雨音を好む※
糸の様に細い雨が窓枠を濡らしていた。傘を持たない鉢屋は自習室の窓際の席で目を伏せた。そこで彼は、席についたときには気が付かなかったとある事実に気が付く。
“女一心硬派とは男一人に尽くすべし”
(人が男フろうとしてるって時に……)
偶然向き合うこととなったその机には先人からのメッセージが掘られていたのだ。その文字の連なりを指で辿った鉢屋はしかめっ面を浮かべ、一人悪態をついた。何が男一人に尽くすべし、だ。ルーズリーフにシャーペンを走らせる鉢屋は机にしょうもない傷を刻んだ女(恐らく)を人知れず憎んだ。こんなことをするのは何者かに影響を受けて恋愛にのぼせ上がった、馬鹿に馬鹿を上塗りしたどうしようもない大馬鹿浮かれポンチ女に違いない。男である鉢屋が、こんな落書きを少しでも間に受けて、今となっては憎いばかりの恋人に離別の言葉を吐くことを先延ばしにするなどということはあってはならないのだ。大体硬派になってなんになるというのか。こちらがいくら硬派であろうが、一途であろうが、勘右衛門の軟派(というのも少し違うが)な性質は直りようがないだろう。
鉢屋はシャーペンの芯が折れてしまいそうな程の勢いで書き綴っていた漢文の練習題を中断し、新しいルーズリーフを取り出した。今日の放課後は勘右衛門と二人で勉強をする約束をしていたのだ。それは今朝方遅刻寸前の時間に登校してきた鉢屋に、勘右衛門の方から提案してきたことだった。にも関わらず放課後教室に迎えにいっても勘右衛門の姿はそこにはなく、中在家とのデートを控えているらしく上機嫌の雷蔵が勘右衛門なら木下先生のところへ行ったよなどと教えてくれたのである。自習室で待ってる、鉢屋はそんなメールを送り自習室へこもった。しかし待てど暮らせど勘右衛門は訪れず、シャーペンの芯が摩耗するのに比例して苛立ちを募らせていった鉢屋は、つい先程彼に別れを告げることに決めたのだった。
こう言ってしまうと、その場の感情によって事の全てを押し進めるヒステリックな女と大差ないと思われてしまいそうだが、鉢屋は鉢屋なりに深く考えた結果勘右衛門と別れるという決断をくだしたのだ。彼はもう随分と前から勘右衛門に別れを告げたいと考えていた。それは勘右衛門が鉢屋との交際が始まってもなお、前世の恋を始末せずにいたからだ。
室町時代を生きた尾浜勘右衛門という忍びは、忍術学園に在学時代一人の男に恋をしていた。かつての彼の想い人、木下鉄丸は当時彼の担任を努めていた男で、何の因果か現世でも彼のクラスの担任をしている。
『まさか運命だなんて思ってないよな』
勘右衛門と付き合い始める前、鉢屋は鉄丸に関して彼にそんなことを問うたことがある。そうして冗談めかした鉢屋の問いに、平素通りの笑顔を浮かべたままの勘右衛門は、『俺は案外聡いから』などと返した。勘右衛門のその返答に、鉄丸に対する彼の切ない恋情を感じ取った鉢屋は、それっきり何も言うことが出来なくなり黙り込んだ。勘右衛門と同様聡い鉢屋には、「今でもあの人を好いているんだろ」などと彼に言ってやる勇気はなかった。
勘右衛門とそんなやりとりを交わした頃の鉢屋は、室町から続いた雷蔵への恋情を引きずっていたので彼の気持ちが分からないでもなかったのだ。とはいえ、鉢屋のそれは雷蔵が現世でも中在家と出会ってしまったことにより存外簡単に始末がついたのだが。
(勘右衛門はあれで案外女々しいんだ)
勘右衛門には、鉄丸に対して返されることのない愛を捧げ続ける自分に酔っている面があるのではないかと鉢屋は思う。ナルシストでもなければああも望みのない相手に挑み続けるような気概は生まれまい。
鉄丸を前にしたときの勘右衛門は空回りばかりしている。自分が生徒だから鉄丸に受け入れられないのだとでも思っているらしい勘右衛門は、彼の前では変に大人ぶってみせるのだ。しかしそれは周りから見ればある種滑稽にも見える振る舞いで、鉢屋は勘右衛門が鉄丸と接触するのを目撃する度頭を抱えそうになる。
鉢屋は勘右衛門が、鉢屋に対して一応は誠実であろうとしていることを理解している。勘右衛門は恋人だとはいえ、それなりのなりをした男である鉢屋に大層優しく接するし、出来る限り二人きりの時間を取ろうとする。しかし勘右衛門は鉢屋との付き合いと鉄丸への片思いは別物だと考えているようなきらいがあるのだ。それも間違いなく優先順位は鉢屋より鉄丸の方が高い。そうして鉢屋は、誠実であろうとしているはずの勘右衛門が度々見せる不誠実な一面をたまらなく嫌悪していた。故に鉢屋は勘右衛門が自分より鉄丸を優先するたび彼と別れることを意識せずにはいられず、それでも二人の関係が現在まで続いているのは鉄丸を優先した後の勘右衛門が、決まって何事もなかったかのように鉢屋に接するからだ。勘右衛門に平素通りの笑顔を向けられてしまうと、鉢屋は彼に文句の一言も言えなくなってしまう。成就するはずもない浮気に一々目くじらを立てている自分が女々しく、情けなく思えてしまうからだ。しかし、そんな日常とも今日でお別れだ。鉢屋三郎は今日こそは確実に彼に別れを告げると決めている。
とはいえ、惰性化しつつある付き合いを終結させる別れの言葉を伝える手段については未だ決めかねている鉢屋である。初めは直接伝えればいいとも考えたが、鉢屋からのメールを見て自習室に訪れた勘右衛門に笑顔で「遅れてごめん」などとでも言われようものならば今までと同じ轍を踏むはめになることは分かりきっていたので否決した。それならば電話はどうか。顔を突き合わせなければ別れ話に誘導することも容易なのでは? ――いや、声が聞こえてしまえば直接会って話すのとさして変わらないだろう。
(メール……も駄目だな。データが残るのが煩わしい)
そこまで考えて溜息をついた鉢屋は、机の上に広げたまっさらなルーズリーフをシャーペンの芯でひっかく。そうして走り書きに近い大雑把な字で“別れよう”と単純な別れ文句を連ねた。そのまま勉強道具を鞄にしまい、自習室を後にするとなんとも形容し難い開放感が鉢屋をおそった。調子に乗った鉢屋は、「あんな奴少しも好きじゃなかった」と口の中だけで呟き、しかしすぐさまそれが負け惜しみにも似ていることに気づいたので肩を落とした。数瞬前までの開放感が嘘のように鬱々とした感情が鉢屋を襲う。
(確かに好きだった)
鉢屋は勘右衛門に恋をしていた。それは紛れも無い事実だ。しかし、だからこそ鉢屋は勘右衛門との関係を続けることが出来なかった。
初めの内、鉢屋は実るはずのない恋情を引きずっているように見える勘右衛門を好ましく思っていた。それは勘右衛門がかつて雷蔵に恋をしていたころの自分にダブって見えたからだ。しかし勘右衛門との関係が深まっていく内に、鉢屋はかつては好ましく思っていた勘右衛門の途切れ掛けの糸のようなそれを嫌悪するようになっていった。恋情を深めれば深める程に、嫌いな部分が増えた、心が狭くなった。それは鉢屋の生まれ持った性質のなした業だった。
(勘右衛門は俺を面倒な男だと思うだろうな)
鉢屋は自らを嘲笑した。勘右衛門は複雑なようでいて案外分かりやすい男だった。いい加減なところもあるが、基本的には心根の優しい男だ。彼は鉢屋とは正反対の人間だ。人付き合いの過程でいちいち面倒な理屈をこねたりはしない。隣の芝は青いことを知っているから他人に嫉妬することも滅多にないだろう。
(――俺はああはなれない)
鉢屋は鉄丸に嫉妬心を覚えずにはいられない。無論彼が生徒に手を出すような男ではないことは分かっているのだが、それでも胸にこびりついた不安を拭い去ることは出来なかった。鉢屋は卑屈な男だ。そうして彼のその性質は恋愛事が絡むと顕著になるのだった。
*****
下駄箱の前で中履きからスニーカーへ履きかえた鉢屋は、地面を濡らす雨の勢いが先程よりも増していることに気が付くと唇を噛んだ。冒頭で言った通り彼は傘を持っていない。もしも終業後すぐに帰れば濡れずに済んだかもしれないが、過ぎたことを悔いても仕方ないだろう。諦めたように苦笑した鉢屋は鞄を頭の上で持つと、そのまま歩き出そうとした、
「はい」
――が、突然背後に立った人物が、彼の首筋に地味な色合いの折り畳み傘を添わせたので喫驚歩を止めた。
「……勘右衛門」
傘を受け取りながら振り返れば、そこには平素通りの笑顔を浮かべた勘右衛門の姿があった。思わず顔をしかめた鉢屋は、何事もなかったかのように自分に傘を差し出した勘右衛門に、「どうして?」と問うた。
「俺は置き傘もあるから」
ほら、と傘立てを指差しながら勘右衛門は的外れな返答をする。傘を取りにいく足並みもいたって尋常だ。
そこでようやく勘右衛門は、自習室には入らなかったのではないかという考えに至った鉢屋は、傘を取って振り返った勘右衛門をまじまじと見つめる。
「どうかしたの?」
やはり勘右衛門は尋常だった。メールを見て自習室を訪れたところで入り口から中をうかがい見て鉢屋の姿がなければ中に入りもしないというのはよくよく考えれば至って自然なことだ。
「こっちから誘ったのにごめん」
(――駄目だな、これは)
申し訳なさげな表情を浮かべた勘右衛門に謝罪された鉢屋は、確固たる意志を持って実行する予定だった彼との離別計画を今日のところは諦めることに決めた。
そうして勘右衛門に手渡された折り畳み傘を開いた鉢屋は、雨の降りしきる校舎の外へと一歩足を踏み出した。
「少し待って」
背中に勘右衛門の声がぶつかって振り返って見ると、彼は下駄箱の隅に置かれたクズ入れに丸めた白い紙のようなものを放っていた。
「何を捨ててたんだ?」
置き傘を開いて鉢屋の隣に並んだ勘右衛門に尋ねると、彼は控えめな笑みを浮かべて、授業中にラクガキを描いた紙を捨てたのだと言う。
「真面目なお前がラクガキ、か――この雨、勘右衛門のせいで降ったんじゃないか」
「そうだとしたら俺すごいなあ」
照れたように頭をかいた勘右衛門は、クズ入れの方を一度振り返ると鉢屋との距離を軽く詰めて歩調を早めた。
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