1話

「そしたら、白石の初恋はいつ」
 居酒屋の店内は、喧々としていたが金太郎の声はよく響いた。厠から戻って席についたばかりの白石がふと顔を上げると、昔と変わらないニカっとした笑顔がそこにあった。
 教えてやぁ、と急かされて初めて、他のOBの視線が自分に集まっていることに気がつく。
 いつの間にそういう話の流れになったんやろ。自分が中座している間、どのような話が場で展開されていたのか。なんとなしに想像はつくが、細かい部分が気になった。
「金ちゃんがそういうこと言うの珍しいなぁ」
「白石はこういうとき絶対逃げるなぁ」
 話の逸らし方が露骨すぎた。ケチやケチ、と白石が中座する前に剥いていた空豆を指でつまむ男の指は長い。ええ男に成長したなぁ。しみじみそんなことを思う。
「やっぱり白石はアカンわ。絶対教えてくれへん。ミライちゃんの話に戻ろ」
「な、なんでやねん。戻らんでええわ」
「いや〜ん、謙也くん二度漬け」
「うわ、やってもうた」
 二度漬けした串を慌てて口に含んだ謙也は、味わう暇もなくそれを飲み下して店員を呼んだ。
「すんません、これ二度漬けしてしもて」
 平謝りする男のスマホを、小春の隣に座っていた一氏が拾い上げる。
「小春、謙也の誕生日は」
「三月十七日よー」
「早生まれやから……年で、ぜろ、さん、いち、なな。おっ開いたで」
「やだ、セキュリティガバガバやないの」
「何を勝手なことしとんねん!」
 一氏に掴みかからんばかりの勢いの謙也の杯に、小春が「まあまあ」と瓶ビールを注ぐ。
「先輩らうるさすぎますわ」
 隣で冷えた声を上げる財前に、「これなんなん」と問うと、
「聞いとらんかったんスか」
 スマホのレンズを向けられた。カシャリ──無機質なシャッター音が鼓膜に届く。
「モデルがええとスマホが生きるわ」
「ブログに載せんとってな」
「ストーリーにしときます」
 そういう問題とちゃうわ。
 白石が溜息をつくと財前は、「ミライちゃん知っとります?」とスマホの画面をこちらに向けてくる。曇りのない液晶の中には、セミロングの髪を内巻きにした女が映り込んでいた。ピンクのリップの内側で並びの良い白い歯が輝いていて、ちょっとしたアイドルのように可愛らしい。
「いや、知らんけど」
「謙也さんの初恋の女子で、実習先の病院で再会したとかなんとか言うんで、」
「イジっとったんやな」
「そういうことっスわ」
 大体の流れを理解すると、謙也らのやりとりに関心が湧いてくる。それとない風を装って視線を移すと、一氏からようやくスマホを奪還した謙也が、「今も好きとは言ってへんやろ」とがなり立てていた。
「せやけど、意識しとるからこんな場でわざわざ話題にあげたんとちゃうのん。謙也くんにそんなに想われるオンナの子にちょっぴしジェラシー」
「浮気か、死なすど」
 顔を合わせるのは数年ぶりだが、以前と変わらぬ調子の小春と一氏の調子には心が和んだ。
 スキやって顔に描いとるでぇ、と謙也の腕を掴む金太郎も、図体こそデカくなったものの昔と変わらず屈託がない。
「なんやよう分からんけど、二人でご飯食べに行くくらいええんちゃう」
 楽しげな一団に混ざって白石が援護射撃のつもりで飛ばすと、「蔵、お前まで」と謙也は複雑な表情を浮かべた。相変わらずヘタレやなぁ、喉元まで迫り上がってきた言葉は、流石に可哀想なので飲み下す。
「昔好きやったいうても幼稚園児の時やで。お互い中身も外見も全然変わっとるし、本当にただの思い出話やねん」
 退屈げにスマホを眺めていた財前が、小さな溜息を溢す。
「浮かれとるなぁ」
 隣に座る男にしか聞こえないような声で呟いた自分の初恋について思い出そうとしたが、なかなか上手くいかなかった。幼稚園、小学校、中学校と記憶を辿っていっても、そんな風に呼べるような甘酸っぱい感情には縁がないことを思い知らされるばかりだ。
 ウーロンハイの氷が溶けるカチリという音と、ラストオーダーを知らせる店員の声が同時に聞こえた。
「そしたら最後にレモンハイ一杯、ほらお前らも飲むやろ」
「じゃあウチ、バイオレットフィズ〜」
「俺も」
「謙也くんウチらを酔わせてどうするつ・も・り?」
「どうもせんわ!」
「やらしいやっちゃ」
「それはお前らやろ!」
 捨て鉢な声を上げる謙也に、小春とユウジが続く。成人前の金太郎は、カルピスサイダーを追加で頼んでいる。
「俺はええっスわ」
「俺らも大丈夫です」
 小石川と銀のグラスにドリンクが残っているのを確認してから、同世代らしき女性店員に微笑みかける。
「わ、分かりました」
 分かりやすくうろたえた様子の女性店員が厨房に戻って行くのを見届けた隣の男が一言、
「相変わらずモテるんスね」
「それなりにな」
「否定せんの引きますわ」
「したところで文句言うやろ」
 意識することのない相手にいくらモテたとしても仕方がない。そんなことを言ったらますます嫌な顔をされるだろうか。

「すみません。お客様、当店ただいまラストオーダーを迎えまして」
「そら困ったばい。ここで人と約束しとっとに」
 レモンハイやカルピスサイダーが届いた頃、店の入り口の方から聞き覚えのある男の声が聞こえてきた。閉店間際であることもあって店の外側に押し留められているようだが、のれんごしに見ても一際背が高いのが分かる。
「あれ、」
「千歳先輩ちゃいます」
 白石の言葉を後輩が引き継いだ。
「まあ入れんならよかばってん。外で待っとるばい」
「内側の椅子に座って待っとってもらっても大丈夫ですよ」
 さして声を張らなくても、男の声はよく通る。そうして店員のやりとりを終えた頃には、未だに未来ちゃんのことで騒いでいた謙也や小春達も千歳の存在に気がついたらしい。残っていたドリンクを片付けてさっさと会計をする運びになる。

「今日は七時からって伝えとったはずやで」
「行き道にむぞらしか子猫がおった」
 焼き鳥の残り香の漂う店先で、呆れたように頬をかく謙也に、千歳は笑いながら返した。
 答えになってへん。千歳らしいなぁ。
 白石が思ったようなことを、謙也も返している。悪びれる風でもなくその場に佇む男の姿を、不自然にならない程度に視界におさめる。
 千歳と顔を合わせるのはおおよそ三年ぶりだ。前回会ったのは、台湾旅行に出かけていた姉と妹を迎えるために出向いていた伊丹空港だった。到着ロビーで二人が現れるのを待っていた白石の目の前に偶然現れた千歳は、旅行帰りとは思えないほどの軽装でお馴染みの下駄を鳴らしていた。
『せんべい食わんね』
 久しぶりとも、奇遇だなとも言わずにせんべいを差し出されたあのときも、千歳らしいなぁと思った。千歳が、千歳らしからぬ行動をとるところを白石は見たことがない。千歳らしからぬことを言うこともない。流れ雲のようにふらふらしているように見えるのに、男にはブレがないのだ。
 どこ行っとったん。八戸。そんな軽装で。自転車ずーっと走らせたらついとった。自転車はどうしたん。
 そこでせんべいを受け取った。自転車は八戸の中学生にやったと言っていた。聞きたいことは山ほどあったのに、姉と妹が帰ってきて、気がつけば千歳は姿を消していた。

「白石はいつ見てもきれいか」
 男の声で現実に引き戻される。
「おおきに」
 緊張を押し殺して、
「せんべい、うまかったわ。おおきに」
 三年越しの礼を重ねると、「そらやよかったばい」と以前会ったときよりもいささか伸びた髪を揺らす。
「白石は次の店も行くとね」
 言われて視線を移すと、謙也や小春達は未だにじゃれ合っている。
「せやけど実習終わったら余計に誘いづらなるやろ〜恋はイケイケどんどんで行かなあかんで」
「俺にもタイミングってもんがあんねん」
 実習前に黒染めした髪を夜の闇に溶かした謙也は、なんとか言ったってやという視線を白石に送った。そんな目で見られても、ほろ酔いでパワー前回の小春に太刀打ちできるような助け舟を白石は持ち合わせていない。
 肩をすくめて笑うと、「うらぎりもの」と口パクされる。
「往生際悪いなぁ。未来ちゃん、めっっっちゃかわいなってた! いうて写真送ってきたくせに」
「アホ財前! こんなところでいらんこと言うなや」
 謙也がその未来ちゃんという初恋の女を意識しているのは確かなようだ。彼女について弄られることも、面映くとも、悪い気はしていないようで、心なし普段よりも声が高い。
「そしたらこのあとカラオケで作戦会議やね」
「俺らの漫才で景気付けしたるわ」
 小春とユウジの言葉を受けて、一同は歩き始める。
「こんな風に人の恋バナとか聞くん久々やからおもろいなぁ」
 小石川が言うと、「色不異空」と銀が一言。
「可愛い言うただけで好きとは言ってないやろ」
「なんや謙也さんの言うこといちいちダサイっスわ」
 二人が揉めている側で、金太郎は、「おっちゃん、たこ焼きひとつ」と小銭を出している。
「収集つかんなってきたなぁ」
「こらおもしろか」
 風のように軽やかに言った男がのびをする。長い腕が空に向かって伸びるのを見ていると、妙に胸がそわそわした。
 駅が近づいている。隣の男のうなじの毛が風に舞う。
「俺、明日早いし今日は帰るわ」
 立ち止まって告げる。
「実習か」
 すぐさま言葉をよこしたのは、隣の男ではなく、振り向いた謙也だった。
「友香里に呼びつけられとるから」
 意味もなく嘘をつく。大変やなぁ、もっと蔵と飲みたかったのに、と謙也は眉を寄せる。
「またいつでも誘ってな」
「白石が行かんなら、俺もいぬる」
「なん、」
 なんで、という白石の言葉をかき消すように、
「あら〜怪しいわぁ!」
 小春が小さく叫んだ。千歳は意味深に口元を緩める。そこに深い意味なんてないことを知っているから、白石は、「ほなまた」と駅に向かって歩き始めた。
 下駄の歯がアスファルトを叩く音が背後から迫ってくる。それと共に小春から謙也に向けられた、「初恋の後始末が出来ることなんてそうそうあらへんで」いやに優しい声が鼓膜を震わせるので、白石は下唇を噛んだ。

 しばらく歩かんね、と男が言うので、駅をやり過ごして、人の流れにのって歩き始めた。二人きりになったからといって特別に会話が弾むわけでもない。千歳とは昔からこうだった。
 暗く、しかし沢山の光の反射する歓楽街の真ん中で、下駄を鳴らして歩く千歳は、人間の背が高いのを通りこして電信柱のようだった。それなのに足を運ぶ所作は猫のように気まぐれなのが面白い。
「なんで」
「ん」
 男が立ち止まる。伸びた前髪の隙間から見える黒い瞳が、白石を射すくめる。
「カラオケ行かんかったん」
「あー」
「積もる話とか、あるやろ」
「今日は白石目当てだったけん」
「……俺は別に」
 千歳目当てではなかったし、目当てにされるほど千歳とは近しかったわけでもない。
 何かにつけて人にかまいたがる小春や、副部長として陰ながら自分を支えてくれた小石川、互いの家を行き来するほど親しかった謙也。それらの人間に比べると、千歳との関わりは随分と希薄だった。
「まあでも、こうやって一緒に歩けて嬉しいわ」
 それは本音だった。立ち止まったままの千歳を追い越すように足を前に出すと、男も長い足をぶらりと揺らす。
 歩調を合わせながらも、男性一人分程度の距離をひらいたまま歩き続けている内にあたりの雰囲気が怪しくなってきた。ネオンの色が、あからさまにどぎつい。ナンパにいそしむ大学生や、家に帰るのを億劫がるサラリーマンの姿が消えて、お互いの体温を分け合うように寄り添い合うカップル達の姿が目につくようになってきた。
 数十メートル歩くごとに、それらの人々はホテルの中に消えていく。その中には男同士のカップルの姿もある。
「白石、こっちきなっせ」
 相変わらずええ声やな。現実逃避に考えている内に手首を掴まれて路地裏に連れ込まれる。自分のものに比べれば大きく、厚みのある男の手のひらは、ひだまりのような熱をたたえていた。
「いきなりなんやねん」
 警戒心や、焦燥を感じる間もなく熱は離れていく。
「あそこ」
 指差された方向に視線をやると、ビルの隙間に二匹の黒猫がいた。お互いが寄り添うようにして震えながら、手を伸ばした千歳に向かって、みゃあと鳴いて見せる。
「むぞらしか」
 きれいか、と自分に言った時とは声の質が違った。愛玩動物に向けるとけた声。それがたまらなく体に響く。
「猫、好きなん」
「自由でよか」
「答えになっとらん」
「白石のことは好きばい」
「はぁ」
 隣の男が緩く笑う。小さく揺れた手の先をじっと見つめていた猫の、青い目が揺れる。おいで、とも言わないのに二匹ともがビルの隙間から顔を出して、千歳のジーンズの裾に鼻先を擦り付けた。
 むぞらしか、千歳はもう一度繰り返して目を細めた。二匹の猫の小さな頭を指先でするするとなぞる。薄汚い路地で繰り広げられる男と猫の交流に、白石の目は釘付けになった。
「そういうところや」
 気がつくと呟いている。猫を撫でていた千歳の指がこちらに伸びる。それに誘われるほど白石は青くはなかった。

 適当なタイミングで猫と別れて一駅分歩いたところで電車に乗った。当たり前のように同じ電車に乗り込んできた男に、「どこで降りるん」と尋ねたが、返答は得られなかった。
 金曜日の夜ということもあって電車の中はそれなりにこみあっている。しばらくは二人とも立っていたが、ふた駅程進んだところで付近に空席が出来て千歳にそこに押し込まれた。
「立ったままでよかったのに」
「俺が座ると足が邪魔になっと」
 言いながら、鞄を抱えて腰掛ける白石の目の前に立つ。自然と男を見上げるような形になって、白石は瞬きを繰り返した。こんなことが以前にもあったような気がする。
 思い出そうとしている間も、電車は不規則に揺れ続ける。酒が入っているせいか、わずかに眠気が襲ってきた。電車の動きに合わせて、体も揺れる。
「ねむか?」
 電車の吊り革のぶら下がったパイプを握り直した男の指が長い。
「あ」
 風化していた思い出に、一瞬で鮮やかな色がついた。
「どぎゃんしたと」
 尋ねる男の声が遠い。
「京都土産、もらいそこねた」
 瞬間、男の口元がいたずらっぽく歪む。空港で手渡された南部せんべいは、あの日受け取り損ねた京都土産の代わりだったのだと今さら気がついた。

 千歳の放浪癖にはいつも悩まされていた。
 中三の春から夏にかけての白石は、チームの戦力を上げるために躍起になっていた。
 二年時の全国大会では、決勝で当たった牧ノ藤よりも、準決勝で当たった四天宝寺の方が立海を苦しめた──などという噂も立っていたらしいが、実際には前年のレギュラー達は立海を相手に手も足も出なかった。
 自分は試合に出ることすら敵わなかった。悔しかった。同じような思いをもう一度したくはないという気持ちだけで一年間練習に励んでいた。
 だからこそ、四月に転校してきた男に惹かれた。その年のレギュラー陣はクセが強いながらも実力者揃いだったが、千歳のテニスはそれとはまた違った輝きを持ち合わせていた。
 この男はすごい。それに気がつくまでには、大した時間はかかなかった。
 しかし千歳は、素行にやや難があった。タバコを吸うわけでも、他人を殴るわけでもないが、とにかく掴みどころのない男で、あまり練習に出てこない。そのくせラケットを握らせれば、ちょっとないくらいに冴えた動きをするので周りの部員も文句を言わない。
 門限を過ぎても帰ってこないと寮監から監督のオサムのに非難めいた報告が入ることもしょっちゅうだった。
 それでも翌日の部が始まってから、「昨日も千歳が門限破ったらしくてなぁ」と呑気な調子で聞かされるのが常だったのだが、部活を引退してからはそんな話を聞くことも少なくなっていた。
 十月を目前にしたその日は、少し肌寒かった。目が覚めてカーテンを開くと、眩い陽の光が部屋に差し込んだ。
 勉強日和、なんかなぁ。小さく伸びをしてから、肌掛けを畳み、枕元に置き去りにしていたスマホを手に取ると、三件のメッセージが入っていた。全てオサムからだ。
 千歳、帰ってこんみたいなんやけど。学校までには戻るやろか。あいつスマホの電池切れとるみたいや( ; ; )
 最初のメッセージが届いたのが早朝の四時半。そこから一時間ごとに短文が届いて、最後の涙の顔文字のメッセージが数分前。慌てて通話ボタンを押すと、年若い監督はワンコールでそれをとった。
「見つからへんの」
 極力落ち着いた声で尋ねる。あかんわ、という返事には活力がなかった。千歳が戻ったという報告を待っている内に朝になっていたのかもしれない。
「そもそももう部活も引退しとんのになんでいつもオサムちゃんに連絡してくるん」
「初めのうちにいい加減な対応しとったから目の敵にされとんやろ。帰ってきてないって言われてしもたら、もう引退しとるから関係ないとも言えんしなぁ。はあ……こんなことやったらあいつのケータイにGPSでもし込んどったらよかったわ」
「充電切れとったら意味ないんちゃう」
 言ってから、それでも電池が切れるまではどの方面に向かっていたのかは分かるかもしれないと考える。
「GPSは今更無理やけど、目立つ奴やしどっかで見かけた子おらんかあたってみるわ」
「あいつ背高いからなぁ。俺も麻雀仲間に聞いてみるわ」
「あんまり当てにならんな」
 任せとけ、という返事の途中で通話を打ち切って、テニス部のグループラインにメッセージを流す。部員の中に千歳を見た者がいなくても、各々のクラスメイトまで辿っていけば一人くらいは昨日の千歳の足取りを知る人間が出てくるかもしれない。

 昨日の夜、新大阪の京都行きの快速に乗り込む千歳くんを見たって子がいたわよ──千歳の居所の手がかりが小春からもたらされたのは、午後の授業の始まる三十分ほど前だった。
 昼食を食べ終えたあとも、消えた千歳のことを想って気を揉んでいた白石は、学校を抜け出して電車に乗り込んだ。
 新大阪の駅はやたらめったら人が多かった。それは京都も同じことだろうと想像したとき、どうして自分はこんなところまで来てしまったのだろうかと考えた。千歳とは特別に親しいわけでもない。だからというわけでもないが、男の行動は想像がつかない。
 仮に彼が京都で電車を降りていたとしても、今更探しに向かったところでその場に留まっているとは思えない。それこそ空に浮かぶ雲のように、放っておけばどこまでも遠くに流れていきそうな男だ。
 京都行きの快速がホームに到着した。電車のドアが開くまでの時間がもどかしくてその場で小さくかかとを鳴らす。
 ざわつく胸を持て余しながら電車に乗り込んだ白石は、入り口に近い座席に腰を下ろして窓から空を見上げた。

 見つかるはずもないと半ば諦めていた男は、電車を降りて十分後あっさりと見つかった。あてもなく辿り着いた京都タワーの一階、色とりどりの土産物の連なるスペースの一角に、その男は佇んでいた。
「千歳」
 部活をサボっての強行捜索が無駄にならなかったことに安堵した白石が声をかけると、千歳は薄く微笑んだ。
「よーきなさった」
「なんやそれ、軽いなぁ」
 隣に並んで、ガラスケースの内側の八つ橋を眺める。
「好きなん、おたべ」
「妹が」
 妹おるんや。やっぱデカイんかな。
 洗面台を占拠して寝癖を直していた友香里の姿を思い浮かべる。
「俺、午後の授業さぼって探しにきたんやけどなんか言うことないん」
「白石はよか男たい」
「アホらし」
「ここに千円入っとった」
 尻ポケットから千円札を取り出して、さっき見つけたと千歳は言う。
「お土産買わんとね」
「妹に?」
「白石に」
 お詫びばい、の一言に全てがどうでもよくなった。
「なんがいい」
「か、」
 乾いた八つ橋、と言いかけたところでポケットのスマホがバイブする。
「オサムちゃんや。もしもし──。うん、見つかったで──。あーすぐ戻るわ、ほな──」
 通話を終えて顔を上げる。
「寮監さん、めっちゃキレとるらしいで。千歳見つかったら授業の後すぐに寮に戻せって」
「あん人怖かけん、こまったい」
 困るなら放浪癖を治せばいいのに。
「ええからはよ帰るで」
 その場を動く気配のない男の手首を掴んだとき、その骨の存在感に驚いた。
「白石」
「なに」
「このままふけん」
 男の声が耳に届いた時、買ってもらうはずだった八つ橋のことは既に忘れていた。

 今更戻っても六限にも間に合わないと言う千歳の腕を引いて大阪行きの各駅停車に乗り込んだ。
 近場のロングシートに一つだけあいた空席に、千歳は白石をいざなう。それから向かい合うようにつり革に指をかけてこちらを見下ろした。
「……それ、つり革やなくて上のパイプ持った方が楽なんちゃう」
 長い腕を持て余すようにつり革をぶらつかせる男に言うと、考えたこともなかったと言ってつり革のぶら下がったパイプを握り込んだ。
「おーよかよか」
 しっくりきたらしく、目を細めて肘を上げ下げする。上腕に筋肉の筋が浮き上がるのを見上げていると妙な心地がしてくる。下腹部が鈍くしびれるのだ。
 俺は、おかしいんかもしれん。
 二年生の頃、クラスで親しくしていた女子に告白されて、周りに内緒で付き合っていたことがある。その子は白石が苦手とする押しの強い女とは真逆の楚々とした雰囲気を持っていたし、彼の部活が忙しいことを認めて過剰に干渉してくるようなこともなかった。
 白石はその子を好きになれると思っていた。上手くやっていけると思っていた。
 それなのに、いざ二人きりになってキスを求められたとき、彼の体は動かなかった。白い頬を紅潮させて、目を閉じたその子を可愛いと思うのに、その淡い色をした唇に触れることを想像すると体の芯が冷えていった。
 それからしばらくしてその女の子とは別れた。次は上手くいくはずだと考えている内に三年の九月になっていた。その間一度も異性の体に興味を持ったことはない。
 千歳を見ると、胸がざわめく。部活や学校を悪びれもせずに放り出す奔放さを好ましくは思わないのに、ひとたびその姿を視界に収めると、容易に視線を外すことが出来ない。
 今だってそうだ。体から噴き出す衝動を抑えきれずに、白石は千歳を見つめている。
 軽く体を屈めて窓の外を見やる男の眉は自分のそれに比べれば太い。
 この男と、寝てみたらどうなるのだろう。あの長い指が皮膚の上を這って、あの太い腕に肩を抱かれる──妄想が危ない方向に進み始めたところで自分を律して男から視線を外す。
 俺は、千歳のことが好きなわけやないんやな。千歳とは寝てみたいだけや。
 そう結論づけると心が軽くなった。そのとき初めて自分の性的な対象が同性であることを自覚した。
「もう二時ばい」
 いつの間にか空いた隣の席に、男が腰掛けた。お互いの肘と肘が触れ合う。
「初めて学校サボってしもたわ」
「悪かこつに誘ってしもたたい」
「誘われたわけやないけど」
「白石が、来たらええと思っとったとに」
 驚いて顔を上げると、男は悪戯っぽい目を光らせた。
「白石はきれいか」

 その日から、すれ違う時に指先が触れ合うことが日常になった。だからといって親しく会話を交わすわけでもない。
 掠めた指の感触を思い出しながらする自慰は、白石に強い快楽を与えた。同性に欲情することを悪いことだとも思わない。自認したての性に酔っているだけだと分かっていたから、千歳を本当に誘ってみようと考えたこともなかった。

 淡い桃色の光を孕んだシャボン玉が目の前で弾けた。安っぽい黄緑色の筒を吹いてそれを生み出した男は、背が高いあまりにベランダの柵によりかかると下に落ちていってしまいそうで危なっかしい。
「落ちんように気をつけや」
 男の体を柵から引き剥がすようにして言うと、小粒のシャボン玉がぷくぷくとあたりに広がった。返事の代わりに吹いたのだと思うと馬鹿馬鹿しくて力が抜ける。
 澄みきった青空に舞い上がっていく小さな球体達を白石は眺める。
「綺麗やなぁ」
「むぞらしか」
「それどういう意味」
「かわいい」
「可愛いんかな」
 俺は言われたことないなぁ。当たり前のことを、当たり前ではないように思う。
「白石はきれいか」
 中学を卒業して進路が別れるまで、千歳は何度もそれを繰り返した。

「白石」
 頭に降ってきた声で二十二の現実に引き戻される。
「スマホなっとる」
 マナーモードにするのを忘れていたスマホが、小さな着信音を繰り返している。車内で出るわけにもいかないので通話を拒否すると、十秒も待たない内にメッセージが飛んできた。
『今晩会えない?』
 何度か寝た相手だった。当然好きな相手ではない。
「だれ」
「関係ないやろ」
 乱れた性生活をおくっていることを気取られたくなくて、刺々しい声が上がる。興味があるのだと食い下がる男に、
「セフレ」
 放り投げるように言ってよこした。
「……いっちょん似合わん」
 拗ねたような声色だ。
「一人寝が寂しい夜くらい誰にでもあるやろ」
「気楽でよか」
「千歳は何も変わらんなぁ」
 本当に変わらないものなど何もないと分かっているのに、気がつけばそんなことを呟いていた。
「白石も変わらん。今でもきれいか」
 それを言われると自分の浅ましさが浮き彫りになっていくような心地がする。
 レールのつなぎ目に達した電車が大きく揺れる。パイプをしっかりと握り込んだ千歳の体は、それを物ともせずに真っ直ぐに佇んでいた。
 男の体越しに眺める向かいのシートの乗客達は皆一様にスマホを覗き込んでいる。拳ふたつ分ほどの距離をひらいて隣に腰掛けるサラリーマンもそれは同じだった。
 今は、声を発することすらせずに、ボタン一つで誰とでも繋がることが出来る。それなのに千歳は、中学を卒業してから一度も連絡をよこさなかった。
「さっきの店で、謙也が昔好きやった未来ちゃんって女の子と再会したって話でみんなで盛り上がってて……デートに誘うとか誘わんとか、今でも好きとか、好きやないとか」
「上手くいったらよかとね」
「それで他の奴らの初恋の話もしてたんやろな、トイレ行って戻ってきたら金ちゃんが俺に白石の初恋は言うて」
 自分が何を言おうとしているのかも分からないまま、白石は喋り続けていた。気がつけばサラリーマンは席から離れていて、自分を見下ろしていた男が隣に腰掛ける。
 デジャヴやな、他人事のようにそう思った。
「まあテキトーに話逸らしたんやけど、後から思い出そうとしても初恋とかそんなピンとこんでな、分からんまんま電車乗ってから思い出したんやけど、俺昔お前と寝たらどんな感じかなって想像しとったわ」
「いつ」
「いつも。中三の九月、京都に千歳を迎えに行った帰り道が初めてやな。ちょうど今日と同じように、空いてた席に座った俺の向かいにお前は立っとった。パイプを掴む肘の線を見てたら、なんや妙な気分になった」
「あんときは助かったばい」
「京都土産買ってもらいそびれたなぁ」
「また一緒に行かんね」
 なんばの駅に着いたので電車を降りる。当然のように着いてくる男に、「お前も乗り換え」と尋ねてみたが、薄い笑みが返ってきただけだった。
 ──昔好きやったいうても幼稚園児の時やで。お互い中身も外見も全然変わっとるし、本当にただの思い出話やねん。
 謙也の言葉が脳裏によぎる。
 下駄を鳴らしながら隣を歩く男の姿は、中学時代とさして変わらない。
「俺が、今でもお前と寝てみたいって思ったら変やろか」
 ぽつりと呟くと男が立ち止まった。遊ばせていた利き手を、しっかりと握り締められる。
「白石はずるか」
「はぁ」
「俺も昔からアピールしとったのに」
「アピールて」
 握り込まれた手のひらの熱に動揺して身を引くと、大柄な体がぴたりとくっついてきた。こんな場所でとか、男同士でとか、つまらない言葉を吐き出せば即座に食われてしまいそうな空気に、白石は言葉を失った。

 一人暮らしの自宅についたのは午前零時を少しまわったころだった。
 結局大した言葉も交わさないまま、男二人手を繋いでここまでやってきてしまった。気怠い空気に支配された電車内で、最寄駅についた白石が、俺ここやから、と撒こうとしても千歳は素知らぬ顔をして家までついてきた。
 これは完全にする流れに入っとるなぁ。
 家の場所も知らないくせに、白石を先導して歩いた男の背中は広かった。その体に興味がないといえば嘘になるし、今でも寝てみたいと思っていたのは事実だが、いざ本当にヤりますという空気になってしまうと四天宝寺に対する里心が湧き上がってくる。
 楽しかったあの頃の思い出を、一時の性欲で汚すのが怖い。
 うち、寄ってく。狭いし、インスタントコーヒーくらいしか出せへんけど──。
 男とそうなることに躊躇いを覚えているのに、誘うような台詞はなんの突っかかりもなく口から流れていく。注ぎ込んだ熱量が大きかっただけで、四天宝寺で千歳と過ごした日々はほんの僅かだった。それに比べれば、千歳によって自認した性を発散するために、好きでもない男と寝るようになってからの生活はあまりに長い。
 すさんどるなぁ。
 キーケースに手を伸ばすために千歳の手を引き剥がそうとしたが、うまくいかない。
「離して」
「もう少しだけ」
「少しってどんくらい」
 部屋に入ればいくらでも熱を分け合えるのに。
「十秒」
 そう言った男は、白石が頭の中できっちり十秒を数えたのち、その手を解放した。
「入るやろ」
 鍵を抜き取ってから改めて尋ねると、「いや」と首を横に振る。ここまできて怖気づいたんかい。フラれたような気分になった白石が、拗ねるように俯くと、
「ライン、知らんから」
 ポケットからスマホを取り立して差しむけてくる。
「ふるふる」
 言われるがままに連絡先を交換すると、男は満足げに微笑んで、「また来るけん」と外灯も少ない夜道に消えていった。

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