1話

「――ああ、そうじゃ。今は、」
 枕にひっついていた額をゆっくりと持ち上げる。目覚めたばかりで靄のかかった様な頭に、眠りにつくまでは自分の隣にいたはずの恋人の声をとらえる。
 誰と話しているのだろう? 視界の端に映る彼の恋人、仁王は低血圧で、普段の休日ならば太陽が空に昇りきらなければベッドから体を起こすようなことはないはずだった。枕元に置かれた携帯のディスプレイで現在の時刻を確認する。午前四時四十四分、いやに不吉な時間だ……それはどうでもいいとして、早朝だ。彼らの部活仲間である侍の様な男は毎朝四時に起きていると言うが、一般的な男子高校生ならまず間違いなくベッド、あるいは布団に体を横たえている時間だろう。
 まさか昨日ヤったまま起きてたのか? 仁王雅治徹夜説を取ってみるが、理由が見つからない。昨晩情事を終えた仁王は確かに疲れ果てている様子だったし、他人の部屋では眠れない等と言うほど丸井の部屋に不慣れなわけでもなかった。
 彼がこんな時間に体を起こしている理由についてはこれ以上考えても無駄だろうと察した丸井は、彼の電話の相手について考え始めた。とはいえ人付き合いが活発であるとは言い難い彼がこんな時間に通話をするような相手は家の人間ぐらいしか思いつかない。昨晩は自宅に連絡も入れずに丸井家に泊まったのだから、家の人間に連絡するのは自然の流れだろう。
 律儀な奴だ。丸井と仁王の交際が始まったのは三年前、中学三年生の時だった。元々ゲイだったらしい仁王に押し切られる形で始まった付き合い、丸井は彼と付き合い始めるひと月前までは異性の恋人がおり、そっちの気は全くなかった。男とのセックスは気持ちが良いらしいという噂を聞いていたので、自分に好意を伝えてきた彼と興味本位で関係を持ったのだ。とはいえ初めはナニのついた男とのセックスに不快感を覚えてもいたのだが、知らず知らずの内に不快感に快感が勝るようになり、現在ではすっかり男の恋人がいる暮らしに馴染んでしまっている。
 この三年の間、仁王はかなりのペースで丸井家に泊まり込んでいる。また逆も然りだ。無論互いの親に俺達はセックスする関係です等と言ったことはないが、仁王の両親は彼が無断で家を空けたときは丸井の家にいるということくらい把握しているはずである。それをわざわざこんな時間に電話で連絡している――ゲイはマメだという話はよく聞くが本当なのかもしれない。
 瞼が重たい。昨晩眠りについたのは深夜二時過ぎだったのだから当然のことだろう。丸井は未だ自分に背を向けて通話を続ける仁王を捕らえていた瞳に瞼で幕を下ろした。久々の部活のない休日なのだ。元々遅くまで眠っているつもりだった。仁王が再びベッドに入ってくるのを待って眠気を覚ます必要もあるまい。そんな風に考え、丸井は再び眠りについた。

 次に目が覚めたのは午前七時二十分だった。あと二時間は眠っていられるとほくそ笑んだ丸井だったが、寝返りをうった瞬間にとあることに気が付く。
 仁王が隣にいない。慌てて体を起こして部屋中見渡すが、やはり彼の姿はなかった。
 帰ったのか? 腕を組んで首をひねる。丸井家の入り口のドアはオートロックなので彼が誰にも声をかけずに外へ出ることは可能だ。しかし何故こんな早朝から?
 謎は深まるばかりで暴かれる気配がなかったので、丸井は仁王にメールを打つことにした。今どこにいるのか、とストレートに問い掛ける。返信は二十分程かかって返ってきた。その頃には睡魔もどこかへ行ってしまっていて、丸井の三度寝の夢は潰える。
 仁王は朝早くに家に帰ったらしい。親戚に不幸があって、呼び戻されたのだという。丸井があまりにも気持ち良さそうに眠っていたので起こすことが躊躇われて黙って出ていったらしい。気を遣ってくれたのは有り難いが、目が覚めたときに隣にいるものだと思っていた恋人が姿を消しているという状況はなかなかに寂しい。今後は書き置きくらいは残して去ってほしいと思った。
 携帯をスウェットのポケットにしまい、リビングに出る。既に活動を始めていた彼以外の家族が食卓を囲んで朝食が出てくるのを待っていた。
 彼を除いた丸井家の家族は早起きを苦としない。勿論彼も全国常連の強豪校で部活をしている以上毎朝それなりの時間に起きて朝練をしたりもしているが、携帯のアラームを最低でも三回はスヌーズさせないと起きることが出来ないので朝型とは程遠いだろう。
 そんな彼が休日の八時前に部屋を出てきたので、彼の家族は大層驚いていた。小学生の弟には、兄ちゃん仮面ライダー見る気だな、などと茶化される。
「んなもん見るかよ」
「案外面白いぞ」
「お前は素直に楽しんでるだろうが」
 弟の一人と軽口の応酬を重ねる彼を振り返った母親は、困ったような表情を浮かべて口を開く。
「悪いけどブン太と雅治くんの朝ご飯はまだ作ってないわよ」
「まだ食わねえからいい、ってか仁王はもう帰った」
「帰った? 気付かなかったけど」
「母さんが起きる前に出ていったんだろ」
「随分早く出ていったのね。私、昨日早くに眠ったから今日は五時半に起きたのよ」
「はあ?」
 つまり仁王は五時代前半、又は五時前に家を出ていったことになる。親戚に不幸があったにしても早すぎるのではなかろうか。
 不審に思いはしたものの、人一人が死んでいるのだからそういうこともあるだろうと無理矢理納得することにした。仁王の行動理念など考えるだけ無駄な気もした。

 中学生の頃から通い慣れた、そして大学生になってからも利用するのであろう立海大、及びその附属校の広大な学生食堂で、幸村の姿を偶然見つけた丸井は彼の向かいの席に座り込む。カツカレーの皿の載ったトレイを机の上に置くと、もう半分食べ終えた鶏ポン唐揚げを見つめていた幸村が視線を上げる。
「ああ、ブン太か」
「食うの早くね?」
「うちのクラスは授業が早く終わったから」
 大学生の飯時とは少し時間がズレているものの、昼休みの学生食堂は恐ろしい程に混み合っている。カレーが出てくるのに待たされることは滅多にないものの、うどんやラーメンなどは列が長すぎるので端から並ぼうとも思えなかった。
「今日、仁王は?」
 大雑把に見渡しても仁王の姿は食堂にはなかった。彼は幸村と同じクラスなので丸井よりも早くこちらに着いているはずだった。
「休んでいるよ」
「休み?」
「そう、朝から来てない。聞いてないの?」
 幸村が瞳を細めて丸井を見つめた。彼は丸井と仁王の関係を知らない知らないはずだ。というより丸井も仁王も自分たちが恋人として交際していることを他の人間に話したことはない。それにも関わらず丸井が仁王の名前を会話の中で出したとき、幸村はこうして何かを探るような目をすることがある。それなりに長い付き合いなのでこちらの感情の機微に敏感でもおかしくはないし、ホモだのなんだの囃し立てられることもないのだが、どうしても居心地が悪い。
「その目、やめてくれねえ?」
「ああ、ごめん」
 小さく謝って睫毛を伏せる幸村が、「仁王明日も来ないみたいだよ」などと言うので、思わずスプーンからカツを落としてしまう。仁王が明日も学校に来ないということではなく、自分も知り得ない仁王の情報を幸村が知っていることに驚いた。
「幸村君、なんでそんなこと、」
「俺は部長」
「――そうか」
 部活の引退までにはまだ随分と時間がある。部長への報告もなしに練習を休むのは確かによくないだろう。そんなことにも気がつけなかった自分が恥ずかしく思えて俯いた。
 仁王は親戚に不幸があったらしいと告げると、唐揚げを食べ終えた幸村は、「ああ、だから、」と合点がいったように頷く。
「明日も戻って来ないんだね」
「四国だもんな、あいつの地元」
「ついでに大学の見学もしてくるつもりなんだろうな」
「大学?」
「仁王、地元の大学に進もうとしているんだろ?」
「冗談だろぃ?」
 幸村が首を横に振る。仁王はしばらく前から進路に地元の大学を考えていたらしい。
 またしても初耳だ。丸井は仁王も自分と同じように立海大に進むものだと考えていたので動揺した。仁王はどうして自分にそのことを話さないのかと訝しむ。そもそも丸井は仁王が四国の出身だということは知っていても、四国四県のどこから来たのかは知らないのだ。
「仁王は俺に大学の話はするなって言ったんだ」
「それならどうして俺に話したんだ?」
「……まさか知らないとは思わなかったから」
 幸村が申し訳なさげに苦笑して横髪をいじる。無論彼には何の非もないので、「気にするな」と返すが釈然としない。仁王が自分に進路の件について話さない理由が分からなかった。どうせ興味もないだろうと思われているのかとも考えたが、付き合い始めの頃の、丸井がいつノンケに戻るのかと常に不安がっていた仁王ならともかくとして現在の彼はそこまで卑屈ではない。と、なると単に話したくなかっただけ、或いは話す必要がないと判断したと考えられるが、そうだとしたらなかなかキツい。
 コート上のペテン師などと呼ばれている男だ。日常生活でもたわいもない嘘をついて人を騙すことはある。しかし今回の件はそれとは話が別だった。

 気にするな――と食堂を後にする幸村は言った。古典の授業中、毛根の死に切った頭を光らせて黒板に漢文を書き出す学年主任を眺めながら昼休みの一件について考えた。幸村の言う通り、気にしない方がいいのかもしれない。元々丸井は進路についての相談役に向いているとは言えない。……それでも自分にも一声位かけてほしかったと思う。
 仁王が遠くに行ってしまう。中学三年生のときの自分にそう話したらどんな反応を示しただろうか。今と同じように動揺し、ショックを受けただろうか、それとも「ああ、そうかよ」程度のリアクションしかとらなかったか……恐らくは後者だろうと思う。三年前なら未練もなく別れることが出来た。それなのに、今の丸井は彼と離れることに多大な不安を感じている。彼を手放したくないと思う。
 仁王は昔からよく丸井にこう言っていた。女が恋しくなったら自分のことは捨ててもいいと。だから自惚れていたのかもしれない。自分から手を離すことはあっても、相手に手を離されることはないと、タカをくくっていたのかもしれない。
 情けない話だ、丸井は自嘲気味に笑ってカバンにしまっていた携帯に手を伸ばした。ラケットを振るえばこの胸のつっかえも、裏切られるはずはないという傲慢さが引き起こした仁王への苛立ちも、全て消えると思っていたのに、人の感情というのはそう簡単なものではないらしい。
 発信履歴の一番上に名前を連ねる男にかけると、幾分長いコールの後に擦れた声の男が「丸井か」と訳の分からないことを言う。
「俺の携帯から俺以外の男がかけるはずないだろ」
「それもそうじゃな」
「喉がらがらだぞ、風邪ひいてんのか」
「おー……田舎で妙なウイルスにやられた」
「なんだそれ。普通田舎に帰ったら元気になるだろ」
 受話器の向こうの仁王が小さく笑って、「俺は繊細なんじゃ」と軽口を叩く。平素と変わらない仁王の様子に用件を忘れて頬を緩めそうになるがぐっと堪えて落ち着いた声を出す。
「お前明日も来ないんだろ?」
「幸村に聞いたんか」
「大学見に行くのか」
「……それ」
「聞いた」
 しばらくの間、仁王は黙り込んでいた。どう言い訳するか考えているのだろうと判断して三十歩程歩いたところで先ほどよりも枯れた声が鼓膜を震わせる。
「言うタイミングを逃したんじゃ」
 あれだけ考え込んで出てきたのがそれか、呆れた丸井は返事もかえさずに溜息をついた。彼が遠くに行ってしまうという寂寥感が急激に萎んでいく。代わりに渇いた苛立ちが身を包んでいくのが分かった。
「明後日は来いよ」
 吐き捨てるように言って通話を打ち切る。次に会うときまで連絡を入れるつもりはなかった。顔を合わせるまでもなく今日の晩にでも今度は仁王の方から電話がかかってくるだろうと思っていたがそれも無視をするつもりだった。

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