閑話


 ぷつん、鼓膜を引っ掻くような微かな雑音に謙也は視線を上げた。
 平日十六時。夕飯にも僅かに届かない時間のファミリーレストランで着座しているのは、近所の主婦らしき四十路女のグループと、実習のレポート作りに取り組む自分、それから向かいに腰掛けシャーペンを握りしめる友人白石蔵ノ介だけだった。
 数秒前の雑音は、白石がシャーペンの芯を折った音らしい。
「替え芯持っとる?」
 さりげなく学校名の印字されたレポート用紙をぼんやりと眺めたまま動かない白石に声をかけると、「おお」と頷いた男はペンケースから芯入れを取り出した。
 見たところレポートの進捗は芳しくなさそうだ。
「ポテトでも頼まへん」
「今食うたら夜が入らんなる」
 自分の方でも行き詰まってきたところだったので空気を変えようと提案したのだが、白石の返事は素っ気なかった。
「女子みたいなこと言うなや」
 構わずタッチパネルで大皿のポテトを頼むと、向かいの友人は諦めたようにシャーペンを置いた。視線のいく末がどことなく落ち着かなくて、それを誤魔化すためか懸命にレポート用紙の文字を指で辿っている。
 珍しく荒れとるな。数時間前に合流してからなんとなしに抱いていた疑念が、そのとき確信に変わった。
 通常白石蔵ノ介の感情を読み取るのは容易なことではない。中学の二年、十四歳で部長を任された頃には既に、彼は同年代の人間とは比べるまでもなく穏やかで落ち着いた子供だった。白石くんて大人っぽいわぁ、と学年の大半の女子が友人に羨望の眼差しを向けるのを謙也は悔しさ半分に眺めていた。
 事実その頃から白石は、心の大きく動くようなことがあっても、それを表に出さずに処理することに長けた人間だった。無論その能力は、謙也の従兄弟のそれに比べればそれほど長じたものではなかったが、その分周りに不自然さを感じさせないので、彼には友人が多かった。
 謙也もその中の一人であるが、彼の表出しない感情の尻尾を捉えられるようになったのはここ最近のことだった。
「なんかあった?」
 飲みさしのジンジャーエールの注がれたグラスの内側、溶けた氷がグラスを滑るカランという音に紛れて、「別に」と普段より角のある声が返ってくる。
「別にってことはないやろ。なんや眉尻上がっとるで」
「自分こそ」
「俺はべつになんも」
 ケチャップとマヨの境目をポテトの先端で崩しながら返すと、
「ミライちゃん、上手くいかんかったんやろ」
「はあ、藪から棒になんやねん」
 失恋の傷を容赦無く突かれて、謙也の声は震えた。
「上手くいってたらすぐに報告してくるやん」
「うっ」
 やっぱりな、と窓の外に視線をやりながらポテトを咥える横顔はCMスターさながらだ。なにやっても絵になりよる。謙也は僅かな嫉妬心を燃料に、「俺のことはええねん」と失恋について追及してきそうな気配を跳ね除けた。
「今日のお前ちょっと変やで。普段はそんな風にこっちが持ち出してもない恋愛の話に絡んできたりせぇへんやん。なんか悩んどんちゃうか。分かった! そっちも恋愛の悩みやろ。さては失恋でもしたか」
 捲し立てるよう言いきってから、ストローで口に蓋を閉じる。殆ど水に変わったジンジャーエールが、喉元を過ぎても、白石からの返事はなかった。
「失恋なぁ」
 痺れを切らし謙也がドリンクのお代わりを求めて立ち上がろうとしたとき、白石は独り言のように漏らした。
「謙也は結局、ミライちゃんのことは好きやったん」
 気だるげに細められた形の良い瞳に射竦められて心臓の拍動が高まった。自分にはそちらのケはないが、ゲイであることを明らかにしている美形からの意味深な視線はなかなかに心臓に悪い。
「俺はまあその……かわええなぁとは思っとったけど」
 再会したその日の晩、これは運命かもしれんと舞い上がっていたことは、口に出せなかった。全てが終わった後に言うのはあまりに恥ずかしいし、気のおけない仲とはいえ、白石が相手だと少しカッコつけたくなる。
「可愛いと好きって一緒やろ」
「別もんやろ。女の子なんか無機物が相手でもポンポン口に出しよるで」
「男は好きなもん以外に可愛いとは言わへんやろ」
「まあそうかもしれんけど」
 なんでそんなとこに食い下がってくるん、とは言いづらい雰囲気だった。
「綺麗と可愛いは違うよなぁ」
 吐き出した息が偶然形を結んでしまったような声だった。随分思い詰めた様子だ。
「今度の相手、そんなにええ男なんか」
 恐る恐る尋ねると、白石は急に我にかえったようになって、
「千歳、って言うたら驚く?」
 緩く首を傾けた。レギュラー会の日の晩、並んで闇に溶けていった二つの背中が頭に浮かぶ。
「まさか寝たんか」
 軽く想像してしまう自分が憎たらしい。
「冗談やって。謙也はすぐ本気にするなぁ」
 絶対千歳やん。しかしこれ以上は触れてくれるなと言わんばかりの友人を前にすると、それ以上深掘りも出来なくなる。
 停滞した場の雰囲気を変えるために、
「俺なぁ、お前が“そう”やって打ち明けてきたとき、こいつもしかして俺のこと好きなんかなって一瞬考えたわ」
「はぁ」
 珍しく間抜けな顔な顔を浮かべた男には、そのとき、「案外いけるかもしれん」と思ったことは伏せておく。
「その自惚れの激しさをミライちゃんに発揮出来たら上手くいったかもしれんのになぁ」
 からかうように吐き出した声は明るかった。
「きっついなぁ」
 謙也が傷ついたポーズを取ると、今度は優しい声になって、
「俺は惚れたことはないけど、謙也はほんまに優しゅうてええ男やと思うで。俺は惚れたことはないけど」
「二回も言わんでええねん」
 掛け合いを終えると、お互いに笑い合ってレポートの続きに取り掛かり始めた。シャーペンの先が、紙の上を走るさらさらという音が心地良い。今度は白石も集中して取り組めているようだ。
 窓から見上げた空が、いつも以上に高くに見えた。謙也は、器用そうに見えて案外不器用な親友の恋愛が多少は良い方向に向かっていくことを祈りながら、シャーペンのグリップを握り直した。
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