3話

 キスを拒まれ、ベッドから蹴落とされた日、最悪の気分で帰路につく丸井の携帯に一件のメールが届いた。仁王からのメールだった。そのメールには『お前さんには関係なかったけん言っとらんかったけど地元の大学を受験する』そんなことが書いてあった。
 その一件以来二人は口を利いていない。丸井が仁王のことを避けているからだった。廊下ですれ違っても知らんぷりをするし、部活中にも仁王の方へは寄らない。そっけなかったメールの文面に機嫌を悪くしているわけではない、恐れているのだ。次に向かい合った時、自分は仁王に別れを告げられる――丸井はそう確信していた。
 元来気まぐれな性質の仁王につれなくされたことなど星の数だったし、丸井自身温和な性格であるとは言いがたいので機嫌が悪ければ彼にそっけない態度をとることもあった。情のある恋人につれなくされるとつまらない。腹が立つし、不安になる。それは当然のことだ。だからといってつれなくされるたび、相手を避けていたのでは仕方ない。虫の居所が悪かったのだろう、自分は悪くない、そんな風に開き直って次に会ったときにはいたって尋常に接することが交際を長続きさせるコツなのだ……と、そんなことは分かっている。彼を避けつづけていても何も解決しないことも知っている。
 しかし、今回ばかりは話が別だった。仁王は神奈川を離れる気でいる。神奈川を離れれば丸井とも離れることになる。遠距離恋愛という手もあるが二人の性格を考えれば上手くいくとは思えない。仁王はそのことを理解しているだろう。それでも四国へ帰るというのだから彼は丸井との関係を清算するつもりなのだ。丸井は仁王がうまくいくはずがないと承知で自分との関係を地元へ持ち帰るとは思えなかった。
「最近仁王と話していないんだね」
 部活の時間はとっくに終わり殆どの部員が校門をくぐって帰っていったというの制服に着替えることもせずに部室に残る丸井に声をかけてきたのは幸村だった。丸井と同じく着替えを済ませていない幸村は部室のベンチに腰掛けてロッカーの前に立つ丸井を見上げる。

「中学のテニス部の部室にはベンチなんてなかったよな」
「高校の部室にも元はこんなものなかったよ」

 はにかむように笑った幸村が薄汚れた青いベンチを指でなぞる。元はベンチなんてなかった。果たしてそうだっただろうか、丸井の記憶が確かだとすれば初めて彼がこの部室に入ったとき、幸村が座っているベンチは既にそこに置いてあったはずだ。無機質で比較的新しい部室に置かれた古いそれには違和感を覚えたのでよく覚えている。

「俺は王様みたいにふんぞり返ってみたかったんだよ」
「……今で充分だろぃ」
「そうだな。二年前の春休み、真田も同じ事を言っていたよ」
「二年前の春休みって高校入学前の?」
「そう、高校のテニス部の練習の始まる一週間位前だったかな     自分が居城にする部室の下見に来た俺は真田に言ったんだよ。王様みたいにふんぞり返ってみたいって、そのためには王の椅子が必要なんだって」
「幸村くんってたまに馬鹿だろ」

 呆れたように呟いた丸井に、幸村は「俺はテニスが出来るからいいんだよ」などと嫌味なことを言った。

「王様っていうのは冗談だったけど、俺と真田は部室に留まって話をすることが多かったから座る場所は欲しかった。立ち話を長く続けると相手に申し訳なくなるだろ? 俺は真田に気を遣うのが嫌だった」
「真田に気なんて遣っても仕方ないだろ」
「親しき仲にも礼儀ありっていうだろ。     まあ、そんなことはどうでもよくて、俺は椅子を欲しがった。真田は馬鹿馬鹿しいと言った。だけど高校のテニス部の練習に初めて参加する日、部室にはこれが置いてあったんだ。ブン太は気が付かなかったかもしれないけど、先輩たちは結構驚いていた様子だったからこれはあの人達が気まぐれに置いたものじゃない」
「それなら真田だな」
「そうだね、真田だ。だけど真田は俺に何も言わなかった。だから俺も、これはお前が持ってきたものなんだろ? なんて聞けやしなかったよ。こんなものどこから持ってきたんだろうね」

 真田のことだから悪いことはしていないだろうけど、と幸村は破顔する。誰にも気付かれない様にこそこそと部室にベンチを運び入れる真田を想像した丸井も笑いを堪えるように口元をおさえた。

「結局真田がこのベンチに座ることはなかったんだけどね。俺はいつもベンチに座って用もないのにロッカーの方を向いている真田の背中に向かって話しかけていたよ」

 先ほどまでとは打って変わって寂しげに眉を下げる幸村を見つめながら、丸井は想像する。互いの表情も分からないような状態で二人はどんな話をしていたのだろうか、と。

「隣りに座ってほしかったのか」

 分かりきったことを尋ねながら、ようやく幸村が自分にしつこく仁王の話題を振る理由を理解した。思いを遂げられなかった彼は知りたかったのだ男同士で付き合うということがどういうことなのかを。

「男同士でこんな狭い場所に隣り合って座るなんておかしいからね」

 幸村がベンチを撫でる。自分の座っている場所の隣りに空いた男一人が座るには狭そうなスペースを何度も何度も撫でる。
 その様子を眺めながら堅物の真田も幸村が言ったのと同じようなことを思っていたに違いないと丸井は思った。丸井自身も、女同士ならまだしも男二人がベンチに隣り合って座って会話をするのは不自然だろうと考える。

(俺にもまだこんな常識的なものの考え方が出来るんだな)

 数えきれない程の夜を男とともにしたのにおかしな話だ。

「真田になにも言わねえの?」

 不躾に尋ねた丸井に幸村が苦い笑みを返した。消え入りそうな声でこんなことを言う。

「真田は違うから」

 それもそうだと思った。真田は異性愛者だ。彼は堅物だったが、丸井が知っている限りでは女の恋人がいたこともある。幸村に対して見せた優しさはあくまで古くからの友人に対するものだったのだろう。

「高校に上る前仁王も同じ事を言っていたよ。丸井は違うって」
「俺は違う……」
「仁王は笑ってた」
「そうかよ」

 それは異教のものに向ける嘲笑だったのだろうか。同性愛者の真似事をしていても所詮あいつは自分の仲間ではないと、仁王は自分のことを嘲っていたのかもしれない。
 そんな風に考え始めると全てがどうでもよくなった。仁王と別れることくらいどうってことないと思えた。元々自分は違ったのだ。異性愛者だった。仁王のことも好きではなかった。相手がこちらを好きだというから、興味本位で受け入れてしまったから大切にしてやった。それだけだ。そう思い込もうとした。

「俺は真田を巻き込みたくなかったんだよ」

 幸村がぽつりと呟いた。寂しげな声が鼓膜を震わせた瞬間、丸井は目頭を熱くした。今眼の前に仁王がいたら訳もわからないまま殴り飛ばしていただろうと思う。どうして俺を巻き込んだんだ、と。



 部室と幸村と会話をして一週間ばかりが過ぎたころ、自宅で弟たちを遊ばせていた丸井の元に仁王から数週間ぶりのメールが届いた。渋い表情で内容を確認した丸井は携帯だけを握りしめて部屋を飛び出す。彼からのメールには『もうお前とは付き合えん』と書いてあった。
 丸井と仁王の家は存外距離が離れていない。どちらも立海には徒歩で通える位置にあり、日頃部活で鍛えている丸井は自転車も使わずに走って彼の家に行くことも少なくはなかった。
 わずかに息を切らした丸井が仁王の家の前に着いた頃にはメールが届いてから二十分強が過ぎていた。先日訪れた際には空だった仁王家のガレージに車が停まっているのを確認した丸井は彼に電話をかけた。ワンコールと鳴り終わらない内に電話をとった仁王に、今はどこにいるのかと尋ねる。彼は自宅にいると答えたので丸井はしめたと思った。自宅にいるのであれば話が早いと彼に下に降りてくるよう促す。当然のことだろうが彼は丸井の申し出を断った。もう恋人だとは思っていないとまで言う。

「お前が降りてこねえなら、この場で仁王雅治はゲイで男に掘られるのが大好きだって叫ぶぜ」
「はあ? いきなり何いっとんじゃ」
「……いいから降りてこいよ。家族にもカミングアウトしてねえんだろ」
「分かった。準備するけぇ近所の公園で待っとって」

