俺はお前でいいよ――きっぱりとしたその言葉を、日に何度も反芻していた。誰よりも憧れてやまない、姿形の美しい男に選び取られたことが、嬉しくなかったと言えば嘘になる。
 御幸のことは、それなりに好きだ。不器用な性格に愛おしさを感じるし、セックスの相性もいい。だけれど彼から与えられる愛着に見合う程の感情を持ち合わせているかと問われれば、微妙なところだった。
 御幸先輩がいい――どころか、御幸先輩でいい……の言葉すらも今の沢村には満足に繰り出せない。
 ひと月以内に男と別れろと御幸に言われた時には、付き合っているわけでもない男にそんな指図を受ける謂れはないという反抗心よりも、いいキッカケが出来たのかもしれないという諦観が優っていた。それなのに、夏休みの宿題を先送りにするような感覚で男との決別を先送りにしたまま六月を迎えてしまったのは、男との思い出へのしなびて黴臭さすら感じられるような未練故だろう。
 そうして二の足を踏んでいる内に、沢村の心は後ろ向きな感情の侵入を許した。先輩とは今の関係のままでいたいだとか、待っていれば男が自分の元に戻ってくるかもしれない、といったようなものだ。自然と御幸の部屋への足も遠のき、試合と練習以外で顔を合わせない日々が一週間程続いた。
 そんなある日のナイター終わり、沢村は球場のロッカーロームで帰り支度を整えていた。
「俺はもう帰るけんね」
「お疲れ様です」
 隣で着替えていたベラは、とんでもない速さで着替えを終え、部屋から出ていく。あいつ最近早いなぁ、と呟いたベラの同期の選手に、「ベラさんの娘さんめちゃくちゃ可愛いですからね」とアンダーシャツを脱ぎながら返すと、「ベラの子が?」と疑り深い目を向けられた。
「失礼っスよ」
「いやぁ、俺は信じられんわ。あいつのパーツの中に子供が可愛くなる要素が一つもない。性格はいいんだけどな」
「性格がいいなら充分じゃないスか」
 取り留めのないやりとりを笑顔で交わしながら、上半身は裸のままでカバンに入れておいたタンブラーに手を伸ばす。ぬるまったスポーツドリンクが喉を潤すのが気持ちいい。
「お前ちょっと体のライン変わったよなぁ」
 ベラのことを語りながらも着替えを終えたその男が、何でもない口調で言いながら沢村の腹に触れた。
「ギャッ……な、なにをいきなり!」
 完全に油断していたので必要以上に驚いて後ずさりをすると、訝しげな視線を向けられる。
「大袈裟な奴だな」
「……や、最近人に体触られることなかったんで」
 思わずそんなことを沢村が口走ると、男は新しい玩具を手に入れた童のように口元を緩めた。
「沢村、お前今彼女いねーの?」
「……彼女はずっといませんけど」
 男を切らしたことは最近までありませんでした、と言うわけにもいけないので頷く。
「合コンなんかでは、わりとモテるって聞いてたんだけどな」
「普通っスよ。最近行ってねぇし」
「ほうほう。そんな沢村君を今晩いいところに連れてってしんぜよう」
「いいところって……」
 嫌な予感しかしない。私服のTシャツに袖を通した沢村が、身構えていると、男はやけに浮き足立った様子で口を開いた。
「風俗に決まってんだろ、言わせんなよ〜」
 それは部屋中に響き渡るような大声だったので、沢村は人目を気にしてあたりを見渡した。
「俺が奢ってやるから、なっ、なっ!」
「面白そうな話してんじゃん」
 どこからか現れた御幸が、だらしなく口元を緩める男の肩を抱いて言った。げっ、と肩を震わせた男が、「御幸……」と、呟いた。男は御幸とも同期である。
 しかし誰にでも親しみやすい性格をしたベラと違い、御幸はこの男とは日頃から距離があるらしい。男は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
「どこの風俗行くの? 俺も行っていい?」
 心にもないような調子で御幸は言った。
「ひ、必要ないだろ……お前はセフレ百人くらいいるんだし」
「ぷっ……百人って」
 男が真面目くさった声で言うので沢村は思わず吹き出してしまった。
「そんなにいたら体持たねーよ」
「じゃあ五十人とか?」
 減らず口という言葉の良く似合う男と、御幸のやりとりを、沢村は面白そうに見つめながら着替えを済ませた。
「俺は一人いたら充分だよ」
 そう言った御幸の視線が一瞬こちらに注がれる。みんな、と沢村が口パクで呟くと、御幸は悪戯っぽく口元を緩めた。
「お前みたいなモテてモテて仕方ないって男が一人なんかに絞ったら女の子達も可哀想だろ!」
 訳の分からない理屈をこねた男は、二人の意味深な視線のやりとりには気がつかず、「とにかく行こう! 風俗に!」と、高らかに言った。勝ち試合の後でハイになっているようだ。
「俺は門限が、」
 流石に引き気味に沢村が呟くと、それに重ねるように御幸が言葉を紡いだ。
「後輩を巻き込むなよ。つーかお前、せっかく一軍入り出来たのに、そういう遊びばっかしてると素行不良でまた落とされるぞ」
「ぐっ……」
「沢村も、週刊誌に撮られでもしたら面倒なことになるからな」
「行きませんて」
「ならいいけど」
 御幸は、「帰るぞ」と言いながら、沢村の鞄をロッカーから引きずり出した。自分で持ちますから、とそれを引ったくりながら、これは一緒に帰る流れなのでは……と沢村はむず痒げにそれを抱え込む。
 ロッカールームから出た先の廊下は無人で、外は晴れているのに梅雨時特有のジメジメとした空気が二人を覆った。御幸は、沢村の腰のあたりの空気に手を回して、物言わずに歩みを進めている。
「御幸先輩」
「なんだよ」
「怒ってます?」
 おずおずと尋ねると、溜息が返ってきた。
「……なんで? 怒られるようなことしてんの」
「いや……何もしてねーから」
 御幸の腕が離れていく、気を悪くしたのだろうかと思い顔を上げたら、向かいから球団の社員が歩いてきた。二人して、「お疲れ様です」と頭を下げる。
 沢村は、何もしていない。マッチングアプリの画面を開かなくなったが、アプリ自体は消去していないし、男に会ってはいないものの、別れ話は済ませていない。現状維持をしているだけだ。そのことに御幸は恐らく気がついている。
「お前、今日は遅くなっていいだろ」
 静かな声で御幸が言った。沢村は前を向いたまま、コクリと頷く。ナイターの日は門限が普段よりも遅い。
「どっか行きますか? 飯とか、御幸先輩の家でまたカレーの出前取るのでも俺はいいですけど」
「俺の家でいいよ。昨日の残りあるし」
「分かりやした」
 残りって何だ、と想像しながら歩いている内に球場の外に出ていた。
 セックスをするわけでもないのに御幸の家を訪ねることが自然になっていることに、沢村は多少の戸惑いを覚えた。御幸と二人でいると、居心地がいい。
 それとは対照的に、男のそばにいると、酷い圧迫感を覚えて、息が苦しかった。しかしその絶望的な居心地の悪さが、沢村の体には必要だった。
 だからこそ御幸とは付き合えないと思っていた。それなのに、近頃の沢村は――
「うち行く前に寄るとこあるから」
 タクシー乗り場の前で、御幸がそんなことを言った。
「どこっスか? まあ、どこでも付き合いますけど」
 何の気なしに応えた沢村の尻を小突いた御幸は、「じゃあ行くか」と車の後部座席に乗り込んだ。


 白色のナトリウム灯が、歩道を歩く二人組の男達を照らしていた。長身の男は、黒いチェスターコートを身に纏って、沢村にとっては馴染み深い仏頂面を浮かべている。その男の腕を掴んで引く男は、気の強そうな顔立ちをしていて、長身の男よりも随分と若い。
「……あれです」
 呟いた沢村の隣で、御幸がゆっくりと頷く。
 二人を乗せたタクシーは、男のマンションの近くの目抜き通りで止まった。沢村は、タクシーを降りる時に、「行くぞ」と言ったきり黙りこくったままの御幸の横顔を眺めながら、これ以上この話を先送りにすることは出来ないのだな、とようやく腹を括った。
「御幸先輩は、ここで待っててください」
 対向車線側の歩道を歩く男達は、沢村と御幸の存在には気がついていないようだった。
 男が新しい恋人を従えていることは誤算だったが、元々は一人で訪れるつもりでいたのだから、御幸に付き従ってもらう必要はない。
 それでもいざ顔を上げて、腕を組んで歩く二人の男の姿を見つめると、動揺と捉えどころのない悲しみに沢村の体は震えた。
 御幸が、沢村の手を握る。夜も更けて来たとはいえ、通行人はゼロではない。こんなところで男同士手を繋いでいるところをファンにでも見られたら事だ。だけれど、沢村にはその手を振り解く気力も残されていない。
 男とは、長かった――少なくとも沢村はそう思っている。十八の頃から数えて四年弱。その間に別れていた時期や、ほとんど連絡を取っていないような時期もあったが、沢村の中では男の存在はいつだって大きかった。腐れ縁のごとくいつまでも続いていくかのように思われた関係が、こんな形で終わりを迎えることがなんだかおかしい。
 立ち尽くすように考え込んでいた沢村の手を握る御幸のそれに力がこもる。視線をずらして、御幸の表情を伺うと、決まりの悪い顔をしていた。
「どうしたんですか」
 沢村が逡巡している内に、男たちの後ろ姿はみるみる小さくなっていた。
「……もういいよ。このまま帰ろうぜ」
 御幸は静かに言って、男達が歩いて行ったのとは逆方向へ、沢村の手を引いた。
「もういいって、なんなんスか! 先輩がこんなところまで俺を連れてきたのに」
 思わず大きな声を上げた沢村を、御幸は憐れむような目で見つめた。
「あの男の中で、お前はもう終わってるよ」
 二人が寄り添い合って歩いていく姿を見てそう思ったのだろう。御幸の声は酷く落ち着いていた。
「っ、そうだとしても……俺はちゃんと終わらせたいんです!」
 小一時間前まで問題を先延ばしにすることばかり考えていたのに、沢村は啖呵を切るように言って、御幸の手を振りほどいた。
「いいから。もう帰ろうぜ」
 メシあるし、と重ねる御幸は、沢村が傷付く姿を見たくないのだろう。
「俺は、ちゃんとしたい。あの人とのことも、御幸先輩とのことも」
 それが心のうちに隠されていた自身の本音なのか、強硬な態度を取る御幸への反抗心が具現化した言葉なのかは定かではなかった。
 それでも言い切った沢村は、脇目も振らずに走り出した。暗闇に紛れて、男達の姿はもう見えない。
 途中の横断歩道で、男達のいた歩道側に渡って、しばらく小走りを続けていると、ついに二人の姿を捉えた。沢村は、駆け寄った勢いのまま黒いチェスターコートの背中を叩く。
 バン、と思いがけず大きな音が響いて、背筋を伸ばして歩いていた男の体が前のめりに崩れた。
「なにすんだよ」
 先に口を開いたのは、若い男の方だった。眉間に皺を寄せて挑むような目で沢村を睨みつけている。
 近くで見ると、沢村よりは幾分背が低い。派手な配色の花柄のシャツがその顔立ちの幼さを引き立てている。
 今にも噛みつかんばかりの勢いの若い男の隣で、ゆっくりと体を起こした男が、沢村を見据えた。色のない瞳だ。そこにはもう自分の入り込む隙間はないのだと、沢村は察した。
 なんて自分勝手な男なのだろう。沢村の体を好きなだけ蹂躙して、新しく自分を満足させる男が現れたら何も言わずに手放す。沢村の意思を介在させてくれたことなど一度もなかった。
「……きちんと、別れたくて」
「そのためにわざわざ来たのか」
 男の声は落ち着いていた。見た目よりも何よりもその声がクリスに似ていたから、莉子にフラれ傷心だった十八の沢村は男の誘いに乗ったのだ。まさか男に犯されるだなんて想像もしていなかったし、当時はその声がいかにも優しげに聞こえた。
「ちゃんとしないと、気持ち悪いだろ」
 いざ数ヶ月ぶりに顔を突き合わせると、どんな言葉がこの場に適切なのかも分からなくて、沢村はまごまごと口を動かした。
 若い男が舌打ちをする。そのくせそれ以上口を挟んでくる気配はない。腕組みをしたままガードパイプに細身の体を預け、忌々しげに口元を歪めていた。
「お前がそう言うなら、自由にしてくれ」
 男は言いながら、若い男の様子を横目でチラチラと確認している。わざわざこんな言葉を交わしにくる必要はきっとなかった。男はもう、この見知らぬ若い男の所有物に成り下がったのだ。
「……分かった」
 やりきれない思いで後ずさりした沢村の背に、温いものが触れた。
「お前急に走んなよ」
 沢村の背を支えるようにして立った御幸は、男を一瞥してから、「なんだよクリス先輩の方がよっぽどいい男じゃん」と呟いた。この人も自分を追うために走ってきたのだと思うと妙に笑えた。
「ふぅん。お互い新しいのがいるんだから、もう関わることもねーじゃん。行くぞ」
 若い男は、突然現れた御幸を値踏みするような目で見やってから、そう言った。立ち尽くす男の腕を再び掴んで、遠ざかっていく。
「呆気なかったな」
「終わる時はそんなもんじゃないスか」
 他人事のように言った沢村の体を、御幸は後ろから抱きすくめた。人に見られますよ、と言った沢村の声は、意外なくらいに柔らかい。
「好きだったの?」
「……好きでしたよ。じゃなきゃとっくに逃げ出してました。あの人が俺を追うことなんてありえねーし」
 セフレでなくて恋人にしてほしいと言ったのも、御幸との関係が途絶えている間にヨリを戻して欲しいと縋り付いたのも沢村だった。
「ずっと片思いだったんでしょうね。いい思い出なんて一つもねーけど」
「俺と同じじゃん」
 同調するように言った御幸の声は思いがけず軽い。一緒にすんな、とこれまた軽く返して、二人して笑い合う。首筋に回った腕を剥ぎ取って歩き始めると、後ろから追ってきた男に今度は手首を掴まれた。それ以上は振り払うでもなくそのまま歩みを進めている内に自然と手を繋ぎあった状態になる。
「なんとなく体が軽い気がしやす」
 肩の荷が下りた、とでも言うべきか。繋ぎ合った手の温もりを、素直に心地良いと感じられることに沢村は驚いた。
「お前夏休みの宿題貯めとくタイプだっただろ」
「御幸先輩は違うんスか」
「俺はわりと早めに片付けてたよ。後からする方が面倒だし」
 らしいな、と思う。
「タクシーどこで拾います? たまには電車で帰ってもいいですけど」
「どっちでもいいよ」
「もうしばらく歩きます? 涼しくて気持ちいいし」
 墨を流したような空を見上げながら言うと、隣の男が立ち止まった。
「どうかしました?」
 不思議に思って尋ねると、御幸は幾分上ずった声をあげた。
「……安心したんだよ。悪いか」
「悪くないけど、なんでしょうね」
「なんだよ?」
 拗ねているような声だった。
「御幸先輩にも案外可愛いとこあるんだな、と思いまして」
 はにかみながら言うと、繋いだ手に力が込められた。
「バカにしてんの?」
 言葉に反してその声は柔らかい。この人の声が好きだ、と沢村は不意に思った。
 してませんよ、と言ったきりしばらく黙り込んだまま歩みを再開させる。隣を歩く御幸の息遣いをもっと長く感じていたかった。
「先輩」
「なんだよ?」
 暗がりでよく見えないが、御幸の視線は恐らくこちらに向いている。心を落ち着かせるために息を吸うと、六月の湿り気を含んだ空気が肺の中を満たした。
「シたいんですけど」
「は、そんないきなり」
 意を決して上げた声に対して、返ってきた御幸からの反応は歯切れの悪いものだった。普段ならすぐに乗ってくる場面なので不思議に思っていると、固い声で男は続ける。
「まだ何の準備も出来てねーから自信ないんだけど」
 いきなりでもいけるもんなの、と尋ねられて初めて御幸が自分に抱かれる想像をしているのだと気がついた。
「お前のそんな細くもないよな」
 もごもごと口を動かす男のことを改めて可愛いと思う。
「慣らさずいきなりなんて無理っスよ。御幸先輩、肛門括約筋強そうだし、俺のが千切れたらヤですもん」
「お前変態だから千切れてでも挿れたがりそうで怖いわ」
「流石にそこまででは……と言いますか、そうじゃなくて、それも楽しみですけど、今は……今は先輩のが欲しいんです」
 手を繋いで歩いているうちに、無性に御幸のモノが欲しくなった。それはきっと温もりや安心感を求める欲求に重なっていて、そういうものを求めてセックスがしたくなったのは初めてだった。
「飯食ったあとする?」
 本当は食事を終えた後と言わずに今すぐにでも男の凶悪なモノを受け入れたい。しかし、二十二になった日に御幸と交わしたやりとりを思い出して、沢村は首を横に振った。
「や、やっぱり我慢します」
「はあ? 今自分でシたくなったって言ったとこじゃん」
 その気になってしまっていたのか、やや苛立ったような声で御幸は言った。それでも繋いだ手が離れていかないことに安心する。
「どうせあと少しなんで飯の日まで待ちます。なんとなく、その方がエロいし」
 セルフ焦らしプレイで、と付け足すと、「訳わかんねー」と呆れられた。
「飯は食ってくだろ」
「もちろんゴチになります」
「残りもんだし、そこまで上等なもんはねぇけど」
「口に入ればなんでもいいっスよ」
「じゃあ帰りに納豆巻き買ってやるよ」
 それは勘弁、とじゃれ合うように言ったとき、枝葉を揺らす音が鼓膜を震わせた。続いて、御幸と繋いだのとは逆の手の甲に冷たい飛沫が落ちる。緩やかな風とともに生温い糸雨が落ちてきたのだ。
「俺洗濯物外に干してるわ」
 急がねーと、と駅のある方角に向けて駆け出した御幸はそれでも沢村の手を離さなかった。


「先輩、あのピアス誰に貰ったんですか」
 左耳のピアスホールを指で弄りながら、つと思いついたことを尋ねる。
 食事にだけありつければすぐにでも寮に帰ろうと思っていたのに、残り物と呼ぶには量の多い麻婆豆腐と中華スープに胃袋に押し込んだ沢村は、そのままうとうとと御幸の部屋のベッドで寛いでいた。食事の前にシャワーも浴びたので、このまま三十秒も黙っていれば眠りの世界に落ちていきそうだった。
 御幸から貰ったと言うべきか、刺されたピアスはピルケースに包まれて、現在は寮の自室の引き出しにしまいこまれている。野球の絡まない休日にはなんとなしにつけるようにしているが、その出自を御幸から直接聞いたことはなかった。
「前の彼女。最後に会った時にもらった」
 概ね予想通りの返答に沢村は唇を尖らせた。
「失恋のショックでやけっぱちになって俺の耳に刺したんスね」
「嫌だったら新しいのやるよ」
「いいですよ、あれで」
 伸びをしながら言って、寝返りを打つ。御幸の端整な顔が間近にきて、沢村は息を飲んだ。
 その動揺を知ってか知らずか、仄かにシャンプーの香りを纏った男は、沢村の左の耳たぶに触れる。
「お前はそういうの気にしないよな」
「気にしないというか、なんというか……一応アレも記念の品みたいな感じで傍に置いておきたいというか」
「らしくねー」
 笑っても少しも形の崩れない男に見惚れているのを悟られたくなくて、沢村が身をよじって距離を取ろうとするのを、御幸は引き止めた。そのまま抱きすくめられて、首筋の匂いを嗅がれると息をするのも億劫になる。
 しばらくの間そのままでいて、沢村の意識が半分夢の中に潜り込んだ頃に御幸が口を開いた。
「右耳は?」
「みぎみみ?」
「俺のやったピアス、二つ揃ったから開けるって言ってただろ」
「開けるつもりでしたけど」
 確か去年の年末に言ったことだ。あの翌日、財布を取りに行った先のマンションで男の痴態を目の当たりにしたせいですっかり忘れていた。
「やめたの?」
「考え中っスね」
 現状では左耳だけに開いているのも悪くないように思える。
「開けてみたかったですか」
 確かあの時、御幸に開けてみるかと尋ねた気がする。
「そういうわけでもねーけど」
 きっと御幸は男が沢村にしていて、自分がしていないことがあるのが気にくわないのだと思う。
「先輩がそんなにしたいなら今度ピアッサー買っときます。飯行く日にブスッとお願いしやす」
「考え中だって言ってただろ」
「御幸先輩にされたら多分勃つんで、そしたら今度は俺が先輩にブスっと」
「しょーもないこと言うな」
「嫌いじゃないくせに」
「……ほんとに可愛くねぇ」
 可愛くなくて結構です、ときっぱりと返しながらこの人にとって自分はいつから可愛くない存在になったのだろうと考える。少なくとも沢村が青道高校に入学して、御幸が部活を引退するまでは、投手と捕手であることもあり目をかけられていたし、それなりに可愛い後輩という立ち位置にあったはずなのに。
「御幸先輩はわりと可愛いとこありますけどね」
 数時間前と同じ台詞を繰り出して、自分の左耳に触れる御幸の手に手を重ねる。
「やっぱりバカにしてんじゃん」
 お、照れた。
 口をもごもごさせる男のことを、悪くないなぁと思う。好きだと思えるかどうかは自信がないが、そうなれるように努力したいとようやく思えるようになった。


 六月十五日。夕食の約束は十九時からだった。
 昼前に目の覚めた沢村は、朝風呂に入り、食堂に行く気も起きないので前日の同期との飲み会の帰りに酔った勢いで買ったバナナを食んでいた。
 小ぶりなそれの最後の一欠片を嚥下して、ティッシュで指を拭ってから膝の上に載せたピルケースを開く。リング型のピアスは、平素と変わらず端然とした姿でそこにあった。
 図らずも二人の関係を結ぶきっかけを作ったそれを、粗雑に摘んで、慣れた手つきでホールに差し込む。おしおしおーし、と自分を鼓舞するように囁きながらピアスを留めていると、電話の着信を報せる音が鳴った。
 液晶を横目で見て、「みゆきせんぱい」、と呟いた口元が緩んでいる。
「おはようございます」
 それを悟られまいとする余りにやや硬い声が出た。
「おはよ。今晩の待ち合わせ場所なんだけど」
「……なんか声変じゃないスか」
 至って普通の調子を装っているが、電話口の向こうから聞こえてくる御幸の声にはあからさまに水気がなかった。呼吸音に混じって痰の絡んだような喘鳴まで聞こえてくる始末である。
「変じゃねーよ」
 ムキになったようにあげられた声には、やはり普段の覇気がない。
「先輩、風邪引きましたね」
 ズバリ指摘してやると、電話越しの相手は、こんな時期に引くわけねーだろだの、ちょっと喉の調子が悪いだけだなどと言い繕っていたが、最終的には、「大したことねーから気にすんな」とそれを認めた。
「そういうわけにはいかねーでしょ。今日は家でゆっくり休んでてつかぁさい」
 体が資本の仕事である。明日も試合を控えているし無理はさせたくなかった。自分がマウンドに立つことのない日にも、御幸には扇の要として誰よりも不敵に試合に臨んでほしい。
「飯は……」
「予約してくれたのに残念ですけどキャンセルしましょう。キャンセル代とかかかるなら俺が出しますし、これからはいつでも行けますから」
 いつでも、の部分に力を込めて言うと、「悪い」と力の抜けた声が返ってきた。熱は、寒気は、とあれこれ聞きたくなるのをぐっと堪えて、「お大事に」と静かに言って電話を切る。
 養生してくれていればいいが、性格的に信用がおけないので心配だった。
 ベッドに腰掛けた沢村は、自宅で熱にうなされているであろう御幸のことを想いながら視線を走らせた。キャビネットの上のキートレイの中に、鈍色に光る物が鎮座していた。それは御幸のマンションの合鍵だった。
 それからしばらくの後、両手に買い物袋をさげた沢村は御幸のマンションのエレベーターにのっていた。ずっしりとした重みを伴うそれには、パウチの粥やスポーツドリンク、ゼリーなどがごっそりと詰まっている。
 完全なる思いつきで見舞いに出かけてしまったが、似合わないことをしている自覚はあった。病身の自分に沢村を近づけることが御幸の本意でないことも。
 それでも、あの鍵の姿を認めると居ても立っても居られなくなって沢村は寮を飛び出していた。今日、御幸の姿を拝まなければ今まで積み重ねてきたものが全てが無に帰してしまうような、そんな気がしていた。
 御幸の部屋は、エレベーターを降りてすぐ左手の部屋だった。初めて訪ねた日にカレーを食みながら、「ここ角部屋じゃないんスね」と言った沢村に、「角部屋はソファが入らなかった」と苦々しげに応えた御幸の表情を不意に思い出す。
 ポケットに納めていた合鍵を取り出して、呼び鈴を鳴らすこともせず、部屋に入り込むと、米の煮える甘い匂いを鼻腔がとらえた。
「……全然ゆっくりしてねぇし」
 呆れたように呟いて、廊下に足を踏み入れる。リビングに至る前に御幸の部屋を覗いたが、案の定姿は見えない。
「先輩、寝てないと、」
 唇を尖らせて言いながら、リビングに続くドアを開いた沢村の視界に飛び込んできたのは、スラリとした体躯の黒髪の女の姿だった。
「あれ?」
 剥き身のりんごの並んだ皿を、ソファの前のローテーブルに置いた女が、沢村に目を向けたまま首を傾げる。
「鍵、掛けたつもりだったけど」
「いや、あの」
「お前わざわざ来たのか」
 しどろもどろになる沢村の視線の先、常は二人が睦みあっているソファの背もたれの裏から、「感染るぞ」と御幸が顔を覗かせた。口調自体は平素と変わらず自然なものだが、声にはやはり張りがないし、眉の辺りには不調が深く滲んでいる。
「球団の後輩」
 頬にソファの皺の跡をつけた御幸が言うと、沢村をじっと見つめていた女は、「そうなんだ」と口角を上げた。既視感のある顔立ちだ。
「りんご切ったんだけど、後輩君も食べる?」
「そういえばフォーク出してないや」
遠山の眉を下げながら女は言った。対面式のキッチンに向かっていく女とすれ違った瞬間に、沢村はその女の素性に思い当たった。女は近頃売り出し中のタレントである。
 以前ベラの家の団欒に混じってテレビを見ていたときに、「この子御幸の元カノよ」と彼が妻に言っていたのを聞いていた。
 似合わないことをやってくれるな、という気持ちで視線をやったが、御幸の表情に焦りの色は見られない。体調不良故か普段に比べると目に力がないが、それでも真摯な瞳を沢村に向けている。
 御幸が、この状況に疚しさを感じていないのだと察した瞬間、体から力が抜けた。両手にさげていた買い物袋が、すとんと音を立てて床に落ちる。
「先輩、風邪引いてるって聞いたんで色々買ってきたんですけど」
「うわ、ありがとう。まさかお前が来てくれるとは思わなかったわ」
 ソファから立ち上がろうとする御幸を、「ダメですよ」と制して、ようやっとフォークを見つけ出した女に会釈をする。
「思ったよりも酷そうなんで俺は帰ります。先輩のことよろしくお願いします」
「せっかく来てくれたのにいいの?」
 女は、二本のフォークを握り込んだ手をゆらゆらと揺らしていた。
「俺じゃ役に立てることもありませんから」
 しれっとそんなことを言って背を向けたが、拗ねているわけではなかった。本当に。
 御幸に疚しい感情がないのはなんとなく分かるから、嫉妬しているわけでもないと思うが、これに関しては自信がない。
 ただ、事実として料理が出来るわけでもなければ、病人の看病に長けているわけでもない自分が、彼女を押しのけてこの場に居座ったところで役に立てることはないと分かっているからどうしようもなかった。沢村が帰ると言った瞬間、名残惜しげな表情を浮かべた御幸とて、ウイルスの蔓延した空間に自分を置くことは本意ではあるまい。
 よくよく見れば玄関には華奢なパンプスが行儀良く揃えて置かれていた。スニーカーのつま先を床で叩いていると、後ろから、「靴が傷むぞ」と嗄れた声がかけられる。
「もう何年も履いてますから」
 振り返ることはせずに、極力平坦な声で返す。後ろに立つ御幸がどんな表情をしているのか確認することすら億劫だった。
「あの子、元カノ。この前からお前と行く店の相談のってもらってたんだけど、行けなくなったから代わりに行ってほしいって連絡したら見舞いに来てくれた」
「そう、ですか」
「また近いうちに予約しとくから、ワインもあるし」
「もういりません」
 全然気にしないでください。お高いレストラン、楽しみにしてます――心の中では淀みなく、そう言えていたはずなのに、実際沢村の口から出た言葉はそれだった。
「怒ってんの?」
「怒ってません。怒る資格もねーし」
 自分が御幸にかけてきた言葉を思えば、これくらいのこと何でもない。そもそも二人は付き合っているわけでもないのだから。
「けど、悔しかったっス。御幸先輩がこういう時俺のことを頼ってくれないことが」
 尤もらしいことを言って、燻り始めた嫉妬心を押し隠そうとする自分に沢村は呆れた。御幸のことを好いていると自信を持って言うことも出来ないくせに、所有欲だけは一端に育っているのだから始末に負えない。
「悪い。お前の気持ちも考えずに」
 言葉とは裏腹に、御幸の水気のない声には愉悦が混じっているように感じられた。沢村が、らしくもなく嫉妬していることを察したのだろう。
「彼女も、もう帰すから」
「……とにかく帰ります。お大事に」
「また連絡する」
 ドアレバーをゆっくりと押して、マンションの廊下に出てからしばらく経っても、沢村は御幸の部屋のドアを背に立ち尽くしていた。
 俺はお前でいいよ――その言葉を何度も反芻しながら。
 
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