she is fine
ゆらゆらと揺れ動くバウンサーのテンポに合わせて沢村の肩が動く。みゆきせんぱい、と小声で呼ばれて近づいてみると、その内側で先程まで黒目がちな瞳をぱちくりしていた子供が、どこまでも無垢な寝顔を晒していた。
「可愛いっスね」
目を細めて破顔しながら、沢村は音を立てないようにゆっくりとその場から離れ、「紅茶でいい?」とベラの妻が尋ねるのに頷いて、ダイニングテーブル脇の椅子に腰掛けた。御幸もそれに続く。
「まあもう淹れてるんだけどね」
ラフな口調で笑う女は、かつて二人が参加した合コンで女側の幹事を務めていた女だ。それ以降も、何度も会ったことがあるので自然と場は砕けた雰囲気になる。
「いつもよく寝るの?」
バウンサーの規則正しい揺れに身を任せて眠る二人の子供に視線をやりながら尋ねた。
「まだ産まれたところだから殆ど寝てるね。夜泣きが酷くなるのはわりと先らしいよ」
「へー」
間抜けな相槌を打った沢村が、茶菓子に出されたクッキーを食む。
それなら今の内に来といてよかったな、という御幸の言葉に、沢村も頷いた。
それ以降、居心地の良い沈黙の流れる空間で、三人は何の気なしにバウンサーの中で眠る子供を眺めていた。手の平の内側に握り込んだカップから、ベルガモットの香りが豊かに立ち上がっている。
家主である男は、十分程前に四国の実家から電話がかかってきたきり、姿を消していた。
「ベラさん、遅いっスね」
ぽつりと沢村が呟く。それを合図に二人の向かいに座っていた女が、音を立てずに立ち上がった。
「ベラっていつも長電話なのよ。急かしてくる」
ゆっくりしてて、と言い残した彼女の後ろ姿がリビングから消えたのを見計らって、沢村が吹き出した。
「ベラさん、奥さんにまでベラって呼ばれてるの何回聞いても笑えません?」
「俺は笑い通り越して唖然としたわ。あのままだと娘にも呼ばれるぜ」
「いいんじゃないスか。あの子が大きくなってべらぁべらーって観客席から叫んでるとこ想像したら面白いし」
「面白いか?」
「面白いですよ」
「……お前って子供好きなの?」
「普通?」
首を傾げた沢村の唇の端からクッキーのカスが落ちる。だらしない奴だ。邪気がないとも言えるのかもしれない。
「普通に好きってことだろ」
「可愛いですからね」
まあ可愛いけど、と返して、沢村の唇に未だ残るクッキーの粉を取ってやろうと手を伸ばしたとき、ドアが開く気配がした。御幸は、沢村に向かって伸ばしかけていた手で菓子盆に並べられたクッキーを一枚取って、口に放る。
「待たせて悪かったな」
「そんなに待ってませんよ」
遅いと言った張本人がこの調子なので呆れてしまう。
口の中に広がる甘味を、冷めつつあるアールグレイで流し込んだ御幸に、ベラが視線をやった。
「お前、あんまり甘いもの好きやなかったことない?」
廊下へと続くドアの前で、ベラがそう言うと、彼の大きな体に隠れていた妻が、「そうなの? ごめんね」と手を合わせる。
「珈琲とか紅茶にはやっぱり甘いのが合うから」
殆ど無意識の内に、沢村の唇に触れようとしていたことを悟られぬように、御幸は適当なことを言って口角を上げた。
「産まれて一ヶ月経ったんだっけ?」
話を買えるようにして尋ねると、御幸の向かいに腰掛けたベラが頷いた。
「四月の上旬に産まれて、もう五月も半分終わりかけとるけんね」
「ぎりぎり平成産まれなんだな」
「予定日五月だったのに、せっかちでねぇ。誰かさんに似たんだわ」
歯を見せて笑う妻を見つめるベラの目は穏やかだ。
「予定日より早く産まれたわりに大きいですね」
沢村の言葉通り、電動のバウンサーの内側に寝かされた二人の子供はしっかりとした体躯をしていた。
「一ヶ月検診行ったら予定日通り産まれた子より少し大きかったからね。長女は父親に似るって言うし、この人に似て育っていくのかなぁ……残念だわ」
ベラの妻は、大げさに溜息をついて見せた。その口角がわずかに上がっているのを、御幸は認めた。
沢村はその溜息と、言葉を額面通りに受け取ってしまったらしく、慌てて口を開く。
「……大丈夫、顔はベラさんに似てないみたいですから!」
「ブッ……ぷは、げほっ」
ひとしきりベラを弄って、優雅に紅茶を啜っていた彼女は、沢村の発言に吹き出してむせ込んだ。
「沢村、流石に失礼やろ……」
声を荒げるでもなくそう漏らしたベラの表情には、諦観のふた文字が浮かんでいた。
「お前言い過ぎ……つーか、さっきからクッキー口についてる」
呆れついでに指摘してやると、沢村はその琥珀色の瞳を御幸に向けた。
「どこすか?」
そんな風に尋ねておいて、御幸からの返答を待つこともなく、沢村は舌を出した。
情欲を誘う厚みのある舌が、下唇を舐める。御幸は、今すぐにその男を押し倒したい衝動に駆られた。沖縄から戻ってきて以降、二人は体を重ねていない。
もう三ヶ月近くも生殺しの状態が続いているから、ふとしたことでスイッチが入りそうになる。
「はじっこ、左側……あーもう、ティッシュ借りろよ」
それでもいつものように平然とした風を装って、自然な仕草で男から視線を逸らした。
「うす」
「ほら」
あざす、とベラの差し出したティッシュを受け取って、沢村は口元を拭う。
それから、いつの間にやら足元に置いていたピンク色の包装紙で包まれた箱を向かいに座った二人に差し出した。
いかにも口に馴染んでいない、「つまらない物ですが」の一言が添えられる。
出産祝いらしいそれを、目の前で開けられることを望んでいるのだろう。沢村は、その黒目がちな瞳をじっとベラに向けていた。
「そんなに見られたら開けにくいんやけど……」
苦笑いを浮かべたベラが、その見た目に似合わぬ繊細な手つきで包み紙を剥いだ。
存外に平たい白い箱の中から、ラベンダー色のベストのような物が出てくる。大きさは赤ん坊の身長程で、タオル地の生地の裾側に愛らしいハリネズミの柄が縫い付けられていた。
「なんだこれ?」
どういう用途で使う物なのか見当もつかない御幸が尋ねると同時に、ベラの妻が、「スリーパーね、嬉しい」と破顔した。
「お、今治タオルやん」
日の丸印のタグを確認したベラが言った。
「寝るときに使うといいらしいっス。子供ってすぐに布団蹴るでしょ」
その説明を聞いて初めて、御幸はそれが子供用の寝具のようなパジャマのような物だと察した。一人っ子の御幸の周りには、当然の如く幼い子供はいない。
「沢村にしては気の利いたもん寄越したな」
ベラが感心したように言うので、沢村は頬を掻いた。
「去年子供産んだ幼馴染に聞きましたからね」
「女の子?」
「そうっス」
「だと思ったー子供いても男の人だとなかなかこういう物選ばないもんね」
ベラの妻はうんうんと頷いている。それから御幸のカップの紅茶が空になってるのを認めて、「あっお代わり淹れるね」と席を立とうとした。
「いや、俺たちはそろそろ」
「そっすね、帰りやす」
「もっとおったらええのに」
球団一紅茶の不似合いな容姿をしたベラが、カップ片手に呟いた。
「お前はよくても奥さんはこれから飯の支度とか色々忙しいだろ」
「イケメンは目の保養になるからいつまでいてくれてもいいんだけどねー」
あっけらかんとした言葉と、二人の愛らしい娘に後ろ髪を引かれつつ、その日はお開きとなった。タクシーを拾うために駅に向かう道中、沢村が口を開く。
「可愛かったですね」
「そうだな」
そうしてしばらくの沈黙が流れる。規則正しく響くお互いの足音を、御幸はぼんやりと聞いていた。
「ベラさん結婚してから変わりましたね」
「あー分かる。太ったよな」
「そういうことじゃなくて、それもありますけど……元々優しい人だったのが、奥さんとかお子さんの前だと更にというか……人生捧げてる感じが」
「確かに。あれは女が強い家だな」
尻に敷かれることをベラも望んでいるように見えた。
「俺、前まで御幸先輩は、ベラさんみたいに普通に結婚して子供作ったらいいなって思ってました」
「なんだよいきなり」
沢村の突拍子も無い言葉に、御幸は眉を寄せた。
「だって俺御幸先輩の事わりと尊敬してるし、御幸先輩の子供絶対美人になりそうだし、男だったら絶対野球上手いし」
「作らねーよ」
まくし立てるように言われて、勢いに飲まれそうになりながらもきっぱりと否定した。子供なんて作るつもりはない。沢村とこういう関係になる以前から、決めていたことだ。
「……そうしてつかぁさい。俺と御幸先輩が、この先どうなるのかは分かんねーけど、先輩がベラさんみたいに、奥さんとかお子さんとかに全面降伏するのが俺は嫌なんすよ」
「俺が自分以外に征服されるのがヤなの?」
「んー?」
沢村は返事もせずに黙り込んでしまった。駅が近づいてきて、人通りが増え始めたことにも因果があるのかもしれない。
駅待ちのタクシーの列に並んでいる間、沢村の日焼け跡のくっきりと別れたうなじを、御幸は眺めていた。
「これだけ待つならアプリで呼んだらよかったっスね」
その視線に気が付いたのか、気まずげに顔を上げた沢村が目尻を下げる。
「このあと、うち来る?」
殆ど無意識に御幸から漏れ出た言葉に、沢村は唇を噛んで頷いた。
二
沢村は、フェラが上手い。
「……お前って、それ嫌じゃねーの?」
「ひぁっふぇ?」
「ちんこ咥えるの」
沢村は、んーと考え込むように一瞬視線を彷徨わせたが、すぐさま考える時間も惜しいとでも言いたげに唇を窄ませる。じゅっと先端を吸われると、亀頭と沢村の口内が同化してしまったかのような錯覚に陥って、御幸は思わず腰を引いた。
滑つく唾液をふんだんに口内に行き届かせた沢村が、テラテラに光ったモノを抜き差しするたび、ジュルジュルといやらしい男が部屋に響き渡る。
「ふきでふよ」
「咥えたまま喋んな、下品だから」
「下品なの好きっしょ」
ようやく御幸のモノを解放した沢村は、だらしない表情でそう言った。
「嫌いだよ。つーかもう離せ、これ以上する気ねーから」
「ドケチの御幸」
「お前のケツが重いからだろ」
握り込まれたままの屹立を、小指からゆっくりと引き剥がしてボクサーの内側にしまう。堅く勃ち上がったままのそれが布地を押し上げるのが窮屈で不恰好なのはこの際我慢することにした。
「この引き締まった小尻になんという暴言を!」
「質量の話じゃねぇよ。バカ」
バカとはなんですか、と馬鹿面を晒して言う沢村の頭の軽さにはほとほと呆れ果てていた。
「沢村お前、沖縄から戻ってきてから俺が言ったことまさか忘れてないよな?」
「もちろん。覚えてますよ」
軽く胸を張って沢村は頷いた。無性に頭痛がしてくる。
「言ってみろ」
「忘れもしない二月の終わり、沖縄のぬるい空気にふやかされた俺たちの体には、東京の寒波はあまりにも厳しかった……やっとのことで羽田空港を発つタクシーに乗り込んだ頃には身体中が冷え切っていて……」
「御託をはいい」
「氷のように冷えた俺の手の平を、御幸先輩は自分のコートのポケットの内側に誘い込んで、これを」
デニムの尻ポケットをゴソゴソまさぐった沢村が、鈍色に光るものを差し出した。この部屋の合鍵だ。沢村の言葉通り二ヶ月半前に御幸が彼にくれてやった物である。
「これからはいつ来てもいいよ、お前がどうしてもって言うならその内抱かせてやるって」
「言った」
「そのくせいつ来ても寸止めばっかりくらわせて抱かせるどころか挿れてすらくれねーし、何のために合鍵持ってんのか分かんねーっス」
「お前は本当に自分本位だな」
呆れて溜息すら出ない。
「先輩は案外身持ちが硬いと言いますか、なんと言いますか、身の回りの男全部清算するまでは絶対抱いてやらねーって、要求が高すぎると思いやす」
「分かってんならさっさと清算しろよ」
ソファで隣に腰掛けた男の額を強めに小突いて、御幸は今度こそ大きな溜息をついた。
コーヒーでも挿れてくれ、と言って背もたれに体を預けると、疲労感がどっと押し寄せてきた。どこまでいっても後輩気質の沢村は、勝手知ったる様子でコーヒー豆を戸棚から取り出している。
――お前男と本当に別れろよ。荷物あるならとってきて、お前の携帯からも相手の携帯からもお互いの連絡先消して、あの出会い系みたいなのももうすんな。
沖縄のホテルで、御幸は沢村にそんなことを言った。殆ど懇願するような気持ちで、それさえやり遂げれば、自分の体を明け渡してやると付け足して。
勿論軽い気持ちで繰り出した台詞でなかった。あのときは、幼少期から順当に重ねてきた男としての性が引き剥がされていくような心持ちがしていた。
それでも自分は好き勝手に沢村の体を貪るのに、沢村が自分の体を暴くのは許せないと言うのはあまりにも無体な様にも思われて、やっとの想いで告げた言葉だった。
それだけに、自分がこれだけのことを言ったのだから、沢村も真摯になってくれるだろうと、心のどこかで楽観視していた。
しかし四年に渡る放蕩生活によって形成された沢村の頭の軽さがそう簡単に修正されるはずもなく、あの日御幸が清水の舞台から飛び降りる様な心持ちで告げた言葉ですらも、ホテルから出た瞬間には脳の片隅に追いやられてしまっているようだった。余暇の時間にはちょくちょく件のマッチングアプリを覗き見ているようだったし、一月から顔を合わせていないという男への別れ話もいつまでも先延ばしにしていた。
かといって頭に血を登らせた御幸が、「お前俺のこと抱きたくねーのかよ」とでも零せば、「御幸先輩そんなに俺とけつ穴セックスしたいんですかー?」と付け入る隙を与えることになりかねず、苦肉の策で羽田行きの飛行機の中で講じたのが、ちゃんとするまで抱いてやんねーよ作戦であった。これは御幸自身の首も締める諸刃の刃の策であるわりに、現状全くの効果を上げていない。
「先輩の痩せ我慢、いつまで持ちやすかねー」
小憎たらしい台詞を吐き出した沢村は、御幸以外の人間とも体を重ねているのかもしれない。沢村は若い。体を重ねるだけの相手に事欠くことがないことは、ゲイの事情に疎い御幸にも想像はついた。
御幸は、沢村の差し出した湯気の立つコーヒーカップを片手に口を開いた。
「お前俺のことどう思ってんの」
「キャップってすぐにそういうこと聞いちゃいますよね。莉子とか、前の彼女さんに重いって言われませんでした?」
沢村のはぐらかし方は露骨である。
「可愛くねー」
げんなりして言うと、
「二十二の男に可愛さをお求めですか」
御幸の膝に沢村は頭を載せた。コーヒーカップを置いた御幸の顔を見上げる男の目は、猫のそれに似ている。
「二十二って、俺と同い年じゃん。お前誕生日いつだっけ」
「五月十五日」
「十五って……今日かよ」
「お高いレストラン予約してくれました?」
沢村はいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「……来月な」
「せめて来週にしてくださいよ!」
「いいとこは来週は無理」
「……遅刻するなら生まれ年のワインもお願いしやす」
アラフォーのOLのようなことを言った沢村は、柔らかくもない御幸の膝の上で、心地よさげに目を細めた。無論、御幸は高校を卒業して以降沢村に誕生日を祝ってもらったことはない。
「沢村、」
「なんすか」
名前を呼んだ声は思いがけず深刻に響いた。それに伴って御幸がぐっと頭を落とすと、沢村は怪訝な視線を投げかけてくる。
「来月の十五日に店の予約するから、それまでに男と別れて」
「……なんて顔してんスか」
似合わねぇ、とこぼした沢村の瞳に映る自分の顔が、どれほど情けなく歪んでいるのかは想像に易かった。
御幸は、零れ落ちた何かを拾い上げるような手つきで沢村の頬に触れて、言葉を重ねる。
「お高くて美味い店も、生まれ年のワインも、お前が欲しがるもので、俺が用意してやれるものは何でもやるから――それでももし、お前が他の男との関係を清算出来ないなら、俺はもうお前を好きでいるのはやめるよ。その方がすっきりするだろ」
「すっきりって……」
「ただのバッテリーに戻る。俺たちの関係がどういう形になったとしても、俺は野球には私情を持ち出さない」
そこまで言った御幸は、落としていた頭を、更に沢村の顔に近づけた。沢村は、居心地の悪そうな表情を浮かべたまま、おずおずと瞳を閉じる。
二人の唇が重なる。静かに、しかし深く、互いの唇を食むようにしたそれは、たっぷり三十秒は続いた。
三
その店は、讃岐から上京したうどんの麺打ち職人を雇っていることを売りにしていた。
その職人の腕がいいのか否かはこれから判別するとして、ひとまず椀の内側に横たわったそれは、乳白色に輝いている。よく見かけるそれよりは、角ばっていて、大根おろしの他にはなんの具材も載っていない。
御幸の向かいに座った女は、そこに出汁醤油をふた回しかけてから、つと思い出したかのように手を合わせて、「いただきます」と囁いた。
ボブスタイルの黒髪を耳にかけて、優雅な所作で箸を使って、うどんを口に運ぶ。唇をすぼめて麺を啜った時、口の周りに僅かに散った醤油の汁気を、カナエはゆっくりと紙ナプキンで拭った。数年ぶりに間近で目の当たりにした女の習癖が好ましい。
「食べないの?」
首を傾げた女の肌は白い。沢村のそれとは大違いだ。比べても仕様がないのに、御幸はそんなことを思った。
「食うよ。いただきます」
「久々に誘ってくれたのにうどん屋さんでごめんね」
「いいよ、うどん好きだし。あ、美味い」
去年の秋キャンプで四国に行った時に食べた物程ではないが、それなりにコシがある。出汁醤油の風味もいい。
「それで、今日は何の用?」
ひとしきり麺を啜ったカナエは、分厚く切りそろえられた前髪の下の大きな瞳を御幸に向けた。以前と随分と雰囲気が異なるのは、帰国後のプロモーションの路線によるものであろう。
日本に戻ってきてからのカナエは、異国帰りの歯に絹着せぬ物言いが話題となりプチブレイクしている。初めて画面越しに帰国後の彼女の姿を認めた時は、彼女の素の性格とは大幅に違う姿に驚かされた。
毎日を忙しく過ごしているらしく、今日も打ち合わせの合間を縫って呼び出しに応じてくれた。この店は彼女の所属している芸能プロダクションからほど近い。
「久々に顔が見たかっただけだよ」
「嘘。だって一也君、帰国してから私が何度誘っても用事があるって断り続けたでしょ。それがいきなり大した用事もないのにそっちから誘ってくるなんておかしいもの」
「昔よりはっきり言うようになったな」
「……ごめんね。事務所の方針なのよ。だけどテレビでそういう風に振る舞ってたら素の人格も変わってきた気がする……見た目も結構変わったでしょ?」
「確かに。だけどますます綺麗になったよ」
自分の口から自然に飛び出したこの台詞に、御幸は少なからず驚いた。それはカナエも同じだったようで、
「一也君も昔と変わったね」
と、どこか寂しげに呟いた。
「私と別れたあと、結構遊んじゃってた?」
「まさか。そんなに器用じゃないよ。むしろ上手くいかないことばっか」
「そうなんだ。あ、分かった。今日恋バナしに来たんでしょ」
いつの間にやら醤油うどんを平らげたカナエが、マタタビを前にした猫のような目を御幸に向けた。
「恋バナという程の話じゃないけど……」
「そういう話でもなかったらすぐにでも本題に入るもんね。それに一也君って恋愛音痴だし」
恋愛音痴。自覚はあるので苦い笑みが零れた。カナエは、「そういう所が可愛かったんだけどね」とその形のいい唇を緩める。
「あんまりそういう話出来る友達いない? それとも、話題に出しにくいような相手のことなのかな」
「……どっちもなのかもしれない。部活で一緒だった奴とか、球団の人間に話すような話題でもないし、相手とのことを人に話して面白がられるのも嫌だから」
口に出すことによって、無意識の内側の自分の考えを纏めるようにゆっくりと語った。膝の上で握り込んだ拳に、自然と力が入る。
「だからって元カノに声かけなくてもいいのにね」
「いや……今日は本当にそういう話しに来たんじゃないから」
「あれそうなんだ」
それじゃあ何の用、と瞬きをしたカナエの前に、店員が湯のみを置いた。
「あ、ここね。かけつゆかかってないうどんのお客さんに最後に温かいつゆ出してくれるの」
「そうなんだ。珍しいな」
素直に感心しながら、湯のみに口をつける。いりこの風味の強い旨味のある出汁だった。冬場に飲んだらさぞかし美味かろう。
裕福な家の生まれが故か、昔からカナエの紹介してくれる店にはハズレがなかった。
御幸は、そのことを沢村の誕生日の翌日につと思い出した。
「……実は、今度その相手の誕生日祝いにお高いレストラン予約しとけって言われてて」
「ああ、いい店ないかってかぁ。それでわざわざずっと避けてたのに連絡してきたんだ」
カナエは悪戯っぽく御幸をつついた。
「避けてないよ。わざわざ会って話すこともないと思ってただけで」
そもそも二人の関係を断ち切ったのはカナエの方である。別れることは本意ではなかったからこそ、御幸はブラウン管の中で見かけるようになった彼女からの誘いに応じることが出来なかった。彼女に未練を残していると思われことを恐れたのだ。
「私は、一也君がどういう男の子になってるのか知って後悔したかったのかもしれない」
「……そういうのよく分からない」
「男の子には分からないかもね。まあ、私と一也君の話はさておき、その日の夜の予算はどのくらい?」
「年に一度のことだから、いくら高くてもいいよ」
「稼いでるんだ?」
「それなりに」
「だけど若い子だったらあんまり高級過ぎる店も引くかもね。相手の歳は?」
「俺より一つ下」
「子供じゃない」
カナエは目を丸くした。大人の女の人だと思ってた、と付け加える。
「四大生だとしたらまだ卒業してない歳だもんね。うーん、その子何か苦手な食べ物とかある?」
「納豆以外はなんでもいけるって言ってた気がする」
「……雑食なのね。難しいなぁ、他に何か希望は?」
カナエはやけに真剣な表情で言った。
「生まれ年のワインもつけろって」
「若いのにワイン好きなの?」
下戸のカナエは眉を開いた。
「飲んでるとこ見たことないから、多分何かのドラマの聞きかじり」
「そうなんだ。なんか可愛いねえ」
「可愛くねーよ」
しまった、と思った時にはもう遅かった。彼女とは、極力柔らかい言葉を選んで対話したかったのに、可愛いねの一言で沢村の小憎たらしい顔がフラッシュバックして、反射的にいつもの調子で返してしまった。
「へぇ」
値踏みするような、面白がっているような目をして、カナエは頷いた。
「一也君が好きな子のことをそういう風に言うの意外だな」
「そう?」
「うん。一也君って女の子には遠慮して、思ったこと素直に言えないタイプなんだろうなって思ってたから。私にもいつも優しかったけど、壁があるみたいで少し寂しかったんだよね」
「……それはごめん」
「ううん、謝ってもらうようなことじゃないし」
カナエは、膝の上に置いていた小さな鞄から財布を取り出した。
「ごめん、後ろも予定詰まってるから今日はそろそろ。お店何個か見繕ってメッセージ送るね。ワインも知り合いに詳しい人いるから聞いてみる」
「何から何までありがとう。今日は俺が出すから」
御幸は、机の下に差し込まれた伝票に手を伸ばした。しかし御幸の手がそれに届くよりも一瞬早く、カナエの白い手がそれを掴んだ。
「いいよ、昔の罪滅ぼし。今度会うときは一也君が出してね」
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