鱗を捨てて1

1

 高校2年生の2学期の始め、沢村が女子生徒に告白されるのを見たことがある。
 ショートカットの艶やかな髪を持つ、小柄で、しかしハツラツとした印象の女の子だった。10人が見れば8人が可愛いと感じるような顔立ちをしていて、事実告白を受けた沢村は満更でもなさそうな顔をしていた。
その日、朝練中の沢村がオーバーワーク気味に見えた俺は、柄にもなくそのことが妙に気にかかって『体壊したら元も子もねぇぞ』と、先輩くさした言葉をかけようと1年の教室に向かっていた。告白の執行現場は階段の踊り場、沢村のクラスメイトや、彼女の友人だろうか、階段の手すりを挟んだ裏側には大勢の野次馬が集まっていた。彼女自身もそれに気づいていなかったはずはなかったから、その大胆さには舌を巻く。盗み聞きをするつもりもなかったが、前に出ることも後ろに引くことも出来なくなった俺は、野次馬達の『御幸先輩だ……』という視線を無視して、2人のやりとりに耳を傾けた。
 彼女は元々野球が好きで、しかしマネージャーになる自信はなかったのでいつも野球部の練習を見物していたらしい。試合に出られるかどうかも分からないのに一際がむしゃらに走り込みを続ける沢村を、いつしか目で追うようになったという。夏の大会の応援にも何度も足を運び、沢村が抑えとして登板した最初の試合では思わず涙を流してしまったと……野球が何より優先でもいいから付き合ってほしい。そんな告白だった。『これ上手くいくんじゃね』という声が野次馬の1人から漏れる。確かに、告白と同時に野球への熱量を認められた沢村の頬は上気しているように見えた。面白くねぇな、そんな感情が胸の内に浮かび上がったのはその瞬間だ。いまだ未熟な後輩が女にモテていることを妬むほどモテない訳じゃなかった。自分は野球に打ち込みたいのを理由に告白を断り続けてきていたが、他の部員に同じことを要求するほど頭の固いキャプテンじゃない。それなのに、沢村が交際に応じるかもしれないと考えると嫌悪感に似た強い感情が湧き上がる。……なんだこれ、沢村のことなんてどうだっていいだろ。自分の感情を制して、その場を離れようとするが上手くいかない。気分の悪さを感じつつも、沢村が口を開くのをその場で待ち続けた。
「野球してるとこ、見てくれてありがとな」
 沢村は、まずそう言って頭を小さく下げた。自分の頑張りを認めてくれる人間がいることが嬉しいと、言葉を連ねる。
「だけど今はエースになること以外考えらねーから」
 そう結んで申し訳なさげにもう一度頭を下げる。次に顔を上げた時にはもう笑顔だった。
「俺、絶対エースになるから! 野球してる俺をこれからも見ててくれ!」
 ビシッと親指を立てる沢村に、フラれてしまったにも関わらず彼女は笑顔を向けた。
「沢村くんのそういうとこ好きだな」
「なななな!」
 彼女の素直で一途な言葉が心に沁みたのか、沢村は顔を真っ赤にした。『またね』と去っていく彼女の後ろ姿を、やや名残惜しそうに見つめている。
 流石に出づらいな……俺は沢村に声をかけるのはやめて2年生の教室に戻ることにした。赤く染まった沢村の耳の色が脳裏に焼き付いて、その日は1日授業に身が入らなかった。
 ショートカットの彼女は先見の明があったと言わざるを得ないが、秋大が始まって以降は登板の機会が増えた沢村を、女子達は見逃さなかった。あの日の告白劇きっかけで口火が切られたように、沢村が告白されたという噂を耳にすることが増えた。倉持はなんで沢村のヤローがや! と、喚いていたが、俺はそんな風には思わなかった。美形というのとは少し違うが、沢村は案外可愛い顔をしていたし、明るく人懐っこい性格は人好きがするだろう。何より、マウンドに立つ沢村には、何かをしでかしてくれそうな輝きがある。見ていて飽きない男だから、人気が出るのも仕方がない。そうは思いつつ、沢村が告白をされたという噂を聞くたびに面白くないと感じてしまうのは俺も同じだった。そしてその感情は日に日に強まり、沢村がその告白を断ったと聞くたびに安堵するようにまでなった。同じような降谷の話を聞いてもそんな感情の流れは生まれないから、ここまでくるとスカしの俺も沢村に対する自分の感情を自覚した。
(俺は、沢村が好きだ)
 自覚してからはむしろ気が楽になった。沢村が告白をされて嫌な気持ちになる理由が分からないうちは、自分が後輩を妬むような器の小さな人間だったかと頭を悩ませることもあったからだ。
 好きになった相手が異性であろうと同性であろうと、それを周りに相談するようなタイプでもないし、好意を寄せている相手がいるとしても自分にとって何よりも優先すべきことが野球だということは変わらない。ただ、自分が捕手で、好きな相手が投手だという事実には少なからず心を揉んだ。好きだからといって特別扱いをしてはいけない。俺はキャプテンだから尚更だった。降谷やノリよりも沢村に厳しくしてしまうことも次第に増えていった。それでも沢村は、不思議と俺に懐いていた。
 時々先輩をつけるのを忘れてフルネームで呼ばれる。ほとんど敬語とは呼べない砕けた口調で軽口を叩かれる。俺に自分の球を認めさせたいとこぼす−−その纏わり付くような態度は、クリス先輩に対するそれとも、倉持に対するそれとも違って感じられて俺は自惚れた。それがすべての間違いの始まりだった。
「お前俺と同じ大学に来てもいいぞ」
 自分たちの代の引退試合の日、俺は沢村をブルペンに呼び出してそう言った。
「はぁ! なんでそんな上から目線なんスか」
「俺の方がエライから」
「なっ……」
「あと3年間お前の球を受けたいって言ってるんだよ」
 今までで一番素直な言葉だった。好きだから手元に置いておきたい、同じ大学に行きたいというのも勿論あるが、俺は投手としての沢村の力を誰よりも買っていた。
 その時の沢村が何と返事をしたのかはよく覚えていない。口元が緩むのを必死にこらえて目を細める姿が可愛くて、『変な顔』とひたいを小突いた。

2
 沢村のいない大学での生活は存外早足に過ぎていった。休日もなく大学とアパートを往復するだけの毎日が続いて、近頃は授業中に眠ってしまうこともある。大学には実家から通うことも出来たが、父は通学にかける時間でもっと練習出来るだろうと大学に近いワンルームのマンションを借りてくれた。結局高校入学後、2人で暮らしたのは3年の夏の甲子園引退後の半年間だけだったが、どのみち男同士だ。一緒に暮らしたところで必要以上に心が通いあうこともない。練習時間を捻出させるためにアパートを借りてくれたぐらいだから、四年後プロになるのが何よりも親孝行になるだろう。
 あいつの前では、いつでも不遜な御幸先輩でいたかったからなんとしてでも正捕手の座を射止めたかった。幸いにも俺の通う大学の野球部には特別優秀な捕手は在籍していないから、順当にいけば沢村の入学までにその目標は成し遂げられそうだ。むしろ厚いのは投手陣の層の方で、仮に俺が正捕手になることが出来ても沢村とバッテリーを組むことが出来るかどうかは微妙なところだった。高校生の頃はそうもいかなかったが、大学では少しくらいあいつを特別扱いしてやりたい。あいつを一流のピッチャーに育て上げたのは俺だ、と自信を持って言えるような関係になりたかった。
 野球と沢村のことしか頭にないわりに、高校を卒業して以降沢村との関わりはぷっつりと途切れている。沢村のメールアドレスと電話番号は一応知っていたが、メールはアドレスを交換したときに1度やりとりをしたきり、通話にいたっては1度もしたことがない。向こうがスマホに買い替えたであろうタイミングで、ラインのメンバーにも追加されたが、ときたまアイコンが変わるのを確認するだけだった。流石にこれはまずい。沢村は馬鹿だから、俺の存在を忘れてしまうのではないかとすら思う。何より俺があいつの声を聞きたい、あいつの顔が見たい。渇望感に苛まれた俺は甲子園出場校を決める夏の都大会決勝に足を向けた。
 数ヶ月見なかっただけなのに、エースナンバーを背負ってマウンドに上がる沢村の顔つきは以前よりもずっと大人びて見えた。観客席からでも球のキレ、球威が増しているのが見て取れる。その球を受けているのが俺じゃなく奥村だということに嫉妬した。早く、またあいつの球を受けたい。沢村を求める気持ちがより一層強まって、俺は自然と声をあげてあいつを応援していた。
 その日の試合沢村は7回までを投げて無失点、降谷が残りの回を抑えて試合は青道の優勝で幕を閉じた。試合を終えたあいつの顔をもっと近くで見たかったが、そのまま帰宅した。準々決勝以降の試合はテレビで放送されていたのを録画している。家に帰ってあいつのピッチングを改めて見たかった。道すがら、つと今日のあいつのマウンド上での堂々とした姿を胸に思い描く。去年までの沢村ならともかく、今の沢村なら多方面の大学から誘いが来るだろう。プロからの指名がくる可能性だってなくはない。あいつは、卒業して以降1度も連絡もよこさない俺との約束を守るだろうか。いや、そもそも覚えているのか。
 ワンルームのアパートに戻り、遮光カーテンを開く。眩い夏の日差しが、部屋に差し込んで思わず目を細めた。枕元に置いたリモコンでエアコンのスイッチを入れると、静かな作動音が鼓膜を震わせたが、数秒後にはテレビの音にかき消される。部屋が冷えるのにはさして時間がかからなかった。テレビは実家の自分の部屋から持ってきた古い型の物だが、エアコンは春に買ったばかりの新品だ。新しい物の方が電気代が安くつくからと、父親が買ってくれた。子供の頃は扇風機だけで夏を耐え忍ぶことも出来たが、今は絶対に無理だ。外で練習をしているから、暑さには強いはずなのに部屋の中が暑いのはどうにも苦しい。
 パックのアイスコーヒーを氷の入ったグラスに注いで喉を潤していると、マナーモードにしていたスマホがバイブした。ラインにメッセージがきている。入力切替のボタンを押して、ハードディスクを開きながらアプリを確認する。
『甲子園での活躍見てろよ!』
「前振りもなくこれだけかよ」
 口元が緩む。優勝が嬉しくて、知ってる相手に片っ端から送っているだけかもしれないが、それでも嬉しかった。おめでとう、素直にそう打ちかけて、1度削除する。
『敬語はどうしたんだ。今日の球、甘いとこに入ったのもあったぞ』
 そう送って、スマホを置こうとしたが、すぐに既読がついたので返信を待つ。1分と経たない内に、それは届いた。
『優勝のこと早く伝えたかったんで許してつかぁさい! てか、試合テレビで見てたんスか』
 何ヶ月もの間一切関わりがなかったのに、少しも変わらない調子で距離を詰めてくるのがあいつらしくて嬉しい。
『会場で見てた。今日は暑いからしっかり水分取れよ』
『見てたならなんで後輩を労いにこない』
『どうせ人多いだろ。面倒でな』
 1度直接顔を合わせたら時々試合を見に行く程度では気が済まなくなる気がした。それに女子のファンに黄色い声援を浴びせられるあいつを見るのも嫌だった。
 そこからしばらく返事は途絶えたが、また夜になると返ってきた。即レスしすぎて暇な奴だと思われるのもシャクだったから、間を空けて少しずつ返信していたら、それが逆に良かったのか1週間、2週間と途切れることなくやりとりは続いていった。甲子園を終えてもそれは途切れず、いよいも沢村が進路を決める時期が近づいてきた。
 降谷はともかくとして、沢村を指名した物好きな球団があるらしい。そんな話を俺の耳に入れてきたのは久々に顔を合わせた倉持だった。『アイツには打力が足りねぇよ』とこぼしつつも、目をかけていた後輩が認められたのが嬉しいという気持ちが伝わってくる。大学生の多く集まる大衆居酒屋で、酒も飲めない俺たちはジンジャーエールを酌み交わしていた。沢村を指名したのは1球団だけらしいが、そこの球団の捕手は実力があって、投手の沢村にとっては悪い話じゃない。高校卒業後すぐにプロ入りするようなことになれば、あいつの長野の家族もきっと喜ぶ。
「あいつは大学で経験を積んでからプロ入りした方がいい」
 俺の言葉に混ざったエゴに倉持は気づいていないようだった。確かにそうかもな、と呟きながら塩焼きのせせりを歯で挟んで串から剥ぎ取る。俺自身もプロ入りの道を蹴って学生野球の道を選んだ口だ。今のあいつが球団に入っても二軍で埋もれたまま浮かび上がってこれないのではと思ってしまうのも事実だった。
「アイツ入学して早々エースになるって言ったよな」
「面白い奴だって思ったよ、俺は」
「ヒャハ、そう思ってたのはお前だけじゃね。あの時はみんなバカだと思ったと思うぜ」
「そうかもな」
 俺は1年生の時、中学生だったあいつに初めて会った時から面白い奴だと思ってた。
「アイツはやるって言ったことはやる奴だ。だからプロになっても上手くやれるんじゃね」
「……っ」
 心の奥底では俺が言ってやりたかった台詞を倉持に吐かれて愕然とした。なんのかんの言っても、俺はあいつをまた自分の手元に置いておきたいだけだ。
「ま、俺たちが沢村の進路で気を揉む必要もねーけど!」
 そこで沢村の話題は打ち切られて、倉持が大学でも亮さんにやり込められている話を聞かされる。沢村とのメッセージのやりとりは、3日ほど前に向こうからとりとめのない内容のものが届いてこちらが途切れさせていた。
『俺との約束は気にせず好きな進路を選べよ』
 倉持の言葉にテキトーな相槌を打ちながらそこまで打つ。いや、これじゃむしろ俺が滅茶苦茶意識してるみたいだよな。沢村が俺との約束を覚えているのかも怪しいし……。スマホを伏せて置いて、頭を抱えているとカウンターの上でそれがバイブした。さっきの文章間違えて送ってたか? ロックを解除して画面に目を通すと、こちらからのメッセージは打ちかけのまま送信されていなかったが、沢村から連投でメッセージが届いていた。
『今度御幸先輩の学校に見学に行ってもいいですか?』


3
「早くここでアンタに球を受けてもらいてぇです」
 大学の部活動見学の帰り道、沢村は瞳を輝かせながらそう言った。 すげぇ殺し文句……始めからそれ以外の道は考えていないみたいな、そんな言い方だ。こいつを同じ大学に誘ったのは自分なのに、そんなに簡単に進路を決めていいのかと言いたくなる。
「降谷はプロ行き決めてんだろ」
「そうみたいっスね。あいつならどこに行ってもやれると思いやすよ」
「ふぅん、随分素直なんだな」
「……まあ、3年間ライバルやってきたんで、多少は」
 拗ねているような、照れているような、悔しそうな顔。マウンド上でこそ大人びて見えたものの、半年ぶりに顔を合わせた沢村は以前となんら変わらず表情豊かだった。
「お前相変わらずあれ読んでるのか」
「なんスか」
「少女漫画だよ。よく読んでただろ」
「もちろん読んでますよ! 少女漫画は心の栄養剤っスから。最近は吉川が貸してくれやす」
「心の栄養剤って、お前って本当大袈裟な」
「いやいやそんなこともないんす。俺って長野から野球するために上京してきたんで、部活引退してからは体の持って行き場所がないような感じがして、走り込みとかはしてんですけど……」
「あんまり後輩が練習してるところに顔出すのも気が引けるんだろ」
「秋大に向かって新しいチームでまとまって行かなきゃいけねぇですから」
 じんわりと俯いた沢村の頬が夕日で赤く染まっていた。気がつけば大学の最寄駅にたどり着いて5分以上が経っている。なかなか駅に足を踏み入れないのは行き場のない静かな寂しさを吐露したいからなのだと思うと愛しい。
「俺も漫画貸してやろうか」
「御幸先輩はあんまり漫画読むイメージないっスけど、何を貸してくれるんで」
「タッチだ」
「えー」
 俺の言葉を聞いた沢村のテンションが見るからに落ち込んでいく。どうやらタッチはあまりお気に召さないらしい。
「なんで嫌がるんだよ、面白いんだぞ」
「子供のころ夏休みにアニメで見てましたけど、古いじゃないスか。あんま読む気しねー」
「そう言わず読んでみろって。なんなら今日貸してやろうか」
「持ってきてねーでしょ」
「今からうちに取りに来ればいいだろ。近いぞ。なんなら飯も食っていくか」
 しまった。久々に会えた沢村と別れるのが惜しくて、下心を出しすぎた。ガッツいててキモいとか、思われてねぇかな。
「メシ!」
 俯いていた沢村が顔を上げる。夕日とは無関係に、瞳が輝いていた。
「俺が作るよ」
「今更前言撤回してもおせーですからね!」
 可愛すぎて目眩がする。こんなに思惑通りに事が運んでいいのか。捕手特有の感情を読み取らせないポーカーフェイスを決め込みながらも、『俺の家あっち』としっかり連れ込みモードに切り替える。『メッシ、メッシ』とサッカー選手の名前を鼻歌交じりにこぼす沢村はスキップしながら俺の後をついてきていた。なんでこいつなこんなに無防備なんだ……いや、男同士だからまあ当然か。
 飯を食わせるとは言ったものの、突然のことで大した材料もなかったので焼うどんと油揚げの味噌汁、それから箸休めに大根とハムの酢の物だけの質素な食卓だったが、沢村は『ウマイウマイ』とがっついていた。お決まりのように青海苔を歯につけてニカッと笑う後輩の顔を見ていると、絶対にまた招こうという気持ちが生まれる。
「今度はもっと美味いもの食わせてやるよ」
「また来てもいいんですか!」
「1人分も2人分もそんなに変わらないからな」
「み、みみ御幸大明神様……!」
 今までで1番感謝してるじゃねえか……。まあいいけど、これからもちょくちょく会えるってことだしな。
「材料代は払わせてくだせえ」
「今日はいいよ。本当に大してかかってねえから」
「それならば次からは是非!」
 次もいい。断ろうと思ったが、案外義理堅いこいつのことだ、働いてもいない俺に毎回タダ飯を食わされるのは嫌だろう。最悪の場合気を使われてせっかく掴んだこの催しへの足が遠のく可能性すらある。
「じゃあ次からは材料費に関わらず500円な」
「安い! それじゃあ皿洗いは俺にお任せあれ!」
 そう言って立ち上がった沢村は、流しの前に立って蛇口をひねった。引き受けたわりにスポンジの扱いは不慣れなようでガタンガタンと食器の割れる寸前のような音が鳴り響いている。引退して部屋を移ったとはいえ、未だ寮暮らしの沢村に皿洗いのスキルが身についているわけもないが。溜息をつきつつ、2人きりで会う口実が出来たことが嬉しい。『皿割って手怪我したりするなよ』と背中に投げかけると、振り返った沢村は分かりやすくニヤついていた。
「この左手は先輩にとっても宝っスからね」
「調子乗んな。レギュラーにならないと、俺とバッテリーは組めねえぞ」
「そっちこそ! 俺にレギュラー先越されねぇようにしてくださいよ」
「あれ、言ってなかったか。秋からは俺が正捕手だぞ」
「な、ななな……! 一回生の分際で生意気な」
「自慢にならねぇけど、うちのチーム捕手の層が薄いんだわ」
「じゃあ俺も一回生の間に背番号1を……」
「うちの大学は11番がエースナンバーだけどな」
「なんかしまんねぇっスね」
 他愛もないやりとりを続けていると、高校時代に立ち返ったような気分にさせられる。むしろ練習以外で2人きりでこんなに長い時間を過ごしたのは初めてのことだった。
「皿洗えやした」
「サンキュ」
「じゃあそろそろ帰ります」
「これ持って帰れよ」
 紙袋につめたタッチを手渡すと、沢村は露骨にげんなりしながらそれを受け取った。……少女漫画好きなら好きそうなのにな。
「駅の方向分かるか」
「大丈夫っス」
 本当は駅まで送って行きたい。だけど男同士でそこまですると気味悪がられそうで言い出せなかった。
「それじゃあまた」
「待ってる」
 俺がその言葉にどれだけの熱量を込めたのか、振り向きもせずマンションの廊下を歩いていく沢村は想像もつかないだろう。小さくなっていく沢村の後ろ姿、これから幾度となくそれを見送ることが出来ると思うと気持ちが高揚する。跳ね回る心臓の鼓動と、けたたましく騒ぐ蝉の鳴き声を遮るように、俺は古びたマンションの重たい扉を閉めた。あいつの背中が見えなくなる前に視界を遮ったのは、先輩としてのせめてもの強がりだった。

4
 大学見学の日を境に、沢村は週に数回、俺の練習が遅くならない日はうちで夕食を食べるようになった。納豆以外の食べ物ならなんでも好きだという沢村は、食事を振る舞う相手としてはこれ以上なくやりやすい相手で、秋シーズンが始まり多忙な日々の息抜きがてらに俺はあいつを呼びつけている。沢村は俺の家に来ると近況を話さずにはいられないようで、金丸が学校に遅刻をして、部活を引退しているのに監督に怒鳴られたとか、この家に来る道すがら焼き芋の車を見つけて買いたくなったけど思いの外車が走る速度が早くて断念したとか、長野の実家のテレビが壊れたとか、大半は取り止めのない内容だったが、沢村が他の人間にはわざわざ言わないであろう話を俺にはしてくれるのが嬉しかった。
「そういえば吉川に借りた漫画読み終わったんで、タッチ読み始めましたよ」
「そういえば貸してたな」
「南ちゃんって酷くないスか」
「俺も中学生の時初めて漫画読んだ時思った」
「和也が可哀想です!」
 浅倉南には2つの夢がある。1つは甲子園に連れて行ってもらうこと、そしてもう1つは好きな男のお嫁さんになることだ。南ちゃんは、その2つの夢を幼馴染の双子の兄弟に託そうとする。野球部の期待の星である弟の和也には甲子園の夢を、幼い頃から自分が密かに想っている兄達也にはお嫁さんになる夢を。
「お前どこまで読んだの」
「……和也が死ぬ回」
 答えた沢村の目には涙が浮かんでいた。これだけ漫画のキャラクターに感情移入出来たら読むのも楽しいだろうな、と思う。
 南と達也の関係は、和也が死んでしまったことによって膠着状態に陥る。弟想いの達也は、大好きな南を和也に譲ろうとしていた。それほどまでに大切な弟に先立たれて、達也の中で自分が南を手に入れるわけにはいかないという想いが更に強まる。3人の関係の複雑さに子供のころアニメを見ていた俺は気がついていなかった。
「南ちゃんは、野球選手としての和也しか求めてねーでしょ。和也はあんなに南ちゃんのことが好きなのに酷くないっスか」
「カズヤカズヤ言うな」
 沢村にフルネームで呼ばれることはあっても、下の名前で呼ばれることはないから、自分のことじゃないと分かっていてもむず痒さを感じる。
「御幸先輩は同じカズヤとして和也の気持ちはよく分かるんじゃねぇですか」
「名前が一緒なのは関係ないだろ。俺は普通に達也に感情移入して読んでんの。また続き貸してやるからあーだのこーだの言うのは最後まで読んでからにしろよ」
「分かりやした」
「分かったなら早く飯食え。冷めるだろ」
 そう声をかけた次の瞬間には、沢村は俺の作った料理を口いっぱいに頬張って幸せそうな表情を浮かべている。今までと違って、捕手として球をとってやる以外でもこいつを喜ばせてやれることが嬉しい。寮では食事が出るはずなのにわざわざ500円を握りしめて俺の家に通うあたり、沢村はきっと俺と過ごす時間をそれなりに楽しみにしているのだようと思う。沢村の嬉しそうな顔を見ると心が癒されるし、もっといいリードを出来るキャッチャーにならないといけねえなと思える。俺は沢村のことが人間としても、投手としても好きでたまらない。
 沢村のことが好きだと自覚してから1度だけ、タッチを読み返したことがある。その時俺は初めて読んだ中学生の時とは違って、南を可哀想だと思った。南の『甲子園に連れてって』という言葉は和也、そして達也の放る球に得体の知れない力を与える。南の夢を叶えたい、その心が2人の球を強くする。だけど達也がいざ甲子園のマウンドに立った時、南は観客席で応援することしか出来ない。まあ別に一緒に野球したいわけじゃなかっただろうけど、捕手として好きな相手と一緒に甲子園に行ける俺からしたら不憫に感じた。それくらい、俺は沢村の球を受けるのが好きだった。
 沢村に自分の気持ちを打ち明けるつもりは今のところない。時たまこうして2人で食卓を囲んで、来年になればまた一緒に野球をすることが出来る。これ以上の関係を望んで、せっかく築きあげてきたものが崩れてしまったらと思うと恐ろしい。
「御幸先輩って彼女はいないんですか」
「は、なんで」
 俺の気持ちをつゆほども知らない沢村は『なんとなく』と呟いて下唇を前に出した。心なしかモジモジしているように見えるのは俺の勘違いだろうか。
「悔しいけどモテるじゃねぇですか。だからどうなのかと思いましてね」
 遠回しな言い方に、沢村も俺のことを少なからず想っているから恋人の存在が気になるのではないかと、馬鹿な期待がつのった。
「告白されてOKしたことはねえよ。ずっと野球のことしか考えてなかったし」
 沢村への気持ちを自覚するまでは本当にそういう理由で告白を断っていた。
「じゃあ参考になりませんね」
 浮かれた心を地に落とすには充分な言葉。それ以上言うな、そう思いながらも『なんだよ』と、続きを促す。
「俺1年生の夏休み明けに人生で初めて女子に告白されたんです」
 『知ってる。見てたし』とは流石に言えないので、『自慢かよ』と軽口を叩いてみる。なんとなく悪い予感しかしなくて、鎖骨の下にじんわりと汗が滲んだ。
「その時はまだエース目指してるのにインコースに投げ込めなくなってて、降谷に先越されて焦ってる時期で、彼女なんてとんでもないって思って断りました。だけどこの前その子に改めて告白されて、ずっと応援してたって言われました。エースになれたねって。俺のことずっと見ててくれたんだって思ったらめちゃくちゃ嬉しくなって……」
 これ以上は一言も聞きたくないのに、『お前がモテてる話なんか聞きたくねぇ』って倉持みたいなことを言えたら楽なのに、俺の口は心とは真逆に動いていた。
「嬉しくなって、なに?」
「告白受けてみようと思うんス。この2年半、俺のことを見てくれてた気持ちに応えてぇ」
 頭をハンマーで殴打されたような衝撃が走った。照れたような沢村の横顔を、理不尽に張り倒してやりたくなる。
「御幸先輩?」
 手のひらに爪の先が食い込むほど握りしめる俺の表情はよほど強張っていたのだろうか、沢村は不安げな顔をしてこちらを見つめていた。『ハラでもいてぇんですか』と的外れな心配までしている。馬鹿だけど忠義者の犬っころみたいな性格をしているのに、沢村の琥珀色の瞳は目尻がキュッと上がっていて猫のそれのような形をしている。意志の強そうなその瞳が俺は好きだった。
 好きだという気持ちを自覚したのはその女より少し遅れていても、この東京に捕手の俺よりも沢村を知っている人間はきっといない。
「お前は野球するために上京してきたんだろ」
「……そうですけど」
「女と付き合うためじゃない」
 無茶苦茶なことを言っている自覚はあった。この2年半一先ず野球をやりきった沢村が、引退後に恋愛をしたところで誰にも責められる謂れはない。
「だから1年生のときは断ったんじゃないですか。可愛い女子に告白されて正直嬉しかったけど、エースにもなってねぇ、甲子園に行ってねぇじゃわざわざ上京してきた意味ないから……だけど今は部活もしてないし、ずっと好きでいてくれたことを嬉しいって思った気持ちを大切にしたいんですよ。野球しながら友達を作るのはいいのに、野球しながら彼女を作るのはそんなにいけねえことっスか」
「駄目だ」
「なんで」
 拗ねたような目、噛み締められた唇は尖っている。ずっと好きだった。男同士だから気持ちが通じ合わないとは思えない。俺はきっと沢村が女だったら好きにならなかった。野球がなければ俺たちは出会えなかったし、俺がこいつを特別に思うこともなかっただろう。
 無性に沢村のことが欲しくなった。今までは捕手として沢村を支えることが出来ればそれでいいと思っていたのに。
 ストレスからか、カリカリと床を引っ掻く沢村の左手を掴んだ。力は込めない。何よりも大事な投手の利き手だ。人差し指の先に口付ける。そのまま体にのしかかって、グレーのラグに沢村を押し倒す。沢村は状況が飲み込めないのか、目を白黒させて口を半開きにしている。
「好きだ」
 シンプルな告白をして今度は唇にキスした。それ以上の言葉は思いつかない。
 唐突な告白を受けた沢村の目尻にはじわりと涙が滲んだ。元々涙もろい男だが、見たことのないような表情を浮かべている。沢村の表情は昔から雄弁だった。時折、普段はお喋りな口が閉ざされた時にはそれがさらに顕著になる。滲み出た涙に溶け出した感情が喜びではないことくらいはすぐに分かった。
 今ごろになって和也と自分が重なった。沢村は、野球選手としての、捕手としての俺が好きなだけだ。俺がかまえたグローブにボールを放るのが好きで、だけどきっと俺という人間自体には大した感情を抱いていない。
「悪い。今日は帰ってくれ」
 抑え込んでいた沢村の体を解放する。このまま帰せば、もう2度と顔を合わせることはないのかもしれない。それでもこの先口を開いた沢村が吐き出すであろう拒絶の言葉を受け止める自信がない。『俺も御幸先輩が好きです』なんて、都合のいい言葉が返ってくることがないのは分かっていたのに、俺の告白を聞くなり血色を失った沢村の顔を見たら苦いものが込み上げてきた。
「メシ美味かったっス」
 沢村はそれだけ言って逃げるように俺の部屋を後にした。ドアの閉まる鈍い音と、マンションの廊下を踏みしめる足音が鼓膜を震わせる。
 食卓に並んだ2人分の食器を見つめる。沢村のものには米粒のひと粒すら残っていなかった。自分のものの残りを口に含んだが思うように嚥下できない。
「500円貰いそこねた……」
 呟くとますます虚しくて、味噌汁を啜る。普段と同じように作ったはずなのにやけに塩っぱく感じられた。
 
back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -