2話

 想像に反して、仁王はその日も翌日も彼に連絡をよこさなかった。当然相手の方から縋りつくように謝ってくるとばかり思っていた丸井は面白くなくて仁王が二日ぶりに登校してきたその日は彼のクラスの前を通らないようにした。相手を無視してやっていると思うと、息苦しい程に膨れていた苛立ちも少しはおさまってきたので部活の時間にはこちらから仁王に声をかけてやろうと思った。
 丸井がそんな算段を立てていたことを知ってか知らずか、その日も仁王が部活へ来ることはなかった。夏だというのに肩に長袖のジャージをかけた幸村が、隣りに立つ真田に「仁王は風邪をひいているらしい」と伝えている。眉間に皺を寄せた真田は一言「たるんどる」と漏らしたが、元々仁王雅治という男に関心がないからだろう、それっきり部活中に彼の名前を出すこともなかった。
 おさまりかけていた苛立ちが再び息を吹き返す。自然と練習中の口調が荒くなって、切原やジャッカルに怪訝な表情を浮かべられた。何かあったのかと問われるが、仁王が部活に来なくて苛立っているなどとは言えるはずもないので、腹が減っているのだと無茶な理由で通そうとする。ああ、なるほど――と、案外簡単に信じられてしまったので余計に腹が立った。
 荒れた丸井を眺めていた幸村は、妙に真剣な表情を浮かべて、「仁王の声がらがらだったよ」などと言う。やっぱり俺たちのこと知ってるのか? と、喉の奥まで出かかった言葉を飲み込んだ丸井は、ぶっきらぼうに、「俺には関係ない」と返す。しばらく何かを考えこむように黙りこくっていた幸村は、丸井が目をそらすのを確認すると静かな声で「そう」と言ったっきりどこかへ行ってしまった。

 風邪をひいているはずの仁王を繁華街で見かけた。名前を呼ぶより先に手首を掴むと、普段は見せないような不機嫌な表情を浮かべて顔を上げた仁王と目が合う。
「お前、何してるんだよ」
 出来るだけ落ち着いて尋ねるが仁王は黙りこくっている。しびれを切らした丸井がそのスポーツ選手にしては細い腕をぐいぐいと引いて歩くと、意外にも抵抗することなく足を動かした。人がたくさんいる場所でモメるのは煩わしいと思ったのだろう。その証拠に人気の少ない道に出ると仁王は急に彼の手を振り払った。
「痛い」
「声やばいな」
 仁王の声は二日前電話で話したときよりも更に酷くなっていた。何百年も生きた魔法使いのような枯れ方だ。
「どんだけ強いウイルスがいるんだよ、お前の田舎」
「ウイルスが強いんじゃなくて俺が弱いんじゃ」
 胸を張って言う仁王だが、内容の情けなさと掠れきった声のせいで滑稽にしか見えなかった。間違いなく腹は立っているのに笑いそうになる。
「つーかお前大学、」
 話の本題に移ろうとしたとき、仁王が丸井の手を握った。俗にいう恋人つなぎと呼ばれる握り方だ。普段であれば仁王は屋外で肌を触れ合わせることを極端に嫌がる。世間から白い目で見られるのを極端に恐れているのだ。人の目は殆どないとはいえそんな男が自分から手を繋いでくるだなんてどういう風の吹き回しだろうか。
「うち来たらええ」
「話反らそうとしてるだろ。大体なんでお前の家に行く必要があるんだよ」
「うちの方がここから近いじゃろ?」
「だから、」
「外じゃヤれんから」
 がっちりと繋いだ丸井の手を引いた仁王が耳元で囁いた。普段とは異なるしゃがれた声が奏でる誘いは滑稽だったが、それと同時に艶っぽくもある。矛盾してるな、そう思いながら仁王の手を握り返す手に力を込めた。

 丸井を自室のベッドへと誘いこんだ仁王は準備をしてくると言い残して部屋を出ていった。一人部屋に残された丸井はベッドに横たわって天井を見つめる。数週間ぶりに足を踏み入れた家の中に彼の家族の姿はなかった。彼の家族はまだ四国にとどまっているらしい。
 仁王は本当に地元の大学に進む気なのだろう。大学の話題を振った時の誤魔化し様を見た丸井はほとんど確信していた。
 ほぼ受験勉強なしに入れる大学があるのにあえてそれをけってまで四国の田舎大学に通いたがる仁王の心が分からなかった。丸井は彼が故郷の話をするのを殆ど聞いたことがない。彼は神奈川によく馴染んでいるので田舎に戻りたいなどとは思わないのだろうと思っていた。しかしいつだっただろうか……ああ、たしか高校一年生のときだ。丸井は仁王に彼の故郷の話を聞いたことがある。

 練習試合が行われる東京の高校へ向かうための電車の中で、向かいの窓を見つめていた仁王がうっすらと口を開く。独り言のような調子で、「県外に電車でいけるんじゃな」と呟いた。
「電車で東京に行くのが初めてなわけでもないだろぃ」
「毎回不思議に思っとるよ。田舎におったころは電車で県外に出るなんて考えられんかった」
「JRは隣の県にも繋がってるだろ」
「繋がっとったんかもしれんけど、遠かったんじゃ。今はそうは思わんけど、昔は遠く感じた。高速に乗って車の後部座席で横になって、三時間は眠らんと行きたい場所にはいけんかった」
「田舎っぽいエピソードだな」
 思ったままの感想を呟くと、睫毛を伏せた仁王は「そうじゃな」と言った。県内を巡る電車も少なかったと語る。
「不便だろ、それ」
「電車で行きたいような場所も殆どなかったけぇ不便はせんかったよ」
「それを不便だって言うんだろぃ」
「都会が便利なだけで地元が不便だとは思わん。ほどほどなんじゃ」
 そうしてどこか遠い目をした仁王に、田舎に帰りたいのかと尋ねる。仁王は小さく首を振って丸井を見つめた。
「住めば都じゃ」
 軽い口調で言った仁王の瞳には確かに丸井の姿が映っていた。だから丸井は彼が田舎に帰りたがることなどこの先一生ないのだと錯覚したのだ。人の気持ちは、ことさら若い人間の気持ちは変わりやすいことなどすっかり忘れていた。
 仁王が部屋に戻ってきた。濡れた銀の髪が艷やかに光っている。
「俺もシャワー借りていいか」
「シャワーなんか浴びんでいいじゃろ」
「部活終わりで汗臭いぜ」
「それでもええよ」
 睫毛を伏せた仁王が仰向けになった丸井の腰にまたがった。かっちりとした肉の重みが丸井を圧迫する。ベッドに寝かせていた手をキスをするために上へ伸ばしたが、仁王のそれによってすぐにベッドへ縫い止められてしまう。
「なんだよ?」
 相手の心が分からないからせめて唇だけでも重ねたかった。それなのに自らの両の手の自由を奪った仁王は黙りこくって丸井を見下ろしている。
「なあ」
「今日は俺が入れてもええ?」
「……は?」
 思いもよらぬ言葉に驚いて間抜けな声を上げる。丸井の手首を拘束する仁王の手に力がこもった。
 仁王がこんなことを言うのは初めてのことだった。二人のセックスではいつも丸井が挿入する側だ。初めてのセックスのとき仁王が自分はネコでいいと言ったので自然とそうなった。
 無表情に自分を見下ろす仁王をじっと見つめる。仁王は本気で自分を抱きたがっているのだろうか。そして自分は男に抱かれることが出来るのか。
 それなりの時間をかけて考える。仁王が本気なのかどうかは分からない。だが自分の中での答えは出た。
 乾いた唇をうっすらと開く。仁王のことが好きだ。
「入れろよ」
「は?」
 今度は仁王の方が間抜けな声を上げた。どうやら丸井が自分の提案を了承するとは思っていなかった。
「意味分かって言っとんか」
「いつも入れてるから分かってるよ」
「……女が相手なら入れられることなんてないぜよ」
「俺はお前のことを女の代替品だと思って抱いてるわけじゃねえよ。好きだからヤってんだろ」
「クサイんじゃけど」
「うるさい。とにかく入れたいなら入れろ。自分がやられたくないことお前にやってるとは思われたくねえんだよ」
「誰に?」
「お前に」
「……そういうん困る」
 仁王が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。そうして丸井の手首を解放すると、下着ごと彼のシャツをたくし上げた。
 露になった丸井の胸の飾りを仁王の指の腹が撫でる。真剣な表情の仁王を見上げる丸井は喉をひくりと鳴らした。
 仁王は本気だ。本気で丸井を抱こうとしている。今更やめてくれとは言えない。不安がないと言えば嘘になるが、今まで好き勝手仁王の体を貪ってきた丸井は自分を抱きたがる彼を拒絶する勇気を持たなかった。
 瞳を閉じてされるがままの行為に集中する丸井は小さく息をつめた。初めての受けた胸への愛撫はくすぐったいばかりで今のところ快感は感じられない。しかしおおよその予想に反して受け手側しか経験させていないはずの仁王の手つきは巧みだった。小さな胸の飾りを緩急をつけて押し潰されるくすぐったい感触は次第にむず痒さを孕み始める。
「なあ、これいつまで続けんだ?」
 焦らされているかの様なもどかしい性感に痺れを切らして尋ねると、気分が盛り上がるまでだと返された。
 求めていた答えが得られず、思わず漏らした自らの溜息があまりにも熱いので丸井は一人驚いていた。仁王の人差し指の爪が胸の飾りを引っ掻いたのと同時に、小さく腰が浮く。それを拒むように、硬くなりかけたペニスに引き締まった尻肉をぐりぐりと押しつけられた。
「ッ……」
「こんなに硬くして……乳首だけで感じたん?」
 小馬鹿にしたように笑われて、普段お前も感じてるだろうがと返す。しかし丸井を見下ろす仁王は笑みを深めるばかりだった。
「初めてのときはこんな風にはならんかったぜよ。もしかして普段から一人で弄っとる?」
「ん、なことするか……っ」
「初めてでこれならネコの資質ありじゃな。顔も可愛いし、若い……俺と別れてもいくらでも咥えこめるじゃろ」
 内股をそろりと撫でられる。平素とは異なる意地の悪い表情を浮かべた仁王が丸井を見下ろしていた。
 俺と別れても……仁王は確かにそう言った。襲い掛かる快楽の波に立ち向かう丸井は、彼のその言葉が行為を盛り上げるために吐かれたものなのか否かの判断を下すことが出来ない。
「何も言わんの?」
 硬い表情を浮かべた仁王が擦れた声で尋ねてくる。丸井は小さく首を振って、部屋着と化している仁王の体操服のハーフパンツに手をかけた。
「シゴかせろよ」
 熱い吐息と共に漏らせば、額にうっすらと汗を浮かべた仁王が今度こそ本気で呆れたような表情を浮かべて丸井を見下ろす。中学生でももっとまともなことを言うと言った仁王は、自らのハーフパンツを下着ごとずり落とした。
 萎えたままの仁王のペニスに手を這わせながら考える。仁王は丸井にどんな言葉を望んでいたのだろうか。酷い男だと罵ればよかったのか、それともこれ以上の行為は続けられないとごねればよかったのか、丸井には分からなかった。
 恋人同士といえども二人は別の人間なのだ。愛の言葉を重ねて、キスをして、体を結合させて、それでも二人が一人の人間になることは出来ない。
 元々仁王のことは変わり者だと思っていた。何を考えているのか分からない電波な奴だと馬鹿にしていた。ゲイだと分かったときには少し気持ち悪いと思った。からかってやるつもりで、興味本位で体を重ねて、ずるずると関係を持ち続けて、たくさんの時間を二人で過ごして……初めはおかしな奴だとしか思っていなかったはずの仁王をいつの間にかどうしようもなく好きになっていた。
 仁王の気持ちを知りたいと思う。しかしそんな願いは叶うはずもないから、丸井は馬鹿のふりをした。熱に浮かされた馬鹿のふりをして仁王のペニスを無我夢中でシゴく、そこには技巧もなにもなかったが、手のひらの中の仁王は熱く高ぶっている。
「ヒッ、ァッ……」
 先走りを使ってぐちゅぐちゅと音を立ててカリ首を苛めながら、つと上へ視線を移すと頬を紅潮させた仁王が射精感に耐えるために瞳をきつく閉じていた。薄い唇から吐き出される荒い呼気が熱い。体を支えているのがやっとらしく丸井の胸の飾りへの愛撫の手は休めていた。
 先程まではうっとうしいとすら感じられた愛撫だが、なければないで寂しい。快感に飢えた丸井は空いた方の手でスラックスのチャックを手早く下ろすと、下着と一緒にそれを足の下まで下ろした。
 ガクガクになった肘で自らの体を支え続ける仁王の肩を抱き寄せて体を密着させると互いの性器を一緒に握り込んでゆるゆると擦る。裏筋が擦れ合う熱で腰の奥にじん、と快感の炎が灯った。
 気が狂いそうなぐらいに体が熱い。重ねた手を上下に行き来させるたびにグチグチといやらしい水音が鼓膜に響き、重たい腰を刺激する。丸井の体にのしかかったままの仁王が、快感を拾うために腰を揺らすのもまずかった。
 今日は部活で疲れている一度イけば行為を続行することは出来そうにない。しかしそれは病み上がりの仁王も同じことだろう。このままイってもいいのか、と不安に疑問に思っている内に仁王が欲望を吐き出した。途端に部屋中に充満した独特の臭いに興奮を掻き立てられた丸井も自らと仁王の腹の間に射精する。
 丸井は疲れきっていた。今から挿入したいと言われても受け入れる自信はない。慣れない受け手側なのだ。出来ることなら万全の状態で挑みたかった。とはいえ先ほど予想した通り仁王ももう一度勃たせることが出来る様子ではない。
「今から入れるのか?」
 遠慮無く尋ねると、やはり仁王は首を振った。そうして床に落ちているティッシュ箱から取り出したティッシュで白濁を拭うと丸井にもティッシュを手渡しこんなことを言う。
「俺は根っからのネコじゃ」
「じゃあどうしてあんなこと言ったんだよ」
 受け取ったティッシュで丸井も精液を拭き取る。部屋の隅に置かれたゴミ箱にティッシュを投げ捨てると仁王がぽつりと呟いた。
「気分」
 よく分からない理由だが、一応合点がいったふりをして頷く。仁王の頬に手を這わせてキスをしようと顔を近づけた。拒絶されるのではないかという不安はあったがそうせずにはいられなかった。案の定不機嫌な表情を浮かべた仁王は丸井の手を払い落として彼をベッドから蹴落とす。
 もう終わりなのかもしれない、反射的にそう思った。仁王は小さくため息をついている。
「病み上がりなんじゃ、伝染るぜよ」
 吐き捨てる様に言った仁王は壁際を向いて眠りについてしまう。どうしようもない虚しさに襲われた丸井は逃げるように部屋を出て行った。


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