2話

 北風に頬を張られた。
「さむ」
 口をひらいたそばから体温が奪われていく。
 待ち合わせの時間まではあと五分。千歳千里は、まだ姿を見せない。
 連絡先を交換した晩からひと月もの間音沙汰のなかった男から電話がかかってきたのは昨日の夕方のことだ。
「なに」
 白石は液晶に男の名前が表示されてからたっぷり五コールが過ぎてからそれをとった。
『川、いかんね』
 初めて電話越しに、耳元で聞いた男の声は少しくぐもっていた。やっぱええ声や。ぼぅっとしてしまいそうになるのを堪えながら、
「川って、なんしに」
 極力硬い声で返す。
『平たい石がたくさんあるとこば見つけた。水切りしょうばい』
 流れるように言った男は、待ち合わせ場所と時間を告げると、さっさと通話を打ち切ってしまう。返事をする間もなく、無音になったスマートフォンを掴んだまま白石は立ち尽くす。
「水切りって、子供か」

 長い足を折り曲げて身をかがめた男が対岸に向かって放った石が、ひゅんひゅんと音を立てて水面を跳ねる。
 いち、に、さん、し、ご。五回だ。五回跳ねた。
「調子悪かー」
 最後に石の沈んだあたりを見つめながら、千歳は首を捻った。
「五回で?」
「やったことなか?」
 質問に質問で返されても、この男が相手だとわずらわしくない。
「子供の頃はしとらんなぁ」
 白石家は女系だ。従姉妹や、両親の兄弟も女が多いので、こういう遊びには不慣れだった。
「せやけど昔謙也と何度かやったわ」
 せっかちな男は、石を投げるフォームこそキマっていたものの、初めの石選びを疎かにするので、四度も跳ねれば上等で、時たま石が五回目のジャンプを披露したタイミングで白石が余所見をしていようものなら、『なんで見とらんねん』と大袈裟に肩を怒らせていた。
「謙也、あんまりうまないねん」
 思い出し笑いをする白石の顔を、気がつけばそばに寄っていた千歳が覗き込む。
「顔、近いわ」
「好きだったとね?」
 吐息のかかりそうな距離で見ると、男の目の形が存外に鋭いのがよく分かる。それでも、瞳の色は柔らかい。
「好きな友達やな、今でも」
「俺は」
「お前は、」
 友達では、ないのかもしれない。今も白石は、間近で見つめた千歳の肩の骨の太さに心臓を持っていかれそうになっている。
 男からの着信を受けたとき、“そういうこと”を少なからず期待した。
「これ、使ってみんね」
 返事に惑っていると、千歳がいつの間にか拾っていた青緑色をした石を手渡してくる。ほら、と腕を引かれて立ち上がり、出来るだけ低いところから投げろと、投石のコツを伝授される。
「たぶん上手くいかへんで」
 保険をかけながらも言われた通りに石を放った。
 いち、に、さん、し。四度跳ねた石が、名残惜しげに水の中に沈んでいった。
「なかなかうまかー」
「初めてやわ、あんなに跳ねたん」
 謙也は、トレーナーとしてはあまり有能ではなかったのかもしれない。
「石を投げる白石はきれいか」
 そればっかやん。内心で呟きながらも、口には出さず、新しい石を探す。それを口に出してしまうと、他の言葉を欲しがっている自分を認めることになりそうな気がした。
 二人して地面とにらめっこしながら、順繰りに石を放った。初めに投げたときに言った調子が悪いという言葉は強がりではなかったようで、何度か投げるうちに調子づいてきた千歳の石は、八回や九回跳ねることもあって白石を驚かせた。
 生き物みたいや。千歳の手を離れた瞬間から、ただの石が彼の命を分け与えられて意思を持って動き出すようだった。
「俺が投げたときとは、音がちゃう」
 ぽちゃぽちゃ、と四度跳ねた石が沈んでいくのを見送りながら白石が呟く。よくやっていたのかと尋ねると、「ミユキはもっとうまか」と返ってくる。
「橘とも?」
「あーせんせん。桔平としてもしよーんなか」
 俺は妹と同じ枠なのか、と考えてみたが恐らくはそういうわけでもあるまい。むしろ橘が特別なのだ。白石は、千歳の右目を盗み見た。
「桔平とは、河川敷で殴り合ったことがあるばい」
「はぁ、なんで」
「理由は覚えとらん。だごんこつ血が出たところで正気に戻ったと」
 ありゃいかんかった、と呟く男の唇の端がわずかに吊り上がっている。
「そういうのかなわんなぁ」
 千歳は出会った頃から飄々としていて、人当たりは柔らかいのに他人に感情を悟らせなかった。そういう男なのだと思って接してきたが、九州ではそうではなかったのだろう。
 剥き出しの千歳千里を、白石は見たことがない。
「人を殴ったりするとことか、あんま想像つかんわ。女子にも優しかったし」
 千歳は女子に人気があった。どう見つくろってもハタチ以下には見えない女性を伴って歩く姿も見たことがあった。
「女の子はむぞらしかけん」
「……確かに、せやけど少し怖いわ」
 成せない自分を求める目が、オトコを異性として、自然に手に入れることの出来るその体が。
「女の子は優しかよ」
 こちらが抱きしめていても守られているような心地がすると千歳は続けた。
 そういうところが怖いんやけどな。まばたきを繰り返すと、石を握った拳に男の手が重なった。
「今やないやろ」
 言葉とは裏腹にそれを振り払うこともせずに白石は対岸の景色を眺めていた。自転車を漕ぐ制服姿の男女が、視界を横切って消えていく。
 いつならよか、という男からの問いかけには答えられなかった。

 スマートフォンのアラームの無機質な音が瞼を刺激する。もう朝か。前日の晩、夜更かしをしたわけでもないのに首と頭の接地面が鈍く痛む。
「ん、んん……」
 呻くように喉を鳴らすと、鎖骨に近い部分に違和感があった。部屋の片隅に置かれた加湿器のライトが、水切れを起こして赤く点滅している。
 えがらっぽい喉を誤魔化すためにうがいを何度か繰り返してみたが、症状は緩和しない。
「あかん、これはやっとるな」
 風邪、の二文字を意識した瞬間、体の節々まで痛みはじめた気がした。
 ヤカンにミネラルウォーターを注いで温めながら、花粉症の季節以降しまいこんでいたマスクを探す。この程度の体調不良で大学を休むわけにはいかない。
 マスクよりも先に見つかった葛根湯を白湯に溶かして、ちみちみと喉を潤しながら、スマホを確認する。
 今から行ってもよか──深夜二十六時、千歳から届いていたメッセージだ。
 男とは水切りに行って以降何度か顔を合わせたが、これといった進展はない。
 千歳は、のんびりしているように見えて本来その手のことに対しては案外即物的なはずだ。いつか“そういうこと”になるかもしれない、そんな風に意識しているのはこちらだけで、向こうはただの友人として白石と付き合っていきたいだけなのか。男同士にしては過剰とも捉えられるスキンシップに込められた意図を考えるのも面倒だった。
 ねとったわ、それだけ返信をして、今度はゲイ向けのマッチングアプリを開く。こちらにもいくつかのメッセージが届いていた。
 その中の一つに見慣れた男の名前を見つけて白石は瞬きをする。
『週末食事にいかない?』
 あり触れた誘い文句。関東の会社から転勤でこちらに来ている語ったサラリーマンの顔を白石は思い浮かべた。自分よりは幾分背の低い、色の朝黒い男。週末には髭を生やすが、清潔感を損なうことはない。
 男とは半年程前に出会った。年上ということもあり落ち着いた雰囲気の男とはそれなりに話が合う。カラダの相性も悪くないので、この手のアプリで繋がった人間の中では珍しくワンナイトで終わらず何度も顔を合わせている。
『土曜ならあいてます』
 今日は木曜日だ。体調は思わしくないが、二日後の晩なら多少はマシになっているかもしれない。
 あんまり重くないものが食べたいです、と追加で送信してから、千歳とはこんな風に生活感のあるやりとりをしたことがないことに気がついた。

 怠い体を引きずってなんとか二コマの授業を受けて帰宅すると、玄関の前に友香里が立っていた。
「あれ、約束しとったっけ」
「しとらんかったら来たらあかんの。というか風邪引いたん」
 不織布のマスクを一瞥した妹は、おかゆでも作ろかと首を傾げた。一足先に一人暮らしを始めた兄としては情けないが、その言葉に甘えることにする。
 まな板を包丁が叩くリズミカルな音が心地いい。狭いキッチンに立つ妹の後ろ姿は、いつの間にやらぐっと大人びていて、白石に無為に過ごした時間の重みを自覚させる。
 自分が異性愛者だったらあそこで包丁を振るっていたのは可愛い恋人だったのかもしれない。
「週末は布団から出たらあかんよ」
 成長した妹は、時に不出来な庇護対象を嗜めるような目で兄を見つめる。
「土曜日の夜約束しとるから」
「彼氏?」
「……友達」
「アプリの人やろ」
 生米を鍋にかけた妹がソファに横たわる白石に近づいてくる。その目が三角になっているのを認めて、「変な人やないで」と取り繕うように言った。
「普通のサラリーマンで、何度も食事にも行っとる。真面目な人や」
「でも好きやないんやろ、めちゃくちゃやん」
「そういう関係やない」
 これ以上触らないでくれというニュアンスを滲ませて言ったのに、妹の舌は回り続ける。
「向こうも男の人が好きなんやろ。学校の友達とかやったらともかく、全く無関係やった人間がそういうとこで知り合って何度もご飯にも誘ってくるって、相手はクーちゃんに気があるんやと思うで」
 好みやないの、と問いかけてくる声は柔らかい。
「ええ人やで」
「ええ人なら付き合ってみたらええのに。お母さんせっかくイケメンに産んでくれたのに、ええ歳して恋愛経験ゼロって甲斐がないわ」
「まだ二十二やで」
 他人との交際経験がないからといってハタチの妹にぶつくさ言われるような年齢ではないはずだ。
「気になる人とかおらへんの」
 反射的に千歳の顔が浮かんだ。
「……おらんけど」
「おるんや!」
「そういうんやないから」
「そればっかやないの。どんな人なん、あ、まさかケンヤ?」
「ちゃうって、なんで千歳もお前も、」
「千歳?」
 失言だった。
「分かった。その千歳さんって人のことが気になっとんやろ」
 こういう時、女の勘は鋭い。妹だと思って舐めてかかると痛い目を見る。
 これ以上は何を言っても追い詰められる一方だろう。友香里はしばらくの間はそんな彼を質問攻めにしていたが、兄がそれに応じる気がないのだと分かると、「恋愛ってそんなに悪いもんやないんやで」と諦めるように呟いてキッチンに戻って行った。

 恋愛は、悪いものじゃない。そんなことは分かっている。今までその手のことで傷ついたこともないから、恋に臆病になっているわけでもない。
 性自認のきっかけが、こいつのこと好きやなぁではなく、こいつと寝てみたいなぁの方だったのが悪かったのかもしれない。
 それでも好みの同性に好きだ付き合ってくれと告白されていればまた何か違っていたのかもしれないが、アプリで男を漁る以外にゲイらしいコミュニティに属していないこともあって、受け身の恋愛の発端になるような機会にも恵まれなかった。
 今日はそれが変わるかもしれない。痛む喉を龍角散ダイレクトで誤魔化しながら辿り着いた蕎麦屋で、白石は件の男と向き合っていた。
 告白されそうな気がするという予感が、これは絶対告白されるという確信に変わったのは、待ち合わせ場所の駅前で男と顔を突き合わせたその瞬間で、外灯に照らされたその人の顔は、いつになく緊張して強張っていた。
「ここ、前に会社の接待で来たんだけど蕎麦以外の料理もなかなかいけるんだ」
 不自然なくらいに明るいトーンの男の声には訛りがない。自分とは違う生活圏で生きてきたのだとしみじみと考える。
 言葉通り、その店で出されるものは総じてレベルが高かったが、食事が進むにつれて、男の口数は減っていった。それでも静かに酒を酌み交わす時間は苦痛ではなかった。友香里の粥を食べて以来静養していたので、体調も万全とまではいかずとも喉のいがらっぽさは消えており、息苦しさは感じない。
 千歳といるときはこうはいかない。男の一挙一動が気になって、冷静でいられなくなる。
「話があるんだ」
 真剣な目に射抜かれたのは、蕎麦湯で体を温めて席を立とうとしたときだった。
「外、歩きながらでもええですか」

 店を出た瞬間に吐き出した呼気が、柔らかく白んで空に浮かび上がった。腕にかけていたマフラーを首に巻き直す白石を隣で眺めていた男が、「君はやっぱり綺麗だね」と瞬きをした。
「可愛くはないですか」
「えっ」
「あ、いや……変なこと聞いてしまってすんません」
「可愛いよ」
 食い気味に言ってから、男は狼狽えたように後退りをした。こちらこそごめん、と頭を軽く下げながら、白石の目をじっと見据える。
「だけど本当に可愛いんだ。僕は君が好きだよ、順番が違っちゃったけど、真面目に付き合いたいと思ってる」
 人目も憚らぬ告白には、男の真剣な気持ちが表れている気がした。目抜き通りからは逸れているとはいえ、土曜の晩なので道には一定の人通りがある。
「俺、今まで人と付き合ったこととかなくて」
 言いながら、どういう返答をすればいいのか思案する。今日あたり告白を受ける予感はあったが、どういう返事をするかは考えていなかった。
 友香里の言う通り、恋愛はきっと悪いものじゃない。何度も顔を合わせて、相手の人格はなんとなく知っているし、自分を好きだと言ってくれる気持ちも素直に嬉しい。
「歳の差もあるし引くかな」
 そう言った男との間には十程の年齢差があるが、それが付き合う上でネックになるとは思わない。この界隈はそう広くない。その程度の年齢差を気にしていたらいい相手なんていつまでも見つからないだろう。
「年齢は関係ありません」
 だけれど、とりあえずで付き合ってみるには男は善良に過ぎる。
「それなら」
「なんで俺なんですか。そないにたくさんのゲイと関わってきたわけやないけど、こっちの界隈では俺みたいなタイプはあんまりモテへんってことはなんとなく分かってます」
 現に今までアプリで出会ってきた他の男たちとは一夜限りに終わることが多かった。好意を持たれていると感じたのもこれが初めてだ。きちんとメッセージのやり取りをすることもなく、近くにいると表示された男とばかり会ってきたのも悪かったのだろう。
「勿論ゲイの世界ではイカニモって感じの男らしい容姿をした男がモテることが多いし、俺だってそういうタイプには憧れがある。だけど君は例外だ。君は綺麗だ。綺麗なものが嫌いな人間はいない」
「そんな……」
 歯の浮くような甘い台詞を往来で連呼されて、白石は苦笑した。
「君は常識的だし、思いやりがある。人としても、とても綺麗だよ。僕はすぐに君を好きになった……今まで出会ってきた誰にとっても君は特別な存在だったはずだ」
「大袈裟やわ」
 少し容姿が優れているだけの普通の男を、魅惑のオムファタールに変えてしまう恋を、初めて恐ろしいと思った。
 そんなことないと返した男の自分を見つめる目は、熱を孕んで潤んでいる。
 目は、口よりも多くを語る。白石は綺麗か──そう呟く千歳の目を、真っ向から見たことはない。お前は特別だ、そんな風に視線で語りかけてくれていただろうか。
「そんな風に言うてもらえてありがたいです。今日の食事も美味しかった。せやけど、」
 それ以上は言わせてもらえなかった。眉を下げて首を横に振った男は、「タクシーを拾うよ。せめて家まで送らせてくれ」と歩き始めた。

 土曜日の晩の外出が祟ったのか、週末を跨いで火曜の朝にはベッドから体を起こすのも困難になっていた。寝ている間に乾き切った喉は、いがらっぽいのを通り越して鈍く痛み、頭の芯は綿でも詰め込んだかのように重い。
 前日の晩に友香里から話を聞きつけた姉から、家まで行こうかと連絡が来た。伝染してはいけないからと断ると、今度は母親から似たようなメッセージが届いた。いくつになっても弟や息子には世話を焼きたくなるものらしい。
 ベッドの上で寝返りを打ちながら土曜日の晩に別れて以降、音沙汰のなくなった男のことを思う。告白を断った上に風邪まで伝染してしまったのでは、流石にいたたまれない。
 大学で一緒に行動している友人に講義の代返を頼み、ベッドサイドの窓にかけられたカーテンの隙間から外の光を眺めていると、スマホがバイブした。
 千歳だ。ラインに写真が届いている。
「なんでやねん」
 開いてみると、そこには青い空を背景にした坂本龍馬の像が写っていた。眉間に皺を寄せたまま数秒待つと、『高知』と追伸が添えられた。見れば分かる。
『なんで高知』
『カツオが食べたくなって』
『時期なん』
『分からない』
 そこまでやりとりしてスマホを伏せる。
 床に伏せっていると、近所の小学校の体育館で子供達がバスケットに興じている声が聞こえてくる。普段は意識したこともないその声が、病身には妙に心地よい。
 今は高知にいる男は、子供の頃はどんな風だったのだろう。出会った時にはもう大人に引けを取らないくらいに体格が良かったから、小さな姿は像を結ばない。
それでも流れ雲のような気ままな性質は今とそう変わるまい。
 ふ、と溜息をついた拍子に口角が上がった。千歳の顔が見たい。不意に浮かんだ心の声に返事をするように、スマホがまた震える。
『夜に行ってもいい』
 芋けんぴの写真が添えられていた。メッセージだと訛りが取れるのが面白い。
『風邪引いとる、伝染したらあかんから』
 遠回しに断ると、
『マスクしていく』
 それ以上の返事は送らなかった。羽毛布団を口元まで被って目を閉じた。

「腹へっとらんね」
「そこそこ」
 千歳を部屋にあげたのは初めてだった。土産が入っているらしい紙袋を持って玄関先で下駄を脱ぐ男は、十一月には不似合いなくらいの薄着である。
「そんな格好でさむないん」
 部屋のエアコンをつけながら白石が尋ねると、「高知はぬくかった」と笑う。
「四国かぁ、行ったことないわ」
「山が多か」
「電車は走っとん」
「走っとるけどレンタカー借りた」
 運転できるんや。ペーパードライバーの白石は、筋肉の筋の浮いた男の腕を見つめた。あの腕がハンドルを操る隣に座って田舎道を運ばれていく自分を想像する。
「台所借りるばい」
 そう言って流し場の前に立つ男の背中を名残惜しげに見送って、白石は布団の中に戻った。
 ついに部屋に入れてしまった。OB会で再会した日、部屋の前まで迫ってきた男は、結局白石の深い部分に触れることのないまま去っていった。
 今日こそはどうにかなるかもしれない。風邪をひいているのに良からぬ想像をしてしまって、白石は一人で恥ずかしくなった。
 きっと千歳にその気はない。同性と寝れる男なのかどうかすら分からない。
 ヤキモキしている内に部屋の中に香辛料の匂いが充満し始める。少し驚いて、「ちとせ」と声をかけると、「もうすぐ出来るばい」と返ってきた。男が台所に立ってまだ十分も立っていない。
 目を白黒させていると今度はレンジがチンと鳴った。
「あちち」
 恐らくは皿に何かを移しているらしいゴトンという音。ベッドから起き上がってしばらく待っていると、
「熱かけん気をつけて」
 ローテーブルに置かれたのはカレーだった。レンジでチンするタイプのご飯は、パックの形のまま皿に鎮座している。
 病人に出すようなもんか。相変わらず変わった奴だと思いながらも、スプーンを手に取る。
 布団を出たそばから冷えていく肩に、千歳がタオルケットをかけてくれた。
「おおきに。いただきます」
 一口含むと、存外に複雑なスパイスの香りが鼻から抜けていった。
「結構イケるわ」
「うちはいっつもこればい」
 得意げに頷いた男がペットボトルから注いだ水を喉に通すと、舌先にピリリと辛味がはしった。案外本格的な味だ。店で食べるインドカレーっぽさもある。
「袋のやつ?」
 白石が尋ねると、男はゆらりと立ち上がった。キッチンに足を運んでから、「これこれ」と笑いながら戻ってくる。その手には『印度の味』と書かれた空瓶がのっていた。
「あー見たことあるわそれ。食うのは初めてやけど」
 こんなうまいんやなぁ、と頷く白石を見つめる千歳は満足げだった。
「しっかり食べて元気にならんと。お土産、中に入れとるけん」
「ん?」
 なんや中って。首を傾げながら更に口に含むと、ゴロリとした具が初めて出てきた。反射的に奥歯で噛み締めると、繊維質にひらけていく。
「これなんの魚」
「カツオスティック」
 あと何本か買っとるばい、と部屋の片隅の紙袋に視線をやる。買ってきた土産を黙ってカレーにいれるあたりが千歳らしい。
 昔と変わらない、マイペースな男。男の良いところも悪いところも詰め込んだようなカレーの味が病身に堪える。
「どぎゃんしたと。しんどか?」
 男の手のひらが額に触れる。冷たい、と文句をいう間も無く、赤らんだ顔を覗きこまれる。優しい目を、している気がした。だけどそれは誰にでも向けられるものなのかもしれない。男は昔から、同じ目をしていた。
「……俺、千歳とは付き合えへん」
 男は瞬きをしなかった。告白しとらんけど、茶化してくることもない。
 大阪に戻る電車の中、つり革のパイプを掴んだ男の笑顔が胸によぎる。あのとき体が熱くなった。心臓は痛くなった。きれいか、きれいか──何度も言われた言葉の意味をずっと考え続けていた。
 やっぱり千歳とは駄目だ。付き合ったら、これ以上先に進んだら、壊れてしまう。ずっと大切にしていたものが。
 手首を掴んで、額に触れたままの手のひらをそっと口元によせた。カレーの風味の残る舌で、そっと皮膚の表面をなぞってやる。
「ちゃんと食べんと」
 言いながらも男は白石の髪の毛を撫でる。やわらかか、と遠慮もなく真っ直ぐにこちらを見つめる。
 男は初めからそうだった。
『今日からウチに入る千歳クンや。九州じゃごっつ有名な選手なんやで』
 背が高い、というのが第一印象だった。
『こっちはうちの部長の白石。顔がええだけやなくてめーっちゃ強いで』
 オサムの軽口になにを返すでもなく、自分を見つめてきた目がちょっとないくらいに真っ直ぐで怖かった。拳を握りしめて、『よろしくな』と放った声は震えていたかもしれない。
 それに応えた男の声が妙に胸に響いて、なんで男やのに色っぽいんやろうと思った。今自分の髪を撫でている男のことも、昔と変わらず色っぽいと思う。
 これは性欲や、俺はこいつと寝てみたいだけやと自分に言い聞かせようとすればするほどに、男の真っ直ぐな目が迫ってくるみたいだった。
「初めて会ったとき、」
 なんであんな目で俺を見たん──言葉の続きは飲み込んだ。答えに期待したくない。心の内側に隠してきたものが暴かれるのが恐ろしい。
 白石は千歳の胸に手を触れた。初めて自発的に触れた男の胸板は痩せて見えるのに分厚かった。首に、背中に、腕を回したくなるのを堪えて、その体を押し倒す。特別な抵抗もなく床を背にした男は、薄く微笑んでいるような、少し戸惑っているような表情でこちらを見上げていた。
「開けるで」
「は、なんを」
 ちょっと焦った声。初めて聞いた。
 デニムのジッパーに指をかけて、ずらしたボクサーから萎えたままのそれを取り出す。皮をかぶっていない、赤黒い先端に、そっと指先で触れる。
 片手では数え切れないくらいに男と寝てきたのに、その感触には未だに慣れなかった。カリを口の中に含むと、塩っぽい味がする。昨日風呂入ってなかったらええのに。冷静に考える一方で、舌で傘の輪郭をなぞる内に千歳のそれは他の人間のものとは違っている気がしてきて、生々しいくらいに、心臓の拍動が激しくなった。
「っ、はぁ……白石」
 やっぱり色っぽい声だ。舌を生き物みたいに動かして、カリを念入りに嬲る。つい先ほどまで萎えていた男のそこは緩やかに膨れ始めていて、こいつもちゃんと男にも勃つんやなと感動した。
 男の弱点を自分が握っている状況に胸が空いた。鈴口に舌先をねじ込み、カリ首の段差をたっぷりの唾液で舐め回す。竿にはあえて触れない。
「……ふ」
 千歳の呼吸が荒くなる。それを聞くだけで下っ腹が重たくなる。
 根本を掴んでペニスを勃たせ、大きな音を立てながらぷっくりと膨れた先端を吸い上げた。口の中でどんどん大きくなる男のカリが、きゅうきゅうとうずく内側を擦り上げるのを想像する。
「しらいし、」
 視線を上げると余裕を失った男の目とかち合った。心底気持ちよさそうに瞬きを繰り返している。千歳でも、そんな顔するんや。気分がいい。調子に乗って更に吸い上げる。
「さおまで咥えてほしい?」
 五分か十分、そのくらいの時間は過ぎていた。咥えっぱなしのそこは唾液を含んでテラテラと光っている。もっと奥までとねだる男の声が聞きたかったのに、それは叶わなかった。
「こういうんはよくなか」
 数分ぶりに口を開いた千歳は白石の頭を撫でた。
「引いとる?」
 千歳は眉を下げる。引かれても知るか、もうどうにでもなれ。唇の感触を覚え込ませるようにカリを吸い上げ、先端にキスを落とすと、男は苦しげに目を細めた。千歳の遅漏、と鈴口を舌で舐めたとき、男は体を起こした。
「ふぁ、か」
 両頬を力強く掴まれて、反射的に開いた口に張り詰めたペニスが差し込まれる。
「んんっ、んー!」
 抵抗する間もなくゆるく含んでいた先端が喉奥に押し込まれる。
「ぐっ」
 突然のことにえずいた白石の頭を固定する千歳の力は強い。
「んんっ……んぐ」
 生理的な涙が目尻に浮かぶ。視線を上げると、雄臭い欲情にまみれた目が白石を見下ろしていた。
 こいつスイッチ入ったらサドっけ出してくるタイプか。そういうのも嫌いやないけど、つーかめっちゃデカいし、ありえん。
 混乱しながらも、太く浮き出た血管に舌を添わせると、
「くっ」
 低い呻き声が降ってきた。触れてもいないペニスの先端から先走りがこぼれる。
「ん、む……」
「もすこし、喉締めなっせ」
 焦れたような声がたまらなかった。腹の内側がひっくり返りそうな感覚をやり過ごしながら喉を締めると、上顎から喉奥にかけてをカリ首でなぞられた。口の中に塩っぽい味が広がる。
「んっ、ん、ふ」
 頬の内側を念入りに擦り上げられる。じゅぽじゅぽと下品な水音が部屋に響く。
「……っ、しらいしっ」
 また名前が呼ばれる。余裕のない声。喉を突かれて、鼻の奥に流れ込んだ涙がツンとする。口に含むだけでもこんなに苦しいモノが、自分の淫肉を圧迫するのを想像して白石は眉をひそめた。
 千歳とセックスがしたい。体を繋げたい。この猛々しいモノで体の内側をこじ開けてほしい。
 欲求は頭の中で具体的な像を結ぶ。四つん這いの姿勢で千歳に犯される自分の姿を白石は想像する。
 自然に股間に手が伸びて、完全に勃ちあがったペニスを取り出すと千歳が小さな溜息をこぼした。
「白石はそんなとこまできれいかね」
 言いながら興奮したのか、腰を強く押し進めてくる。男に見られている羞恥から、白石のペニスは痛いくらいに張り詰めた。スレのないピンク色をした先端から、こぽりと透明のものがこぼれ落ちる。
「シとるとこ見せてみらんね」
「ん」
 根元を握りしめると、よく出来たと言わんばかりに前髪をかき分けられた。存在感のある指の動きの優しさに、泣き出しそうになる。
「白石もヨくなって」
 千歳の視線を感じながら、ペニスを握り込んでいる手を動かす。先走りによって湿り気を帯びたそこから、ぐじゅっぐじゅっという音が響くのがたまらなく恥ずかしかった。
 見るな、聞くな、と言いたいのに男のモノが口内にぴったりと収まっているので叶わない。
 意趣返しの代わりに、カリの段差から先端にかけてを念入りに吸い上げると、男の腰が震えた。
「っ……そこよか」
 髪を掴む指に力を入れられて、頭皮に鋭い痛みが走る。その痛みに興奮して、ペニスを擦る指に力がこもった。
 睾丸が持ち上がる。自分の限界が近いのを悟って、ペニスを咥える角度を深めると、男の背中が静かに丸まった。
 千歳は小さく腰を振るって白石の喉奥を犯す。目線を上げると、獲物を捕食する獣のような目に打ち抜かれた。
「んっ」
 ドロリとしたものが手を汚す。不快感に瞬きをした白石の後頭部を、千歳が強い力で掴む。
「はぁ……」
 ぐぷぐぷと、最奥まで押し込まれた男のモノが弾ける。粘り気のある白濁を白石は迷うことなく飲みくだした。

 手のひらにこびりついた汚れを念入りに拭き取る。拭っても拭っても、青臭い香りの残滓が残っている気がして執拗に拭き取る。
 俺と千歳の関係みたいや。つまらないことを考える。
 これは性欲だと思い込もうとすればするほどに、男に対する愛着は増していった気がする。実際に体に触れてみて、この関係を、中学生の時に知った胸のざわめきを汚したくなかった自分に気がついた。
「千歳」
「ん」
 身なりを整えて、こちらに水の入ったグラスを差し出す男の顔から、感情を読み取ろうとしたが叶わなかった。熱のせいか頭がぼんやりとしている。
 グラスを受け取る。水を一口飲む。
「……今日のこと忘れてや」
 一瞬潤った喉がみるみる内に乾いていく。口に出したそばから、自分の言葉を取り消したくなる。
 本当は忘れてほしくなんかない。千歳ともっと深い関係になりたい。
 たまらなくなってローテーブルに横っ面を預けると、男は心配げに手を伸ばしてきた。それを掴んで、「泊まっていきや」と迫る。
 数秒と経たない内に矛盾した言葉を吐き出しても、千歳なら受け止めてくれそうな気がした。それなのに、
「今日は戻る」
 あっさりと返した男は、自分の手を掴んだ白石の指をゆっくりと解いて立ち上がった。
「そ、そと寒いで」
「走って帰るけんよか。体、休めた方がよかよ」
 そしたら、と手を上げて男は去っていく。引き留めたいのに、そばにいてほしいのに、はしゃぎすぎた病身は鉛のように重たい。
「はああ……」
 一人残された部屋で溜息を吐き出す。反動で吸い込んだ空気は、意識の外に追いやっていたカレーの匂いに満ちていた。馬鹿馬鹿しくなって口の中にかき込んだそれの味は、男と二人でいたときよりも舌に響いた。

 

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