3話

 その日は月の細い夜で、とろりと沈んだ闇が地面を嘗め回していた。連絡もなしに白石の一人暮らしのマンションに辿り着いたときには、九時をぎりぎり過ぎていたと思う。部屋の呼び鈴を鳴らしたとき、男は不在だった。
 仕方なくエレベーターとは反対側の非常階段の踊り場に立って、男の帰りを待った。その日はなんとなしに、白石の顔が見たかった。
 駅に近い物件なので、マンションに面した道路の人通りもそれなりだ。大声で小突き合いながら去っていくカップル、チワワを乳母車に載せた妙齢の女性、自転車を手放し運転をする塾帰りと思わしき男子高校生。ぼんやりと見下ろしているといい暇つぶしになった。
 気がつけば既に十時近い。今日はもう帰ってこんかもしれん、と首を回したとき、マンションの前に一台のタクシーが停まる。一時間も待っていたので、降りてきた男が白石であることにはすぐに気がついた。隣に、似たような体格の男を一人伴っている。
 道路に点在する外灯に照らしあげられた白石は、親密げな様子で男の体にもたれかかっていた。具合でも悪いのか、タクシーから遠ざかっていく足取りは重い。
 姿が見えなくなるのを確認して、どうしたものかとしばらく佇んでいると、エレベーターがフロアに到着する音が聞こえた。
 鍵は。上着のポケット。ちょっと触るね。今日泊まってかんの。あまり甘やかさないでくれ、未練が残る──廊下に響く白石の声は掠れていた。支える男は、彼の上着のポケットから見つけ出した鍵を鍵穴に差し込む。二人がこちらの存在を気取った様子はない。
「最後に一度くらいええのに」
「そんな体でよく言う。風邪をひいているならキャンセルしてくれればよかったのに」
「そろそろやろなと思ったから」
「読まれてたのか」
 二人が小さく笑い合う。千歳は足音を忍ばせて階段を降りた。
 二人の乗ってきたタクシーは、未だにマンションの前に停まっていた。あの男は部屋に上がりこむつもりはないらしい。それが分かっても、白けた心に火の気が戻ることはなかった。
「ひっちゃかましか」
 ふやけた色をした繊月に見上げて呟いた翌日、高知で食らった鰹のたたきはいやに塩辛かった。

 大阪に戻った日、白石の部屋に初めて入った。体を起こすのも億劫そうな男を見ると、土曜日の来客のことは頭から吹き飛んだ。千歳は、元より嫉妬という感情とは縁遠い性分の男だった。
 あの日の白けた心をいつまでも引きずりたくなかったから高知で土産を買った。それだけ手渡したらさっさと帰るつもりだったのに、そうはならなかった。
 千歳のペニスを含んだ白石の口内は滞った熱を孕んでいて、やめさせなければと考えるほどに絡みついてきた。
 そのくせ千歳が果てると忘れてくれと、言う。何かを恐れたような顔をして。白石は月に似ている。近づけば近づくほどに遠ざかり、掴んだと思ったら手のひらからすり抜けていく。
 そうして忘れてくれと言った口で、泊まっていきや、とうそぶくのだ。白石は難しか、胸の内に浮かんだ言葉はすんでのところで飲み込んだ。しかし、今日は戻る、と告げたときの男の瞳の揺れを見て、ああ間違ったとねと悟った。
 千歳が部屋を後にするとき、白石は咳をひとつ漏らした。乾ききってひび割れたその音は、いくら大きな足音を立てて歩いても耳元に迫ってくるようだった。

「じゅういちじ」
 朝というよりは昼に近い。顎に手をやると、ひげがふつふつと伸びていた。
 生あくびをしながら浴室にこもり、くもり切った鏡にボディソープを塗りつける。鏡の内側の顔は、珍しく冴えない。
 白石を傷つけた。
「あのタイミングで帰るのはなか」
 鏡の中の男に語りかけると、肩から力が抜けた。
 それでも、あのまま最後までするのはもっとない。そういう付き合い方を白石とはしたくない。
「難しか」
 長く一人暮らしをしていると独り言が多くなる。
 愛用のT字剃刀。四枚刃のそれを、シェービングフォームを馴染ませた顎に滑らせる。伸ばす予定もないのに毎日顔を出すのが鬱陶しい。浮世離れしていると人にはよく言われるが、人並みに小規模な悩みだって持っている。
 例えば好きな相手のこと。何を頑なになっているのか、普通のアプローチは通用しない。その上潔癖なように見えて、性の方面に緩いきらいがある。
 きれいな、きれいな男。あの男の顎も寝起きにはふつふつとしているのだろうか。

 散歩は好きだ。昔から外を歩くということに飽いたことはない。気の向くままに歩みを進めている内、その日のうちに家に戻れなくなってしまうことも珍しくはなかった。
 白石が京都に自分を迎えにきたのもそういう流れでの出来事だったはずだ。
「あかん、めっちゃ寒いわ」
「この寒いのに短パンで歩きよるからやろ」
 若い声にひきずられるようにして視線を上向けると歩道橋の階段をジャージ姿の中学生二人が下ってきていた。一人は長袖長ズボンだが、もう一人はこの寒いのにハーフパンツを履いている。ラケットバッグを背負っているのでテニス部だろう。
「おかんが洗濯忘れてたんやからしゃあないやろ」
 少年達とすれ違ったとき、千歳は何年も前の白石との出会いの日のことを鮮明に思い出した。

 三年の授業が始まる前、大阪に越して来て間もないころだったと思う。まだ入部もしていないテニス部の監督が寮の自室を訪れた。
「殺風景な部屋やなぁ」
 軽い自己紹介をして玄関先に上がりこんだオサムは、ダンボール箱だらけの千歳の部屋を一瞥して言った。
「テニス部、見にいってみぃひん。今日は予定もないんやろ」
 空が高く青々とした日だった。そのくせ未だ春の訪れを拒むかのようにしんと冷えた空気を体に通すと、新しい場所に来たんだと実感させられて気持ちが良い。荷物をいくらか片付けたら一人で外を歩いてみるつもりだった。
「昼飯くらいは奢ったるから、いくで」
 千歳の沈黙を肯定と捉えたのか、男はこちらに背中を向けて歩き始める。慌てるでもなく下駄を履いて、その体を追いかけた。
「あいつらなかなかおもろいでぇ」
「そりゃあ楽しみたい」
 オサムとやりとりをする時間はそう居心地の悪いものではなかった。無口とは言い難いが、強い存在感を発することもない男は、十五分ほど歩いて辿り着いた四天宝寺中内のテニス部の部室の前に、「鍵取ってくるわ」と千歳を置き去りにした。
 近くで野球部が練習しているらしい。キィンと、バットがボールを弾き飛ばす軽快な音が三月の空に響いていた。
「きもちよか」
 呟いた声が、部室に近づいてくる足音に紛れた。音のする方に顔を向けると、黄色いジャージが目に止まった。今朝方自分の元にもオサムが持ってきた、四天宝寺のテニス部のものだ。
「こんにちは」
 落ち着いた声に導かれるようにして視線を上向ける。
「はー」
 思わず溜息が漏れた。こちらが真っ当な挨拶を返さないので眉をひそめた声の主の顔は、ちょっと見られないくらいに整っていた。
 きれいか。福岡にもこんなんはおらん。相手の顔を繁々と見つめながら、
「やっぱり都会はすごか」
 次に発したその言葉は独り言になった。
「鍵取られとったわ」
 手ぶらで戻ってきたオサムが、「おーもう顔合わせとったんか」と二人の肩を叩く。
「自己紹介済んだか」
「まだやで。今顔合わせたとこ」
「そらあかんな。人見知りしとったらええチームにならへんで」
 少年が、おずおずと前に出てくる。足取りにこそ迷いが見られるが、表情は柔らかい。千歳と同じくらいの年に見えるが、他人に気を遣うのには慣れているようだった。
「部長の白石蔵ノ介や、夏が終わるまでの短い間やけどよろしくな」
 杓子定規な挨拶をするこの男はどんなテニスをするのだろう。他人に、容姿から関心を惹かれたのはそれが最初で最後の経験だった。
「千歳千里たい。先週熊本から出てきたとこやけん、こっちのことはよう分からん」
「せやったらまた白石に案内してもろたらええわ」
 面倒見ええからなぁ、と振られた白石は控えめに笑って頷いた。大阪を案内してもらう約束はその先も実現しなかったが、今でもときたまその時のことを思い出す。
 部長としてチームメイトをまとめる白石のプレイスタイルは、彼の性格を表すかのように基本に忠実で歪みがなかった。
 あれでは無我からは程遠いな、彼への興味が薄れてから部活に向かう足が遠のくまでに時間はかからなかった。
 白石は顔を合わせるたび、「たまには朝練にも来てな」と朗らかな笑顔で声をかけてきた。強い言葉を使うことはない。
 気の長い男だ、単純にそう思っていたのは初めのうちだけ。一学期も中盤を過ぎる頃には、他の部員には適度に厳しく接していることに気がついてからは、自分のことは苦手なのだろうなと考えるようになった。
 廊下や学食、下校する生徒達の集まる下駄箱の前。そういった場所で千歳の姿を認めたとき、白石は一旦見たかったふりをするかのように視線を逸らして、軽く息を詰めてから近づいてくる。
 緩く口角が持ち上がるのに比例して細まる瞳は曇りがちで、白石が自分だけに見せるその瞳の色を、千歳はきれいだと思った。

 ポケットにねじ込んだスマートフォンがバイブする感触で、千歳は二十一の現実に引き戻された。
『金曜日か土曜日、うちでたこ焼きせん』
 液晶には白石からのメッセージが浮かんでいる。
『する。風邪は?』
『昨日よりマシ。その頃には治っとるやろ』
『金曜日がいい』
 土曜日では遅い。出来るだけ早く顔を見たい。このメッセージがなければ、このまま風邪で寝込む男の家まで歩いていっていたかもしれない。
『昼も授業ない。千歳の好きな時間でええよ』
『四時ごろに行く』
『了解。材料は買っとく』
 やりとりを終えてスマートフォンを握り込む。多少動揺していたとはいえ昨晩の別れ方は酷かった。白石の、男としてのプライドを傷つけてしまった自覚もある。
 たこ焼き。そんなものに理由を持たせて、何気ない風を装っても、昨日の今日で連絡をよこすのには勇気がいっただろう。
「……あー」
 喉元まで迫り上がっていた言葉をすんでのところで飲み込んだ。胸の内を満たすそれは、二人の関係においては禁句とも言えるような言葉だった。

 白石を次に意識したのは、準決勝の日のことだった。前年の雪辱を胸に再び訪れた東京の地。青学に敗れて四天宝寺の夏が終わった蒸し暑い八月の夕暮れ。
 その日は焼肉屋での打ち上げが予定されていた。ホテルに戻ってシャワーを浴びた千歳が、疲れからかぐったりと横たわる同室のチームメイトを残して、圧迫感のあるエレベーターでロビーに降りたところで、その声は聞こえた。
「ちょっとくらい付き合ってくれてもいいじゃない」
 甘ったるい、大人の女の声だ。吸い寄せられるようにして視線を上げると、フロントにほど近い柱の前に立った白石が、見知らぬ若い女に詰め寄られている。
「……今は人と待ち合わせしとるんで」
 人の気配の絶えないロビーの中にあって、「それって友達」とつめられた白石と、女の姿だけが浮き上がって見えた。
 表面上は柔らかい表情を浮かべた白石は、どこか投げやりな口調で応える。ハタチは超えていそうな女に声をかけられているというのに、白石の声に驚きの色はない。
 慣れているようだから大丈夫だろうと判断して見物を決め込んでいると、女は更に彼との距離を詰めた。
「君、制服着てるけど高校生?」
「いや、」
「じゃあ中学生だ」
「このあと部活の打ち上げやから」
「部活って何部? 野球部じゃないよね」
 沈黙。温和な性格の男だから、露骨に迷惑そうな態度をとるわけではないが、平素の愛想の良い姿を知っているものからするとちょっと意外なくらいに、女と対峙する白石の表情は硬い。
 女は随分気さくな性質の持ち主のようで、白石の腕に触れると、
「あ、この腕の筋肉の張り方テニスっぽいかも」
 確信したように呟いた。白石の返事も待たず、私もテニサーと小さく飛び跳ねる姿は、品があるとは言い難いがなかなか可愛らしい。
 一般的な男子中学生なら鼻の下を伸ばす状況だろうに、白石の頬からは血色が失われていた。返事をする気力すら失って、唇は真一文字に惹き結ばれている。
 助け舟を出してやろうかとも考えたが、普段は何事もそつなくこなす男が弱る姿を、今少し見物したい欲求が勝った。
「というか君ほんとに可愛いねぇ。なんなのその顔。もはやジェラシー」
「あの、ほんまに……」
「白石が女の子引っ掛けとるでぇ!」
 変声期前の甲高い声が、二人の間に割り込んだ。視線を横にずらすと、ラケットバッグを背負った金太郎が、柱に背をやった白石を指差している。ホテルに戻ってそれなりの時間が過ぎたというのに、着替えも済ませていない。
「金ちゃん」
 唐突に大声を向けられた白石は、引っ掛けられたんはこっちやとも言えずにまごついていた。
「白石、不純異性交遊はあかんでぇ」
 金太郎の背後から現れたオサムに、ちらりと視線をやった女は、「保護者連れかぁ」と気怠げに呟く。
「今度会えたら遊んでねー」
 手のひらをひらめかせて去っていった女とすれ違った謙也が、
「またモテとったんかい」
 やっかみ半分に肩を叩く。
「モテてへん。ちょっと絡まれとっただけや」
「白石、可愛い言われとったでー! もはやジェラシーやって」
「金ちゃん、いらんこと言わんでええ」
「白石お前なぁ、あんな綺麗な都会のお姉さんにそこまで言われてなんで全く喜ばへんねん」
 完全に顔を出すタイミングを見失ってしまった。湯上りらしく艶めいた髪を謙也にもみくしゃにされた白石を、千歳は尚も見つめ続ける。
「あんなん猫を弄ぶようなもんやろ。可愛いなんて言葉、対等の立場の相手には言わへん」
 随分捻くれた考え方だ。
「白石って案外根性悪いなぁ」
「ほっといてくれんか」
「ひだるかー」
 不貞腐れたような声を合図に千歳が姿をあらわすと、白石は細かな瞬きを繰り返した。盗み聞きをしていたことに気づかれたかと思ったが、そのまま視線を逸らされる。
「オサムちゃん、今日の打ち上げの会費っていくらやっけ」
「四千円」
「わりと高いなぁ。こういう日は普通奢りやろ」
 投げつけるような口調は、未だ平らかにならない機嫌の表れだろうか。白石にも大人に八つ当たりのような甘え方をするような一面があることが、意外に思われた。
「あほ、部員全員におごったったら俺の明日からの生活はどうなんねん」
「これ、換金したらええやん」
 ぽそりと呟いて、白石は包帯の裾を掴んだ。緩く、傾けられた顎から首にかけてのラインは秀麗で、
「白石、毒手は勘弁や」
 気の抜けた声を上げた金太郎が彼にしがみつかなければ、いつまでも目を奪われていただろう。

「これ新品?」
 揺らめく青い炎に撫でられた黒い鉄板を眺めながら呟くと、向かいの男は答えの代わりに控えめに口角を上げた。土産のビールはグラスに注いだきり。一口も含むこともないままに、白石はガスコンロ一体型のたこ焼き機を睨んでいた。
「わざわざ買ったとね」
「元々欲しいと思ってたんや。友達と、うちでするかもしれんし。時間あったら一人でも」
「次やるときも呼んだらよか」
 終わりに近づくにつれて歯切れの悪くなる言葉を引き取ると、油を塗り込んだ鉄板に生地を流し込む。ジュウッと気持ちの良い音が部屋に響くと、白石は気まずげに体勢を改めた。
 たこ、紅生姜、ねぎ、天かす。これまた真新しいボウルに収まった具材を千歳が生地に落としこんでいくと、「慣れとるな」と呟いた。
 以前に床を共にしていた女が好きで、よく二人で焼いていた。なかなか味にうるさい女で、茹でだこを刻む大きさや天かすのメーカーまで細かく指定してきた。
 こちらの都合も時間もおかまいなしに呼び出しをかけ、それに応じなければ大声で怒鳴り散らす。豊かすぎる感情表現には辟易させられたが、それでも心の裏を読む必要がない分楽に付き合えたし、可愛いと思えた。
「これ、いつごろひっくり返すん」
「生地の上の方が固まってきたら」
「やってくれるか、ほんまは焼いたことないねん」
 差し伸べられた鉄のピックを受け取りながら、焼けもしないたこ焼きを口実にしなければ自分を誘い出すことの出来なかった男の心を想う。出会いたちの頃、杓子定規でつまらない人間だと思っていたその男の心の動きが、才気煥発を極めた自分にも読めないことが面白い。
「ガスのは焼けるのが早か。初心者には難しかよ」
 プレートのラインに添ってピックで生地を分けるように線を引いていく。鉄板から舞い上がる熱気のせいか、耳朶をほんのりと赤く染めた白石は、
「ガス式やないといかんて、友香里が」
 もう一本のピックで生地の端を返すでもなく、軽くめくってみせた。
 もう返せるばい。ええよ、失敗しそうやしやって。腹に入ったら一緒ばい。千歳が、お前が食うのに──。
「崩れたら嫌やわ」
 糸を引くような響き。二人はほんの数秒見つめ合う。
「そしたら綺麗に返さんとね」
「うちの女連中、わりに粉もんが好きでな。こだわりが強うて、自分たちで作ったものなんか信用出来へん言うし、家から歩いて行けるところにかなりイケるの安うに出す店があるのもあって、家でこんなん焼いたことなかったんや」
 機械もなかったしな、と付け足しながら端に返し残った一つを白石はくるりと返す。あんなに渋っていたわりに綺麗な手技だ。
「せやけど俺が家出てからな、友香里に彼氏が出来て、その子の家のたこパにお呼ばれして食べたたこ焼きがめっちゃ美味かったとか言うて、いきなり買うとんねんたこ焼き 。その上家族揃ってハマっとんねん。なんやのけものにらされたみたいでな」
 今日の白石はよく喋る。まるで沈黙を恐れているようだ。
「俺の熊本の実家もこの前帰ったらあったとよ」
「たこ焼き器か」
「ワッフルメーカー」
「えらいかわええなぁ」
 適当な相槌を打っている内に仕上がったたこ焼きに救われたように、白石は言葉を切った。時々うまい、ええ焼き具合やなぁなどと零す以外は、思案にふけるように眉を下げてたこ焼きを嚥下している。
「二人だけやったら一回でも結構腹に溜まるわ」
「焼きたては美味かね」
「せやな」
 食べ終えると、黙っている理由がなくなった。
 居心地悪げに盛んに瞬きをする白石を千歳は見つめていた。長い睫毛が、夕方の気怠い空気に光背を抱いている。
 きれいか、思わず口に出していた。
「またそれか」
 硬く張り詰めた声。食事時の柔らかい空気の名残が、一瞬にして消し飛んでいく。
「いっつもいっつも同じ言葉で塗り潰される方の身にもなってほしいわ。俺はお前に、もっと、」
「もっと?」
「……もうええわ」
「言いたいことがあるなら言いなっせ」
「あったけどなくなった」
「俺は白石のことがいっちょん分からん。久々に顔見たら、昔と変わらんで綺麗なままで、俺に触りたそうにするのに、こっちが近づいたら泣きそうな顔して」
「それはお前が何考えとるか分からんから」
 再会した日の晩、二人で猫を見ていたとき、白石のことは好きだと言った。全く伝わった様子がないのは、この男が恋愛音痴だからか、自分の言葉に真実味がないからか。
「土曜日に白石と二人で部屋の前におったんは誰」
「セフレ」
 白石は、重怠い空気に抗うように身をよじる。千歳が無言のまま見つめると、「おるって言うたやろ」と続ける。
「いっちょん似合わん」
 以前と同じ言葉を返すと、
「よう覚えとるやん」
 自嘲するように笑った。
「言わんでも分かっとると思うけど、俺女の子あかんねん。そしたらまあ相手は男やろ。男同士って、めっちゃ即物的で、心より先に体が繋がることも沢山ある。お前は似合わんって言うけど、少なくとも俺はそういう付き合い方しかしたことない」
 言葉を重ねる程に、自分が汚れていく錯覚でも覚えるのか、白石の表情は固い。
 先程まではレースのカーテン越しに差し込んでいた夕日も殆ど沈んでしまい、部屋全体が澱が満ちているように薄暗くなっていた。
「俺は、お前が思ってるような綺麗な人間とちゃうし。人を好きになったり、人に好かれたりするのも正直恐ろしい。その場限りで情も交わさず、気持ちようなれる相手がおったらそれでいいと思っとった。せやのにお前にまた会ってしもて、お前にきれいやって言われるたびに、頭おかしくなりそうなくらいに腹が立った。俺は千歳に、俺の方を見て、千歳の声で、むぞらしかって言われたかったんや」
 アホらし、なに一人で熱くなっとんのやろ──苦しげに吐き出された声を聞いたとき、頭の中でふつりと糸が切れる音がした。小さく丸まった男の肩を掴んで、床に押し倒す。
「いきなり、なにすんねん」
「乗り換えのとき、今でも寝てみたいって話とっとに、忘れたん」
「今でもお前と寝てみたいと思ったら変やろかって訊いただけや」
「ちゃんと覚えとってえらか」
 褒美をくれてやるように下唇を舐めあげると、白石の体がひくりと震えた。 こちらを見上げる瞳は、実情とは反対に、生娘めいて潤んでいる。
 深く喰らい尽くすように舌をねじ込むと、ソースの味がした。前歯の裏を舌でちろりとなぞってやる間も、男ははふはふと口を開く。あかんだの、こわいだの、こちらの燃料を注ぐように溢れる言葉を、盛んに動く舌を吸い上げて封じる。
 咥内の唾液がどちらのものとも知れぬ程に混ぜ合わさった頃になって、ようやく解放してやると、白石は大きく肩を上下させた。
「その目嫌や」
「どぎゃん目?」
「エロいこと考えとる目」
 ズボン越し。既に張り詰めているものを白石の股間に擦りつける。
「早く挿れたか」
 耳元で囁くと、白石は熱っぽい声で、「脱がして」と足を持ち上げた。言われるがままに着衣を剥ぎ取ると、薄い筋肉に覆われた白石の裸体が露わになる。
「きれいか」
「やから、それ……っ」
 白石の、薄く色づいた胸の先をくりんと撫でた。愛撫に慣れているのか、それだけで息を荒くする男をからかうように、「やらしかー」と短い言葉を放る。
「やらしいのはお前の声やろ。腰に響いてかなわんわ」
 憮然とした声。腰を引き上げるようにして体を反転させる。なんで、と戸惑う声に、全部見たいからだと答えた。
 四つん這いになった男の、状況に抵抗するように逸らされる背中のラインに見惚れる。白石は、綺麗だ。どこもかしこも。それだけで男は特別だった。
「ちとせ、」
 異性のものとは異なる低い声。平素は落ち着きはらった白石のそれが、自分の体の下で濡れたように響くのを聞くとたまらなくなった。
 なめらかな背中にキスを落として、きれいか──白石に聞こえないように心の中だけで呟く。震える体を背後からかき抱いて、直接触れてもいないのに熱く勃ちあがったペニスの先端を手のひらで包んだ。ぐじゅり、ぬめる感触。
「ああっ、」
「だごんこつ濡れとる」
「はっ……あ、いやや」
 あかん、あかん、と繰り返すわりに、白石の腰は物欲しげに揺れている。パンパンに膨らんだカリは、千歳の手のひらに吸い付いて、おねだりをするみたいに先走りを零し続けていた。
「白石は、気持ちんよくなるんが上手にでけとってえらかね」
「なんで、そんな……あっ、あっん」
 千歳の視線から逃れるように、白石は体を丸める。ようみせて、耳元で囁くと、生娘めいた反応を示したことに恥じ入るように今度は体を弛緩させる。その間も、ぐずぐずと愛撫を続けられている先端から落ちたカウパーがヘリンボーンの床に滲んでいた。
 千歳は長い指でそれをすくいあげて、白石の後孔に塗りつける。
「ぁ」
 内側に指を滑らせることはせず、赤く熟れたそこの入り口をほぐすように指を滑らせる。緩い刺激に焦れたように揺れる白石の尻は白い。
「っ、ぅ、焦らしすぎや」
 体をよじってこちらを睨みつける男に笑みを返して、中指を物欲しげにひくつくそこに差し込む。とぷり、千歳の指を飲み込んだ白石の内側は酷く狭かった。きゅうっと締め付けてくる肉をかきわけながら、白石の敏感な部分を探る。
「ぅ、っ……アッ」
 かたく、しこった部分に千歳の指先が掠めたとき、白石は嬌声を一段高くした。ここか、と指を折り曲げて優しく押しつぶすと、ヒッとすすり泣くような声が部屋に響いた。充分に開発されているらしい。
「ローションある?」
 すぐそばのベッドの下を示されたときには流石にいい気はしなかった。後孔から抜き出した指にローションを垂らしながら、セックスをするだけの相手を部屋にあげるのだろうかと考えていると、「これは自分用」と男は体を仰向けにした。
 その声がどこか余裕を取り戻しているように聞こえたのが面白くなくて、二本目の指を束ねて挿入する。
「あっ、く、千歳の指、ふとい」
 自分を見上げる瞳が、生理的な涙で覆われているのを認めると、すぐにでも挿入したくなった。
「……挿れたか」
「挿れたら、ぁ、ええのに、っ」
「もすこし我慢」
 乱暴に扱えば壊れてしまいそうなそこを、二本の指で緩慢に押し広げる。多少余裕が出てきたと感じたところで、
「尻慣らすの、手馴れとるなぁ」
 男が言うので、聞こえないフリをした。内側全体にローションを含ませるように、指を動かす。
「ぁ、っ、後ろ初めてやないやろ、うっ」
 揶揄するような口調。
「昔んことはよか」
 月並みな言葉で逃げて、指を抜き去る。
 ズボンとボクサーを脱いで、ポケットにしまい込んでいたコンドームをペニスに被せる。
「今日するつもりやった?」
 今更目を丸くする男にキスを一つ落として、
「そう何度もたまらん」
 ローションでぐずぐずに濡れた入り口に、カリを押し付ける。
「あっ、あっ」
 ぬぽんくぽん、と入り口に引っ掛けるように軽い抽挿を繰り返してから、男の表情がふやけたところで一気に押し込む。
「アアッ……」
 少しずつ拡いてやりたいと考えていたのに、一度挿れてしまうともう駄目だった。ペニスを深く差し込んで、小刻みな嬌声を漏らす白石の体を揺さぶる。
 男の片足を持ち上げて肩にかけ、深く、しかし緩やかな抽挿をくわえる。
「っあ、ちとせ……もっと」
「もっとじゃ分からん」
 早く、激しく、それとも酷くか。どれもありそうだと思わされるから途方もない。
 もう一本分慣らしてやるつもりが、堪えきれず分け入った白石の内側は狭く、千歳のペニスをぴったりと締め付けている。千歳がぐじゅぐじゅと音を立ててそれを引き抜くたび、後孔のふちが苦しげにひくついた。
「痛い?」
 カウパーで濡れ光るペニスを扱きながら問うと、白石は左右にかぶりを振った。く、と苦しげに呻いてから、気持ちええ──と息を吐き出す。
「素直でよか」
 ごほうびあげんとね。もう一本の足ごと白石の腰を持ち上げ、上から強く抜き差しをする。
「ひっ、あっ、ああっ!」
 苦しげに目を細めながらも、白石は細めた瞳を白石の二人の結合部に向けていた。その潤んだ視界には、太いペニスに押し潰される自身の後孔と、そこから零れ落ちる泡立ったローションが映っているはずだ。
 視覚から得る羞耻と、深く押し込まれるペニスに与えられる快楽。重たい熱で、男の自身の全体を締め付ける男の内側をほぐす。
「あかんて、つぶさんで……あっ」
 ぐりぐりと最奥に体重をのせられて、白石の下腹部が小刻みに痙攣した。ぐぽん、と押し込まれて、勢いよく吐精する。
「あっ、ん……んんーっ」
「瞳孔ひらいとる」
 豆球の微かな灯りを取り込んだ瞳がキラキラして綺麗だと思いながら、近場に置いてあったティッシュを手に取る。
 一枚、二枚、三枚。吐き出されたものを丹念に拭っていると、白石は吐精のかげが澱のように残る顔をこちらに向けた。それから一度口角を持ち上げ、ふ、と表情を停止させてから、
「優しいんやな」
 寂しげに言った。
「白石が相手だけん」
「……前に、橘とすごい喧嘩した話してたやろ。あれ聞いたとき妬けたわ」
「なして」
 射精前の自身を、深く差し込む。う、と男は息を詰めて、表情を崩す。
「俺も千歳に殴られてみたい」
 抜き差しの動きを緩めて、
「それは、そういう趣味」
 そう訊くと、白石はようやく緊張のほぐれた声をあげた。
「いや、そうやなくて……まあ、それもあるけど」
 照れの混じった顔。それが新鮮で、あるのかと口を挟むことはしない。返事の代わりに、ぐずりと、肉壁を擦りあげてやる。
「はぁ」
 萎えたペニスを震わせた白石は、気怠げに濡れた喘ぎを漏らす。それをいいことにしばらく揺さぶっていると、男が小さく漏らした。
「ぁ、俺は、っ、俺も、剥き出しの千歳千里を見てみたかった」
 たまらなかった。白石の、小さな頭を抱えて、水分を失った唇に自分のそれを重ねる。
 薄い舌を、じゅう、と吸う。熱い質量を抜いて、差し込む。それを何度も繰り返す。くぽん、とこちらを飲み込む白石の入り口は、きゅうきゅうと引き締まっているのに柔らかい。
 腹のあたりにかたい感触が触れる。気がつけば、再び兆していた白石のそれを体で擦り上げるようにしながら抜き差しを続ける。
「ぁ、そこ、あかん」
 次するときは痛くしてあげる。耳元で囁くと、白石の淫肉は千歳のペニスを締め上げた。
「ナカ締まった。痛いのすいとっとね」
「せやから、そういう意味と、あっ……なんで、」
 内側を侵略していたモノをゆっくりと抜き去る。大きな質量を失った白石の後孔は、真っ赤に充血して物欲しげに蠢いていた。
「ベッド、汚れてもよか」
「今更やろ」
 白石は、汗と先走りに濡れた床を見下ろしながら頷いた。セミダブルのベッドに二人で上がって、うつ伏せに寝るように促す。
 よく締まった尻肉を両の手で押し広げて、カリの張り出した先端を未だ物欲しげにひくつく後孔に擦り付ける。もうよか、と訊くと、僅かに尻が持ち上がる。
「はやく」
 焦れた声で求められると、腹の奥が重たくなった。張り詰めたペニスを、ぐ、と差し込む。瞬間、向き合った体勢とは異なる肉の感触に襲われた。
 ふかい、ふかい、と溺れたように繰り返す男の最奥に強い力で打ち込んだ。痛いくらいの質量を伴った熱で、白石の一番敏感な部分を押し潰す。
 あかん。だめ。おかしくなるわ。平素は清廉さすら感じさせる男が、千歳の下、濡れた声で叫んでいる。
「おかしくなって」
 ぎゅうぎゅうと蠢く淫肉。ペニスを締め上げる肉を掻き分けて最奥を突く。白石は、ニキビ跡の一つもない体を細かに震わせて、千歳が奥をつくのにあわせて、もっともっととねだるように尻を浮かせる。
「どこが好き」
「おく、っ、おくが……ぁ」
「ここは」
 浮き出たしこりをカリ首で引っ掻く。そこも。すき。もっと。一段と高い声が上がったのを聞いてから、ぱんっぱんと肉と肉のぶつかる音が響くほどの勢いでピストンした。絶え間なく押し広げられる白石の後孔は、ぐちゅぐちゅと濡れた音を響かせ続ける。
「ああっ、っ……ぁ、ちと、せ、っあ」
 涙まじりに名前を呼ばれると、似合いもしない熱いものが胸にこみあげてきた。白石の、現役時代に比べればいくらか細くなった体を覆い隠しながら、
「すきって言って」
 子供のようにねだる。千歳のペニスをぴったりとつかむ、白石の淫肉は熱い。
「すきっ、すき」
 絞り出すような声。ここまで乱れても羞恥が残るらしい男の耳は、真っ赤に充血していた。
 きれいか、咄嗟に舌に慣れたいつもの言葉が頭に浮かぶ。
「……っ、むぞらしか」
 それなのに、口をついて出た言葉はそれだった。本音だ。千歳は、きれいな白石が、可愛くて、愛しい。
「むぞらしか」
 再び呟くと、白石の内側がきゅっと引き締まった。それが呼び水になったみたいに、体の表面が熱くなる。何度も腰を強く打ち付けると、白石の喉から喘鳴にも似た喘ぎが漏れた。
「はぁ……」
 限界を迎えたペニスから精を吐き出して、コンドームをつけていることも忘れて、残滓をすりこむように何度も奥をすり潰す。
 ようやく体が離れた頃には、冬だというのにお互いの体に汗が滲んでいた。
「暖房消しておけばよかった」
 力ない白石の声が、どこか遠くから響いた。

 あごに何かが触れている感触で目が覚めた。瞼を開くと、自分のあごを撫でまわしている白石と視線がかち合う。
 レースのカーテンごしに、白い光が差し込んでいて、随分長い時間眠ってしまっていたことを知った。
「ひげ、剃らんといかんね」
 言いながら、男の側頭部に寝癖があるのを見つけた。
「そういうの似合わんな」
 寝癖を物珍しげに見つめていた心を言い当てられたようで驚いたが、白石の意図は別にあった。
「千歳は普通の男とは全く違う生き物やと思ってたから。ひげを剃ったり、人を好きになったり、そういう普通の人みたいな部分が全く想像つかんかった」
 失礼なこと言うてすまんな、と笑う男の目を見つめる。
「白石のことは好いとっと」
「さよか」
 嬉しいとも、俺も、とも言わずに白石は顔を伏せた。千歳もそれ以上は求めずに、「ひげ、白石は」と手を伸ばす。それが頬に触れる前に、「俺は薄いから」と背を向けられた。
「なんであの日家に上がらんかったん」
 二人で猫を見た夜。建物の明かりに照らされた白石の、白い顔を胸に描く。
「あの日は、白石が身売りするんごつ顔しとった」
「ビビッとたんやなぁ」
 はずーと顔を俯ける男を、後ろから抱きすくめる。肩のあたりで、鼻をすんすんと鳴らすと、「嗅ぐな」と頭をはたかれた。
「白石の匂いがする」
「昨日風呂入ってへんから」
 身をよじって逃れようとする男を更に深く抱きすくめる。
「むぞらしか匂いたい」
 静かにこぼすと、男は抵抗を緩めて、千歳の手に自分のそれを重ねた。


back

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -