「今までありがとう。楽しかったよ」
 唐突に投げつけられた言葉の意味が捉えきれずに、沢村はぼんやりと立ち竦んだ。窓から差し込んだ夕日が彼女の頬を茜色に染めている。いつになく下がった眉の下の黒く濡れたような瞳に映り込んだ自分の姿を沢村は見つめる。
 今しがた聞いた彼女の言葉を反芻して、ああこれは別れ話なのだと理解した時、肩から力が抜けた。心臓の拍動がほんの僅かに早くなる。
「分かった」
「理由、聞かないの」
 離別の言葉をあまりにもすんなりと受け入れられた沢村に、咎めるような視線をくれてやりながら莉子は首をかしげた。そういう仕草はやっぱり可愛らしくて、出来ることなら別れたくないと思う。
「……聞いても、仕方ねぇだろ? なんとなくでそういうこと言ったわけじゃないだろうし」
 莉子は、男の気持ちを試すために別れ話をひけらかすような女ではない。
 彼女と最後に体を重ねたのは、つい数日前のことである。あの甘く艶やかな時間を思えば、今回の申し出は急だとは感じられるが、未練がましい男だとは思われたくない。部活を引退したとはいえ、未だ進路もはっきりとは決まっていない身の上である。色恋事で悩んでいる時間は今の沢村にはないのだ。
「沢村君て私のことちゃんと好きだった?」
「当たり前だろ」
 はっきりと断言しながらも、本当はあまり自信がない。沢村は莉子と付き合い始めるまで女の子を好きだと感じたことがなかった。学年で三番目くらいに可愛いと評された莉子のことも告白をされるまでは名前すら知らなかったくらいだ。
 それでも告白に応じたのは、彼女が人並み以上に可愛らしい外見をしていて、他に好きな女の子がいなかったからだ。恋心は知らなくても、人並みに性欲は持て余していたから、先に誘う人間がいればそちらになびいていたかもしれない。
 そんな心境で始まった関係だったが、莉子と二人でいると楽しかったし、彼女の一挙一動を可愛いと思っていたし、たまにするセックスは気持ちが良かった。
 色の白くて細身の彼女の体は、服を脱ぐと胸だけはぷっくりと膨れていて扇情的だったから、もうあれに触れることは出来ないのだなと思うと少しつまらない。
「嘘っぽーい」
 彼女が言うと、肩よりも少し高い位置で切り揃えられた黒髪がさらりと揺れた。初めてのセックスのとき、シーツの上に散らばったそれを綺麗だと思ったことを思い出す。ベッドの上で体を折り曲げた彼女は、甲高い嬌声を絶え間無く漏らしていた。ぱっと見の清楚げな印象を覆す、ベッドの上での淫靡さに心を奪われなかったといえば嘘になる。
「本当に好きだった」
 自分は、好きでもない相手とセックスの出来る人間ではないと思いたい。
「そういうことにしておきましょー」
 沢村の心の内を見透かしたように、莉子はへらりと笑った。人を食ったような笑い顔だ。誰が見ても庇護欲をそそられるような目つきをして、控えめに口角を上げることが常だった彼女の知らない一面を沢村は最後に垣間見た気がした。
「……ありがとな」
 ぽそりと言って沢村は彼女に背を向けた。一年間の交際の幕引きにしてはあっさりと。
 階段に向かって何歩か足を踏み出したところで、「沢村君」と呼び止められる。振り返ってみると、彼女はまだ笑っていた。沢村は彼女が泣くのも怒るのも見たことがない。
「沢村君と付き合い始める前ね、私御幸先輩と付き合ってた」
「はっ!?」
 肩に掛けていた鞄が腕のあたりまでずり落ちた。
「別れよって言った時にその顔見たかったな」
 そう言って彼女は駆け出す。リノリウムの床を女物の上履きの底が踏み鳴らす軽やかな音を、沢村はいつまでも聞いていた。

「お前モテないんだから、せめてもっといい店予約しとけよ」
「相手の女の子が肉食いたがってたんやもん」
「なら高い焼肉屋」
「急やったからいい店は予約とれんかったんよ」
 先輩二人の毒にも薬にもならないやりとりを右から左へ聞き流しながら、沢村はいかにも大衆向けといった焼肉屋の個室の入り口をじっと見つめている。
 約束の時間から二十分程が過ぎているが、会の相手達は姿を見せない。なんでも三人の内の一人は現職のナースで、仕事が長引いてしまったらしい。既に女三人は店の最寄駅で合流したとのことなので、今しばらく待てば姿を見せるだろう。
 莉子とはあの日以来一度も口を利く機会がなかったので、多少なりとも緊張している。彼女が自分の前に付き合っていたという男――御幸一也が同伴しているので尚更だ。
「沢村はこの店でいいやろ」
「いいっスけど前の合コンもここだったじゃないスか。噂になったりしませんかね」
「悲しいかな……俺にはこんな場所で合コンしとったって噂になるほどの人気はないんや」
「ベラ先輩はそうでも、今日は飛ぶ鳥を落とす勢いのイケメン捕手様も一緒ですからね!」
「幹事の子の食いつきもめっさ良かったわ……」
 そりゃそうでしょーよ、と相槌を打ちながらベラを挟んで奥の座席に腰掛けた御幸の横顔を覗き見る。壁に貼られた「継ぎ足しのタレ! 壺漬けカルビ!」という貼り紙を見つめるその横顔は悔しいくらいに端正だ。取り澄ました顔をした男が、ベッドの上では余裕ぶろうとしても隠しきれないくらいの情動に突き動かされる様を沢村は知っている。
 今日だって朝からセックスをして、寮に帰ってまで抜き合ったのだ。そんな相手と合コンに参加している不可思議な状況に、これからやってくる相手が莉子だという事実が更に複雑さを加味させた。
 御幸は彼女とどういう付き合いをしていたのだろうか。それを確かめる術を沢村は持たなかったが、御幸が莉子をかなり好いていたことは、部活を引退して以降の男にとられた冷たい態度を思い出せば窺える。
 当時高校二年生だった沢村は、気の置けない間柄だと思っていた先輩捕手に唐突に距離を置かれて戸惑った。嫌われるようなことをした覚えもなかったから憤りもした。
 莉子に三行半を突きつけられたあの日、二人の関係を知った沢村は、ようやく御幸の冷えた心に触れた心地がした。御幸は莉子のことを深く想っていたのだろう。だからこそ、自分と別れた後の彼女と交際を始めた沢村とそれまで通りに関わることが出来なくなったのだ。
「遅くなってすみませーん、わっ御幸さんカッコいい!」
 ミーハーな言葉と共に姿を現したのは、黒髪のショートカットにパーマをかけた女だった。そんなに待っとらんよ、というベラの砕けた口ぶりを聞くに、彼女がこの会の女側の幹事らしい。
 彼女は、後ろに立っていた女に奥の席を勧めて、自分はベラの向かい、真ん中の座席に座った。そうして二人が座った後個室の内側に、華奢な女が姿を現わす。
 莉子だ。沢村は再び御幸に視線をやった。御幸は無表情に近い顔をして、自分の向かいに腰掛けた女を見つめている。
 露骨だな、と溜息をつく沢村が視線を戻すと、莉子がこちらを見つめていた。目が合うと、にっこりと笑って席に着く。
 ゆとりのあるデザインの白いノースリーブのカットソーから覗く、白い二の腕が眩しい。ミディアムヘアを暗めのアッシュカラーに染めているせいか、以前より幾分も大人びて見えた。
「お肉、楽しみですね」
 目尻を下げてショートカットに耳打ちする姿からは、あざとさすら感じられる。
 店員を呼んで飲み物と肉の注文をした後、お互いの自己紹介を簡素に行った。ベラの知人だという幹事の女は看護学校の三年生、御幸の向かいに座った黒髪ロングの女は看護師になって二年目だという。莉子は沢村と同い年なので、いやに年齢層がばらけているが、彼女以外の二人もなかなかに可愛らしかった。世間一般的な基準で測れば当たりの会だろう。
「そしたら莉子ちゃんは沢村の同級生なん」
「同じクラスになったことはないんですけどね」
 莉子は、さらっとした口調で自分も青道高校出身だと告げたが、御幸や沢村と付き合っていたことは漏らそうとしない。恐らくは他の二人にそのことは話していないのだろう。幹事の女が驚いた顔をして口を開く。
「莉子が青道だったなんて初めて知った。なんで今日の会に御幸君と沢村君が来るって聞いた時に言わなかったのよ」
「だって私みたいな帰宅部のフツーの女子からしたらバリバリの野球部でプロ入りしちゃった二人は雲の上の存在みたいなもんですよ」
 彼女は苦笑いを浮かべている。今日はそういう設定なのか、と冷めた心で思いながら沢村はジンジャーエールを口に含んだ。
「雲の上の存在って、俺達だって元々は普通の高校生だったんだけど。特に沢村は」
「どういう意味っスか!」
「スター性なんて皆無だっただろ、お前は」
「ぐっ……」
「あはは、やっぱり二人って仲良いんだ」
 笑いながら言ったのは、現役ナースの川崎だ。自己紹介の時に高校野球が好きだと言っていた。
「仲良くなんかないっスよ!」
「ただの腐れ縁」
「どうみても仲良しじゃん、こんなとこまで一緒に来て」
 二人のやりとりが作り物めいて上滑りしていることに気が付いているのは、当人達と莉子だけだろう。
 高校を卒業して半年も経っていないが、ベラや大卒の同期に連れられてこういう場には何度も顔を出している。本気で出会いを求めているわけでもなく、酒を飲めるわけでもなくても、毎回それなりに楽しい気持ちで席に座っていたが、今日ばかりは話が別だ。
 自分が莉子と付き合っていたこと、御幸が莉子と付き合っていたこと、二人が付き合っていたのを知っていたこと、御幸との仲が険悪なこと、その全てを表沙汰にせずに、程々に楽しいムードを作らなければならないのだ。生来大雑把な性質の沢村でも流石に神経がすり減っていく。
「あ、お肉が来ましたよ」
「やったー!」
 個室の戸が開くのを確認して、莉子が破顔する。幹事の成田がそれに倣って手を上げて、「おにくっ、おにくっ」と騒ぎ始めた。煩わしいことさえなければ楽しい焼肉の会になったであろうと想像して、沢村は小さく溜息をつく。
「お肉焼く順番とか、気にしませんか」
 トングを手に取った莉子が首を傾げると一同が頷く。莉子は肉が埋もれるくらいに青ネギの盛り付けられたタンを一枚一枚丁寧に、網の上に並べていった。ジュッと音がして、肉の焼ける匂いが個室中に広がる。
「これはそんなに焼かなくて良さそうだな」
 呟いた御幸があまりにも真剣な目つきをしていたので、沢村の張り詰めていた心は一瞬和らいだ。
「御幸先輩、タン好きなんすか」
「普通だよ」
 ああ、わりと好きなんだな、と察して沢村は口元を緩めた。初めてセックスをした日の翌日、巨大なエビフライを前にした時も同じことを言っていた。
「じゃあこのネギのたくさんのったやつどうぞ」
 莉子が、一枚の肉を指す。数年前に別れたきりであろう恋人に百万点の笑顔を向けられた御幸が、どれだけ座りの悪い表情を浮かべるのか気になって、顔を覗き込もうとした。しかし、ベラが、
「莉子ちゃん、そいつを贔屓したらいかんよー見てくれは良くてもめっちゃ性格悪いんやけん」
 座を浅くした沢村の視界を阻むように、身を乗り出してきたのでそれは叶わなかった。
「ベーラー自分がモテないからって他の子を落とそうとするの良くないと思うよー」
「そんなんやないわい!」
 幹事の女が茶化すように言うと、ベラが吠えた。そうこうしている内に各々の箸がタンに向かって伸びていく。
 莉子は、そのどさくさに紛れて御幸に勧めたネギ大盛りのタンを自分の皿に移して、それに気が付いた沢村からの視線に気が付くと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ひでー」
 思わず呟くと、
「だって近くにあったんだもん」
 更に笑みを深める。昔と変わらないな、としみじみ思いながら噛み締めたタンは、薄っぺらかったがネギとの相性が良くて美味かった。
「学校はどうなんだ?」
「入ったばっかだから、まだまだよく分かんない。聴診器使って血圧計るのは苦手だけど、現場では多分使わないのかな」
「頑張ってるんだな」
「沢村君には負けるよ」
 気まずい別れ方をしたと思っていたが、一年も付き合っていただけあって、一度口を開いてしまえば自然に会話は続いていった。
「莉子ばっかり気の利く女だと思われたらシャクよね」
 二人が小声で話している隣で、成田がトングに手を伸ばした。容姿だけ見ればボーイッシュでクールな印象を受けるが、口を開くとなかなか勢いがある。
「いやいや俺が」
 プロ野球選手の反射神経を無駄に見せつけてトングを手に取ったベラが、カルビを網に並べ始める。成田が、「へー優しいじゃん」と軽口を叩くと、お世辞にも形がいいとは言えないベラの耳が真っ赤に染まった。莉子が、「あ」という顔で沢村を見つめる。
 ベラは成田に元々好意を抱いているのだろう。しかし、二人きりのデートに誘う勇気はないから今回の会を企画した……人生で一度もモテたことのないであろう男の不器用な恋心に、沢村は口元を緩ませた。
「NICU?」
「新生児の集中治療室のこと。早く産まれ過ぎちゃった赤ちゃんとか、小さく産まれちゃった赤ちゃんとか、とにかくそのまま退院出来ない赤ちゃんの看護をしてるの」
「なんか、すごいな」
「そう?」
 沢村が莉子との会話や、ベラの恋の行方に気を取られている間に御幸は川崎と会話を始めていたようだ。この場では一番年上の川崎は、高校時代の御幸のファンだったと言っていたが、それでも落ち着いた口調で言葉を発している。
 合コンという場で御幸が、自分のセックスフレンドがどんな立ち回り方をするのか気になった沢村は、今度は先程とは逆に座を深くしてベラの後ろ側から男の顔を覗き見ようとした。
「子供が好きなの?」
「普通の人並みにはね」
 ベラの平らな後頭部に阻まれて、御幸の表情を窺うことは出来なかったが、それでもすっと伸びた長い首や男らしいもみあげに縁取られた形のいい耳は見ることが出来た。
 普段意識しないパーツだけを重点的に見つめることによって、御幸一也という男の存在が平時以上に生々しく感じられて、沢村は生唾を飲み込んだ。二人の会話は程々に盛り上がっているようだ。
「今日は師長が先週入ってきたFGRの赤ちゃんの母乳を解凍しとけって言うから解凍したのに、いざ解凍が終わってみたら、この子のじゃないわよ! って怒り出して、インシデントになっちゃったのよ。独身のナースって性格キツくて理不尽な人多くいからイヤになっちゃう……ってごめんね、いきなり仕事の愚痴なんか」
「いや、面白いよ。俺達高卒でプロ入りしてずっと野球しかしてないから、社会に出てる人の話聞くの結構好き」
「ずっと野球してるのがすごいんじゃん! いつも試合見てるけど、野球してるときの御幸君めちゃくちゃカッコいいよ! 目の前に座ってて、話してるなんて信じられないくらいだわ」
「大げさ」
 そこまで聞いて、沢村は御幸から視線を外した。氷の溶けたジンジャーエールのグラスの結露を、指で拭いながら、このままあの人とホテル行くとかあり得るんだよな、などと心の中で呟く。
 ――朝は俺とエッチしてたのに。
 川崎とベットの上でまぐわう御幸の姿を想像すると、身体中の皮膚が泡立った。それは不快感から来たものではない。
「うわ、やば」
 他の人間とセックスをする御幸を想像して興奮する自分に気が付いて、沢村は、思わず声を上げた。
「なにがやばいの?」
 同じタイミングで、タレの入った皿にカルビがのせられた。顔を上げると、莉子は小首を傾げている。
「別に」
「えー教えてよ」
 食い下がってはくるもののさほど興味もないのだろう。莉子の視線はテーブルの下に向けられている。
「彼氏?」
「えっなに?」
「さっきからチラチラスマホ見てるから」
「あ、ごめん」
「別にいいけど」
 今更莉子とどうこうなりたいわけでもない。彼女がどういう姿勢でこの会に臨んでいようが沢村には関係のないことだ。
「ここの食べログ見てた。なにが美味しいのかなって」
「はぁ」
「結構食い意地張ってるんだ」
 えへ、と漫画のキャラクターのような声を上げて、莉子は頬をかいた。
「やっぱりさっきのネギ上タンが人気みたい」
「あれは美味かったな」
「うん。もう一皿食べたいかも……あと、私彼氏いないよ」
「そうなのか」
 会話を交わしている間に冷めたカルビを咀嚼すると無性に白飯が食べたくなった。
 網の上にはロースと鶏肉が並んでいる。肉の焼ける音を打ち消すように、隣の個室が騒がしくなってきた。
 おかげで御幸と川崎の会話を盗み聞きすることも叶わなくなったが、自分と莉子の会話を聞かれる心配も薄れた。
「最後に彼氏いたのは高校生の夏休みくらいまでかな」
 その男のことは好きだったのか、と知らん顔をして聞いてみたかったが、やめた。見かけに反して食えない女である。本当のことを語るとも思えなかった。
「沢村君は?」
「最近フラれた」
「その人のこと今でも好き?」
 存外に真剣な目をして問うてくる。沢村は数秒間押し黙ってから、口を開いた。
「グラス空になってるぞ。何飲む?」
 彼女のグラスの中で溶け残った氷がかちゃりと音を立てた。
「……トマトジュースかな」
「肉に合わないだろ」
「美容にいいから」
 そこからは会話もなく、店員が来るまでの間に沢村もジンジャーエールを飲み干した。
 追加の肉と合わせて各々の二杯目のドリンクを注文すると、川崎が「トイレ」と言い出した。一番奥の彼女が席を立つのに乗じて、成田と莉子も退席する。
「席替えや!」
 女達の姿が見えなくなるのを確認してからベラが声を上げた。
「早くね?」
 御幸が呆れ顔で言う。
「ベラさんは成田さんの隣がいいんじゃないスか」
「いやいやそんなワケやないけどな」
 違う違うと否定しながらも、ベラの顔は隠しようもなくニヤついている。
「じゃあベラさんが成田さんの隣になるように並んで、御幸先輩が莉子ちゃんの隣、俺が川崎さんの向かいになるように座りましょうか」
「……お前合コン慣れしてるな」
「よく先輩に付き合っていってますからね! 合コンマスター沢村と呼んでくだせえ」
「沢村は合コンサポートマスターって感じやけどな」
「ベラさんはどんだけサポートしても上手くいかないんすけどね……」
「うるさいわ」
 今日こそは……と、ぼやくベラを女の子がいた側の席の一番奥に押し込んで、自分は尿意もなかったが厠に向かった。女達が戻るのに合わせて戻れば、ベラがさっき言ったような形に席を誘導しておいてくれるだろう。
 大衆向けの広いそれなりに焼肉屋なのでトイレはしっかり男女別に分かれていて、手洗い場も個室の外側についている。
 沢村が手洗い場の鏡で前髪を確認していると、後ろから人の気配がした。
「先どうぞ……って御幸先輩スか」
「お前まだしてねーの?」
「席替えしやすいように来ただけですよ」
 女性陣が来るまでの間に一度用を足しているので、少し時間を潰したら戻るつもりだった。
「あっそ」
「御幸先輩は、あの人気に入ったんすか、川崎さん」
「ちょっと話しただけじゃ分かんねーよ」
「じゃあどの子の見た目が好みっスか」
「莉子ちゃん――って言ったらどうすんの。お前の元カノだろ」
「……まあ」
 アンタの方が先に付き合ってただろ、と余程言ってやりたかったが、堪える。御幸は沢村が知っていることを、知らない。
「今はどう思ってんの」
 それを聞きたいのはこっちだ。もしも御幸が、今でも莉子とやり直したいと思っているなら、その手助けをしてやりたい。そうして出来ることなら二人がセックスをするところを見てみたい。
「久々に見たら可愛いですけど、今は女の子とする気分じゃないというか……なんというか」
「お前って本物のホモ?」
「本物のホモって……」
 あんまりな言われように膝から力が抜けた。洗面台に手をついて大きな溜息を吐く。
「はあ……俺は本物のホモでも、偽物のゲイでも、半端者のバイでも、御幸先輩のことは好きじゃないですから安心してつかぁさい」
「はあ?」
 まくし立てるように言うと、御幸の眉間にヒビが入った。
「先輩とはただのセフレで大丈夫なんで、付き合ってほしいとか、他の人と寝ないでほしいとかダルいこと言うつもりねーし」
「お前本当に可愛げなくなったな」
 ――アンタが何も言わずに避け始めたせいだろ!
 莉子と付き合い始めてから、御幸に距離を取られるようになって、理由も分からなくて、信頼していた人間に急に裏切られたような気がして、沢村は荒んだ。恋人を後輩に奪われた御幸が恨みに思ったのは仕方のないことだとは思うが、初めて付き合って童貞も捧げた女に、実は私の元カレ御幸先輩なのーと言われた沢村もそれなりのショックを受けたのだ。
「……俺はもう戻ります。先輩はどうぞ大でも小でもしてください」
 軽く会釈をして、逃げるようにその場を立ち去った。後ろから御幸の視線が突き刺さっているような心地がした。居心地が悪くて、左耳のピアスに手を伸ばす。金属の感触に触れると、別れた男の指の感触を思い出して胸が針で刺されたかのように痛んだ。
「待てよ」
 御幸の足音がすぐ後ろで聞こえた。
「小にしても早すぎません?」
「俺も空気の入れ替えに出ただけだから」
「そうすか」
 個室の戸を開くと、女性陣は既に戻って席についていた。さっきまで女性陣が座っていた側の一番奥にベラ。その隣に成田、更に隣に川崎。男性陣が座っていた側の一番奥には莉子が腰掛けていた。
「お先にどうぞ」
 御幸を莉子の隣に行くように促して、自分は川崎の向かいに座る。向かいに座ってまじまじと見つめると、川崎もかなりの美人だということに気がつく。それでも心が揺れることはなくて、御幸に言われた通り、自分は“本物のホモ”なのかもしれないと沢村は思った。
 二杯目のジンジャーエールで喉を潤しながら、川崎の話に相槌を打ち続ける。あまり食欲はなかったが、年上の女らしく気を効かせた川崎が、肉が焼けるごとに皿に取ってくれるのでとりあえず口に含み続ける。
 時たま隣から莉子と御幸の笑い声が聞こえて、その度に左耳が熱を持った。二人は今、どんな気分で会話をしているのだろうか。
 軽く焦げ目のついたホルモンが、目の前の皿にのせられた時、沢村の左手が何かに包み込まれた。ほんのりとした温もりと、頼もしさすら感じられる大きくて分厚い感触。隣の男に手を握られているのだと気が付いた瞬間、振り解こうとしたが、思いの外強い力で握り込まれていて叶わない。
 自分を拘束する隣の男にちらりと視線をやると、莉子とベラを含んだ四人で、成田が実習先の病院で出会った変わり者の医者の話に花を咲かせていた。御幸の、秀でた眉や唇は、平素通りに余裕ありげな形をしている。
 どういつもりなのだろう。酒も飲まずに男の手を握りしめていることを他の人間に気取られれば、ソッチ系の人だと思われることは間違いない。
「沢村君、どうしたの?」
 ホルモンに箸を伸ばすこともせず黙り込む沢村を、川崎が見つめる。あまりこっちを見ないでください、と念じるが、意志の強そうな大きな瞳が沢村から逸らされることはなかった。
「やっぱりお医者さんって変な人多いんスか」
「うーん、私がバカだからそう思うだけかもしれないけど、ドクターって勉強ばっかしてきましたって感じの人ばっかだから話通じないなって思うことは多いかも」
「へえ」
「まあ向こうもそう思ってるのかもしれないけどね」
 会話を続ける間は、平静を装っていたが、御幸に握り込まれた手を中心にして、体は熱を伴っている。三度も体を重ねた仲なのに、たかたが手を握られたくらいで相手のことを強く意識してしまうのが不思議だった。
「お待たせしましたーゆずソーダお持ちしました」
「はーい」
 莉子が呑気な声を上げて手を伸ばす。店員の手から差し出されたグラスを、受け取って彼女に手渡したのは御幸だった。沢村を繋ぎ止めた右手はそのままに器用に左手を使って一連の動作をこなす。
「せんぱい、」
 諌めるような目をした沢村を無視して、御幸は莉子の方へ顔を向ける。そのくせ、沢村の手を握りこんだそれにはきゅっと力を込めた。
「それジュース?」
「未成年ですからね」
 含みを持たせたような声だ。普段女しか集まらないような会では酒を飲むようなこともあるのだろう。
「御幸先輩はさっきからお茶ですよね」
「俺あんまり甘いの好きじゃねぇから」
「そうでしたっけ?」
 御幸は無言で頷いた。御幸のグラスが空いていることに沢村は気が付いたが、店員を呼ぶことはしなかった。二人のやりとりが気になってたまらない。
「これは甘さ控えめで美味しいですよ」
「甘いもの好きな奴のそういうのって大体嘘だろ」
「私のはホントですって、一口飲んでみます?」
 合コンのテンプレートのようなやりとりに辟易して、沢村は卓の肉に注いでいた視線をさりげなく二人の方へ移した。
 ゆずソーダのグラスを御幸に向かって差し出した莉子は、ほとんど完璧と呼んでいいような形に口角を上げて微笑んでいる。断る男がいるとは到底思えなかった。
「……いや、いいわ。沢村、店員さん呼んで」
「へっ、は、はあ」
 彼女からの申し出を素気無く断った男に驚いて、沢村は間抜けな声を上げた。
 しばらくして現れた店員に、御幸は烏龍茶のお代わりを頼んだ。幾分網に並べられるペースの落ちた肉を箸でつつきながら、
「プロ野球の寮のご飯って美味しいんですか」
「美味いけど、たまにはカップ麺とかジャンクな物も食べたくなるな」
 などとどうでもいい会話を交わしている。
 そのやりとりが、元サヤ話に繋がっていくとはとても思えず、沢村は肩を落とした。莉子がこの会に訪れると知った時から、沢村は心のどこかで御幸が莉子とヨリを戻すことを期待していたのだ。それなのに、
「寮の部屋にトイレってあるんですか」
「シャワーまでついてるよ。さっきから寮のことばっかだな」
「そうですかね」
 二人のやりとりは寒々しく感じられるくらいに上滑りしているし、何度振りほどこうとしても御幸の右手は沢村の利き手を掴んだままだ。
「というか、ベラさんと成田さんって結構いい感じじゃないですか」
「な、なにを言うんよ」
「いやー私嫌よ、自分の彼氏が坊主頭は」
 話題の種が尽きたのか、莉子は真正面に座る二人の幹事をターゲットに移した。
「私もお似合いだと思うけどね」
 川崎が同調したのを合図に女二人が成田にベラを売り込み始める。今日出会ったばかりのよく知りもしない男をすぐさま友達に推し勧めるあたり、彼女達はなかなかにノリが軽い。
「見た目はともかくベラさんはいい人っスよ」
「見た目はともかくって……」
 女達に混じって雑な援護射撃を加えた沢村は、一時戦線を離脱して、隣の御幸から拳一つ分距離を取る。
「肉、食いにくいんで離してくれません?」
 よほど耳をすませていないと聞こえないくらいの声で呟くと、御幸の手は離れて行った。ほっ、と息をついた矢先に、今度はデニム越しの内腿にその手が触れる。
「ほら食えよ」
 感情の読み取りにくい顔をして、御幸は網の上の肉を沢村のタレ皿に取り分けてくれる。冷めたホルモンは御幸が取っていった。
 腿に添わされた右手は、微動だにしなかったが、衆人環視の場で際どい部分に触れられているという事実だけで沢村の心臓は早鐘を打つ。
 一同が会話に夢中になっている内に火の通り過ぎた鶏肉は、パサついていた。隣に座る男によってもたらされた緊張で喉を乾かせた沢村は、それをほとんど噛まずに嚥下して派手に咽せこむ。
「沢村君、大丈夫?」
 莉子の声を合図にして、御幸以外の四人の視線が沢村に突き刺さった。当事者である男は、素知らぬ顔をしてドリンクメニューを見つめている。
「や、今日昼くらいからちょっと調子悪くて……」
 あながち嘘でもない。朝っぱらから激しい性交に及び、帰寮後も浴室で淫らな行為に耽ったせいか、どことなく体が重たいのだ。
「そういうことは早く言わんと」
「場の空気白けさせてすみません」
「そんなんやなくて、たまの休みなんやからしんどい時は外になんか出ずに休んどかんと」
「そうなんすけど、今日は写真見て皆さん可愛いから絶対参加したいなって」
 誤魔化すように言って頭を掻くと、「やだー正直者め!」と川崎が目尻を下げた。莉子はどこか物言いたげな顔をしている。
「今日はもう帰ったら? ラインの交換だけしたらいいよ」
「そうよ。明日は二軍も試合やろ」
 莉子の言葉にベラが同調し、他の二人も、「名残惜しいけどね」と肩をすくめる。
 依然として沢村の腿に手を置いたままの御幸は、ようやく口を開いて、
「寮まで送ってやろうか」
 などとうそぶいた。
「タクシー呼んで帰るんで大丈夫っス。御幸先輩も、ベラさんに負けずに頑張ってくだせぇ」
「何をだよ」
「彼女作り。募集中でしょーが」
「お前に心配される筋合いねぇわ」
「じゃあ俺は帰りやす。皆さんの連絡先しかと聞いて俺にも教えてくださいね、ベラさん!」
「おう任しとけ」
 立ち上がる寸前、御幸の手を払いのけるとき、男の指先が名残惜しげに沢村の指に絡んだ。
「寮の前で吐くなよ」
「ジンジャーエールしか飲んでねぇスよ」
 腐れ縁の先輩の顔をして笑った御幸が、沢村の肌の熱の残った右手を掲げる。
 ――先輩は、あの手で今日女の子の体を触るかもしれない。
 想像が現実になったとき、自分はどんな感覚を得るのだろうか。
 熱のこもった手のひらを、儀式めいた仕草でグラスに押し当てる御幸を最後に見やって、「それじゃあお先に」と背を向ける。じゃあね、という女達の声に混じって、溶けた氷がグラスとかち合う澄んだ音が鼓膜を震わせた。
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