後輩の見てはいけない姿を目撃してしまった気がして、その日のデートは夕食を食べて十時前には解散して帰寮した。門限まで一時間もないのに隣室には人気がなくて、あの男とどうにかなっているのかと考えると背筋が冷えた。
 浴室で温水を頭から浴びていると、考えたくもないのに沢村のことばかりが脳裏によぎる。御幸と同じく沢村は花粉症ではない。身分を隠すように顔の下半分をマスクで覆い隠していたのは、男と二人でいるところを知人や、自分の存在を知っている野球ファンに見られたら困るからだろう。男と沢村は間違いなくそういう関係≠セ。
 沢村はいつからそうだったのだろう。もしも始めからそうだったのであれば、なぜあの子と付き合ったりしたのだろうか。胸の内を翳らせる懊悩は、身を清めても消えることはなく御幸を苦しめた。
 浴室を出てスウェットに着替えると、濡れ髪のままぼんやりと胡座をかいて彼女からのラインの返信内容を考える。門限の五分前、隣室のドアが開く音を壁越しに聞いた。
 壁一枚隔てた先にいる沢村の存在を意識したくなくて、ドライヤーに手を伸ばした。風量を強くして、ひたすら髪を乾かすことに集中する。
 地肌から毛先までしっかりと乾かして伸びをすると、強烈な眠気に襲われた。明日も早いから寝てしまおうとベッドに視線をやったとき、部屋のドアがノックされた。
 嫌な予感がする。居留守を使おうかとも思ったが、さっきまでドライヤーを使っていたのでそういうわけにもいかない。
 せめてもの抵抗として、ドアを開いたそばから、「こんな夜中に非常識だぞ」と不機嫌な声を上げると、沢村は小さく会釈をした。仕方なく部屋の中に通す。帰ってきたばかりのはずなのに、傍に寄るとシャンプーの匂いがして、居心地が悪かった。
「夜分にすんません」
 部屋の真ん中に正座した沢村がもう一度頭を下げる。流石に部屋着と思わしきTシャツに着替えているが、昼に見た相合傘の男は沢村だと、御幸は改めて確信した。
「……お前って花粉症じゃないよな」
「は」
 的外れな質問に沢村は目を白黒させた。
「いや……昼間、マスクしてたから」
 御幸が続けると、「やっぱり気付いてたんすね」と、俯く。お前ホモだったの、と喉元まで飛び出しかけた言葉を飲み込んで頷く。
「昼間の相手、ただの友達?」
 嘘でもいいから肯定してくれと、胸の内で拝みながら問うた。ただでさえ過去の遺恨を引きずりながら付き合っている後輩に、これ以上デリケートな属性が付与されると堪らない。
「……ただの友達ではないっすね」
 御幸の願いも虚しく、沢村は眉間に悲嘆を滲ませながらそう答えた。他人には隠したい関係なら、正直に話す必要はないのに。かつては好ましく感じていた後輩の、嘘をつけない性分が今は疎ましい。
 沢村の膝の上に握った拳は、かすかに震えていた。目に見えない澱が溜まったような部屋の空気を打ち崩したくて、御幸は口を開く。
「だとしても……俺には関係ねぇから」
 今日のこともすぐに忘れる、と付け加えて立ち上がる。これ以上話をしたくない。強制的に会話を終了させるために歯磨きでもしてやろうとしたのだが、
「待ってつかぁさい」
 手首をきゅっと掴まれてしまう。ボールを握りすぎて分厚くなった、沢村の左手の皮膚。マウンドに立つ沢村と、相対した日々のことを思い出す。この左手から放られる生きたボールが、御幸は好きだった。
「プロは、ただ野球をしてればいいってわけじゃねえから」
「……男が好きだってバレたらマズイですか」
「大方のファンはいい顔をしない」
 分かりやした、と沢村はか細い声で呟く。心細げな目で御幸を見上げている。
「お前なんでわざわざ来たんだよ。知らんぷりしてたらおれだって人違いだと思ったかもしれねーのに」
 万に一つもそんなことはありえない。嫌いだ、憎たらしいと思っていても、こいつの顔は死んでも忘れない。プロの投手の球を何度受けようと、沢村や降谷の球を受け続けたあの日々は胸の中の深いところにこびりついている。
「俺がすぐに分かったから、マスクしてても先輩だって」
「だからって」
「先輩が俺に気がついて……ああいう状況だったんで俺のことをそういう人種だって知ったとして、」
「お前ってホモなの?」
 続く言葉を遮るように、さっきは尻込みしてしまった問いかけをする。
「いや……そうとも言えなくて、女の子とも出来ないこともねぇし」
「あっそ。まあ俺には関係ねえけど」
 自分から尋ねておいて突き放すような態度で言う。
 沢村は多分あの子と一線を越えたのだろう。そんなこと知りたくもなかったけれど。
 沢村がゲイなのかバイなのかなんてどうでもよかった。神聖視していた思い出の中の女の雌の部分を垣間見た気がして、鳩尾のあたりがキリリと痛む。
「そう! 関係ないんすよ!」
 沢村は急に高い声を上げた。御幸から距離を取るように後方に座り直して、頭を下げる。
「隣の部屋ですからね。俺が男もイケるって知った御幸先輩が自分も狙われるかもって不安になったら悪いなーと思いまして。心配しないでつかぁさい、俺御幸先輩にはヨクジョーしませんから」
 沢村は至って真面目な顔をしている。
「バカ! そんな心配はしてねーよ。お前俺のことすごい自意識過剰だと思ってねえ?」
「自意識過剰というか、モテすぎて人に好かれるのが当たり前だって思ってるんじゃないかと」
「思ってねーよ、そんなことわざわざ言いに来たならさっさと帰って寝ろ」
 失礼な発言を繰り返す沢村を、無理矢理立たせてドアの前まで押しやる。
 先輩は俺のタイプじゃないんで安心してつかぁさい、といやにさっぱりとした顔で言い残して沢村は部屋を出て行った。今まで誰にも打ち明けずにいた秘密を知らしめたことで心の荷が軽くなったのかもしれない。
 反対に、関係がいいとは言えない後輩の重大な秘密を知ってしまった御幸の胸中は複雑だ。しかも御幸とは至ってプラトニックな付き合いをしていた女が、沢村とは一線を越えていたことまで知ってしまった。
「はあ……」
 ベッドの上に身を投げて、深い溜息をつく。先程別れたばかりの恋人の朗らかな笑顔が脳裏によぎる。今は無性にあの細い体をかき抱いて、ウェーブのかかった茶色い髪の毛を撫でてやりたい。そんなことを考えている内に、御幸は眠りに落ちていた。


 中洲の屋台街の一角にある天ぷら屋。車えびの天ぷらに皿に添えられた塩をつけて一口食む。薄く色づいた天ぷら衣が前歯に当たった瞬間さくりと音を立てながらほどけて、ぷりぷりと柔らかい身の部分と混ざり合う。
「やっぱり美味いな」
 思わず口角を上げる。隣で慣れない酒を飲むのに四苦八苦していたベラが口を開いた。
「お前また頭と尻尾も食べとん?」
 呆れ顔のベラの皿の上では、取り残された頭と尾っぽが、互いに寄り添うように佇んでいる。
「いい海老天は頭と尻尾もうめーの」
 上手く揚げられた海老天ならば、頭や尾を口に含んでも異物感を覚えることはない。むしろ甘い海老の身に適度な香ばしさを付加してくれる。
「お前誕生日いつなんやっけ」
「十一月」
「まだしばらくは一緒に飲めんね」
 つまらなそうに呟いたベラはつい先日ハタチになったばかりだ。大人ぶって頼んだ芋焼酎の湯割りを眉間に皺を寄せながら飲み下している姿が滑稽で、御幸は笑いを噛み殺していた。
 福岡はいいなぁ、と呟いたベラが背後を振り返る。御幸もそれに倣うと、那珂川の水面とそこに映り込むネオンが視界に広がった。中洲の屋台街に来るのは何度目だろう。初めて来たときは球団の先輩に連れて来てもらったが、今日はベラと二人きりである。
 確かに福岡はいいな、ベラの言葉に追従して頷く。狭い屋台の中で隣に掛けた中年の男が、「豚天も美味いよ」と声をかけてきた。その言葉に習って豚天と蓮根を注文する。酒を飲まないとつまらないだろうとビールを奢ってくれようとしていたが、丁重に断った。どんな場所にファンの目があるとも限らない。野球以外のことで評価を下げるようなことは絶対にあってはいけないのだ。
「沢村とは仲直りしたん」
「元々仲違いしてねーよ」
「やって、お前ら同じ高校でバッテリー組んどった上に、寮の部屋も隣同士やのに、急に話さんなったやろ」
 う、と御幸は唸った。こういう勘ぐりをされるのが嫌だから、沢村とは上手く付き合っていきたかったのだ。
「ちょっと微妙になってたけど、最近は普通だよ」
 食堂での些末な一件以降なんとなく気まずい空気が流れていた二人だったが、沢村が男と歩いているのを見かけて以降は少しずつ会話を交わすようになった。御幸が沢村に対して複雑な感情を抱いていることには変わりないが、沢村が以前のように御幸に声をかけてくるようになったのだ。
 とはいえ、二軍の沢村とは遠征の続くシーズン中は顔を合わせることも少ないので、一週間に一度も会話をすればいい方である。
「あんま落ち込ませんといて。あいつに元気がないと困るんよ」
「はあ、お前らそんなに仲よかった?」
 田舎出同士通ずる物があるのだろうか。
「普通やけど、合コン行くときは大体誘うわ。沢村やったらいつ誘っても断らんし、愛嬌があるけん場も盛り上がるんよ」
 俺と女の趣味も被らんしな、とベラが付け足すのを聞きながら、そりゃホモだからな……と遠い目をしてから、いや女もいけるんだった……と姿勢を正す。初恋の女の処女を散らされた恨みを御幸は忘れていない。
「……あいつ、女の子お持ち帰りしたりとかすんの」
「お、やっぱり先輩やね。気になるんやなぁ、沢村のこと」
 指で肩を突かれながら茶化されて、つまらない事をつまらない奴に聞いてしまったことを悔やんだ。ベラはひとしきりニヤニヤすると、つと真面目な顔になって再び口を開く。
「沢村って結構モテるんやけど、奥手っていうんかな……合コンのあとに、沢村くんがデートの約束してくれなーいみたいなことを女の子によく言われるんよ」
「この前まで高校生だったんだからそんなもんだろ」
 元々恋愛に対して積極的なタイプでもなかったように思う。御幸を振った彼女からの告白を受けたことも意外に感じられたくらいだ。
「むしろがっつきそうな年頃やのになぁ」
 男相手ならヨロシクしてるみたいだけどな――門限ギリギリに帰寮した日、部屋を訪ねてきた沢村がシャンプーの匂いを漂わせていたことを思い出すと背筋が冷えた。
「つーかお前は後輩の心配してる場合かよ。あんまり合コンばっかしてるの週刊誌にすっぱ抜かれるぞ」
「俺はお前みたいに人気選手でもないし、モデルのツテもないけんね。合コンしとる相手も一般人だけやけんすっぱ抜く材料にもならんわ」
 ベラは今シーズンに入ってからは殆どの試合に出ているし、打率もなかなかいい。入団二年目にして球団にとってなくてはならない存在になっているが、既にハタチも過ぎているくせに高校球児然とした坊主頭と主張の激しすぎるエラ、ごま塩のように広がったソバカスに愛嬌があるとは言い難い糸のように細い目、全てが悪い方に作用してイマイチ人気が出ない。女にモテたければせめて髪くらいは生やせばいいのだろうが、坊主頭になにやらポリシーがあるらしく頑なに二分刈りを貫いている。
「お前はどうなんよ? モデルの彼女、仲良くしとん」
 むちむちとした蓮根の歯ざわりを楽しんでいる御幸に、ややねたましげにベラは問いかける。
「あっ」
 彼女に最後に会ったのはひと月前、沢村が男と歩いているのを目撃した日が最後である。更に恐ろしいことにメッセージのやりとりをしたのもあの日が最後だ。彼女に返信する内容を考えていたところで沢村の訪問を受け、沢村が出て行ったあとは疲れ切ってすぐに眠ってしまった。
 それっきりなんの音沙汰もなしなのに、相手からの追随がないのは、こちらと同じくらい彼女も忙しいからなのか、それとも呆れられているのか。
「今日は家族とディナー行っとるみたいやね」
「誰が?」
「お前の女」
 ベラがずずいと突きつけてきたスマホの画面には、レストランの窓際の席で柔らかく微笑む恋人の姿が映っていた。
「これインスタ?」
 日本一インスタの似合わない容貌をした男は頷いて、「今日の記事」と答えた。
「人の彼女のプライベート覗き見るなよ。趣味悪いぞ」
「世界に公開しとるんやけん彼女だって見られて本望やろ」
「くっ……」
 客同士の距離の近い屋台で恋人の話でモメることは本意ではないので、それ以上はなにも言わずに自分のスマホでラインの画面を開く。返信が出来なかったことを詫びた上で、明日の晩会えないかと尋ねる内容を打ち込んで送信した。
 ふ、と息をついて天を仰ぐと、墨を流したような空が視界いっぱいに広がった。星はほとんど見えない。博多の街は明る過ぎるのだ。
 気がつくと屋台を囲うようにして順番待ちの列が伸びている。グラス三割残った烏龍茶で豚天を流し込むように嚥下した御幸は、隣でスマホを弄るベラを促して席を立った。


 その日は昼過ぎの便で東京に戻ってきていた。スーツケースの中身を整理して、部屋でぼんやりしている内に彼女との約束の時間が迫ってくる。
 ひと月もの間連絡をよこさなかったというのに、彼女は御幸を責めるでもなく、夕食の誘いを快諾した。連絡が途絶えたことを詫びた文に対しても、シーズン中は忙しいから気にしてないの一言で流されて、懐の広さに安堵する反面、俺のことなんてどうでもいいのかもな……と卑屈な感情が胸の内で膨らんだ。
「どっか行くんすか」
 髪型と服装を整えて部屋を出ると、同じく今から出かけますといった風情の沢村に声をかけられた。
「どこだっていいだろ。お前に関係ねーし」
 互いに以前のような気まずさは失せた代わりに、二人きりの時には御幸は沢村へのトゲを隠さなくなった。ひと月前の一件以降、沢村に対する苛立ちを言葉に出さずに恨みを重ねるくらいなら、思いのままに吐き出してしまう方がいくらか健康的だ、と気がついたのだ。もっとも沢村は御幸の言動の刺々しさの原因が元恋人にあることは未だに知らない。恐らくは俺がホモだから警戒されてんのかなーくらいに思っている。
「いやにオシャレしてるからどこに行くのかなーって気になりまして。ていうか、ただの世間話じゃないすか。そんなにイライラしない!」
 ぷうっと頬を膨らませる仕草は未だ少年めいている。先日十九歳になったばかりの後輩は、年齢こそ自分と同じだが、やけに幼く感じられて、敵意を燃やしている自分が時たま情けなくなるくらいだ。
「お前こそどこ行くんだよ。門限には余裕持って帰ってきた方がいいぞ」
 デートだよ、と正直に答えるのも癪なので逆に訊ね返した。
「今日はそんなに遅くなりませんって。春っちとバッティングセンターに行く約束してるんす」
「さっきまで練習してたくせによくそんなとこ行く気になるな」
 呆れ声を出しながらも実のところは感心していた。男に会いにいくものだとばかり思っていたのだ。
「春っちはボール打ちまくった後の方がよく喋りますからね。俺達野球が縁で出会ったじゃないですか、高校卒業したからってただ顔突き合わせてメシだけ食って帰るってのもなんか味気ない気がして……御幸先輩は他の野球部の人に会ったりするんすか」
 返事が数秒遅れただけで、「あっ、悪いこと聞きましたかね!」と、目をまんまるにして言う後輩の頬を、御幸は反射的に摘んだ。勝手気儘に動き回る口に付随して揺れるそれが無性に憎たらしかった。
「つまんねーことばっか言ってねぇでさっさと行けよ」
「ふぁい」
 返事が耳に届くのを待ってから解放してやる。思いの外力が入っていたらしく、沢村は恨みがましげに摘まれていた部分を撫でていた。
 彼女との待ち合わせまでには、まだ時間がある。寮の出口まで沢村と連れ立って歩くのも不自然に感じられて、御幸は一旦自室に戻ろうとドアノブを捻った。
「それじゃー行ってきまーす」
 背中にぶつかる沢村の呑気な声。
「小湊によろしくな」
 行ってらっしゃいの代わりに、小声で応じると、沢村は笑顔で遠ざかって行った。

 沢村との遭遇によって寮を出る時間を遅らせたものの、タクシーに乗った甲斐もあって約束の時間より十分程早く待ち合わせしていた駅の前に着いたが、彼女の姿は既にそこにあった。思い返してみれば、付き合い始めてから一度もデートの待ち合わせに彼女よりも先に辿り着けたことはない。
 駅前から歩いて五分弱。彼女が予約してくれていたのは、落ち着いた雰囲気の中華系居酒屋だった。通された個室は、掘りごたつになっている。
 二人ともノンアルコールのカクテルを頼んだ。彼女は下戸らしく、酒を飲むところは一度も見たことがないが、居酒屋という空間で食事をとるのは好きなようだった。
 店員が始めに運んできたのは、葉物野菜に瀬戸内の鯛とカシューナッツが添えられたサラダだ。薄く切られた鯛は甘みが強い。自然に口元が緩むのを、抑えながら御幸は口を開いた。
「なかなか連絡出来なくてごめんな」
「シーズン中は忙しいでしょ。分かってたから」
 全てを包みこむような柔らかな笑顔に、胃が窄まる。年下の恋人を慮ろうとしているのだろうが、二十三の女にしては物分かりが良すぎる気がした。
「寂しくねーの」
 ダサい台詞だな、と自分で辟易したが、口に出してしまったものは仕方ない。カシューナッツを咀嚼しながら、んーと考え込むように人差し指を唇に当てた彼女は、それだけで雑誌の表紙のようだった。
「寂しいけど……大丈夫だよ。うちお父さんは海外で仕事してて、お母さんはお医者さんなの。それでなかなか一緒に過ごす時間もなかったから、こういうのは慣れてる」
「へぇ」
 彼女から家族の話を聞くのは初めてだったが、随分とハイソな家庭で育ったようである。そもそも御幸は彼女がカナエという芸名で活動していることは知っているが、本当の名前すら知らない。
「一也くん、最近何かあった? 前のデートの日も少し変だったよ」
 カナエの声は作り物みたいに優しい。御幸は時々、カナエは自分が、初めての恋人に捨てられて傷ついた心を慰めるために作り出した妄想の産物なのではないかとすら思うことがある。それくらいに彼女の言動は御幸に都合がいい。
「……なんでもないよ。それよりこれ、すげー美味い」
 誤魔化すように笑って、店の名物であるらしい、大ぶりな海老マヨを指して言う。そこへきてようやくカナエは何かを堪えるような表情で唇を噛んだ。自分の前で決して本音を漏らすことのない恋人に呆れたのかもしれない。しかしそれはお互い様だと御幸は思う。
「昨日の夜は中洲の屋台で海老天食ったんだ。あれも大きくて火の通りがちょうど良くて美味かった」
「一也君って結構海老好きだよね。私も好きだけど――あ、おこげ頼む?」
 会話が上滑りしている自覚はあった。だからといって、彼女と互いに踏み入った話をする気にもなれない。はっきりと好き合ってはいるはずなのに、心の距離が縮まっていくことのない寄る辺のなさが苦しかった。
「そういえばこれ、あげる」
 海鮮おこげと、ノンアルコールのモヒートが届くのを待っていると、彼女は鞄の中から手のひらに収まるくらいのサイズの薄っぺらな小箱を取り出して御幸に差し出した。
「撮影に使ったの買い上げたの。ユニセックスだからあげる」
「開けてもいい?」
 カナエが頷くのを確認して、箱の中身を検分する。リング型のシルバーのピアスがひと組収められていた。手に取ってみると、側面には筆記体でブランドロゴがあしらわれている。
「俺、ピアス穴開けてないけど」
「うん。知ってるよ。だけどいつか開けたらつけてほしいなって」
 どこか遠い目をして彼女が言うので、釈然としないが頷いた。
 しばらくして注文していたおこげが届く。カラッとしたおこげに絡まる餡がグツグツと音を立てているのを見て、カナエは高い声を上げた。スマホを取り出して、写真を撮り始める。
「さっきまで撮ってなかったのに」
「あ、動画だから声入っちゃう」
 唇を尖らせて、親指を動かす。どうやら撮り直しているらしい。
「さっきまでは、お腹減りすぎてて忘れてたの」
 その割に自分の声が入るのは御構い無しである。
「インスタに載せんの?」
 カナエがスマホを伏せたのを見計らって口を開く。おこげと周りの海鮮を取り分けながら、「ストーリーに載せるの」と、彼女は答える。
「同期の選手がカナエのインスタ見てるって」
「ホント? というか、私と付き合ってること秘密にしてるかと思った」
 嫌味っぽくもなく言う。
「よく話するような相手には言ってるよ」
 それをベラが後輩などにも吹聴しているので、御幸にモデルの彼女がいることは球団の選手の大半が知っている。
「結構嬉しいかも、それ。だけど私は誰にも言ってないよ。一也君に迷惑になったらいけないし」
「迷惑になんかならねぇよ」
 強めの口調で言うと、卓上のおこげに向かって伏せられていた彼女の大きな瞳が上向きになる。真っ直ぐに見つめられて、御幸は気まずげに視線を逸らした。
「そいつも羨ましいって言ってるし」
「ならいいけど……まっ、私の場合は未成年と付き合ってるって公言するのもなあって、ふふ」
「インスタにどんなこと書くの?」
「えー当たり障りのないことしか書かないよ。普段使ってるメイク用品のこととか、その日のコーデのポイントとか、食べ物のこと」
「顔写真とかのせたり?」
「うん、あっもしかして見たかったりする? 一也君もアカウント作ったら?」
「えっ、いいよ俺は」
 カナエの日常に興味がないわけではなかったが、ひとまず頭を振った。
「見る用の作ったら便利だよ。ご飯屋さんのこととかも調べられるし」
 そう言ったカナエはおこげをひとしきり堪能すると、真剣な面持ちでスマホに向き合った。
「メッセージで6桁の認証コード届くから教えて」
「は、なんのこと」
 目を白黒させている内にスマホがバイブして、メッセージが届く。届いたコードを口にすると、彼女はまた画面に向き直った。
「あとパスワードここに打ち込んで」
 今度は自分のスマホを御幸に手渡してくる。自分では絶対に登録しないでしょ、と唇を尖らせるカナエを背景に、御幸は誕生日と名前の並びを入力した。
「これでよし、と。そっちでアプリダウンロードしてね」
 ダウンロードしたインスタグラムのアプリを開いて、彼女によって登録されたアカウントでログインする。
「勝手にアカウント持ってたらマズイかもしれないから、IDとかは一也君のだって分からない感じにしといたよ。投稿もしない方がいいかも」
「……ありがとう」
 一応彼女のアカウントだけフォローしてみる。フォロワー数は二万人程だ。モデルとして多いのか少ないのかはよく分からない。
「……ちょくちょく見てね、大したものは載せないけど」
 雑誌撮影のオフショットだという一枚の写真を、やっぱり可愛いな――と神妙に眺める御幸に、彼女は投げかけた。その声が微かに震えているような気がして、御幸は顔を上げる。
 机を挟んで向き合ったカナエは、画面の中と同じ歳の割に大人びた笑顔を浮かべて御幸を見つめていた。


 沢村が泣いている。
 それに気がついたのは、例の如くシャワーを浴びてスマホで動画を見ながら寛いでいたときだった。この動画が終わったらカナエのインスタを見てみようなどと考えていた御幸の耳に、沢村の押し殺したような泣き声が届く。しかもかなり鮮明に。
「うわ」
 なんであいつはわざわざ俺の部屋側で泣くんだ!
 聞きたくもない声に耳を傾けざる終えない運命に頭を抱える。沢村がバイだと知って以降、彼が男と電話していると思わしき声を幾数回聞いた。隣室同士だし、沢村は声が大きいので仕方ないと言えば仕方ないのだが、彼の逆隣には階段があるだけなのだ。電話をしたり泣いたりするのはそっち側の壁に寄ってからにしてほしい。
 唇を噛んで戦慄く御幸の部屋のベッドは、沢村の部屋側の壁に面して設置してある。それが原因で聞きたくもない沢村の声を耳に入れるハメになるのだが、元々彼が入寮してくる以前からベッドはそこに設置していたので、配置換えをするのも癪でそのままにしていた。
 今日こそは絶対にベッドの位置を変えてやる。そう意気込んだはいいものの、一昨年の年末、入寮を控えた御幸が購入したベッドはセミダブルだ。一人で動かせないことはないが、そうすると床を引きずるような形になってしまう。現在の時刻は午後二十三時を少し回っている。こんな時間にベッドを引きずっては、下の部屋に住む選手に文句を言われかねない。
 明日にするか……そう考えかけたとき、沢村がより一層大きな泣き声を上げた。先ほどまでの押し殺したような泣き方ではない、わーんわーんという幼子のような声だ。
 流石にギョッとした御幸が、隣室との間を隔てるベッド脇の壁をコツコツと叩くと、泣き声は次第に小さくなっていった。
 この隙に眠ってしまおうと、重たくもない瞼を擦って部屋の照明を落とそうとした矢先、部屋のドアがノックされた。ドア板一枚隔てた先から、うぐうぐという声が聞こえてきて、ゲンナリする。
「お前うるさい」
 ドアを開くなり冷たく言い放ったのだが、沢村は部屋の中に滑り込んでくる。
「慰めようとしてノックしてくれたんじゃないんですか!」
 御幸を詰るような声は、湿ってはいたが、想像外にはっきりしていた。元気そうじゃねえか、と呆れる御幸が、仕方なくベッドに腰掛けると、沢村はソファがあるのにわざわざ地べたに尻をつける。
 風呂上がりなのだろう。普段はピンピンと生きのいい髪の毛の先は水気を帯びて萎れていた。寝間着と思わしきTシャツにはローマ字で長野と書かれている。尋常じゃないダサさだ。
「お前あんまり大きな声出すなよ。うるさくて眠れ……な」
 「うっ……うっ……」
 傍迷惑な泣き声を咎めるために口を開いた御幸の目の前で沢村は肩を大きく震わせ始めた。ダサいTシャツに目がいっていたが、蛍光灯の下では泣き腫らした目がはっきりと目立つ。涙が頬に溢れ落ちる度に手の甲で拭い去ってしまうので、ますます腫れが増すのだろう。
「はあ……」
 溜息を落として、その姿を見守る。流石に自分の部屋でないので遠慮しているのか、ふやけた唇から漏れ出る声のボリュームは先程までに比べると幾分小さい。拭いきれずに顎から滴り落ちていく雫の先には、膝の上でぎゅっと握り込まれたスマホがあった。
「泣きすぎ……それ濡れてるぞ」
 最近のスマホは防水加工が施されているものが多いが、一応は気遣って手拭きに使ってほっぽり出していたフェイスタオルを手渡した。
 沢村は、「ずびばぜん……」と冗談みたいにくぐもった声をあげながら顔を拭う。しかし拭えども拭えども涙は零れ落ち続けるのでキリがなかった。風呂上がりというわけでもなさそうなのに、ぎりぎり目にかかるくらいに伸びた前髪もしっとりと水気を含んでいる。
「うっ……う……髪が目に入って……かゆい」
 そんなことまで面倒見切れるか! と言いたいところだったが、右手で伸びた前髪をかき分けながら、左手で眼球をぎゅちぎゅちと鳴らす後輩の姿を見つめ続けるのもぞっとしない。
「俺はお前の母ちゃんじゃねーんだからな」
 立ち上がりざまに呟いて、キャビネット上段の小さな引き出しからパイル地のターバンを取り出して、「早く前髪切れよ」と放ってやる。
 濃い藍色に染まったそれは、以前カナエと休憩したホテルで、沢村と同じように切りそびれた前髪を持て余していた御幸に彼女が貸してくれたものだ。返さなくていいと言われたのをいいことに、家に持ち帰り、洗濯したまましまいこんでいた。
「ありがとうございます……」
 視界が開けると少しは冷静になったのか、沢村は小さく頭を下げた。剥き出しになった額は、藍に映えてつるりと輝いている。目尻を真っ赤に染めて、拗ねたように唇を尖らせる顔つきだけを見れば、初めて出会った中学三年生の頃と大差ないように思えた。
 そのくせ、「女の人の匂いがする」だなどとうそぶくので可愛げがない。
「ちゃんと洗ってるよ」
「彼女さんにもらったんですか」
「俺が自分で買うわけねーだろ」
「ふーん」
 自分で尋ねておいて、興味なさげに沢村はそっぽを向く。スマホを握りしめる手に力がこもったのを、御幸は認めた。そして自分のスマホにも意識が向く。
 カナエのインスタ、結局見てねーし。ラインも返せてない。それなのになんで俺はこんな奴の相手してんだ。
 ぼんやりと考えていると、「仲良いんですね」とまた拗ねた声。充血した白い部分の内側の、こんなときでも琥珀色に澄んだ瞳に挑むように見据えられると、こいつまさか俺に気があるのか……と短絡的な考えが浮かんだ。
「俺、フラれたんです」
 ロックを解除するために、液晶に親指を這わせていると、暗い声が部屋の空気に滲んだ。
 なんだ俺に気があるんじゃねえのか、良かった……と御幸は心底安堵した。さっきの言葉は、自分が失恋して落ち込んでいるときに、恋人と仲良くしている御幸へのやっかみだったのだろう。
「それで泣いてたんだ」
 肩の力が抜けそうになるのを隠して、無関心げに呟く。
 俺もあのときこいつみたいに泣けてたら、いつまでもつまんない気持ちを引きずらなくて済んだのかもな。しみじみとそんなことを考えながら、今度こそスマホのロックを解除する。
「あの人とは高校卒業前に出会って、俺にとっては初めての男の人だったんで――」
 沢村はぽつりぽつりと語り始める。御幸の意識は、沢村の言葉とスマホの内側を行ったり来たりしていた。
 まずは沢村の恋話をBGM代わりに野球のニュースを流し見て、そういえばこいつ男役女役どっちなんだろ等と考える。聞いてやるのも癪なので、適当に頷きながら今度はラインを開いて既読をつけたままのカナエからのメッセージへの返信を打ち始めた。
 しかしこれといって伝えたいこともない。返信文の材料作りのために登録してもらったまま放置していたインスタグラムのアプリを開いてみる。カナエしかフォローしていないアプリのタイムラインの一番上に、餡掛けおこわの動画が表示されていた。文章の始まりは、“アツアツのおこわ! 行きつけのお店で美味しい中華を食べました。”そこ以降は続きを読むで閉じられている。
「御幸先輩……! 聞いてないでしょ!」
 きゃんきゃん喚く沢村をやんわり無視しながら、続きを読むをタッチして画面をスワイプする。
 アツアツのおこわ! 行きつけのお店で美味しい中華を食べました。大きい海老マヨも絶品で、海老好きの友達も大喜び! ところでいつも応援してくれる皆さんに報告があります――

 つと気がつくと、泣いたり喚いたりうるさかった後輩は床に伏せて眠りに落ちている。藍色のターバンが額から耳裏にかけてをぐるりと囲っているので、眠りやすそうだ。
 緊張の糸が切れたのか、あまりにも気持ち良さそうに眠っている。その健やかな寝顔を見下ろしていると、無理矢理に起こすのも躊躇われた。
 御幸は小さく溜息をつきながら、ベッドの上に投げ出していた大判のタオルケットを後輩の体にかけてやる。沢村は、ほんの僅かに身じろぎをしたが、目を覚ます気配はなかった。万歳をするような形で投げ出されていた左手が、フローリングの境目を引っ掻いている。
 カリカリという音を聞いていると、無性に喉が渇いてきて、泣きわめく沢村のために用意したグラスに口をつけた。中に残っていたのは、僅かばかりの、喉を潤すのにぎりぎり足らないくらいの水だけだったが、継ぎ足す気にもなれない。
「せんぱ……」
 くぐもった声だった。床に半分突っ伏しているからだ。寝言なのかどうかの判別はつかない。
「なんだよ」
 一応返事をしてみるが、返ってくるのは規則正しい寝息だけだ。
「俺、本当はお前のこと嫌いじゃねえよ」
 高校時代に付き合っていたボブカットの女の子。ずっと執着しているつもりでいたが、今ではもう顔の細部までは思い出すことが出来ない。
 カナエとの交際を決定づけたのは、モデル然とした容姿と年上の女らしい態度が自分の好みとは正反対だと思えたからだ。彼女に似ても似つかないカナエになら、のめり込むようなことはない。傷つけられることはないと考えていた。今になって思うと馬鹿馬鹿しい。
 黒髪のボブカット、年下の女が好みだなんていうのは、彼女を好きになってから紐づけた後付けの条件に過ぎなかったのだ。機械じゃないのだから、いつも同じ条件の人間を好きになるとは限らない。
「ん……」
 うつ伏せの状態で床に転がっていた沢村が、小さく呻きながら寝返りをする。せっかくかけてやったタオルケットがずれ込んで、NAGANOの文字が露わになる。
「だっせ」
 沈み込んだ心を鼓舞するかのように、口角を上げた。昔と変わらないように見えるのに、恋愛のことで泣いたりするようになったんだな……としみじみ思う。
 一部は沢村の体の下敷きになったタオルケットをかけ直してやりながら、泣き散らかして瞼を腫らした顔に視線をやったとき、御幸はそれに気がついた。幼げな寝顔を晒して眠る後輩の左の耳たぶにプツリと黒い点がある。
 ピアスホールだ。そう気がついた瞬間に、以前カナエとのデート中に沢村と寄り添って歩いていた男の顔が頭によぎった。
「いつの間にこんなの……」
 自然と独り言が多くなる。
 左耳にだけ存在するピアスホールが、男の影響で開かれたものなのは想像に容易い。まだ青年よりは少年という表現の似合う沢村の体に、傷をつけた大人の男。薄暗なホテルの一室で、ピアッサーを持った男に迫られる後輩の姿を思い描いて、御幸は胸が悪くなった。
 先ほど新たに得た自身の傷までもが、沢村のピアスホールに巻き込まれて押し広げられていく気がする。
 ターバンの入っていた開きっぱなしのキャビネットの引き出しから、先週カナエに手渡された小箱を取り出す。これを彼女は、どんな気持ちで御幸に託したのだろう。考えても答えは出ない。もうどうでもよかった。
 箱の中から取り出したシルバーのピアスを、沢村の左耳の穴に差し込む。そうでもしないと開きっぱなしのそこから沢山の未練や後悔が顔を出してきそうで恐ろしかった。
「ふぁ……みゆき、せんぱい?」
 ぐっすりと眠り込んでいた沢村だったが、耳たぶを弄られる感触には違和感があったのか流石に目を覚ます。その琥珀色の瞳に自分の姿が写り込むすんでのところで御幸は手を引いていた。
「寝ちゃってましたか」
「ぐっすりだったぜ。起きたなら部屋帰れよ」
「こんな日くらい一緒に寝てくれてもいーじゃないですか」
「床で寝たら疲れ取れねえよ。隣なんだからちゃんとベッドで寝ろ」
「はーい」
 渋々といった体で立ち上がった沢村はスマホをスウェットのポケットに入れて、出口のドアに向かって歩き始める。そのとき不意に、御幸がピアスを刺した左の耳たぶに触れて立ち止まった。
「あれ」
 沢村は、ゆっくりと御幸の方へ振り返った。
「これくれるんすか」
 どんなピアスを刺されたのか確認することもなく、なんで刺したのかと尋ねることもなく、沢村はそう言った。御幸は片割れを失った小箱の中のそれに視線を向ける。
「別にそれもういらないし」

 アツアツのおこわ!
 行きつけのお店で美味しい中華を食べました。大きい海老マヨも絶品で、海老好きの友達も大喜び!
 ところで、いつも応援してくれる皆さんに報告があります。
 今入っている仕事がひと段落ついたら、日本でのモデルとしての活動は一旦お休みして、オーストラリアに留学することが決まりました!
 以前から家族や周囲の友人には相談していたのですが、自分の中で色々な葛藤があって、本決まりにしたのは、このひと月以内のことです。
 日本で抱えてるものは全部ここに置いて、新しい私になれたらいいなぁ……と思うのですが、お味噌汁とか納豆とか恋しくなりそうで今からかなり不安です……。
 だけど頑張るしかない!
 インスタグラムは、留学後も続けて行くつもりなので、良かったらこれからも応援してくださいね〜
#中華 #おこわ #エビマヨ #大エビ
#新しい自分 #オーストラリア #さよなら大好きな人
 
back

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -