2-2



「今日の料理何が美味かったっすか」
「全部美味かったよ」
「その中でも!」
「低温調理の鰆に牛蒡のソースかかったやつかな」
「おーそこいきますか。俺はステーキっすね」
「単純。まあ火入れが良かったし上ミスジは美味かったな」
 金欠だと言っていたわりに、沢村が予約していたレストランは程々にお高い雰囲気だった。店の人間に薦められるがままにワインを飲み倒したのに酔いが回らないのは、昼間に顔を合わせた女のせいだろうか。
 二人の家に帰るのが億劫で、店の前で拾ったタクシーを最寄駅の前で降りた。食事中に育んだ和やかな空気を壊したくなくて、取り留めのない話をしながらのろのろと歩いていたが、部屋を決めるときに駅に近いのを条件にしたことが仇となって、気がつけばマンションの部屋の前だ。沢村がキーケースを引っ張り出すのをぼんやりと眺めながら、彼女には合鍵を貰ったのかなんて考えていると胃の腑がムカムカしてきた。
 益田由里子が契約したのは、沢村が以前言っていたうちの球団の投手が売りに出したマンションの一室だ。一度壁を塗り直しているらしく、外目には築十年以上が過ぎているとは思えないくらいに小綺麗な建物で、彼女が契約した四階の角部屋も少し広めの1DK、セミダブルのベッドを置くくらいの余裕はありそうだった。金欠だとぼやいていた沢村は、きっとこれからあの部屋に通うことになる。
 ガチャリと音を立てて、ドアが開かれる。部屋の中に足を踏み入れると、もう昨日までの二人には戻れない気がして俺は躊躇した。
「寒いから早く」
 一人苦い感情と戦う俺を、沢村は呑気に急かす。美味いメシのおかげで気分がいいのか、口元が緩んでいる。高校時代によく見た、屈託のない笑顔。野球を辞めて以降どこか落ち込んでいた沢村の心を癒したのはやはり益田由里子だ。昨晩までの仮定が、今日確信に変わった。
 手招きをする沢村の腕を掴んで、部屋の中に押し入る。足をもつれさせながら、放るように靴を脱いで、沢村の体を壁に縫い止めると、「いやいや、そんなに急がなくても……」と、恋人は瞳を揺らす。
「誕生日祝いってあれだけ?」
 舌なめずりをせんばかりの勢いの俺の言葉に反応して、沢村のウイスキー色の瞳が艶を帯びる。自由な足を行儀良く持ち上げて、俺のスラックスの内側の皮膚をくすぐった。
 こんなこと少しもしたくないのに。俺はいつから行き場のない感情をセックスにぶつけるようになったんだろう。沢村がプロ入りを蹴って大学進学を決めたときも、野球をやめたときも、女を作ったときも、体の交わりに逃げたりせずに、言葉を交わし合えば、もっとマシな関係を築けたのかもしれない。だけどもう遅い。俺たちにはこれしか残されてない。
 沢村の濡れた唇に、自分のそれを重ねる。十一月だというのに熱くてたまらない。
 沢村は、彼女とどんなセックスをするんだろうか。俺とするのとは違う愛のあるセックスか。もしもそうなら、俺にもそれを許してほしい。痛ぶるような、奪うようなセックスは、確かに刺激的で、強い快感をもたらすが、俺はお前を死ぬほど甘やかして、大事に大事に抱いてやりたい。
 そんな想いとは裏腹に、噛みつくようなキスをする。上顎と、歯列を舌先で蹂躙すると、沢村はそれだけで腰砕けになる。
「ベッド行くぞ」
「風呂、入ってから」
「んなもんあと」
 力の抜け切った沢村の腕を引いて、寝室まで引きずっていく。抵抗する素振りは見られない。頬が紅潮しているのは、これから始まる行為への期待からか、それとも先刻飲んだワインのせいか。
「由里子ちゃんに合鍵もらった?」
 クイーンサイズのベッドに沢村を押し倒す。
「……ん」
 否定も肯定もせず、沢村は舌をにゅっと出して、誘うように動かした。誤魔化してるのか、セックスに集中したいのか、微妙に分かり辛い。
「貰ったならよこせ」
「なんで」
「あの子の家に行くときは俺に申告して。そしたら鍵渡してやるから」
「つまんねぇ束縛」
 小馬鹿にしたように言いながら、沢村は俺の首に腕をかける。ぐっと力を込められて、互いの距離が少しずつ狭まっていく。
「唾液飲ませて」
 合鍵のことはテキトーに流して、沢村はそんなことを言った。変態、と俺が返すよりも先に、大きく口を開いて、俺が唾液を垂らすのを心待ちにしている。
「歯磨きしてねえし」
「なんと、御幸一也ともあろうお人がそんな小さいことを気にするとは」
「馬鹿……」
 赤い舌をちろちろと見せながら、俺が唾液を垂らすのを今か今かと待ち構える沢村は、頭がおかしいとしか言いようがない。だけど、こんな男のことをどうしようもなく愛おしく思ってしまう俺はこいつ以上のドヘンタイなのかもしれない。
「お前、逆に自分の彼女に唾液飲ませたりしてんの」
「……それは、その」
 つと思いついたことを俺が尋ねると、沢村は瞳にいきなり動揺を滲ませて、視線を泳がせる。それじゃあ肯定してるのと一緒だろ。
「なにお前、ドマゾのくせに女の前ではサディスティック栄ちゃんなわけ。すげー笑える」
「はははは」
 乾いた笑い声を漏らす沢村。同調して、俺も口角を上げる。
「ハハハッ、あー……本当、殺したくなるわ」
 俺の声が一段低くなったことに気づいた沢村が身をよじるよりも先に、左手で額ごと頭をシーツに押さえつけて、だらしなく緩んだ口に右手の指を突っ込み、顎が外れそうなほどに開かせる。かはっ、と息を吐く沢村の口の端から流れ出る涎を舐めとって、少し高いところから口の中の唾液を垂らして、望み通りに飲ませてやった。こんな薄気味悪いこと、昔は想像もつかなかったのに、今ではディープキスと変わらないくらい気軽に要求される。
 沢村の口内に突っ込んでいた涎まみれの指を引き抜くと、どこか恍惚とした表情を浮かべて、沢村は俺の唾液を飲み下した。この程度のことでこいつを征服することなんて出来ないことくらい分かっているのに、少しだけ満たされる俺のつまらない支配欲。
「目、閉じんなよ」
 さして長くもない睫毛の生えそろったまぶたを人差し指で押さえて、ぐっと目を開かせた。
「や、それはだめ……」
 沢村の、アーモンド型に縁取られた眼球に舌を這わせる。ヌルヌルとした独特の柔らかな感触、必死に瞼を閉じようとしているのを阻みながら、青白く澄んだそれの舌触りを楽しむ。
「いい歳してるくせに、お前の目ってやけに白いよな」
「結膜炎になるからやめてください!」
 ふざけたプレイばかり求める沢村も、こればかりは少し苦手らしく不快げに眉間に皺を寄せている。
「じゃあどこ舐められたい? 選ばせてやるよ」
「どこも舐められたくねぇし、風呂入る」
「どうせ汗かくんだから後でいいだろ」
 シャツのボタンに指をかけて、ぷつりぷつりと外していっても、沢村は抵抗しない。いつものように口では文句を言いながらも、俺に触れられるのを期待して、睫毛を震わせている。可愛い奴。
「女抱くのってそんなにいいか」
「変な質問。良くないっていう男がどこにいるんすか」
「童貞とか同性愛者とか」
「どっちでもないし」
「男と同棲してるのに?」
 はだけたシャツの下の小さな胸の飾り。舌で嬲ってやると、それがピンと張りつめるのを認めて、俺が口角を上げると、「何すか」と、不機嫌な声が降ってきた。乳首で感じるのに、という台詞はわざわざ口に出さない。
「自分がどっちなのかとかよく分かんねーアンタとこうなるまでは、当然男とセックスするなんて考えたこともなかったけど」
「他の男とはヤるなって言った俺が言うのもアレだけど、お前はたぶん俺以外の男ともヤれるよ」
「いやいや、それはない……あ、御幸勃ってる」
 軽い調子で否定しながらも、沢村は、スラックスの布地を押し上げる窮屈な俺自身を膝の皿で刺激する。俺の興奮が形になっていることが嬉しいのか、口元が緩んでいた。そういうとこだろ、お前。
「お前って本当にセックス好きだよな。俺と別れたら、突っ込むセックスだけじゃ満足出来なくて、彼女いても男のセフレ作ったりしそう」
 別れたらなんて仮定は、今まで冗談でも一度も言ったことがなかったのに、今日の俺は驚くほどにサラッとそれを口にした。半勃ちの俺自身をグリグリと刺激していた沢村の足の動きが一瞬止まる。
「人のことをロクデナシみたいに」
 そう一笑して、沢村は俺の頭を抱き寄せた。しっとりと、唇を重ねて、舌を絡ませ合う。付き合い始めた頃のように丁寧に互いの歯列を、交互に舌先でなぞった。だけど昔のように、欲情のおもむくままにキスをしているわけではないことはお互いに分かっていた。こんなにも密に接触しているのに、俺達はどこか上の空だ。
 俺は沢村に、男は御幸先輩だけですよ――と否定されたくて、ああいう言葉を吐き出したわけじゃない。駆け引き的な感情は一切なくて、本気で、普通に、沢村は他の男ともヤレるだろうなと今の俺は思っていた。沢村もきっとそれが分かっている。
 長いキスが終わって、俺の頭を胸に抱きながら、沢村は口を開く。
「先輩も女抱くの好きでしょ」
「話戻すんだ」
「なんとなく」
「あんま話すとチンコ萎える」
「後で咥えてあげますから」
 言葉通り、萎えかけていたアソコが、その言葉を聞いただけでやや硬度を取り戻した。俺もまだまだ若い。
「女としたことねーし」
「は、うそ」
「いや本当。お前とするまで童貞だった」
「めっっっちゃくちゃモテてたのに」
「野球してたし」
「彼女くらい作ろうと思えば作れた」
「思わなかったんだよ、野球馬鹿だったから」
「……うわー」
 憐れみの視線が向けられた。沢村は胸に抱いていた俺の頭を引き離して、体勢を整える。おいしょー、と久々の掛け声が耳に届くと同時に、視界が反転した。綺麗な形で俺を押し倒した沢村は、俺のベルトを器用に引き抜いて、スラックスを脱がせる。
「女の子にフェラされたこともないんすか」
 沢村は、トランクスの布地越しに、指先で俺の亀頭を撫でつける。
「フェラなんてお前がするのも女がするのも一緒だろ」
 むしろ男にされた方がポイント分かってて気持ちいいまである……はずだ。
「パイズリも……」
「はあ? お前そんなのまでさせんのかよ」
「いや……まあ」
 失言を誤魔化すように、沢村は俺のトランクスをずりおろした。こいつの不貞を知れば知るほど、俺の興奮は深まってしまうようで、痛いくらいに張りつめたそれが、沢村の口先に躍り出た。
「つーかお前の彼女全然胸ないよな。そのパイズリの女って別の子だろ」
「は、む……ん」
 自分から地雷原に進んできたくせに、これ以上答える義理はないとでも言わんばかりに、沢村は俺の屹立を口に含んだ。
 初めは亀頭を唇で柔らかく食んで、舌先で弄び、少しずつ奥まで咥えていく。じゅぷじゅぷと、音を立てながら抜き差しが繰り返される。一番手前まで引いたときに、唇がカリの出っ張りに引っかかるのが気持ちいい。
「……っ、俺はお前で充分」
 快楽でボンヤリした頭で呟くと、沢村はどこか誇らしげな表情を浮かべて、更にペニスを刺激する。根元を手の平で扱きながら、裏筋と亀頭を舐めあげる舌使いはとても男の物だとは思えない。いや、男だからこそこんなにも男の快楽に通じているのかもしれないが。
 好きだ、好きだ――喉元までせり上がってくる言葉が、こいつを喜ばせるものじゃないことが分かっているから、自分の股間に顔を寄せる沢村の、黒々とした髪の毛に指を差し込んで、優しく撫でてやる。
 犯し慣れた排泄口に比べると、口の中は柔らかで、熱っぽい。根元から鈴口までを、時に激しく、柔らかに責められると、沢村の舌と自分のペニスが一体化していくような錯覚に襲われた。
「くっ……」
 鈴口を舌先でなじられて、高まる射精感を抑え込むように目を閉じると、沢村が鼻で笑った。
「笑うな……」
 しっかりと咥えこまれたペニスを、無理やり引き離して、ふっと息をついた。イキどころを失ったそれは、太い血管を立ててピクピクと身動いでいる。他と比べたこともないが、沢村の口陰は卓越していて、さっさとイってしまって早漏呼ばわりされたことも二度や三度じゃなかった。
「だって、先輩可愛いから」
「お前さっきから馬鹿にしてるだろ」
「ちんこびくびくさせて、眉歪めて、目までつぶって、イキそうなの堪えてるとこ見るのすげー好き」
「女の子イかせるときも似たようなこと考えてんの」
「ちんこ付いてる分アンタの方が分かりやすくていい」
 沢村のくせに人を食ったような言い方をするのに腹が立って、腋の下に腕を入れて抱きすくめる。体を密着させたまま押し倒すと、こいつのペニスも硬くなっているのが分かって、少し安心した。
「お前も勃ってる」
「玄関でちゅーした時から勃ってるし」
「セックスのこと想像して? やーらしー」
 余裕ぶる俺の頬に、沢村は唇を落とす。
「はいはい。どうせやらしいですよ。最近の俺、本当にやらしくて、アンタと目があっただけで勃ちそうになるときあるし」
「彼女効果すげぇ」
 本当は嬉しいのに、意地を張ってしらっと言う俺をを、沢村は眩げに見つめた。
「彼女のおかげだけど、元に戻っただけっすよ。元々御幸とのえっち気持ちいいし、最近たくさんするようになったから、その目見ただけでベッドでのこと想像してやらしー気分になる」
 いつになく素直な言葉は、遅がけの誕生日プレゼントか。それとも昼間のことを気遣っているだけか。
「アンタは俺は他の男ともヤれるって言うけど、俺は男は御幸だけでいい。それは本当っすよ」
「話半分に聞いとくわ」
「だけど御幸は、女抱くのも上手いと思うんすよ。だって俺、アンタとすると訳わかんないくらい気持ちよくなるし、俺だけで独り占めしとくのなんか勿体無いと思うくらいで……」
 プロだから体がいいのかな、と呟く沢村の体を、キツく抱きしめた。強い圧迫感が心地いいのか、沢村は熱っぽく呻く。
「もう挿れていい?」
 ペニスが、痛いくらいに張り詰めている。沢村の中に一刻も早く押し入りたい。
「ちょっと痛いかも……でも俺も、欲しい」
 体を抱く腕の力を緩めると、沢村はゆるゆると下衣を脱ぎ去る。剥き出しの沢村自身が張り詰めているのを認めて、俺はベッドの脇の引き出しからコンドームを取り出して、沢村に手渡した。
「ん」
 ぴり、と薄いフィルムを破って、半透明の中身を取り出すと、沢村は精液溜まりの部分を唇で食んだ。俺のペニスの根元を左手で固定しながら、ゆっくりとコンドームをスライドさせていく。根元までしっかりと装着すると、名残惜しげに舌を這わせ始めた。
「もういいって」
 一刻も早く沢村の中に入りたい。焦れたように呻く俺を上目で見つめながら、沢村はもう一枚コンドームを取り出して、自分の指に嵌めた。ゴムと一緒にしまってあるローションを、そこに垂らす。
「流石にちょっと……ん、ふ」
 俺の昂りが萎えてしまわないように、口の中で抜き差ししながら、コンドームで覆った自分の指をアヌスに挿入した。
「ぁ、あっ……すぐ、慣らすから、まっ、」
 沢村の真っ直ぐに伸びた指が、にゅぷにゅぷと音を立てて菊門を広げていく。目の淵には、玉のような涙が浮かんでいた。
 ……エロすぎる。目の毒だ。
「ほんと、もう我慢出来ない」
 ナカに挿入される指の本数が増えるが早いか、俺は沢村の口から自分のペニスを抜き去って、シーツの上に転がした。興奮で乱れた呼吸を整えることすらせずに、ゴム越しの亀頭を沢村の入り口にぬりぬりと押し付ける。
「っ、まだ……ダメ……」
 イヤイヤと、身動ぐ沢村の腰を押さえつけて、挿入を試みる。こいつのダメは、して下さいの意だ。
 とぷん、と音を立てて沢村のナカに俺の先端が入り込む。
「くっ、流石に締まるな……」
 きつい締め付けに眉を歪めた俺の下で、沢村は荒い呼吸を繰り返している。殊更痛みがあるわけじゃなさそうだが、ゆっくりと抜き差しを始めると、目尻からポロポロと涙がこぼれた。俺の昂りを扱きあげるように、内壁が蠕動する。
「ぁあん――せんぱ、もっと激しくして……」
「まだダメって言ったくせに?」
「いい……いいから、してつかぁさい。激しいの、好き……あっ、アッ!」
 最後まで聞き終えるよりも先に、ストロークのピッチを上げる。沢村は内腿を痙攣させながら、大きな喘ぎ声を漏らす。殆ど号泣しながら、「みゆき、みうき」と俺の名前を呼ぶ沢村は、普段よりも随分と乱れているように思えた。
「沢村、お前のナカ……すげーいい」
「俺も、いい……ふ、ぅう……みゆき、きもち」
 付き合って十年も経つのに、互いに苗字で呼び合っているカップルはそういないと思う。沢村が、彼女のことを、由里子と下の名前で呼んでいたことを思い出すと、頭に血がのぼって、アヌスを突き上げる動きに鋭さが増した。
 塗り広げられたローションでぐずぐずの沢村の肉壁を突き上げると、肌と肌が触れ合うパンパンという音とは別に、じゅぶじゅぶと濡れた音が響いた。彼女の知らない沢村栄純を俺は知り尽くしてる。そう自分に言い聞かせても、激情は収まらず、俺は沢村の外腿を強く張った。
「痛っ……っ、ぅう……」
「痛いの嫌なの?」
「嫌じゃない……好きだから、もっと……」
 手の平を力強く叩きつけるたびに、沢村の皮膚はパシンッと大きな音を立てる。薄い肌についた赤い紅葉が色を深めるにつれ、俺の興奮も深まって行く。いたいいたい、と壊れたように繰り返す沢村の耳に噛み付いて、「ア゛ッ……」と、喉を潰したような声が漏れでるのを、どこか他人事のように聞いた。
「っ……お前とするとこっちまで頭おかしくなる……」
 好きな相手をいたぶって悦ぶような性癖を身につけるとは、高校時代は夢にも思わなかった。だけど、こういうセックスの楽しみ方をどちらが主体で始めたかは今となっては定かじゃない。
「は、あん……叩かれたとこ、ピリピリして、きもちい」
 腿を張るたび、耳や肩に歯を立てられるたび、沢村の淫壁は生々しく俺の昂りを締め付けた。沢村は、泣いているのか悦んでいるのか分からない顔をして、俺の腰に足を絡ませてくる。
 ギュウっとペニスを絞られて、射精感がこみ上げてくるのを堪えながら、腿を打っていた手で沢村のペニスをしごいてやった。
「ィっ……」
 先走りでヌルヌルになった沢村の亀頭に、親指をかけて、裏筋を扱きあげる。ぐちゅぐちゅと音をたてながら、ストロークさせると、「アッアッ……」と、沢村は糸が切れたように繰り返し喘いだ。
「女の子のまんこに突っ込んだちんこシゴかれるの気持ちいい?」
「ぁっ、気持ちいい……ぃっ、うう……」
 休んでいたピストンを再開させながら、更に言葉を重ねる。
「抱くのと抱かれるの、どっちが好き」
「ぅうう……どっちも、好き……ァーっ!」
 どっちも好きと告げられた瞬間、先端で沢村の内側のしこりを突き上げた。ペニスへのしごきを続けながら、執拗にそこを弄ると、沢村の睾丸が硬くしまって、根元に迫ってくる。硬い屹立は、先走りでビショビショで、射精のときを心待ちにしていた。
「ぃく、いぐ……あっ、」
「……ここまで」
 手コキとピストンを同時に中断すると、沢村の目にははっきりと失望が宿った。なんで、と涙目で俺を睨みつけている。
「どっちでもいいなら今からでも彼女のとこ行けよ」
 冷たく突き放すように言い放つと、泣きながら縋り付いてくる。体を密着するように抱きつかれて、沢村の我慢汁が、俺の腹を汚した。
「アンタじゃないと、駄目だから……」
「いいよ、興が冷めた。もう寝るわ」
「……俺は、アンタのちんこの奴隷なんです……お願い、俺の変態ケツまんこ犯してください」
 沢村は、頬を紅潮させてクソ恥ずかしい台詞を吐き出した。熱い肌の上気は、こんな言葉を口にしたことからくる羞恥心によるものじゃなくて、いやらしすぎるおねだりを口にした悦びからきたものだ。
 一旦は引き抜いたペニスを再び突き入れてやると、沢村は歓喜の声を上げた。
 沢村は、この状況を心から楽しんでいる。だからきっと、事が終われば平然と、俺とするセックスも、彼女とのセックスも、そう変わったものじゃないと言い放つはずだ。それが分かっているのに俺はこいつとのまぐわいをやめられない。やっぱり俺はこのカラダが好きだ。
「せんぱ、首……締めて」
「……お前ほんとばか」
 蕩けきった表情を浮かべる沢村の、意外に細い首に手をかけて締め上げる。手の平に込める力が強くなるにつれて、肉壁の締め付けが強くなるのを、壁を掻き分ける俺の昂りは感じていた。恍惚とした顔をした沢村の目が、少しずつ虚ろになっていく。あ、もうやばい。そう思ってから更に何回もストロークをすると、ペニスの先端が熱を持ったようになる。
「く……けほっけほ」
 不意に込めていた力を弱めると、沢村は小さく咳き込んだ。愉悦の篭った目で天井を見つめている。
「頭真っ白、ふわふわします……」
 それ完全にやばいやつな。力加減がわからないのは毎度のことだが、締め終わった後に沢村が半分イったような目をするのが恐ろしい。
 首を絞めていた手を再びペニスにかけて、少々手荒に扱きあげると、沢村は、「ァー!」と、高い声を上げた。
「ほら、早く出せよっ……」
 俺の方も既に限界が近づいているみたいだ。沢村のナカは気持ちよすぎて、腰を進める動きが止められない。
「ぁっ、ぁっ……ア――」
 びゅるびゅると沢村の鈴口から白い精が放たれるのを確認して、俺は沢村の腰を押さえつけた。ガツガツと体をぶつけ合って、射精するために抜き差しを続ける。
「……ぅ、イく」
「ぃって、みうきのせーしちょうだい……っ」
 おねだりの言葉と同時に沢村の体を深く折り曲げて、俺は絶頂した。どくどくと、精液が放たれるのに合わせて、奥へ奥へとペニスを押し込むために、叩きつけるようなピストンを繰り返す。そして最後の一滴まで精を絞り出すと、涙やら何やらで顔をぐしゃぐしゃにした沢村と、舌を絡ませあいながら、シーツの上に脱力した。



 射精した後は、気持ちが萎えっから、セックスするたびに女捨てたくなる――シーズン終わりの飲み会の席で、同じ球団の投手が吐いた最低な台詞。「それ分かる!」と、賛同する選手が続出する中で、『へーそういう男もいるんだな』と、少し離れた席で、酔い冷ましの煎茶を俺は煽っていた。
「そこで酒も飲まず茶啜ってるイケメン眼鏡!」
「は?」
 思わず顔を上げて声の主を確認すると、今しがたSNSで発言しようものなら炎上必至の問題発言を繰り返した篠原さんが、アルコールの回って据わった目で俺を睨んでいた。
「イケメン眼鏡で顔上げんなよお前は」
「いや、茶飲んでるの俺だけですから」
 篠原さんは、昭和のスター選手だった親の遺産を無断で売っぱらったスキャンダルで、先日まで謹慎していたうちの球団の二番手投手だ。今シーズンでは、謹慎明けとは思えない好調なピッチングを見せ、世間の悪評を払拭した。金銭面や女性関係には難があるものの、マウンド上では頼り甲斐のある俺の先輩だ。
「お前は、一番のヤリチンのくせに自分は関係ないみたいな顔をすんな!」
 酔いが回っているせいかやけにボリュームのでかい篠原さんの発言に、周りの同期や先輩達も「そうだそうだ」と声を連ねる。
「いや、俺は篠原さんみたく食いまくってませんから」
 それどころか女に限って言えば童貞だ、と言ったらここにいる人間達はどんな反応を示すだろう。……つまんねー冗談言うなってどつかれるのが関の山か。
「お前とバッテリー組み始めてから五年以上経つが、未だに特定のオンナの話聞いたことねーからな。一人の女に絞らず遊びまくってることくらい皆知ってるんだぞ」
「なんでそうなるんすか……」
 ナイナイと、手を振って否定するが、周りは勿論耳を貸さない。俺がある程度女にモテることは知れ渡っているから、彼女の話題を出さないことはかえって不特定多数の人間と遊び歩いているというイメージを刺激するらしかった。まさか恋人は男で、何年も同棲しているとは言えるわけもないので、「誤解ですって」と苦笑いするしかない。
「御幸は悪い男だと思う奴!」
 篠原さんが太い腕を突き上げると、声の届く範囲の選手の殆どが手を挙げた。そこには俺よりうんと若い選手の姿も混じっていて、改めて自分のイメージの悪さを実感する。
 現実の俺は、たった一人の人間の心を留めておくことすらままならず、毎晩のように苦い気持ちを飲み下しているのに。いっそこいつらの考えるような、特定の相手を作らずに女を取っ替え引っ替えする悪い男になれたらどんなにいいだろうと思う。
「篠原さん彼女と長いんでしょ」
 自分の話題から意識を逸らすために、そう持ちだすと、篠原さんは、「まあな」と、苦い顔をした。今年三十を迎えた篠原さんの恋人は、俺と同い年の女子アナで、本人達の年齢もあって一部の報道では結婚秒読みとまで言われている。
「結婚はしないんすか」
「相手はしたがってるけどなあ……」
 その言葉だけで、当人にはその気がないのだと分かった。篠原さんの恋人は、下手なグラドルなんかよりはよっぽどファンの多い美人アナウンサーなので、俺に向けられていた顰蹙が一気に篠原さんの方に移った。これだから人の気持ちの分からんボンボンは、という視線を周囲から向けられて、針のむしろの篠原さんは、フォローにもならない言葉を紡ぐ。
「最近世間は不倫とかに厳しいだろ。結婚したらマジで嫁としかヤれなくなるかもしんねーんだぞ」
 うわクズだ。内輪の席とはいえ、ここまで悪い台詞を臆面なく言える神経の太さは、ある意味では尊敬出来る。この人のピッチングの安定感は、金銭面で困窮したことのない出自や、他人の目を気にしない奔放な性格が支えているものなのかもしれない。
「なんか……逆にすごいっすね」
「お前ら……俺がセックスの後は女捨てたくなるっつたときは、全員で賛同したくせに……」
 篠原さんは悔しげにこぼすが、俺はそんな言葉に賛同した覚えはない。むしろ沢村の中に出した後は、自分を受け入れてくれたことへの感謝で胸がいっぱいになる。……こんなことを沢村に言ったら、多分気持ち悪いって言われるけど。
「捨てたくなるまでは言わなくても、別れようかな……くらいまでは思うことありますね」
 小さな声で賛同したのは、俺より一つ下の選手だ。分かる分かると、さっきと同じ流れで同調する奴はやっぱり多い。
 変な奴ら。そんな風に思うなら、ハナからセックスなんてしなきゃいいのに。
 早く帰って沢村を抱きてえなあ、ヌルくなった茶を口に含みながら、そんなことを思った。



 俺の後戯から解放された沢村は、先月出した冬用布団に肩まで包まっていた。ピンピンとした黒い髪の隙間からスマホのブルーライトが漏れ出ている。未だ消耗から回復しないのか、荒い息を吐く沢村は、俺に背を向けて、ラインを打っているようだった。
 今だったら別れられるか――以前シーズン終わりの飲み会の席で篠原さんが発し、他の選手も同調した言葉をしみじみと思い出す。誕生日祝いのメシは美味かったし、普段よりも素直な沢村とのセックスは最高に気持ち良かったのに、俺はこいつと付き合いだしてから初めて、二人の別れを意識していた。
 行為の最中は興奮に油を注ぐことだけに作用していた益田由里子の存在が、射精後は篠突く雨のように重たく、俺の気持ちを萎えさせる。
 彼を知り、己を知れば、百戦危うからず。以前沢村と話題に上げたその言葉が頭によぎった。沢村から話を聞くだけだった益田に会えば、その言葉通りに彼女との戦いに打ち勝つことが出来るかもしれない、と軽い気持ちで車出しを買って出たが、今はそのことを深く後悔している。
 沢村と同じ会社の年下の女。人の男を取るくらいだから、若いだけが取り柄の思慮の浅い女だと思っていた益田は、実際には俺と同じように深く沢村のことを想う普通の恋する女の子だった。……いい歳して、あんな普通の子と男のことで張り合ってどうする――俺の胸の内でそんな想いが鎌首をもたげ始める。更に言えば、ああいう女を二番目の相手として据えておく沢村に不信感すら抱いていた。
「沢村」
 スマホを投げ出して、うつらうつらしている沢村の背中に体を寄せる。仄かな汗の匂いを嗅ぎながら、自分よりはいくらか細い体に腕を回すと、やっぱり離れがたい気がしてきて、俺はむっつりと黙り込んだ。沢村の返事がなければ、このまま朝まで眠ってしまおうと思った。
「なんすか」
 俺の願いも虚しく、沢村はまだ眠っていなかったらしい。うつらうつらしていたわりに、しっかりした声が返ってきた。仕方なく、俺は口を開く。
「あんないい子やめとけ」
 本命がいることを知った上で付き合っていることは間違い無いので、特別にいい子だとも思わなかったが、そう言えば沢村も少しは罪悪感を抱くのではないかと思った。
「なんすかいきなり」
 沢村は呆れ声だ。
「事後にそんな話しないでくださいよ」
「こういう話は事後にこそするもんらしいぜ」
「それ、野球選手の間では常識なんすか」
「さあ」
 思えば、高校卒業と同時にプロ入りした上に、まともな友達もいない俺は、一般人の常識をあまり知らない。
「いい子だから、可哀想だから別れろってこと? それ決めるのって御幸じゃなくて、俺と由里子だろ」
 ゴロリと寝返りをうって、こちらに向き直った沢村が俺をじとっと睨む。
 俺とお前の関係に、お前が勝手に割り込ませた女なんだから、俺にだって発言する権利くらいあるだろ。沢村栄純、マジで自己中。
「俺がお前とあの子との関係を何とも思ってないとでも思ってんのかよ」
「さあ」
「さあって」
「だって今まで一度も別れろとか言ったことないでしょ」
「……う」
 言われてみれば確かに、俺は沢村に彼女と別れろと言ったことはない。自分が付き合いを始めたときに、女との付き合いを認めてしまったという過去があるから、それは口に出してはいけないものだという意識がどこかにあった。
「言わなくても分かるだろ……恋人に他に女作られてなんとも思わないほど冷血じゃねーよ俺は。十年も付き合ってるんだから分かれよ」
「分かんねーよ、そんなの」
 放り投げるような言い方だ。確かに沢村はそういう忖度が得意な人間ではないが、俺が沢村の女のことで胸を痛めていたことくらいは分かっていたはずだ。今までは、俺がそれを言葉にしないことに胡座をかいていただけだろう。
「ああいう子と天秤にかけられたら俺だって辛いんだよ」
「……二人を比べたことなんて一度もありやせん」
 これはきっと本当だろうな。俺とあの子じゃ性別から何まで全部が違う。
「それなら尚更、今のままは良くないだろ。俺はお前がもっと、軽くてテキトーな、セフレみたいな女と付き合ってると思ってたから何も言わなかったんだ」
 そこまで言って、息継ぎをする。昼間に益田と会話をしてから、言うべきか否か迷っていた言葉を紡ぎ出す。
「俺と別れたらいい」
 沢村は、身じろぎもせずに俺の言葉を聞いていた。ベッドに横たわったまみ、軽く瞬きをするだけのその姿からは何の感情も読み取れない。
 セックスの時や、二人でふざけ合っているときには、感情が分かり易すぎるほどに顔に出る男なのに、こういう時は意図的に心を消しているようだった。以前にこんな風になったのは、野球を辞めることに決めたタイミングだったから、こいつもこれで俺から別れを提案されたことがショックなのかもしれない。
「御幸先輩は、俺と別れたいんすか」
 平坦な声。俺は意地を張る気にもなれず即答する。
「別れたくない。お前と離れたいと思ったことなんて俺は一度もないよ」
「それなら、」
「だけど今のまま、お前の二重生活をあの子と二人で許して生きていくことは出来ねーよ。俺はお前を独り占めにしたいし、殊勝なことを言ったってあの子も同じ気持ちだと思う。だからあの子との付き合いをやめないなら、俺とは別れてくれ」
 俺との付き合いのために、あの子と別れてくれ――そういう言い方は出来なかった。彼女はたぶん、沢村にとって丁度良い、気楽に過ごせる相手だ。
 こいつには、腹が減れば飯が出てきて、欲情すれば激しく抱かれるような、尽くされるばかりの生活よりも、益田との歩調の合った暮らしの方が合っていると思う。……何より、彼女は野球を知らない。野球選手である以上、俺は生きているだけで沢村の傷を抉り続ける。
 それでも沢村が俺を選んでくれるなら、俺はもう二度と沢村に別れを告げたりはしない。浮気だって、今回みたいに本気かどうか区別がつかないものじゃないならきっと許せる。
 沢村は、枕に鼻の頭を擦り付けながら、長いこと黙り込んでいた。高校に入学してからの、俺と過ごした十数年間のことや、自分のことをヘテロだと疑いもしない長野の家族のことを考えているのかもしれない。
「俺は、アンタと別れるなんて考えたことないって言った……」
「俺だって今日の昼までは一度も考えたことなかったよ」
「……野球を、続けられてたらこんな風にならなかったんですかね」
「野球と、お前が他に女作ったことは関係ないだろ」
 関係ないわけがないのに、あえて突き放すような言い方をした。こんな状況で野球の話を持ち出す沢村を、もう解放してやりたいと思う。
 うちの球団に指名されなかったことを厭うて、学生野球に進むと言った沢村を、止めてやらなかったことを死ぬほどに悔やんだ。
「大学なんか行かずにプロになれって言ってやればよかった」
 虚しくなるだけだとわかっていたから、決して言えなかった言葉を、俺はついに口にした。沢村は枕に顔を伏せて、肩を震わせている。
「俺が……御幸先輩にもっと球受けてもらいたかったから……」
 沢村に好きだと言われたことがないことを、俺はいつも気にしていた。俺が沢村のことを好きなだけで、沢村は俺に合わせてくれてるだけなんじゃないかと、どこかで思っていた。
 何年も前に、お前は俺に伝えてくれてたんだな――プロの道を蹴ってまで、俺と再びバッテリーを組もうとした沢村。言葉なんて必要なかったのに、俺は分かりやすいものに固執した。
 やっぱり、俺たちの関係は、沢村が野球を辞めた時点で終わっていたのかもしれない。
「俺は、お前の投げるボールが好きだったよ。色んな投手と組んできたけど、お前の球受けてる時が、一番面白かった」
「……先輩」
 枕に顔を埋めたままの沢村が、濡れた声で俺を呼ぶ。左手がこちらに向かって伸びてきて、俺はそれをしっかりと握りしめた。長いことボールを握ってないその手は、昔よりもずっと柔らかい。
「今まで、ありがとうございました」
「……こちらこそ、ありがとう」
 互いにそう言い合って眠りに落ちる。朝、目が覚めると、沢村の左手をしっかりと握っていたはずの両の手は、シーツを引っ掻いていた。


 酔っていると言ったわりにやけに綺麗な歩き方をする女だった。
 深夜だというのにサングラスをしているため感情が読み取り辛いが、恐らくは苛立っているのだろう。コーラルの唇は、一文字に引き結ばれている。
 大通りまで出る最中、すれ違った男の大半が俺達を振り返る。彼女の細い体を包んだ黒いワンピースにはざっくりとフロントスリットが入っていて、細いピンヒールがアスファルトを叩くたびに、白い腿が見え隠れした。男しか抱いたことのない俺でもついつい視線が行きそうになるくらいだ、ヘテロの男に見るなと言うのは無理がある。
 俺自身もそれなりに顔の知れた存在なので、こんな目立つ女を連れて歩くことは本当は避けたかった。
 彼女は、同じ球団の先輩投手の恋人だ。篠原さんの本命の恋人は、世間的にはキー局の人気女子アナ。スポーツ選手とはいえプロ野球選手はファンがいてこそ成り立つ人気商売だ。篠原さんはモデルを生業にしているというこの二番目の女と外では基本的に二人きりでは会わないことにしているらしい。スキャンダルのせいで落ち込んだ世間の心象をこれ以上悪くしたくないのだろう。普段はモデル仲間を紹介してもらえることを餌に、球団の若手をともなって逢瀬を重ねているようだが、どういうわけだか今日は俺にそのお鉢が回ってきてしまった。
 今まではオフの日は一日中家にいることが多かった俺だが、最近は人から飲みに誘われて断るようなことは滅多にない。沢村と別れてひと月、未だ新居を見つけていない沢村は、今のところはうちで暮らしているが、顔を合わせることは殆どなかった。夜に帰って来ないこともある。大方益田の家にでも上がり込んでいるのだろう。
 呼び出した俺のことはそっちのけで彼女との甘い時間を過ごしていた篠原さんに、本命の彼女から呼び出しの電話がかかってきたのは二十二時を少し過ぎた頃だった。
 悪い、彼女酔ってるから家まで送ってやってくれ――そう言い残して篠原さんがそそくさと出て行った店内に残されたのは、気まずさに震える俺と、むっつりと押し黙るモデル女の二人。
 一人で残ろうとするその女を宥めすかし、篠原さん行きつけの隠れ家的な寿司屋を出て、タクシーの通る大通りまで辿り着くまでに要した十分弱程度の時間は、これまでの人生にないくらいに居心地の悪いもので、途中で三回くらいは女を置いて一人で帰ろうと思った。それでも、殊更好みともいえない女相手にそれをしなかったのは、股掛け交際の被害者である女にシンパシーを感じてしまったからなのかもしれない。
 どうにか捕まえたタクシーの後部座席に彼女を押し込んで、悩んだ挙句に自分は助手席に乗り込んだ。眼鏡をかけた五十絡みの運転手が怪訝な顔をしてこちらを見る。それでも女の隣に座る気にはなれなかった。
 諦めの情の滲んだ溜息を吐いて、彼女は運転手に自分の住所を告げる。なんとなく聞き覚えのある住所だ。嫌な予感がする。
 助手席に座ったのをいいことに、窓の外で街のネオンが流れていくのを、ぼんやりと眺める。どちらかと言えば話好きらしい見た目をした運転手も、妙な配置で乗り込んだ二人客を相手にどんな話題を振ったらいいのか分からないようで、時々無線に応答する以外は静かにハンドルを握っていた。
 バックミラーで後部座席の女の様子を伺うと、体を折り曲げてスマホをじっと睨んでいる。篠原さんから連絡が来るのを待っているのかもしれない。せっかく綺麗に生まれてきたのに、つまらない男とつまらない恋愛をする彼女を俺は哀れんだ。だけど同じ男との付き合いで十年も二の足を踏んでいた俺よりは、若いうちに目が醒める余地がある分いくらかマシなのかもしれない。
 沢村に、未練がないと言ったら嘘になる。嘘というか、大嘘だ。未練しかない。一応まだ同じ家で暮らしている分それはますます強まっていく一方で、顔を合わせるたびに彼女と別れなくていいからやり直してくれ、と情けない台詞を吐きそうになる。
 沢村との繋がりを何とかして残したくて、遺産分けでもするかのように、「どうせ乗ってないしあのアルファードやるよ」と自分の愛車を押し付けようとしたくらいだ。置く場所ないしいらない、と素気無く断られたけど。
 だけどまあ、また同じような形で関係を構築したところで、上手くいくはずもないことくらいは俺にだって分かっていた。不毛な関係を続けてお互いに磨り減っていくくらいなら、忘れられなくても、未練が残っても、別々に生きていく方がいい。暗い車内で、皺の寄った眉間をブルーライトで浮かび上がらせる彼女も、いつかそんな風に思う時が来るのだろうか。
 結局互いに一度も口を開くこともないまま、タクシーは彼女の家に到着した。せめてエントランスまでは見届けるつもりで、運転手に待っていてくれと声をかけ、車から降りると、そこでようやく彼女の家の全貌が目に入る。
 クソ、こんなとこ二度と来たくなかったのに……。
 ここには一度足を運んだことがある。益田由里子の引越しの手伝いをした時だ。彼女の引越し先は、篠原さんが沢村の会社の得意先に売り払ったマンションだった。浮気相手を自分が所有していたマンションな住ませるなんて、あの人らしい肝の太さだ。
 彼女をオートロックの内側まで見送るつもりだったが、気持ちが萎えてしまった。益田とは、もう二度と顔を合わせたくない。
 俺が肩を落としている間に、車中の女は運転手から小銭を受け取っている。
「うち近いから、車代は纏めて払うよ」
 沢村は、益田の家に通うつもりだったから、うちの近くの部屋を借りさせたのか、と今更気がつく。考えても仕方のないことだ。
 ピンヒールを鋭く鳴らして、車から降りた彼女に諭吉を一枚押し付ける。
「いらない」
 ようやく口を開いた女は、それを力強く突き返して来た。とっといて、いらない、の押し問答。浮気相手には浮気相手なりのプライドがあるらしい。
「マジでうざいっ」
 苛立った声を上げた拍子に、ピンヒールの先が床を斜めに叩く。
「うわっ」
 バランスを崩した彼女を、体で受け止めて支える。いい加減面倒になってきて、彼女の小さなバッグの中に突き返された諭吉をこっそりねじ込んだ。これ以上ここで目立つことはしたくない。
「ちゃんと送ったから」
 そう言って、さっさとタクシーに乗り込む。いいんですか、と困ったような顔をする運転手に自分のマンションの住所を告げて、脱兎のごとくその場を立ち去った。
 彼女は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてエントランスに向かって歩き出した。


「こういうことが何度も続くと困るんだよね」
 所属しているマネジメント事務所の会議室は、煙草の匂いが染みついている。部屋の真ん中を囲うようにして置かれた長机の一つに、事務所のマネージャーのスマホが陣取っていた。画面には、俺が女と抱き合っているかのように見える写真が映し出されている。この前篠原さんの彼女をマンションまで送っていったときの写真、転びかけた女を支えた一瞬が、綺麗に収まっていた。どんな見出しがつくか分からないが、この写真が来週発売の週刊誌に載るらしい。
「すみません」
 ポーズだけで謝ると、マネージャーの眉間に更に皺が寄る。既婚者でもなければ、公言している恋人がいるわけでもないから、未成年が相手でもない限り、どんな女と写真に撮られても関係ないだろ、と俺自身は思っているが、マネジメントする側の人間からするとそういうわけにはいかないらしい。
「いつもの撮られ方とは違うんだよ、御幸君。相手の家の前で、正真正銘の二人きり、しかも抱き合ってるところを撮られたんだから」
 確かに今まで何枚か週刊誌に載った写真はどれもレストランとか、居酒屋で、他の人間と離れたところを撮られたものばかりだった。
 もしもこの記事が沢村の目に入ったら、あいつはどんな反応をすんのかな。自分だって好きなようにしてるじゃんと憤るか、それともかえって喜ぶのか……考えても仕方ねえけど。
「実際には付き合ってないんだから、噂なんてすぐに静まりますって」
「付き合ってない? 相手の事務所は交際を公表するって言ってるんだよ」
「はあ?」
 タクシーの暗い車内でブルーライトに照らされて浮かび上がった女の白い顔を思い描く。彼女は、俺には徹底的に愛想がなかった。まかり間違っても交際を認めるようなことがあるはずがない。
「相手のモデル、そんなに大きい事務所に所属しているわけでもないし、売名目的かもしれないけど」
「そこまでしますかね」
「芸能界じゃよくあることだよ」
「俺は芸能人じゃありません」
 今頃の野球選手はブランディングも重要だぞと広報に言われて、マネジメント事務所と契約しているだけだ。
「でも下手な芸能人よりは有名だし、スポーツ選手と付き合っていると箔がつくからなあ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだね。それでどうするの。こっちも交際認めとく?」
 わりと大切なことをおざなりに言って、マネージャーは煙草に火をつけた。


 空のような色をしたやちむんにアイスコーヒーを注ぐ。世間はクリスマスを迎えようとして浮かれているのに、炬燵に半身を埋めて一人コーヒーを飲み下している自分が虚しい。
 つい先日、週刊誌に俺と篠原さんの彼女の深夜密会の記事が載った。球団内では彼女が篠原さんの恋人だということを知っている人間も少なくはなくて、俺は先輩の女を寝とった男という疑惑をいちいち否定するのに苦労している。
 彼女の事務所が俺との交際を認める以上、こちらだけ否定するとかえって世間の心象が悪くなるというのが事務所の考えで、折を見て破局報告をすればいいからと丸め込まれた俺は、とりあえず事務所を通して彼女との交際を認めた。
 週刊誌の記者は、篠原さんとのスクープを抑えるために彼女のことを張っていたらしいから、完全なるとばっちりだった。彼女が俺との交際を認めた理由は、本命の恋人のいる篠原さんに迷惑をかけたくなかったかららしい。女心は複雑だ。篠原さんが、「いじらしい子なんだよ」と惚気るようにその話をしてきたときには腹が立ったが、今となってはどうでもいい。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
 沢村は未だにうちにいる。繁忙期に入りかけているから引っ越しするような余力はないらしい。彼女の部屋で半同棲のようなことを始めるのではないかと思っていたが、最近は仕事が終わると、真っ直ぐに家に帰ってきているみたいだ。もしかすると俺に未練があるのか、とつまらない期待をしてしまう。
「コーヒー飲む?」
「いただきやす」
 付き合っているわけではないから、食事の支度をしてやるようなことはないが、別れた当初よりは普通に会話をするようになってきた。
「仕事忙しい?」
「まあぼちぼちと。年明けてからが本番ですけどね。先輩は」
「今は暇だな」
「……彼女と出かけたりしないんすか」
 珍しく遠慮がちな視線が向けられる。こいつもあの記事見たのか。
「あれ嘘だから。色々あって先輩の彼女送っていっただけ」
「交際認めてるって書いてましたけど」
 沢村は訝しげにしている。
「相手側が認めるって言い出したから合わせたんだよ。こっちだけ認めなかったら俺が遊び人みたいに思われるだろ」
「……付き合ってるって言えばいいのに」
「いやだから認めたんだって」
「彼女出来たふりして、俺に揺さぶりかけてみようとか思わないんすね」
 季節外れのアイスコーヒーで満たされたやちむんから水滴が垂れる。沢村は、「さむ……」と肩をすくめながらそれを握っていた。
「どうして別れようって持ち出した俺の方からわざわざ揺さぶりかけたりするんだよ。つーかそんなんで揺さぶられるわけ?」
「本当は彼女なんですか。俺に気を遣って、誤魔化しただけとか」
 俺からの質問は無視して、沢村は質問を返してくる。少し悩んで、俺は頷いた。そのとき少し視線を泳がせてしまったかもしれない。
「ほら」
 沢村は、俺を蔑むように笑う。
「先輩ってわりと安直ですよね」
「馬鹿にしてんの?」
「してませんけど、素直じゃないなって」
「お前が変なこと言うからだろ」
 未練があることを暗に認めて、俺は沢村のコタツ板の上の沢村の手を掴もうとする。
 指先が触れる直前で、その手は遠ざかっていった。お預けをくらった犬のような気分になる。
「俺は、正月長野に帰りやす」
「いつも通りじゃん。喜ぶよ、お前の家族」
 毎年大晦日を俺と二人で過ごした後、沢村は元旦に朝一で実家に戻る。
「そのとき彼女を紹介しようと思ってます」
 ぐ、と息を詰めそうになるのをすんでのところで堪えて、俺は瞬きをした。時間がゆっくりと流れていくような錯覚に襲われる。
「喜ぶよ、お前の家族」
 平静を装って口を開いたつもりだったのに、さっきと全く同じ言葉を吐き出してしまう。沢村は一人っ子だから、彼女の存在を田舎の家族が喜ぶのは間違いない。
「……先輩」
 先刻までとは打って変わって、沢村は真剣な目をして俺を見すえる。これが最後のチャンスだとでも言いたいのか。
「沢村、お前は、俺にどうして欲しいんだよ。彼女と長野に行くなって引き止めて欲しい、それとも今度はあの子を本命に据えて、俺を二番手としてキープしときたいとか? あるいは未練がましい俺をからかってるだけなのか――何にせよ俺にはもう無理だ」
 俺は、沢村のことを大切にしてきたつもりだ。好きで好きでたまらなくて、こいつのためなら何でもしてやりたいって思ってた。だけどそんなことは、何の意味もないことだってことも知ってる。
 沢村は俺に「好きだ」の一言も言わなかったし、十年も付き合っていたのに最後には堂々と女まで作った。それでも俺は、沢村のことを未だに好きでいる。沢村の女だって同じようなものだろう。
 俺が沢村にしてきたことは、沢村からの愛を勝ち取る材料にはならない。人間の心は、尽くしてやったぶんだけ返ってくるような単純なものじゃないはずだ。だから俺は、沢村の心を計れない。
 俺からやり直してくれと言って、元鞘に戻るのはきっと簡単なことなんだろう。だけど確かなのは自分の気持ちだけだからこそ、俺は沢村からの言葉が欲しい。
「……俺は、アンタのことが、」
 言葉を遮るように沢村のスマホが着信音を鳴らした。出ろよ、と俺が言うのも待たずに、沢村はそれを耳に押し当てて部屋を出て行った。
 俺達はいつも間が悪い。沢村が素直な言葉を吐露する最後のチャンスが、目の前で通り過ぎて行った。通話を終えてリビングに戻ってきた沢村がさっきの言葉の続きを言うことは恐らくない。
 明日この家を出よう。同じ家で暮らし続けたりなんかするから、いつまでも未練が残るんだ。沢村が引っ越すまでは、ちょっとした荷物だけ纏めて実家に帰る。そうでもしないときっと、俺は前に進めない。
 ぬるくなった沢村のアイスコーヒーを口に含むと、やけに苦くて喉がざらついた。

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