた」
「だから俺の方が振られて終わるって……」
「仁王は疲れちゃったんだよ。同じ相手を好きでい続けるのには精神力がいるからね」
「幸村くんは大丈夫なのか」

 幸村の恋の始まりは丸井や仁王のそれとは比べものにならないほどに早かっただろう。

「俺は並みの人間じゃないからあと十年は持つよ」
「それ以降は?」
「投げ出すかもしれない。それまでに唇の一つも奪ってやるのが目標」

 神の子とまで呼ばれた男のあまりにも弱腰な目標を聞かされた丸井は小さく溜息をついた。隣に掛ける男の横顔を眺める。ニキビ跡の一つもない幸村の肌は滑らかで、色味も美しい。

「俺、この先どうなるんだろうな」
「恋人もいないんだから自由にすればいいんじゃないか」
「彼女でも作ってみるか」

 仁王以外の男に手を出したところで不快感を覚えずにいられるとも限らないのだ。

「男は仁王で終わりにするの?」
「……どうするかな」

 呟きながら、幸村の頬を撫でる。不穏な雰囲気を感じ取ったらしい彼が腰を引くのを制して、不安げに揺らぐ瞳を見つめる。

「幸村くんは真田以外の男とキスしたいと思ったことあるか」
「俺は真田以外の人間を求めたことはないよ」
「俺とは違うな。俺は仁王を最初で最後にするつもりなんてないぜ。そもそも最初の相手は他にいたしな」
「だから、なに?」

 身じろぐ肩を押さえて唇を重ねた。抵抗する素振りこそ見せなかったものの、幸村のアーモンド型の瞳は丸井のそれを射抜くような強さで睨みつけている。

(俺はヤケになってる)

 丸井が自覚した瞬間、部室のドアの開く音がした。驚いて唇を離し、ドアの方へ視線を移す。そこには無表情の男が一人立っていた。丸井は息を飲んで、再び幸村に視線を移す。男の方を振り返った幸村の表情をうかがい知ることは出来ない。数秒間の沈黙の後、男はドアを閉めて立ち去っていった。

「行ったね」

 何事もなかったかのように丸井を振り返った幸村は無表情だった。

「明日部活に来たら俺と幸村くんは出来てるって噂になってるかもな」
「……ありえないよ」
「どうしてそう思うんだ」
「“真田”はそういう奴じゃない」

 苦々しい表情で幸村が呟いた瞬間、自分の幼稚な行いに対する罪悪感が丸井の胸を襲った。

「悪かった」
「構わないよ。真田は元々気づいてた、俺が自分とは違うって」
「だけど」
「ブン太は俺とキスをしてみてどうだった? 不快だった? それとも悪くなかった?」
「……不快じゃなかった」
「それならブン太も仁王同じだよ。俺はよく美人だって言われるけど、女には見えないだろうから」

 次も男の恋人と付き合ってみればいい     そんなことを言った幸村は足元に置いていた荷物を持って立ち上がった。そうして丸井を見下ろすと「真田を待たせてるから」などと言って部室を出ていく。自分の行いのせいで気まずい思いをするであろう二人の帰路を想像した丸井はうなだれたように床を見つめた。
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