 仁王とも何度か訪れたことのある公園のベンチに腰掛ける丸井は、外出のための準備をしている仁王は焦った表情を浮かべているに違いないと考えていた。彼は、丸井が自分を脅すようなことを言うとは思わなかったと思っているはずだ。丸井自身自分があんなことを言ってしまうほど仁王と顔を合わせたがっているとは思っていなかったので驚いていた。せめて電話で終わらせればよかったのではないかと一瞬考えて、すぐにかぶりを振る。三年間も付き合ってきたのだ。男同士だとはいえそれなりに真剣だった。それをメールや電話だけで終わらせてしまうことなどあっていいはずがない。そこまで考えた丸井は自分も随分と面倒くさい性分になったものだと自嘲する。
 そうこうしている内に仁王がやってきた。薄暗い公園のベンチに座る丸井を見つけると黙って目の前までやってくる。当たり前のことだが隣に座ったりはしない。

「メール見たんじゃろ」
「見てなきゃこんな時間にわざわざ来るわけねえだろぃ」
「俺もう風呂にも入っとったんじゃけど」
「そういえば髪濡れてるな」

 丸井はぽつりと呟いて居心地の悪そうな表情を浮かべる仁王から視線を逸らす。しかしその瞬間に仁王が小さな溜息を漏らしたのが癇に障ってすぐに視線を上向けた。自らを見下ろす仁王を睨むように見つめる。

「お前メールだけで終わらせる気だったのかよ」
「あれで済むならめっけもんじゃと思っとった」
「あんなんで済むわけねえだろっ。三年も、」
「三年も付きあってたのに? 笑わせるのう。三年間付きあっとったとは言っても、お互い遊びみたいなもんだったじゃろ」

 二人の付き合いの長さについて言及しようとした丸井を仁王は嘲笑した。殴り飛ばしてやりたい衝動を抑えて丸井は再び口を開いた。

「俺は遊びじゃなかった。お前のことが真剣に好きだった。今でも好きだ。お前は違うのかよ」
「俺はお前さんに対して真剣じゃった瞬間なんてなかったぜよ」
「……嘘だろ。お前の方から好きだって言ってきたんじゃねえか」
「好きじゃったよ。お前さんみたいな顔は可愛いのに中身の冷たい男は俺の理想じゃった。ずっとお前のナニをくわえ込みたいと思っとった。だけどそれだけじゃ、俺は体の関係だけでよかった。優しくされたいじゃなんて少しも思っとらんかった。お前さんは俺に優しくし過ぎた。最悪の男じゃった」

 心臓をえぐられるような錯覚を覚えた丸井は手のひらに傷が付いてしまいそうな程に拳を握りしめて俯いた。唇を噛む。血の味がしたけれど気にもならなかった。傷ついた唇よりも仁王に傷つけられた心が痛い。
 詐欺師だと知っていたのに、どうして与えられる好意を少しも疑わずにいたのだ、と過去の自分を呪った。

「俺が他の男とヤっとったことにも気づいてなかったんじゃろ」

 更に信じられないようなことを言った仁王の胸ぐらを掴む。いつ殴られてもおかしくないような状況で平然と笑う仁王が丸井は恐ろしかった。

「いつの話だ」
「親戚が不幸にあった、」
「嘘だったのか」
「うちはもう六十年も葬式なんかあげたことがない。家族が地元に帰っとったんは本当じゃけど、俺は部活を理由に神奈川に残った」
「……あの日の朝、男と電話してたのか」
「ああ、聞いとったんか。そうじゃよ。あのとき電話しとった男とヤり尽くしたせいで声は枯れるは体中痛むわで最悪じゃった。お前さんが電話をかけてきたときも男の家におったんじゃけど気付かんかったじゃろ」
「その男のことが好きだから俺と別れるのか」

 そうだと言ってほしかった。しかし丸井は仁王がそうは言わないと分かっていた。

「違う。あんなんただの遊びぜよ。俺はお前さんに飽きたんじゃ。ハナから別れる気でおったから、神奈川を離れることもお前には伝えんかった」
「……そうかよ」

 それだけ呟いた丸井は、仁王の胸ぐらを掴んでいた手を離した。もう殴る気にすらなれない。

「別れる」

 気がつくとそう言っていて、公園を走り去っていた。



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