ワンライまとめ

プロポーズ
「あと半年くらいで寮出ることになった」
 沢村の通う大学にほど近いインドカレー屋、サグマトンを器用にナンに漬けて食べる御幸がそう言って笑った。緑色のカレーが唇の端を汚すのを、沢村はぼんやりと見つめる。
 沢村は高校卒業後大学に進学し、先日二回生に進級した。高校時代にドラフト指名されてプロ入りされた御幸は今年でプロ三年目だ。プロ野球の選手寮のシステムはよく分からないが、御幸はハタチも過ぎているし、一軍捕手としての活躍も目覚ましい。球団側は寮を出ることに反対はしないだろう――そう結論付けて、自分の皿からひよこ豆のたっぷり入ったカレーをスプーンで掬って口に含んだ。
 豆のホクホクとした甘味に機嫌よく舌鼓を打つ沢村に、御幸は「お前露骨に興味なさそうだな」と、ぼやく。寮を出る話題に格別の反応を示さなかったことに不満があるらしい。
「いや、いやいや興味アリアリですよ! 俺みたいな貧乏学生からしたら、プロ野球選手が寮を出てどんな部屋に住むのかとか……想像もつかねーし」
 御幸一也のことで興味のないことなんて一つもない。自分の中に芽生える御幸への情が恋慕の色を秘めていることに気がついたのは最近のことだが、高校時代一緒に部活をしていたときにだって、沢村は彼の一挙一動にピンとアンテナを張っていた。
 野球に関することは勿論、恋愛のことだってよーく知っている。高校時代に付き合った彼女は二人、プロになってからは三人、五人とも平均よりはかなり上の水準の容姿をしていたが、長続きした女は一人もいない。皆野球馬鹿とも言える御幸に愛想を尽かしてしまうのだ。五人目の女とは、去年の年末から交際し始めて、現在も続いているようだが、どうせ長続きしないだろう。
「部屋の間取りはとりあえず三LDKくらいで考えてる」
「広っ……一人なんだからもう一部屋くらい少なくてもいいでしょ」
「はあ、一人じゃねえよ」
「へ」
 ひよこ豆とカレーをまた一口含んで嚥下する。サフランライスも詰め込みながら、なんでもないような口ぶりで御幸が続けるのを聞いた。
「ああ、言ってなかったか? 結婚するんだよ。そうでもねーと流石にまだ寮出るのには早いし」
「へっ、へー……」
 明るくて図太い、それなりに可愛い後輩の仮面が剥がれそうになるのを必死で堪えて、沢村はコクコクと不自然に首を縦に振った。粒の立ったサフランライスが、横隔膜のあたりで引っかかってしゃっくりが出そうになる。
「お、めでとうございやす」
 御幸の奢りなのをいいことに注文したマンゴーラッシーで喉を潤して、祝いの言葉を絞り出した。
 ありがとな、と口角を上げる御幸が、普段の百倍いい男に見えて、やっぱり所帯持ちの男はやけに輝いて見えるな……と本物のゲイのようなことを考える。もっとも恋愛感情を抱いた相手は一人だけだとはいえ、女を抱いた経験はないくせに、男に抱かれた経験を持つ沢村は、性嗜好で言えば立派にゲイだと言えるのかもしれない。一夜を共にした相手は勿論御幸ではない。
 どうでもいいことばかりが頭に浮かんでは消えていく。自分の性嗜好の問題など今はどうでもいい。さりげなくスマホのカレンダーを開いて、今日がエイプリルフールでないことを確認する。今日は六月の一日だ。わざわざカレンダーを開いて確認するまでもないことなのだが、それくらいに沢村は動揺していた。
「式は……いつのご予定で?」
「まだ全然決めてねーけど、来年になると思う。流石に呼ばないといけない相手も多いし、そんなにすぐには出来ねえよ」
「俺のこともちゃんと招待してくださいよ!」
 本音とは真逆の言葉を吐きだして、沢村は無理矢理笑顔を作った。御幸は、「当たり前だろ」と言ってまた笑う。雰囲気が柔らかくなったように思えるのは、妻になるという女のおかげなのだろうか。
「自慢じゃねえけどそんなに友達もいねーし。お前が一番仲良いよ、俺」
「うわ、寂しい男。俺の一番の仲良しはキャップじゃありませんけどね」
 一番好きなのはアンタですけどね、と言ったら御幸はどんな顔をするのだろうか。きっと自分以外には本当に親しい友人が少ないのであろう御幸のことを思うと胸がつまった。つまらない一瞬の衝動でこの関係を壊したくない。
「お前って時々全然可愛くねーよな」
「普段は可愛い後輩だとおっしゃりたいんですね!」
「ばーか」
 御幸に、可愛くねーと言われるのが好きだ。それが沢村の耳には可愛いと同義語に聞こえる。ばーか、と笑いながら言われるのも好き。すごく距離が近い気がするから。御幸と話していると愛しい言葉ばかりが増えて、溺れそうになる。
「彼女さんはいつでも可愛いですか」
 傷口に塩を塗り込むような質問をついついしてしまう。インスタで繋がっている男の中から、すぐにでも会えそうな男の顔を思い浮かべた。今日は誰かに手酷く抱かれたい。
「まあまあ。顔が可愛いから、多少ヒステリー起こされたりしても許せる。女の子って癇癪持ち多いし、仕方ねーよな」
 いつから女のことを女の子と呼ぶようになったのだろう。女のヒステリーを仕方ねーで流せるようになったのだろう。自分の知らない御幸を形作った女達に沢村は始めて嫉妬心を抱いた。
「結婚、早いですよね。まだハタチだし」
 ついつい咎めるような口調になって、しまったなぁとこめかみを掻いた。御幸が結婚しようがしまいがどうでもいいことなのに。一生独身でいてくれたところで、御幸が男を好きになることはないのだから。
「まあ早いけど、野球と私どっちが大切なのって詰め寄られたり、付き合ったり別れたりすんのもう面倒臭いんだよ」
「それでプロポーズしたんすか」
「いや、彼女が結婚してほしいって言うから」
 分かったって、と続けて、御幸は最後の一かけになったナンで皿に残ったカレーをこそいだ。男らしさのカケラもない返答に呆れる。こんなに受け身な人間だと知っていたら、一回ベロベロに酔わせて既成事実でも作っておいたのに。
 マンゴーラッシーで口内を潤して、御幸の唇に手を伸ばす。
「ついてますよ」
 下唇の端についた緑のそれを指で拭って自分の口に含むと、目の前の男は途端にバツが悪そうな顔をした。

落ちる

 部屋の空気が重たいのは、窓の外の雨のせいでは決してない。夏用布団の中からひょっこりと顔を出した沢村を、女はもう振り返らない。
 下着だけを身に纏った元同級生の細いうなじを沢村はまじまじと見つめた。白いうなじと肩のラインに胸がざわめくのは、女のことが好きだからではなく、男としての本能なのだろう。自分の体にそういう性質がきちんと刻まれていたことに沢村は安堵した。
「ずっと好きだったの。ありがとう」
 床に散らばった衣服をかき集めるようにして、女は部屋に足を踏み入れた時と同じ形を取り戻す。
――好きだったって……俺のこと!?
 声に出して確かめる暇も与えずに、女は立ち上がる。ノースリーブのトップスを身に纏った華奢な背中を呆然と眺めること三秒、ちょっ……待てって、沢村がベッドから跳ね起きたころには、女はもう玄関口でパンプスの踵を踏みならしていた。引き止めようと、一歩足を踏み出す。
「う、あっ!」
 フローリングに投げ出していたレジュメに足を取られて尻餅をつくのと、玄関のドアが開け放たれて女の体が部屋からすり抜けていくのは殆ど同時だった。
 もう一度立ち上がろうとしたが、昨晩しこたま飲んだ酒のせいで頭痛がする。おまけに寝起きの体を纏っているのはトランクス一丁だ。今すぐに女を追いかけるのは無理だと早々に諦めて、這うようにしてベッドに戻った。彼女には出来るだけ早く連絡を取ることに決める。
 くしゃくしゃになったシーツの真ん中に部屋着用のリラコを認めて、手に取る。
「なっ……」
 視界に飛び込んできた光景に仰け反りかけた。一昨日交換したばかりの真白なシーツの一部分が赤黒く染まっていたのだ。
――なんでこんなことに……!
 考えてみるが、二日酔いの頭の中には靄がかかっているようだった。
 まずはひとまず冷静になろうと、リラコに足を通そうとするのだが、体に回ったアルコールと動揺のせいか足がもつれて上手くいかない。
 足場の悪いマットの上から一度降りて、フローリングの床の上で再度チャレンジして、ようやくマトモな格好になる。もっとも下半身はトランクス一枚だったが、上半身は裸のままだ。
 机に置かれたタンブラーの中の、恐らくは昨晩注いだであろう水で喉を潤しながら、頭を冷やそうと懸命に努めていると、スマホがバイブするくぐもった音が聞こえた。
 部屋を出て行ったばかりの女からだろうかと、首をひねりながら枕の下に左手を滑り込ませる。就寝時の定位置から取り出されたスマートフォンの画面にはライン通知が一件。ロックを解除して、メッセージの相手を確認した瞬間頬が緩む。
 差出人は御幸一也だった。近場まで来ているので、今から家に行くぞ――というような内容のメッセージだ。絵文字やスタンプは添えられていない。
「まずい……!」
 都内の大学生の一人暮らし、勿論部屋はワンルームだ。この血……と思わしき液体に染まったシーツをなんとかしなければ非常にまずい。口から泡が吹き出そうなほどに慌てた沢村は、バッと音が出るほどの勢いでマットレスからシーツを引き剥がした。赤黒い染みは、下のパットにも染み付いている。涙目になりながら、それも引き剥がして浴室に直行する。
 シャワーの設定温度を普段よりも十度ほど高く引き上げて、浴槽に湯を張る。キッチンの下の棚から、引越しの折に母親から、大体の汚れはこれで落ちると断言されて手渡された粉末を取り出す。パッケージには酸素系漂白剤と書かれていた。
「南無三……!」
 湯気の立ち込める浴室で、せっかく履いたばかりのリラコが濡れるのも構わずに浴槽に漂白剤を投入した。湯が熱いので風呂桶でざぶんざぶんとかき混ぜて、発泡してきたところにシーツとパットを投入する。
 これでどうにか綺麗に落ちてくれ、と祈るような気持ちで念じて風呂から出ると、また新たな問題に気がついた。部屋から女性らしい匂いがするのだ。恐らくは彼女が纏っていた香水の香りである。シーツを片付けたところで、これでは女を連れ込んだと言っているようなものである。
 御幸とは高校時代バッテリーを組んでいた。今はプロの舞台でキャッチャーとして活躍している。沢村の現状の目標は大学野球で活躍し、再び御幸と同じ舞台でボールを放ることである。
 部活の先輩に自分の女性遍歴を知られたくないという感情は些か不自然だ。女に一切モテないと知られることに比べれば誇らしいとすら言えるようなことである。しかし沢村は御幸に自身が昨晩童貞を卒業したことを決して知られたくなかった。
 好きなのだ。御幸のことが、恋愛対象として。それがいつからのことかは定かではない。少なくとも御幸の在寮中には親しい先輩程度の感情しか抱いていなかった気がする。
 沢村が高校二年生の一月、御幸が球団の寮に入寮して、顔を会わせる機会が一気に減った。それでもちょっとつまんねーな程度にしか思っていなかったが、その後三年生の登校日や卒業式の練習などでちょくちょく顔を会わせる度にやけに胸がざわついて、ん……おかしいな、と感じ始めた。そうして御幸が完全に卒業した後、ラインで食事にメシを奢ってやるぞと誘われた時には、胸がざわつくの域を超えて早鐘を打ち始めた。そこまでくると恋愛経験の乏しい沢村でも御幸への好意を自覚するようになる。
 とはいえ異性愛者のつもりで生きてきた男である自分が男を好きだという事実を受け入れるのには中々時間がかかった。なにしろこれまでの人生は野球漬けで、異性との恋愛経験すら皆無である。
 俺ってホモなのか、違うよな、いやホモか……という懊悩をひっそりと胸に抱きながら、御幸が卒業して一年強が過ぎた。大学一回生の沢村は、順調に(と、言っていいのかは疑問だが)御幸と逢瀬を重ねている。意外なことに誘いをかけるのは御幸が主だ。
 会う度に顔の筋肉が緩んで、好きだな……やっぱりと思ってしまうのだが、同級生や大学の部の先輩達が女の話をしているのを聞くと、異性愛者としての自分を諦められない気持ちが強まった。その結果が昨夜の出来事である。
 ファブリーズなんて気の利いた物はないので、冷蔵庫に残っていた豚肉を、換気扇も回さずに焼いて室内の女性らしい匂いを誤魔化そうとしている。肉の焼けるジュージューという音を聞いている内に昨晩のことをはっきりと思い出した。
 昨晩は三年の時のクラスメイト数人との飲み会だった。実家が小金持ちの友人が大学生の一人暮らしにしては広くて綺麗なマンションに住んでいて、たこ焼きパーティなるものを企画したのである。無論全員未成年なので飲酒はご法度なのだが、冷蔵庫から出るわ出るわ酎ハイの嵐で、お酒はハタチになってから……などと言い出す者はいなかった。
 そこで沢村の隣をずっとキープしていたのが先ほど部屋から走り去っていた女である。一年と三年の時に同じクラスで、比較的親しい間柄だった。ショートカットが良く似合っていて、ボーイッシュな印象があったが、化粧を覚えて髪を茶髪に染めた姿は大人の女めいていて、机の下で手を握られたときにはドギマギした。
 慣れない酒を互いにしこたま飲んで二人で沢村のアパートに帰宅した。深夜零時は回っていたと思う。彼女は服を脱いで沢村に抱きついてきた。嫌悪感はなかった。自分が本当に同性愛者なのかどうか確かめてみたいと思ってしまった。行為中の記憶は薄いが、一応最後まで出来たのだとは思う。だからこそシーツにあんな汚れがついたのだろうし。
 彼女も初めてだったのだろうか。去り際彼女は自分のことをずっと好きだったと言った。そうだとしたら悪いことをした。きちんと好いてもいないのにあんなことをするべきではなかった。どうやって詫びをすればいいのだろう。
 悶々としている内に肉は焦げ目だらけになった。安い豚肉特有の臭みがキッチン周りに充満しているが、彼女の香水の匂いを消し去るほどではない。こめかみに浮き出た汗を手の甲で拭う。不味そうに焼けた肉を皿に取り分けていると、チャイムが鳴った。万事休す。
 ベッドの端に丸まったTシャツに袖を通して、ドアを開く。予想に反して、アパートの廊下に立っていたのは御幸ではなく、大きな段ボール箱を抱えた配達員だった。冷たい糠雨が廊下の床を濡らしている。
「サインで大丈夫です」
「お疲れ様っす」
 大雑把な筆跡でサインをして、段ボール箱を受け取る。のろのろと部屋の中心まで運んで、開いてみると部屋一面に桃のような匂いが広がった。段ボール箱いっぱいに黄色く色づいた梅の実が詰まっている。
(庭にたくさん落ちたのでお裾分けです)
 箱に添えられた手紙にはそう書かれていた。長野の実家の庭の梅らしい。素晴らしく甘い香りがするが、実は加工しないと食べられない。こんなものを一人暮らしの息子に送ってどういうつもりなのだろう。
 この忙しいときに……と歯噛みしかけたが、先ほどまで室内に充満していた香水の香りが、馥郁とした梅の香によって落ちていることに気がついた。
 ほっと胸を撫で下ろすと、裸ん坊になったマットに換えのシーツを取り付ける。無体を働いてしまった同級生の女に送るメッセージの内容を考えていると、玄関のドアが開いた。鍵を閉めるのを忘れていたのだ。
「不用心だな。男一人だからって鍵くらいかけろよ」
「おはようございます……」
 喉から絞り出した声はやけに低かった。ここにきて頭痛がぶり返してきたのだ。
 今日の御幸は、黒のタンクトップの上に薄手の白いシャツを合わせている。シンプルな服装だからこそ、素材の良さが生きて、ぼーっとしてしまうくらいにカッコ良かった。やっぱり自分は御幸のことが好きなのだな……としみじみ自覚する。彼女には真摯に謝ろう。
 しかしこのいい男が男の自分を好きになってくれる目はあるのだろうか。
「お前風邪でも引いた? 声変だぞ」
 俺も今日この服だと少し寒かったわーと零しながら部屋の中まで足を踏み入れた御幸が、段ボールの中身を認めて、おやという顔をする。都会育ちの男には珍しい物かもしれない。
「実家からきた梅です。氷砂糖と酢と一緒に置いておけばシロップになりますよ」
 暗にお裾分けしますというつもりで言うと、寮暮らしだというのに御幸は嬉しそうに頷いた。
「生で食ったらハラ壊しますからね」
「食わねーよ。帰りに入れもん買わねーと。瓶がいいのかな」
「たぶん」
 梅仕事は母親の役目だったのでよく知らない。
「桃の匂いがする」
 跪いて箱の中の物を掴もうとした御幸の動きが、はたと止まる。
「沢村……お前、こういうのはちゃんと捨とけよ」
 苦い顔をして頬を掻く御幸の視線の先に落ちていたのは、透明な袋状の何かだった。袋から出されたコンドームであると気が付いた瞬間、沢村の顔は一瞬にして青ざめる。使用済みらしく伸びきってだらしない姿を晒してはいるものの、中に白い残滓は見当たらない。挿入まではしたものの射精には至ってなかったらしい。
「ちちち、違うんです……これは!」
 この一時間程女の痕跡を消すために必死になっていたのに最後の最後で決定的な証拠を残してしまっていた沢村は分かりやすく狼狽していた。
 最後まではシてないんですというワケの分からない言い訳をする沢村を見つめる御幸の目はあまりにも冷たくて、「それ以上聞きたくねーよ」と突き放すように言ったわりに部屋を出ていこうともしない男は、スネているようにも見えた。
「キャップ、もしかしてヤキモチ妬いちゃったりなんかして、」
「悪いかよ」
「へっ」
 真っ向から挑むような目をして返される。
「お前バカだし鈍いから女の子のいる場所行くの禁止な」
 怒りからなのか、照れからなのか頬を紅潮させた御幸は、それっきり黙り込んだ。難攻不落のノンケイケメン捕手を意図せずして落とした沢村は呆けたように口を開く。二人の呼吸音だけが響く室内を、熟れた梅の果実の香りが甘く包んでいた。
 
願い事

 二十七の夏だった。
 湿った部屋の空気がどうにも不愉快で、除湿機の電源を入れた。おかげで冷房を効かせているわりに部屋の空気はやけにぬるい。おまけに腕と足の何箇所かを蚊に食われている。
 御幸がそれを見つけたのは、去年の夏にしまい込んだままの蚊取り器を探しているときだった。リビングに置いたキャビネットの一番下の引き出し。小学生の時に学校の課題で作った木彫りのオルゴールを認めて、懐かしんで開くと、梔子色の短冊の上を跳ねる文字の羅列が視界に飛び込んできた。
 そっと手に取って、しげしげと見つめる。部屋の照明を受けて控えめに光るそれは、十年前の夏の名残だ。御幸は、掛け替えのない何かを飲み下すように唇を噛む。
 バルコニーに出て、空を見上げるとちぎれた雲が地上を見下ろしていた。今日は七月の六日、明日の降水確率は八十パーセント。

 熱を孕んだうなじを、空調の効いた学食の空気が冷やす。食堂の大定番ネギポン唐揚げと麦ご飯をトレイに載せて、会計に並んでいる時、テラス席の片隅に沢村の姿を認めた。
 財布の中から五百円玉を取り出してレジのおばちゃんに手渡す。お釣りの三十円を受け取った御幸は、テラスに向かって歩を進めた。
 流石に外に出ると空気が違ったが、どこぞに掛けられているらしい風鈴の聞き馴染みのいい音が涼を誘う。
 近づいてみて分かったが、沢村は食事に手をつけずにネームペンを握って手元の紙になにやら書き込んでいる。いつになく真剣な表情だ。
「カレーうどん伸びるぞ」
「キャ、キャップ!」
 真正面に自分のトレイを置きながら声をかけると、沢村は面白いくらいに狼狽した。胸元に抱え込むようにして隠したそれは、青と黄それぞれ一枚ずつだ。
「シワになる」
 言いながら青い紙を引いてみると、沢村は「あっ」と情けない声を漏らした。平素はつり上がった眉が、八の字に下がる。
「なんだこれ七夕の短冊?」
「クラス担任が笹持ってきて……」
 拗ねたような声である。
「小学校の先生みたいだな」
「別にいいでしょ」
 沢村は、御幸に奪われなかった片割れを二つに折りたたんでシャツの胸ポケットに押し込んだ。青い紙には『甲子園優勝!!』と跳ねるような字で書かれている。
 優勝とは大きく出たものだ。エースナンバーを背負った後輩の真っ直ぐな想いが眩しくて、御幸は目を細めた。
「もう一枚にはなんて書いてあるの?」
 興味本位で尋ねる御幸から甲子園優勝の短冊をひったくった沢村は、それを懐にしまい、箸を手に取る。平素ならうるさいくらいに話しかけてくるのに、今日はそれきり口を利かない。
 御幸は御幸で、部活も寮も一緒なのだから、わざわざ昼餉時にまで会話する必要もなかろうと、大根おろしとポン酢に浸った唐揚げを啄んでいた。
 蝉の鳴き声に、沢村がうどんを啜る音が混じる。
「そんな食い方してたらカレーが散るぞ」
 老婆心で口にして顔を上げると、沢村もこちらを見つめていた。沢村の琥珀色の瞳が、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。その内側に自分の姿を認めて、御幸は俄かに動揺した。
 胸のざわめきに理由がつけられずに戸惑っていると、最後のうどんを啜り上げた沢村が、ようやく口を開く。
「明日雨らしいですよ」
 明日は七月七日、七夕当日である。梅雨明けしてねーからな、と御幸が返すと、沢村は空を見上げた。白南風が強く吹いているものの、空は青々と澄んでいる。
「……短冊に」
「ん?」
「短冊に書くのは、実現可能な願い事にしとけって金丸が」
 子供じゃあるまいしって――と付け足す。いつになく力の抜けた態度がむず痒い。
「短冊見せたの?」
「さっき書いたとこですからね」
「甲子園優勝」
「それは決意表明っす!」
 ここで出会って初めてエースの顔になって言う。期待してる、と笑ってやると、「キャップの手腕にもかかってるんですからね!」と、唇を尖らせた。
「もう一枚の短冊は?」
 さっきしたのと同じ質問を重ねると、沢村は困ったように目を細めた。実現不可能だと感じているのはこちらの願い事の方なのかもしれない。
「あっ! 俺今日ゴミ捨て当番なんで!」
 不自然なくらいの大声を上げて立ち上がった沢村は、カレーうどんのトレイを持ってそそくさとその場を立ち去る。残り一つの唐揚げを口に含みながら、御幸はその背中が小さくなるのをいつまでも見つめていた。

 放課後の二年生の教室には、数人の女子生徒が残っていた。一人の机を取り囲んで、嬉しげに話をしながら、手元の紙になにやら書き付けている。昼間のことがあったので、それが七夕の短冊であることにはすぐに気が付いた。
「中入っても大丈夫?」
 教室の入り口から、御幸が声をかけると、女子達は黄色い声を上げた。立ち上がっていた一人の少女に至ってはぴょんぴょんと飛び跳ねている。名門野球部で主将を務めているだけあって、御幸は下級生にまで人気があった。
「野球部の子達はもう部活に行ったみたいですけど……」
 髪をポニーテールにした女子生徒が、控えめな声音で答える。
「七夕の短冊もう飾ってる? 野球部の連中のやつ見てみたいんだけど」
 御幸が悪戯っぽい表情を浮かべると、彼女は窓際を指差した。折り紙で作られた七夕飾りと、五色の短冊のぶら下がった笹が、開きっぱなしの窓から吹く風にさらさらとなびいている。
 初めに見つけたのは、金丸の短冊だった。打率四割!! と力強い字で書かれている。一年の秋以降メキメキと頭角を現してきた後輩の姿を思い浮かべて、御幸は口元を緩めた。
 甲子園優勝!! という文字の踊る沢村の短冊は、笹の一番てっぺんにぶら下がっている。みんなが怪我なく元気にプレイ出来ますように、と書かれた春乃の短冊と合わさって一つの作品群のようであった。
 しかし御幸が探しているのは、沢村が頑なに見せようとしなかったもう一枚の短冊だ。関係ない後輩達の願い事を盗み見るのは、胸が痛んだが、黄色の短冊を一枚一枚めくっていく。
 そうして目立つ位置のものを全て捲り終えて、笹の内側にひっそりと隠れるようにしてぶら下がった一枚を手に取ったとき、周囲の音が消えた。
『御幸先輩といつまでもバッテリーを組んでいられますように』
 小さな文字の並んだその短冊に、書いた人間の記名はなかった。それでも御幸の頭には、少年の琥珀色に輝く瞳が浮かんでいた。自分の放ったボールが思い描いていた位置に収まったときの、嬉しそうに緩む口元。球を握りすぎてかたくなった左手の皮膚の感触。

 淡く輝くそれを抜き取ったのは、ほとんど無意識の行動だった。それ以降、御幸の盗み出した沢村の願い事は、ずっと彼の思い出の中にしまいこまれていた。
 卒業後は、忙しいことを言い訳にして沢村に連絡をすることもしなかった。自分の球団が、沢村を指名しなかったことを知ったときには、短冊を盗み取ったことを悔やんだ。
 沢村の球団の本拠地は地方だった上にリーグも違ったから、セ・パ交流戦以外で顔を合わせることもなく、時たま試合でかち合うことがあっても、声をかけることは出来なかった。バッターボックスで向き合う沢村は、酷く遠くに見えた。自分の振ったバットの芯が、沢村の放った球を捉えるたび、後ろに控えた彼の球団の捕手に、「俺だったらもっといいリードが出来る」と言ってやりたくなった。
 そんな風に過ごしている内に、また七月六日だ。沢村の願い事を盗んでから十年が過ぎた。千切れた雲が、月を隠しながら流れていく。
 もう一度天気予報を確認しようと、ハーフパンツの尻ポケットからスマートフォンを取り出す。ロックを解除した瞬間、ニュースアプリがポップアップする。
『福岡沢村投手(27)トレード……御幸捕手(27)との甲子園ぶりのバッテリー復活か!?』
 そんな見出しだった。しばらく立ち尽くしていると、ラインに新規メッセージが届く。
『あの時俺の短冊取って行ったの御幸先輩ですか』
 鼻息の荒い絵文字が文末にくっついていた。
 どう返信したものだろうか、と考えながら空を見上げると、雲が晴れていた。白い月が惚けた表情を浮かべる御幸の顔を照らしている。
『月が綺麗だ』
 送信ボタンを押してからあまりのクサさに自分で鼻白んだ。大切に掴んでいたはずの短冊は、いつの間にかどこかに消えていた。
back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -