2-1



 ドライブスルーでは、コーヒーとバニラシェイクを注文した。会計が済んで、商品を受け取った後も俺はむっつりと黙り込んでいて、気まずげにバニラシェイクを啜る沢村が横目でこちらをうかがっているのにも気づかないふりをする。酷く喉が乾いているはずなのに、飲み物に手をつける気は起きず、ドリンクホルダーのブラックコーヒーは冷めて行くばかりだ。
 沢村が他の女と関係を持っているのには、随分前から気づいていた。だけどそれはあくまで浮気で、たまのつまみ食い程度のものだろうと思っていた俺にとって、今しがた耳を襲った通話の内容はかなり衝撃的なものだった。
 カーナビのスピーカーから漏れた女の若く、晴れやかな声を思い出すと、左手は自然と助手席の恋人の方へ伸びる。シェイクの容器を握っていたせいで冷えきった手を握ると、いくらか気分が落ち着いた。逆に、無言で手を囚われた沢村は、所在ない様子で視線を彷徨わさる。
 当初の予定通り、このまま海に向かうような気分にはとてもなれず、せっかくバッテリーまで入れ替えた愛車で、元来た道を戻る。
 海のない長野から出て来た沢村は、二人で初めて海水浴に行ったとき、酷く喜んでいた。女々しくもそのことが忘れられない俺は、年に一度は沢村を伴って海辺に車を走らせる。だけど高校時代、部内の誰よりも心を偽るのが苦手だった不器用な後輩は、今では恋人にいけしゃあしゃあと嘘をついて、他所の女と旅行に出かけられるまでに成長した。女と見た沖縄の海は綺麗だったか、沢村――喉元までせり上がってきた言葉を飲み込んで、ハンドルを切る。
「夕飯何食いたい?」
「は」
 苛立ちを抑えて、平坦な声で尋ねると、沢村は呆けたような声を上げた。浮気が発覚した後に浴びせられた第一声が、ただの日常会話だったことに驚いているようだった。
「好きな物作るよ、今からなら買い物して帰ってもたくさん時間あるし」
 今度は更に優しい声で言った。少々特殊な性癖を持つ沢村は、浮気がバレて焦っているのと同時に、俺に口汚く責められるのを期待しているはずだ。
「……そっすね」
 首を捻りながら発せられた声に落胆の色がこめられているのを俺は聞き逃さなかった。……お前の思い通りになんか死んでもならねぇよ、この変態。心の中で舌を出し、沢村の答えを待つ。
「茶碗蒸しが食べたい」
 気の抜けた声で、沢村は言う。意外な返答に、沢村の手を握りこんでいた左手に力がこもる。
「もう六月だぞ。この暑いのに茶碗蒸しかよ」
「……聞かれて最初に思いついたのがそれだから。先輩が嫌なら他のものにしてつかぁさい」
 冬場は頻繁に食卓に並ぶ茶碗蒸しだが、暑さで額に汗の滲み始める六月以降は例年とんと出番がなくなる。しかし同棲を始めた年の冬に、初めて沢村に出してやった時の歓喜の声を思い出すと、頬が緩みかけた。料理のことを考えると、塞いでいた気持ちがいくらか軽くなる。元々自炊はよくしていたが、俺が料理を好きだと思うようになったのは、沢村が何を出しても美味い美味いと食ってくれるからだった。
「他は?」
「あとは唐揚げと白飯」
「野菜がない」
「あとはテキトーに」
 そのテキトーっていうのが一番難しいんだよ。主婦のようなことを考えながら、改めて沢村の女のことを考える。どうせしょうもない女だ、と思い込もうとしてもなかなか上手くいかない。
 きまりの悪い表情を浮かべたまま、俺の手から逃れるに逃れずにいる沢村を横目で確認すると、追及は夕餉を終えた後で充分だと思えた。


 スーパーで買ってきた鳥もも肉は皮を外して、ざっくりと塩を塗り込んでバットに置いておく。外した皮はラップで包んで冷凍しておいて、ある程度たまったら鶏皮ポン酢にして食べる。
 洗い物の順番的に、本当は野菜の下拵えから先にしたいが、肉を置いておく時間が必要だから仕方ない。どのみち今はまだ午後二時を回ったところで、さっき昼飯として食べたスーパーの備え付けのパン屋のカレーパンは胃に残ったままだ。野菜を切るのは、夕飯の直前でも充分だから、包丁は綺麗に洗って水気を切り、しまっておく。
 ボールに茶碗蒸し用の卵を三つ割り入れて、菜箸で溶き、白だしと三河みりんで少し薄めに調味し、普段よりも少ない量の水を注いで混ぜ合わせる。もう一つ注ぎ口のついたボールを取り出して、ざるで濾しながら卵液を移したら、普段使っている蒸し物用の蓋つきの入れ物でなく、惣菜を保存するのに使っているガラス容器にそれを注いだ。具は入れず、一旦冷蔵庫に保管する。
 その後は、去年の夏に買って、随分長いこと日の目を見ることなくしまいこまれていたアガーを棚から出した。大さじ一杯分を小鍋に入れ、少量の砂糖とよく混ぜてから、水を注いで火にかける。アガーは砂糖と混ぜないとダマになりやすいからだ。そちらには気持ち濃い味気味に白だしと醤油で味付けをして、沸騰させてから火を落とした。茶碗蒸しの種を入れたものより少し大きめのガラス容器に注いで、粗熱を取る。今日は冷製茶碗蒸しにアガーで固めた出汁ジュレをかけて出すつもりだ。
 米を洗って吸水を始めてから、バットから引き上げた鶏もも肉を軽く水洗いする。塩を揉み込んでしばらく置いておくことによって、鶏の臭みが取れるのだ。唐揚げ用に切り分けようとしたところで、包丁を既に洗い上げていたことを思い出して舌打ちをした。
 一度は収納した包丁を再び取り出し、肉を揃いの大きさに切り分け、さっき卵を混ぜたボールに入れて、塩やニンニク、ごま油などで揉み込む。
「ふー……」
 作業がひと段落すると、無性に喉が乾いてきた。冷蔵庫からミネラルウォーターを出して、食器棚に手を伸ばす。
 晴れやかな水色のグラスの前で手が止まった。沢村が今年の沖縄旅行の土産に買って帰ってきたやちむんだ。
『沢村にしてはセンスいいな』
『ふふん、空と砂浜みたいで綺麗っしょ』
 数週間前にそんなやりとりを交わした。底側数センチは絵付けがされておらず、白いのを空と砂浜に見立てたらしい。今まで食器に気を回したことのない沢村にしてはいい趣味だとは思っていたが、恐らく女に選ばせたものなのだろう。そうとも知らず毎晩のようにそれでアイスコーヒーを飲んでいた自分が憎たらしい。
 手に取ってみると、声しか知らない沢村の女の顔が頭の中に浮かび上がってきて、投げ割りたい衝動に駆られた。
「……くっ」
 握りしめたグラスを頭の横まで振りかぶったが、結局振り落すことは出来ず、ミネラルウォーターを注いで飲み干した。例え女の影が見え隠れするようなものでも、沢村からのプレゼントであることには代わりない。俺はあいつに、心底惚れている。
 喉の渇きが癒えると、少しは沢村と話をする気が湧いてきた。俺もいい歳だ。話も聞かずに一方的に相手を責めるような真似はしたくない。
 帰宅してからこもり切りの沢村の部屋の前に立つと、誰かと話しているような声が聞こえてきた。
「……いや、めちゃくちゃ探したけど見つからないんだって」
 通話の相手がさっきの電話の女だと気がつくと、頭にカッと血が上った。車内であんなに気まずい思いをしたのに、沢村は少しも懲りてない。むしろ、どうせバレてしまっているからと開き直っている。
「おい」
 何の前触れもなく部屋に入ると、スマホを耳に当てた沢村の姿が視界に飛び込んできた。一応気まずげな表情を浮かべて、通話の相手に電話を切る旨を伝えている。
「電話の相手、さっき車で話してたのと同じ子だろ。その子、お前の何なの?」
 出来る限り冷静な風を装って尋ねると、沢村は複雑な表情を浮かべて首を捻った。セックスフレンドだと言ってくれ。そうしたら俺はこれ以上お前に何も聞かないし、関係を切れとも言わない。
「……彼女」
 不明瞭ながらも断定系で沢村は言った。あまりのことに膝をついて座り込み、「俺は?」と、尋ねる。
「恋人」
 平坦な声だ。当たり前だろ、何言ってんだとでも言わんとばかりに、沢村は俺を睨む。見事なまでに居直った沢村は、部屋の中心に開け放っていたスーツケースを閉じて、俺との距離を詰めた。
「どう違うんだよ」
「違いませんよ。先輩は男だから彼氏だけど」
「お前の彼女って本当に会社の後輩?」
「そーっすよ」
 呆然としたまま膝立ちの体勢でいる俺の首に、沢村の腕が回る。俺を見つめる沢村の目には、こんな時だと言うのに欲情の色が浮かんでいた。このど変態が。殴り倒したくなるのを必死に堪えながら、腕を振り解く。
「その子に本気なのか」
 口に出してみてから、なんて間抜けな質問なのかと自分に呆れた。三文芝居から抜け出てきた役者にでもなった気分だ。
 もしも本気だと言われたらもう俺にはどうすることも出来ない。
 沢村のことを、好きだと自覚した時から分かっていたことだが、俺たちは結婚することも、子供を作ることも出来ないのだ。二人の愛の結晶を眺めながら、目元はお前に似てるなー、凛々しい眉は先輩そっくりですよ、みたいなやりとりをする事はおろか、互いに一人っ子なのに、親に孫の顔を見せることすら出来ない。
 だからといって、俺は今まで一度だって沢村が女だったら良かったのに、なんて思ったことはなかった。野球を通じて出会わなければ、俺はこいつを好きにはならなかったからだ。好いて結婚した女に早々と先立たれた親父に、孫の顔を見せられないと思うと心苦しくもあったが、親の人生と自分の人生を一緒くたにする必要はないと考えていたから、沢村と別れて他の女と添おうとは一度も考えたことはない。
 沢村は沢村で、俺に一般的な家庭の温もりを求めたことはないはずだ。こいつが俺に望むのは、支配されるセックスの快楽ばかりだろう。こんな状況下でも、手酷い折檻を受けることを期待しているようだからそれは明らかだ。
「怒ってます?」
 本気なのかどうかという質問には答えずに、沢村は言った。挑発的な目が俺を射抜く。
「怒ってない」
「嘘、はらわた煮えくり返ってるくせに。俺のこと殴りたいんでしょ」
「殴る価値もねえよ、お前なんか」
「付き合うとき、他の女作ってもいいって言いましたもんね」
「な……」
 そんな昔のことをいけしゃあしゃあと持ち出せる神経に呆れて、俺は目を剥いた。
「そんな昔のこと、」
「昔とか関係ねーし。そりゃあ俺だってもちろんああ言われたから、女となら何ヤっても胸は痛まないってことはねーけど、あのやりとりがあった以上アンタにこのことで責められる謂われはねえですから」
 自分でも引っ込みがつかなくなっているのか、いつになく剣呑に沢村は言う。高校生の頃、沢村の田舎出らしい邪気のないひたむきさが、俺には眩しく見えていた。それが十年も経てばこうも変わる。過ぎ去った時間の大きさに俺は苛立った。
「百歩譲って浮気するのはいいにしてもバレないようにしろよ! さっきの通話がなくても、お前最近かなり怪しかったからな。同じ会社の女が相手なら、俺が家にいない日を見計らって会うのなんて簡単だろ!」
「セフレならまだしも、付き合ってるつもりの女にいつもアンタの都合に合わせてもらうわけにいかんでしょーが」
 グサグサと抜き身の言葉で貫かれて、俺は殆ど満身創痍だった。車内では確実に追い詰めていたはずの男に、開き直られて深手を与えられる情けなさに息が止まりそうになる。
「……その女の子、俺のこと知ってんの?」
「男とは知りませんけどね」
「それでいいって言ってるわけ」
「始めに二番目でいいって言われました」
 随分物分かりのいいことで……どうせろくな女じゃねーだろうけど。
「一番手に昇格させる気は」
「……そんなこと考えたこともねえっす」
「お前最低。その子と俺で酒飲みてえくらいだわ」
「酒飲んだらエロくなるからダメ。俺の女だから」
「誰がお前と穴兄弟になるか、死ね」
「女の子とシたあとのセックスって滅茶苦茶気持ちいいんですよ」
 先輩もしてみたら、と沢村は淫靡に笑った。どう考えても頭がおかしいが、あの眩かった沢村栄純をここまで濁らせたのはもしかすると俺なのかもしれない。
「俺、先輩が自分以外の人とセックスしてるって想像するとすげー興奮するんです」
 とんでもないことを告白する沢村の頬は紅潮していた。俺の膝に押し当てられたナニは既に熱を持っている。いつも沢村の被虐趣味に付き合わされている俺は、膝頭でそれをグリグリと刺激した。甘い吐息が耳元で溶けるのを苦笑しながら聞く。
「女の子とセックスしたら絶対に教えてくださいね」
「……考えとくよ」
 期待される通りの答えを返して、固いフローリングに沢村を押し倒す。これから俺は沢村を抱く。加虐的に、支配的に。だけど本当の意味で支配され、囚われているのはいるのは俺の方だろう。



 沢村に自分以外の恋人がいることを、実質的に認めてしまってから半年が過ぎた。俺の所属する球団は、クライマックスシリーズまではなんとか駒を進めることが出来たものの、ファーストステージで敗退し、そのままオフシーズンに入っている。
 今日は十一月の十七日、俺は一つ歳を重ねて二十八になった。昨日までで秋季キャンプも終えて、これからしばらくは少しは息をつくことが出来そうだ。そうなると、シーズン中は極力考えないようにしていた沢村の女のことに気持ちが向いていく。
 どうせすぐに飽きて別れると思っていたのに、沢村は今でも件の女との付き合いを続けている。わざわざ話題に出してどういう付き合い方をしているか確認したりはしないが、両人の関係が順調に育まれていることはなんとなく窺い知れた。
 一時は、ベッドの上で立派なマグロの様になっていた沢村だが、彼女が出来て以降は、俺とのセックスにも積極的だ。とりわけ女を抱いた日や、女を抱く予定の日には興奮が増すようで、常よりも激しく乱れる。その点では沢村の女に同情しそうになることもあった。とはいえ俺がマトモな女なら沢村の様な趣味の悪いマゾヒストとは付き合わないから、きっと沢村の女はロクな奴じゃない。
「二十八ってもうオッさんじゃないすか」
 俺のキャンプ中にひっそりと出されていたこたつ布団の中に足を突っ込みながら、沢村が言った。二十八の俺がオッさんなら、二十七のお前も同じだろ。
「この歳になると誕生日とか心底どーでもいいわ」
「野球選手だから尚更老いに敏感なんじゃねえすか」
「俺はあと二十年は現役だ」
「絶対戦力外通知されてるし」
 白い歯を出して笑うのを眺めながら、女が出来てから明るくなったよなぁと思う。野球を辞めて以降差していた翳りが消えて、屈託のない笑顔が戻ってきた。長年避けていた野球の話題も普通に出すようになったし、俺の試合の放送も時々は見ているみたいだ。
 俺自身も沢村に彼女がいることを当然のことのように受け入れ始めている。俺と沢村が同じ家で暮らして、週に一度か二度、こいつが外で女と会う――この形が壊れない限り、沢村と女の付き合いを咎めることはしない。
「お前の彼女いくつ」
「……確か二十五」
「そろそろ結婚とか考え始めるころなんじゃね」
「さあ? 今は三十過ぎの人も多いっしょ」
 探るように話題を振ったが、沢村の目は存外冷えている。彼女がどう思っているのかはともかくとして、沢村にはその気はないみたいだ。……今のところ。
「もしも……その子と結婚することになったら俺とはどうする」
 こんなつまらないこと聞きたくないのに、こと沢村のこととなると俺はとんでもなく女々しい。
「はあ。なんすかその質問。ちょっとキモい」
「……ごめん、忘れて」
「しないから」
「えっ」
「結婚とか絶対ねーっすよ」
 座椅子の背もたれにぐっと体をもたげて、沢村は言った。少しも迷いのない口ぶりに、むしろ質問した俺が戸惑ってしまう。
「なんでそう言い切れるんだよ」
「したいって思ったことねえし、する必要もないから。つーか、俺より御幸の方が結婚するべきだろ!」
「なんで俺」
「野球選手なら、身の回りのことサポートしてくれる人がいた方がいいだろ」
 するわけねえだろと、俺が言うよりも先に、沢村がそんなことを言う。こいつは今までそんなことを思いながら俺と暮らしていたんだろうか。
「俺もしないよ、絶対。大体……結婚って相手に自分の世話してもらうためにするもんじゃねえだろ。俺は今の暮らしのままで充分だ」
「そーすか」
「なにお前、ずっとそんなこと考えてたの」
「アンタが結婚の話なんかするから思っただけだっ」
「珍しく可愛いな」
「オッさんがオッさんに言うことじゃねえ」
 気持ち悪りぃ、と苦虫を噛み潰したような顔をする沢村の、こたつの下の足に自分の足を絡ませる。野球を辞めて久しい沢村の足の裏は、俺のそれに比べると柔らかだ。
「……御幸と別れるなんて、一度も考えたことない」
「そーなの?」
「まあ」
 沢村は、面映ゆげに自分の耳朶をつまんだ。
「今度二人の休みがかぶる日、外に飯食いに行きやしょ」
「誕生日祝いしてくれんの? お前の奢り?」
「今金欠気味なんで、あんま高いとこは駄目っすよ」
 女とラブホテルでまぐわう沢村の姿が脳裏に過ぎった。金欠の原因は恐らく実家暮らしだという彼女とのホテル代が嵩んでいるからだ。それに思い当たると堪らなくなって、足を伸ばして、スウェット越しの沢村の内腿を爪先で弄ぶ。
「ちょっと変なとこやめてつかぁさい」
「次休みがかぶるのって来週の水曜だぞ」
 ジタバタと沢村の足が抵抗しようとするのを軽くいなしながら、淡々と告げる。
「水曜、あー昼はちょっと出てきてもいいすか」
「水曜は休日出勤もないだろ」
「……いや、彼女の引越しの手伝いする約束してる日で」
 さすがに気まずげに沢村が言うのに、腹が立ってコタツの中でげじげじと足を蹴る。
「はあ、断れよ。俺の誕生日が優先だろ」
「この歳になると誕生日とかどーでもいいって言ったじゃないすか。そもそも当日でもねーし、メシは夜でもいいでしょ」
「女と引越し祝いセックスした後の男に奢られたくねえし」
「んなのしねえって!」
 しないはずがない。そもそも女が引っ越すこと自体、実家を離れて自由に家でセックスをするためだろう。
「その日は、アンタとメシ行くまでにレンタカー返しに行かないといけねえし、そんなことしてる暇ありませんから」
「レンタカー? 俺のアルファードで行けばいいだろ。こう言う時のためのミニバンだぞ」
 トヨタの営業マンの口車に乗せられて買った無駄に広い俺の愛車。沢村の女の、というのが気に入らないが、時には真価を発揮させてやりたい。
「だから人の車の運転は怖いんですって」
 あ、このやり取り前にもあったな。社用車もレンタカーも、人の車だってことには変わりないのに。
「いやいやお前なんか仕事でも乗ってんだから俺よりむしろ運転上手いだろ」
「大きさが違う。つーか、わナンバーじゃなかったら彼女に誰の車か怪しまれるし」
「恋人の車だって言えばいいだろ」
「そういうのやめてください」
「そういうのってなんだよ」
「俺の彼女に、お前の男は他の人間のモノだぞって、お前のモノになることはないんだぞって、自分の存在の大きさ示そうとしてるでしょ。意味ないからやめて下さい」
「はあ、そんなんじゃねえし。意味ないってなんだよ」
「そんなことしなくてもわきまえてますから、あの子は。自分が俺の本命じゃないことも、俺が結婚も出来ない相手と絶対に別れる気がないことも、ちゃんと分かって俺と付き合ってるんですよ。ヤキモチ焼いて俺を引き止めたことだって一度もない」
「……なんだそれ」
 恋人がいることが分かってる男を、後から現れて掠め取っていくような女がマトモなはずはないのに、沢村はつまらない嫉妬心を起こす俺こそが悪なのだとでも言いたげだ。女を本命に挿げ替える気なんて更々ないような口ぶりで安心させたそばから、沢村は俺の心を揺さぶる。
「俺も引越し手伝ってやるよ。仲良い先輩が車と手貸してくれるって言ったらいいだろ」
「だから――」
「お前がそんなに言う女を見てみたいんだよ。いい先輩のふりしてやるから、いいだろ」
「なんでそんな」
「これからもお前がその女と会うの目瞑ってやるんだから、たまには俺の言うこともきいてもバチは当たんねーぞ」
「……絶対変なこと言うなよ」
 二股をかけていることに多少の罪悪感は覚えているのか、沢村は渋々頷いた。
「言わないよ。言わねえけど、一回その子見たらますますセックスのとき燃えそう。お前がチンコ突っ込んでるとこもっと具体的に想像したら、多分俺お前のこと犯し殺したくなる」
「最低……」
 沢村の性癖をダイレクトにくすぐるような言葉を吐くと、言葉とは裏腹に満更でもない表情だ。俺はこんな男の二番目の女をしている沢村の後輩に心底同情した。


 ナビを頼りながら、住宅地で車を走らせていると、案内が終わる合図がスピーカーから流れ、車庫付きの一軒家の前で手を振る女の姿が目に入った。車を減速させると、助手席の沢村が手をあげる。
 完全に動きが停止して、俺がサイドブレーキをかけたのを合図に、沢村は車から降りた。俺の前なんだから少しくらい気まずそうにしてもいいのに、女に声をかける沢村の頬は、自然に緩んでいる。こいつ女の前ではこんな顔すんのか、と思い知らされ、少しへこんだが、後続車がないのを確認して、シフトレバーをパーキングに入れて車から降りた。
「おはようございます」
 沢村の女、益田百合子が助手席側に回った俺に向き直って笑顔を作る。
「わざわざすみません。本当にありがとうございます」
 軽く頭を下げてこちらを見つめる女の顔は小さく、白い。だけど顔の作りだけ見れば特別に美人と言うわけでもなかった。可愛いと言えば可愛いが、髪の毛が黒いこともあり一見すると地味な印象を受ける。
 お前こういう系が好きなんだ、という目で沢村を見やると、早く挨拶しろと言わんばかりに睨みつけられた。
「初めまして。御幸一也です。沢村とは一緒に野球してて」
「あ、ごめんなさい。私は益田百合子です。沢村先輩とは同じ店で働かせていただいています」
 俺の言葉を受けて、自分が名乗っていないことに気がついたらしく、アタフタと自己紹介をする。好きな男が先輩に自分を紹介してくれたという事実に多少浮き足立っているのかもしれない。
「ここで立ち話もなんだから、早いとこ荷物載せようか」
「そうですね。今日は母が車に乗って出ているので、良かったら一度うちの車庫に停めてください」
 積み荷をする間中ずっと道に車を停めておくわけにもいかないので、由里子の言葉に従って車庫にアルファードをおさめる。軽自動車とコンパクトカーなら二台並べて停められそうな程度の広さの車庫だ。荷運びのために通された家の内装も小洒落ている。そこそこ裕福な家の子なのかもしれない。
 沢村も彼女の家を訪れるのは初めてらしく、どことなくそわそわしている。家に車があるならそれを使って引っ越せばいいのに、という言葉を俺は飲み込んだ。
「綺麗にしてるな」
 二階にある由里子の部屋は、沢村の言う通り整頓されていたが、床にダンボール箱が五箱程度積まれていた。
「ちょっと多いんですけど、それは全部持っていきます」
 益田はそう言うが、これから一人暮らしを始めようという人間の荷物にしてはそれは少ない気がした。
「これだけ?」
 同じことを思ったらしい沢村が尋ねると、「下にも少し」と返される。
「そのベッドはいいの? 後部座席狭くていいなら積めなくもないと思うけど」
 部屋の片隅に置かれたシングルベッドを指す。
「帰省したときに寝る場所がなくなるので、ベッドは新しく頼んでます。家電類も全て後から届くので、洋服や日用品を運ぶだけで充分です」
「わざわざ手伝いいらなかったくらいかな」
 本当なら沢村と二人きりで一日中過ごせる予定だった。これくらいの嫌味を言っても許されると思う。
「いえいえ、電車じゃ運べないし、家の車はあまり大きくないので本当に助かりました!」
 控えめに笑って、益田はダンボールの一つを抱える。相手は憎っくき恋敵だが、手伝うと言った言葉を違えるわけにもいかないので、箱の重さを確認し、二つ重ねてそれを運んだ。
「これは重いから、そっち持てよ」
 そう言って沢村は、益田の抱えた箱を奪い取る。俺には見せない男の顔。それに嫉妬してしまう自分の女々しさが嫌になる。沢村から雄としての矜持を奪い取ったくせに、自分の知らない顔を他の人間に見せていることが許せない。
「さーむら、彼女の前では結構いいカッコしいなのな」
「えっ」
 俺が後輩の恋愛を茶化す先輩の顔をすると、益田は戸惑いの表情を浮かべた。彼女という言葉を否定していいものかどうか逡巡し、隣の恋人に懸命な目つきを送っている。沢村が本命の存在を彼女に明らかにしているのは本当みたいだ。
「当たり前でしょ。 俺だって男なんですから」
 困惑する益田をよそに、沢村は涼しい顔で返した。親しい先輩の前で彼女だと認められた益田は、耳を赤くして箱を持つ指に力を込めている。
「……ま、ちゃっちゃと運ぼうぜ」
 階段を下る俺に、沢村、益田の順で続いた。
 揺さぶりをかける意味でテキトーに言ったんじゃなく、彼女の前に立つ沢村は普段より少しカッコつけていると思う。すましているというか、なんというか……俺と二人でいるときや、野球部のOBの中にいるときとは明らかに違う。
 沢村と俺の関係を正確に理解している人間はうちの父親くらいだ。沢村の両親とじいちゃんは俺たちを一緒に暮らすほど仲のいい先輩後輩だと思っているし、野球部の連中に至っては俺たちが一緒に暮らしていることすら知らない。奴らのことを信用していないわけじゃないが、俺もスポンサーのつくような仕事をしているし、何より沢村が当時の仲間の中では昔のままの沢村栄純でいたがる。家族は自分の息子が同性愛者だとは考えようとしないだろうが、他人はいい歳をした男二人が同棲していると聞けば違和感を覚えるはずだ。
 周りの人間が身を固めて行く中、書類上は一生他人でいなければいけないことは勿論、周囲の人間にすら関係を明かすことが出来ないのは多少虚しいが、野球を失った沢村が、青道にいたころの邪気のない沢村栄純に戻れる時間を俺が奪うことは出来ない。
 そんな俺の懊悩もあって、青道の奴らといるときの沢村は、底抜けに明るくて調子のいいアピール上手のこいつに戻る。それは長野の家族の前でも同じだ。
「ダンボール持ってるんだから階段気をつけろよ」
 そんな沢村が、彼女の前ではこの調子だ。すげー彼氏面、年上面。女の前ではそんなにいいとこ見せたいかよって思考がぐるぐると循環する。
「車出すぞ」
 荷入れの間中、沢村と女の恋人らしいやりとりを聞かされて、俺は表向きにもやや不機嫌だった。一階にあった荷物も全部積み終えて、一俺が運転席に座るのと同時に、沢村はご丁寧に益田のために後部座席のドアを開いてやっていた。
「引っ越し先俺知らねえからお前は助手席乗れよ」
 二番目の女じゃなかったのかよ、と言いたくなるのを堪えながら言うと、「分かってやすって」と、隣に乗り込んでくる。かと言ってこちらの表情を伺うわけでもなく、益田に目配せをしていた。
 なんで俺がこいつらのデートのお供をしなくちゃいけねえんだ……まあ自分から行くって言ったけど、そもそも俺との誕生日デートの日に沢村が女の手伝いする約束なんかするのが悪いし、女がいたら俺のことなんか顧みねえし。
 苛々しながらハンドルを握っていると、自然と普段よりも強くアクセルを踏んでしまう。
「先輩、スピード出し過ぎ。俺たちだけで乗ってるんじゃないんすよ!」
「……わ、私は大丈夫ですよ」
 益田が、微妙に大丈夫じゃなさそうな声で言うので、渋々スピードを落とす。よくよく考えると親すら乗せたことのないこのアルファードに乗せた人間の第二号がこの女になってしまった。
「普段より安全運転で」
「わーってるよ」
 沢村があまりにも彼女贔屓なので、これは彼女の前でカッコつけたいんじゃなくて、そうすることで俺の嫉妬心を煽って手酷く抱かれることを期待しているんじゃないかと思えてきた。ここで腹を立てるのは、こいつの思うツボなんじゃないか。……一旦クールダウンしよう。
「なんか飲み物でも買うか」
「車乗るとすぐ飲み物欲しがるよなー」
「うるせえよバカ村」
「この付近駐車場とかドライブスルーある店ないと思いますよ」
「どっかのコンビニの前でお前降ろすから買ってこいよ。俺たちはぐるっと回って戻ってくる」
「パシリじゃないすか」
「レンタカー借りずに済んだだろ」
 俺が彼女に変なことを吹き込むとでも思っているのか、沢村は渋っていたが、いざセブンイレブンの前で停まってやると、嫌々車を降りていった。
 ハザードを解除して、再び車を走らせる。初対面の人間と二人きりにされた益田は、しばらく黙り込んでいたが、沈黙が続くことにかえって気まずさを感じたらしく、おずおずと口を開く。
「御幸さんは……沢村先輩と一緒に野球してたんですよね」
「まあ」
「それって高校ですか、大学ですか」
「……高校の時、沢村は一学年下だな」
 あーこの子、俺のこと知らねえんだ。別に自惚れでもなく、俺は野球選手の中ではわりと顔がいい方で、女のファンが多い。メディア露出もかなりしてるし、それなりに有名選手のつもりでいる。だけど若い女の子に限っていえば、野球になんて全く興味のない人間が多数派だろうし、たぶんこの子もそっちの層の人間なんだろう。だから俺のこともあくまで好きな男が連れてきた親しい先輩だとしか思ってない。
「甲子園でバッテリー組んだこともあるよ」
「ああ、そういえば甲子園出たって言ってましたね。御幸さんは、キャッチャーだったってことですか」
「うん」
 いくら野球に関心がなくても、好きな男が元甲子園球児だと聞かされれば、若い女の子ならインターネットで当時のことを調べたりしそうなものだが、この子はそれすらもしてないみたいだ。
 俺には、実際沢村がどの程度この子のことを想っているのかは分からない。だけどまあ、あいつが俺といる時には感じられない安らぎを、野球に関心のないこの子といるときには感じているのは確かだろう。
 不思議と嫉妬心は沸かない。むしろ感謝したいくらいだ。俺との暮らしでは濁っていくばかりだった沢村が、この子と付き合うようになってからは多少なりともいい方向へ向かっているように俺には思える。
「御幸さんは、もしかして沢村先輩の彼女さんのこと知ってますか」
「へ」
 思わず間抜けな声が漏れる。そろそろコンビニの方面へ戻ろうとしていたのに、遠ざかるような方向へ車線変更してしまった。後から沢村になんと言われるか分からない。
「私、ちゃんと分かってますから――沢村先輩にはきちんとお付き合いしてる人がいること」
「あーそうなんだ……」
 沢村は、自分の女には本命がいることをきちんと言い含めてあると言っていた。俺はそれが本当なのか内心疑っていた。
「会社の人に、沢村先輩と彼女さんは高校時代からの付き合いだって聞いたことがあるんです。だからもしかして御幸さんも知ってるのかなって……」
「一応知ってるけど、ロクな人間じゃないよ。沢村は、益田さんと一緒になった方が幸せだと思う」
 知らないふりをすることも出来たのに、自然とそんな言葉が口をついて出てきた。現にこの子と過ごす時間は、沢村の心を確実に癒している。不本意な形で野球選手としての未来をもぎ取られた沢村にとって、俺の存在そのものが毒なのだ。
 俺が心の内側に秘めた諦めの情を知ってか知らずが、益田は、「嘘です……」と、そっと呟く。
「沢村先輩は、その人のことが大好きなんです……大好きな人がいるから、私にあんなに優しくしてくれるんですよ。私が一番じゃないから……先輩はそういう人です」
「そんなこと――」
 大好きなんて言葉、食べ物に使う以外で久しぶりに聞いた。それは、俺たちの関係には一番似合わない言葉のように思える。そもそも俺は、好きの一言すら沢村に言われたことがない。
「私、学生時代に店舗でバイトしてた頃……全然ダメダメで、それは今もなんですけど、もっともっと酷くて。店の先輩に少し嫌われちゃってました。自分が悪いんだって分かってても辛くて、会社に行くのが嫌になってきたそんなときに、沢村先輩がよその店から移ってきて、私に仕事のことすごく丁寧に教えてくれたんです。店の人との関係も取り持ってくれて……それで、好きになっちゃったんです。だけど、あの頃から沢村先輩には、大切な人がいたんですよね」
「いや……」
「先輩に彼女がいるって聞いても、結婚してるわけじゃないんだし、上手いことおせば割り込めるんじゃないかと思ってました。だけど今みたいな関係になって、一緒に過ごすことが増えて、沢村先輩のことが少しずつ分かってきて、そんなの無理なんだなって」
「沢村は、益田さんにはすごく優しいよ」
「優しいだけです。だけど私はそれで充分ですから」
 この子はきっと若い女の子特有の恋愛に対するネガティヴスパイラルに陥っている。
 右折を繰り返している間に、沢村を下ろしたセブンにだいぶ近づいてきた。信号が赤になったのを見計らって、口を開く。
「益田さんは沢村に好きだって言われたことあるでしょ?」
 意を決して尋ねてみたのはいいものの、ハンドルを握る手のひらには汗が滲んでいた。益田は、「それは……」と、息を漏らしたきり、黙りこくっている。
 バックミラーを覗いてみたが、後部座席の彼女は俯いていて、表情を窺い知ることは出来ない。後続車の禿げたドライバーが、慌てたように窓の外に手を伸ばしてタバコの灰を捨てているのが目に入る。信号が青になったみたいだ。それ以上言葉を重ねることはせずに、アクセルを踏んだ。

back

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -