鱗を捨てて2

1

 11月の空は澄んでいる。冷たい夕方の空気を鼻から吸い込んで肺いっぱいに満たすと、頭の芯がスッキリとして視界まで晴れてくるような気がした。木枯らしの匂いのする河川敷で、沢村は恋人とキャッチボールをしている。
 沢村栄純に人生初の恋人が出来たのは、ひと月程前のことだった。彼女は沢村が1年生の頃から野球選手としての彼を応援してくれていた女の子だ。部活を引退して寂寥感に苛まれていた沢村の心に静かに寄り添ってくれている。告白を受けると決めた時よりもずっと、沢村は彼女のことを好きになっていた。
 15メートル程離れた先、制服姿の彼女が『おーい』と手を上げる。左手には父親に買ってもらったのだというグローブが嵌められていた。グローブから左手にボールを移して、それを静かに放る。一瞬の後、顔を上げるとグローブにおさまったボールをかかげる彼女の姿が見えた。夕焼けに照らされた顔は幸せそうで、つられて笑顔になってしまう。
 彼女からボールが返ってくるときにはもう少し距離を詰める。彼女は、野球を見ることが好きだが、ボールを投げるのはあまり得意じゃない。それでも放課後にときたま2人してキャッチボールをするこの時間をとても楽しみにしているようだった。
 沢村からしてみても彼女と過ごす時間はとても楽しい。それでも2年半、殆ど休みもなく時間を費やしていた野球への熱情は未だ冷めない。大学に入学すればまた以前のような練習漬けの日々が戻ってくるのだと分かっていても、ゆっくりと育んだ心と体を休めることに対しては心穏やかになれなかった。引退してから沢村は以前にも増して走り込みの量を増やした。後輩達の夜の練習にも頻繁に顔を出している。野球をするために上京したからか、体を動かさずにいると行き場のない気持ちになるのだ。
 彼女のグローブに向かって放った球は、静かな音を立ててそこにおさまる。心穏やかで幸せな時間なのに、時たま『こうじゃない』と思ってしまうことがある。力一杯ボールを投げたい。場合によってはどこに飛んでいくかも分からないような球を、何度も何度も−−だけどそれは彼女が相手でなくても早々叶うことではない。体を張ってボールを受けて
くれる捕手がいてはじめて投手は生きるのだと、沢村は中学3年生のときに知った。投手にとって信頼出来る捕手はある意味ではなによりも大切なものだ。沢村は先日それを失ってしまった。
「そろそろ帰るか」
 辺りが暗くなってきた。彼女に声をかけると、『まだ……』と切なげに瞳が潤んだ。
「明日もまたやろうな」
 笑いながらグローブを外してやる。彼女はそれを受け取ると、足元に置いていた学校指定の鞄と一緒にきゅっと抱きしめた。可愛い、自然にそう思える。愛しいとも思う。
 ブレザーの内側のか細い腕を掴むと、彼女が瞳を閉じたのが分かった。グローブをつけたままの右手を肩に添えて、そっと唇を重ねる。
「送ってく」
 時間にしては1秒に満たないそれに慣れてしまった自分に、沢村は驚いた。それはもっと特別なものだと思っていたのに、回数を重ねるごとに弾けそうな胸の鼓動もカッと燃えるような肌の昂りも次第に穏やかになっていった。いつか体を重ねる日がきても、それは同じなのだろうか。
「栄純くん……?」
「あ、悪い」
 はっと顔を上げると、彼女は少し離れていたところに停めていた自転車に跨っていた。
「おしっ」
 河川敷でキャッチボールをして、それが終われば彼女の家まで走る。それが最近の沢村の日課だった。学校から河川敷まで、それから河川敷から彼女の家までは自転車をのんびり漕いで10分程だ。帰りもあるので体が衰えない程度には走ることが出来る。走っている間はほとんど会話することも出来ないのに文句の1つも漏らさない彼女にはいつも感謝していた。『野球のために頑張ってる栄純くんが好き』と彼女は言う。その言葉のどこまでが真実なのか、沢村には分からないが、そう言ってくれる彼女のことは好きだと思える。
 いつもと同じくらいの時間をかけて彼女の家にたどり着くと、スーツ姿の彼女の父親がとば口に立っていた。ちょうど会社から帰ってきたところのようだ。高校野球の大ファンだというその人は沢村のこともよく知っているらしく、まだ交際を始めたところだというのに顔を合わせるたびに夕餉に招こうする。それは今日も例外ではなかったが寮で夕食が出るのを言い訳に断った。彼女の両親のことが苦手なわけではなかったが、家に上り込むのはまだ早いような気がしていた。
 当人以上に残念がる父親と、彼女に手を振って帰路を走り出す。辺りはすっかり暗くなっているので、車避けのためにライトを灯した。いつもより長めに走ろう、そう考えながら無心に走って、不意に足を止めると、青心寮とは正反対の方角に抜けていた。御幸の家のある方角だ。
 御幸に食事を作ってもらっていた頃、彼の家に1度走って行ったことがある。大学の近くにある御幸の家は、電車に乗ればすぐなのに走ると案外遠くて、たどり着いたころには食事の用意もとっくに終わっていて呆れられた。『汗臭い』そう言って投げられたタオルは柔軟剤の匂いがした。ここはその時に通った道だ。
 『御幸先輩にボールを受けてもらいたい』都合のいい感情が表出してきて、頭を振った。彼女に向かってボールを投げるたび、御幸の構えたミットにボールを投げ込む感覚を思い出して胸が泡立つ。力いっぱいにボールを投げたい。好きなようにリードされたい。投手としての沢村は、誰よりも御幸一也を求めていた。だけれどもう、それは叶わないことなのかもしれない。
 今度こそ寮に向かって、未練を断ち切るようにまた走り出す。今はまだ御幸には会えない。今顔を合わせると今度こそ声をあげて泣いてしまいそうな気がする。
 彼女と唇を重ねるたび、あの日の御幸一也の唇の感触が脳裏によぎる。男同士だから気持ち悪いとか、そういう風に思ったわけではないが、好きだと言われたことを思い出すと、痛いくらいの喪失感が体に襲いかかってくる。
 キャプテンをやっていたくせに、御幸が人付き合いがあまり好きじゃないことは知っていた。そんな彼が自分をわざわざ同じ大学に誘ってくれたのだ。それは自分の放る球を認めてくれたからだと思っていた。他の投手じゃなくて自分を誘ったのは、自分の投球が好きだからだと思うと言葉を失うほどに嬉しかった。
 沢村は御幸のリードに惚れて上京することを決めたのだ。『あと三年間お前の球を受けたい』という殺し文句は、投手の沢村の心を逆に打ち取ったと言っても良かった。東京に来て、野球を続けて来て良かったと、あの日以上に思った日はない。
 だからこそあの日の告白は、沢村から全てを奪い去っていったのだ。投手としての自信、御幸との間に培ってきていた信頼関係、これ以上ないほどに野球に打ち込んできた上京してからの毎日、それらの全てが『好きだ』の一言で押し流されていった。
 御幸一也が降谷ではなく沢村を同じ大学に誘ったのは、投手としての彼を認めたからではなかったのだ。好きだから手元に置いておきたかった−−ただそれだけ。キスをされた瞬間にそのことを理解して吐き気がした。信じていた、尊敬していた分、恨めしく感じられた。
 それでも、連絡も取らず顔を合わせることもなく過ごしている内、少しは心も晴れてきた。あんな風に部屋を飛び出したまま音沙汰もなしでは、残された御幸は自分以上に苦しんでいるだろう。沢村とて、御幸のことを真に憎いと思っているわけではない。
 自分を好きだという彼の気持ちは改めて欲しいと思う。恋愛対象としてじゃなく、投手としての沢村英純を求めてほしい。
 それが残酷な願いだというのは分かっていた。沢村は、野球選手としての、捕手としての御幸が欲しいだけだ。投手として甘い蜜を吸いながら、マウンドを降りたら彼の心には応えずに、可愛い女の子と野球とは関係のない付き合い方をしたい。旨い飯にはつられたが、それはきっと現役時代は皆のキャプテンだった御幸に選手として特別扱いされてるような気がしていい気分になっていただけだった。
 こんな自分を好きだなんて2度と言って欲しくない。

2
 汗だくになりながら寮に戻り、食堂の入り口から中を覗くと引退した3年生達の大半は食事を終えているようだった。2年と1年は練習が長引いたらしく、目の前の食事を一心不乱にかきこんでいる。食器と箸がかち合う音は、これだけの人数が集まると存外にうるさい。
 帰りが遅くなった手前目立たないようにしたかったが、同輩がそれを見逃してくれるはずもなく、『遅すぎるぞ、何してたんだ』と肩を叩かれた。振り返ると、仏頂面の金丸が立っている。
「飴玉で歯を磨いたような……苦すぎる茶で顔を洗ったような……」
 可愛い恋人の顔と悩みのタネの男の顔が交互に浮かんだ。
「どうせデートだろ。浮かれまくってるくせに変な誤魔化し方すんな」
「おーしおしおし」
 彼女とのデートで溜め込んだ浮かれゲージも、御幸のことを考えると殆ど消滅していたが、『御幸先輩に告白されて悩んでる』そんなことを言うわけにもいかないので、誤魔化すように鼻息を荒くした。
「ワムーラのくせに……」
「この優しさ包容力そして絶対的エースの貫禄、」
「彼女出来たからって調子乗んなよウゼー……まあ最近物騒だから帰りに送ってやるなとは言わねえけど」
「物騒?」
「最近出るらしいぞ、露出狂」
「ロシュツキョー」
「夜道を歩いてる女の前に出ていってコートをバッとはぐったら素っ裸……みたいな古典的なやつが出るって、うちの生徒も何人かやられたらしいぞ。朝礼でもその話してたの聞いてなかったのか」
「なんと」
「それ以上の被害は出てないらしいけど、気をつけてやれよ」
 薄暗い河川敷、スカートをはためかせ自転車を漕ぐ恋人、土手の下から走り出すコートの男、彼女の目の前にさらけ出される男の下半身、想像しただけでゾッとする。
「なんでそんなことするんだろうな」
「女の反応みて興奮するんじゃね」
「変なの。女の子の裸見て喜ぶなら分かるけど、裸見せたいか」
「俺に変態の心境を聞くなよ」
 金丸はげんなりしながら、『さっさとメシ食え』と沢村の背中を押した。鼻腔を独特の甘酸っぱい匂いがくすぐる。今日のメニューは酢豚のようだ。
「さっさと食って風呂行くぞ。こいつらと時間がカブったら厄介だ」
「待っててくれるのか、カネマール」
「風呂の後東条とスマブラする約束してるからお前もこいよ」
 コクリと頷きながら、皿に盛られていく酢豚を眺める。入寮してから3年弱、寮の夕食で酢豚が出たのは全部で3回くらいだっただろうか。登場頻度が高いとは言えないくせに、最後に口にしたのはわりと最近だった気がした。
 寮で出されるそれは、豚肉の他にピーマン、にんじん、玉ねぎの入ったオーソドックスな物だった。パイナップルが入っていないと不満げにしていたのが降谷とたしかもう1人。そこから酢豚にパイナップルを入れるのはアリかナシか、それがアリならサラダにオレンジ、カレーにレーズンはどうなのかという論争が起きたことを思い出す。倉持や前園が特別大きな声でパイナップル不要論を唱えていたから、あれは少なくとも1年は前のことだろう。
 実家の酢豚にはパイナップルどころか、冬場はピーマンすら入らないこともあったが、沢村はパイナップル入りの酢豚が嫌いではない。入っていないと嫌だとまでは言わないがむしろ好きな部類だ。
 たしか最後に食べた酢豚にはパイナップルが入っていた。それが美味しかったからパイナップル入りの酢豚が好きになったのだ。降谷ともう1人、パイナップル入りの酢豚派だったのは御幸だ。御幸の一人暮らしの部屋でパイナップル入りの酢豚を振る舞われた。
「……美味い」
 だけど御幸の作ったそれはもっと美味しかった気がした。気を抜くとすぐに御幸のことを考えてしまう。恋愛対象としては見ることが出来なくても、あの場所が沢村にらとって居心地のいい空間だったことは確かだ。
「カネマール卒業した先輩の家に行ったことあるか。樋笠先輩とか」
「はあ? あるわけないだろ。なんで樋笠先輩なんだよ」
「ポジション一緒だったから」
「いやいや、行かねーわ。もちろん尊敬してるけど、家に行くのはこええ」
「じゃあいつか一人暮らしするとして、瀬戸を部屋に呼ぶか」
 今度は引退まで金丸と同じ部屋で過ごしていた後輩の名前を挙げてみる。
「呼ばねー大体せっかく手に入れた自分の城に誰かれ構わず上げたくねぇよ。東条くらいならいいけどな」
 会話はそこで打ち切られた。遠慮なく浴びせられる金丸の視線は、『無駄口を叩かずにさっさと食え』とでも言っているようだ。最後に残しておいた豚肉と共に、ご飯粒をひと粒残らずかきこんで、『ごちそうさまっ』と立ち上がった。
 風呂の支度は金丸もまだ出来ていないようだったので連れ立って部屋に戻りながら、御幸のことを思い浮かべた。
 きっと御幸も金丸と同じで、誰かれ構わず部屋に上げるタイプではないだろう。気安く見えても特別に親密な相手は作らない人だった。倉持あたりなら部屋に上げることもあるだろうが、後輩の中にそれを許す相手がいるとは思えない。やっぱり自分は“特別”だったのだ。
 二重瞼に縁取られた目、凛々しく整った眉、スッと通った鼻筋、時たま軽薄げに歪む口元、時に妬みの対象にすらなっていた御幸の顔を思い出す。御幸がまだ在学していたころクラスメートから御幸宛てのチョコレートや手紙を預かったことも何度もあった。御幸のような人間が、どうして自分を好きになったのか、ほとほと理解できない。
 沢村が御幸のことを考えている内に金丸は風呂の準備を終えていたらしく『早くしろっ』と頭を小突かれた。

3
 金丸から変質者の噂を聞いた翌日から、彼女とのキャッチボールは中断している。変質者に関しては自分が送って帰るのであまり心配していなかったが、日が落ちるのが随分と早くなってきていたし、夜の冷えも本格化してきていたので彼女をあまり遅くまで連れまわすわけにもいかない。
 ボール投げることがなくなると、御幸のことを考えることもめっきり少なくなった。今はそれでいいのだと思う。御幸から告白をされたからといって、彼と同じ大学に進学するのをやめたわけではない。この問題に向き合うのは大学に入学してからでも遅くはないだろう。
 冷たい風が頬を撫でる。公園の街灯の光がカーテンのようにベンチに座る2人を包み込んでいた。
 公園への寄り道を提案したのは彼女の方だ。最近2人きりになれる時間が少ないからと、寂しげに俯く恋人の言葉を無視出来るほど沢村は理性的ではない。
 2人の関係はプラトニックに過ぎた。先日初めて彼女の部屋に上がったが、それは彼女の両親が在宅のタイミングのことだったし、学校の帰りに寄り道をしても、帰りが6時半を過ぎることはまずない。彼女は推薦ですでに大学が決まっているので2人で過ごす時間は充分にあったが、今以上の関係に踏み切ろうとは思えなかった。今はまだそのときではないと思う。好きだからこそ大切にしたい。2人で並んで座っているだけで幸せだと思えるこの時間を。
「寒いか」
「えっ全然大丈夫」
 彼女は焦ったように手を振って否定するが、制服のスカートの内側の白い足が小刻みに震えていた。太ももに触れるわけにもいかないので、ブンブンと振り回している手を捕まえて握り込むと驚くほどに冷い。『やっぱり』と沢村が見つめると、彼女はまた俯いた。
「もう少し一緒にいたい……」
 小さな声で呟く。本当なら今すぐにでも送って帰り暖を取らせてやりたかったが、彼女がそれを望んでいないことは明らかだった。沢村自身も出来ることならもう少し2人で肩を寄せ合っていたい。
「待ってろよ」
 ブレザーのジャケットをひとまず脱いで彼女の足にかけて走り出す。公園の入り口傍には自動販売機がある。あっという間にそこまでたどり着くと500円玉を入れてコーンスープのボタンを押した。ガタンという音がしてしゃがみこんでそれに手を伸ばす。もう1つはホットココアにしようかと考えていると、その声は聞こえた。
「キャー」
 体から押し出したような悲鳴。間違いなく彼女の声だった。慌ててコーンスープを握りこんで踵を返す。ちょうど遊具と木が衝立になっていて、自販機の位置からは彼女の姿は確認できない。金丸の話していた変質者の姿を思い浮かべた。
 ようやく彼女の姿を視界に捉えたとき、彼女の傍には男の姿があった。頭にカッと血が上って、コーンスープの缶を力一杯投げつける。多少距離はあったもののそれは怪しい男の背中に直撃……と見せかけて、公園の地面に叩きつけられた。
「ノーコン」
 振り返った男が呆れたように口を開いた。
「御幸先輩……」
 野球ボール以外のものは投げにくいのだと言い訳する気にもなれず、沢村は俯いた。彼女は沢村のブレザーを抱いて立ち尽くしている。そこから更に奥へ15メートルほど離れたところでコートの裾から尻を半分露出させた男が倒れ込んでいた。その傍にはボールが1つ転がっている。
「御幸先輩が助けてくれたんだよ」
 1年生の時に既に沢村に目をつけていただけあって彼女は野球部のことをよく知っている。御幸先輩のファンなのだという話を聞いたこともある気がした。
「青心寮に顔出そうとして通りがかったところに悲鳴が聞こえて、見てみたら尻餅ついたお前の“彼女”の目の前にフルチンの男がいたんだよ。ヤベェだろ」
「それでボール投げて撃退っスか」
 正義の味方かよ、とひとりごちる。投げたボールは彼女が鞄に入れていたものだったらしい。彼女は恐る恐るそれを拾い上げてこちらへ駆けてきた。そうして2人の目の前にたどり着くと、御幸の方へ向き直って『これにサインしてください』とこうべを垂れる。
「えっ……変態に当たったボールだけどいいの」
「ちょっと気味が悪いけど……私の父、すごい野球ファンで御幸先輩のこと応援してるんです。助けてもらった上に厚かましいと思いますがお願いします」
 気がつけば彼女は、筆箱からサインペンまで取り出している。プロ入りを蹴って大学野球の道へ進んだとはいえ御幸は高校野球のファンの間ではそれなりに有名人だ。そんな御幸でもサインを頼まれたことはあまりないのだろう。戸惑った様子でボールにペンを走らせている。それでも真剣な横顔は相変わらず端正で、引き結ばれた唇を見るとどうしてもあの日のことを思い出してしまう。
 舌の置き所を忘れてしまうほどに鮮烈なキスの思い出。思いもよらない再会が沢村に動揺を誘った。久々の再会に御幸は今なにを思っているのだろう。
 何も知らない恋人の前で、表面上だけでも平静を保ちながら『良かったな』と声をかける。御幸の傍ではにかんだ彼女は相変わらず可愛くて、街灯が浮かび上がらせた2人の姿は自分と並んでいるときよりも似合いに見えた。
「とりあえず通報だな」
「あっ俺が」
「お前は状況よく分かってないだろ」
「でも先輩急ぐんじゃ」
「急いでたらこんな微妙に遠回りしねぇよ。少し考えごとがあって、」
「もしもし」
 押し問答になり始めた俺たちを無視して彼女はスマホに耳を押し当てている。どうやら相手は警察のようだ。そこにきてようやく犯人が逃げ出さないように取り押さえておく必要があることに気がついた。
 御幸も同じことを考えたらしく、犯人の腰のあたりを地面に縫うように押さえつけている。手持ち無沙汰の沢村もそれに倣って肩を押さえつけた。
「俺1人で充分なのに」
「でしょうね」
 元々体格の良かった御幸だが、大学に入学してから更に筋肉が増しているように見える。大人の男1人を地面に縫い止める力があることは当の沢村が1番よく知っていた。あの日押さえつけられた肩が熱を孕む。
「あれがお前の彼女か、可愛いじゃん」
 吐き出された言葉には棘が混じっている。顔を上げて御幸の表情を確認するのが恐ろしくて、沢村はじっと犯人の外套の縫い目を見つめていた。
「彼女を助けてもらってありがとうございます」
「いつから付き合ってんの」
「最後に先輩にあったとき、告白受けてみるって言ったじゃないスか。あのあとすぐに」
 神経を逆撫でするような言い回しに自分で驚いた。自分で尋ねておいて『ふぅん』とつまらなそうな溜息を御幸は漏らす。意を決して顔を上げると、自分と同じように俯いていると思っていた御幸の視線は、こちらに向かってしっかりと注がれていた。
「なんだよ」
 険がある物言い。あの日以来連絡していなかったのだ。御幸は怒っているのかもしれない。
「あの日はすんませんでした。いきなり帰っちゃって……」
 御幸は1つ瞬きをしただけで何も言わない。居たたまれなくなって彼女へ視線を移すと、未だに何か話し込んでいた。表情が柔らかいので、警察への通報は終わって、家に電話をかけているのかもしれない。
「怒ってますよね」
「俺が?」
「はい」
「なんで」
 あまりにつっけんどんに言うので、1度は下手に出ようとしていた気持ちが萎えてきた。1つ年上の男が途端にガキ臭く見えてくる。
「俺にフラれたくらいでスネないでくださいよ。他にいくらでもアンタのこと好きになってくれる女の子はいるでしょ」
 彼女に聞かれないように声のボリュームを落として言ったが、押さえつけている男には聞こえてしまったかもしれない。
「スネてねぇし、俺がいつお前にフラれたよ」
「ぐっ……」
 確かにはっきりと拒絶の言葉を吐いたわけでもなく、『帰ります』と家を飛び出していっただけだが、自分の中では気持ちには応えられないという意味の行動だったし、御幸だってそのことは分かっているはずだった。
 これ以上不毛なやりとりをしたくない。げんなりして俯いたタイミングで警官が到着した。若い警察官が『お手柄ですね』と御幸の肩を叩いた。露出狂は現行犯以外では検挙することが出来ないらしい。
 フルチンの犯人が警官の持っていた毛布のようなもので下半身を隠されてパトカーに連行されていく。俺は地面に転がったコーンポタージュの缶を拭って暖をとらせるために彼女に手渡した。情けない犯人の後ろ姿を眺めながら、どうせなら暖かい時期にやればいいのにと的外れなことを考える。
 簡単な事情聴取が終わりかけた頃、車に乗った彼女の母親が現れたのでその日はそのまま寮に帰ることにした。同じく寮に用事があるという御幸と歩を並べると先程の男の大人げない態度が思い出されて腹が立ってきたが、これ以上話を蒸し返すのも嫌で沢村はじっと黙っていた。
「いつもうるせぇくせにこういう時は黙るのな、お前」
「喧嘩みたいになって、やりにくくなるの嫌なんで」
 先ほどまでよりはいくらか険のとれた言葉に油断して口を開くと『やりにくくなるって』と尋ねられた。
「大学入ってからこういうプライベートのことでお互いのプレイに影響出たら嫌だ。バッテリー組んでる間だけでも上手くやらせてくだせぇ」
 少しだけ前を歩いていた御幸が歩みを止める。振り返った男の、形の良い唇がぽかんと開かれているのを沢村は見据えた。
「お前うちの大学に来んの」
「は」
 この男は何を言っているのだろうか。同じ大学に来いよと、沢村を誘ったのは他ならぬ御幸のはずだ。
「あんなことがあったのに」
 さっきは『俺がいつお前にフラれたよ』なんて言っていた口でよくもそんなことが言えたものだ。そもそも沢村はあの日の時点で既に大学のアスリート選抜入試を受験していたし、現在では合格通知も発表されている。
「合格もしてるんです。今更やめるわけねぇでしょ」
「お前の頭じゃ今更一般入試で大学行くのなんて無理だしな」
「……まあそうですね」
 あの日御幸の気持ちを知って、投手としての力が認められて同じ大学に誘ってくれたわけでないと分かったときにはショックだった。そのせいで大学入学後の生活について以前程明るい展望を持つことは出来なくなっている。それでもやはり沢村は捕手御幸一也を尊敬していたし、またバッテリーを組めるならそれ以上に嬉しいことはない。だけどそれを言うのは癪なので『2月からは練習にも参加しますからね』と言って、立ち尽くす御幸を追い抜かすように再び歩き始めた。
「待ってる」
 背中に飛んできた声が今日1番に優しかったので沢村は思わず振り返った。御幸は沢村に追い抜かされた地点から一歩も動いていない。
「寮に行くんじゃ」
「理由なくなったからいーわ」
「はあ」
「俺のせいでお前が進路に悩んでたらヤベェなあと思って、あの日のことは忘れてうちに来いよって言いにいくつもりだった」
 そう言ってニヤリと上げられた口角を見ると肩の力が抜けた。気まずいままの関係が続くことに自分が強い不安を覚えていたことに今更気が付く。
「練習待ってる」
 ヒラヒラと手を振りながら、御幸の背中が遠ざかっていく。手のひらに爪の跡がついてしまいそうなほどに強く拳を握りこんで、沢村はその後ろ姿をいつまでも見つめていた。

back

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -