1-2


 由里子と一夜を過ごしてから初めての月曜日、不動産業は不定休な上に土日は客の来訪が多く忙しいため、月曜日はクールダウンの一日になることが多い。しかも今日は店長の藤浪が休みをとっているため、出勤しているメンバーはダラダラと仕事を片付けていた。
 会社用に持参しているタンブラーに残ったわずかなコーヒーを啜って、来客用に常備している煎餅を齧る。相性の良い組み合わせとは言えないが、昼過ぎの空きっ腹にはよく染みた。
 対面のデスクに掛ける由里子は真剣な表情でパソコンに向かっている。日曜日に新しく契約が取れたので、書類の作成をしているのだ。頬に垂れてくる伸びかけの横髪をしきりに耳にかけ直す所作はどこか艶っぽく、思わず見とれていると、考え事をするように顔を上げた彼女と視線がかち合う。一秒にも満たない僅かな時間口角を持ち上げた由里子は、特別言葉を発することもなく再びモニターに視線を移した。
 事が起きて以降何度かメッセージのやり取りはしているものの、会社での由里子が沢村との関係を匂わすことは決してなかった。以前と変わらず、程々に距離の近い後輩社員の様相を崩さない姿勢に感心する。
 店長の不在によって普段よりだらけてはいるものの、月末だということもあり、私語は極力控えめに各々自分の仕事を片付けていた。沢村もあと四半時をしたら昼食を取ろうと考え、由里子を見習うように真剣にキーボードを叩く。
「失礼」
 水を打ったような店内に一石を投じたのは、店の裏口から顔を覗かせたエリアマネージャーの川本だった。上司の突然の来訪に驚いた一同は、小さく愛想笑いを浮かべながら会釈をする。
「藤浪店長は休みですけど」
 遠慮がちに答えたのは西野だった。今頃藤浪は娘の参観日に参加しているはずだ。
「知ってるよ」
 言いながら川本は店長のデスクから椅子を引っ張り出して腰掛ける。それと同時に立ち上がった由里子は、給湯室に向かう。川本が長く居座りそうな気配を察して、茶を出そうとしているのだ。
「面倒なことになったよ」
 川本は給湯室の由里子を除いた社員達を見回す。
「どうしたんすか」
 遠慮がちに沢村が問いかけると、渋い顔をして口を開いた。
「篠原宗介を知ってるか」
「はあ」
 上司の口から零れ落ちた思わぬ名前、沢村は内心では少々動揺していたが、そんなそぶりは見せずに頷いた。
 篠原宗介は御幸と同じ球団に所属する野球選手だ。先発ローテの二番手で、当然のことながら正捕手である御幸とは頻繁にバッテリーを組んでいる。先日亡くなった父親は、昭和野球界の至宝とも呼ばれた程の人物で、他球団で監督も務めていた。メディア露出の多い有名選手なので、普段は野球の話題を避けて生きている沢村でもその名前は頻繁に耳にする。
「実の兄弟に訴えられてるんですよね。今朝のニュースで見ました」
 おずおずと口を開いたのは西野だ。朝寝をしてドタバタと家を飛び出してきた沢村はその報道を知らない。
「篠原監督の遺品や不動産を亡くなるよりも前に無断で売っぱらって、その金を懐に入れていたとか」
「ああ。故篠原監督は、晩年美術品の収集に凝っていたようで、不動産を除いた売却額だけでも見過ごせないほどのものらしい」
 それが事実ならなかなかの醜聞である。御幸の所属している球団は今頃大わらわだろう。しかし、篠原とバッテリーを組む男を恋人に持つ沢村からして見れば他人事と思えず、御幸に対しては同情を禁じ得ないが、その件と川本の渋面にどんな関係性があるのかは見えてこない。なんとなく不吉な予感がしつつも、「それがうちとどう関係あるんですか」と尋ねてみる。
「……明日の晩メゾンリリィの溝口さんとの接待の予定があるだろ」
「ああ、新しい建物を買ったんですよね」
「あの物件、篠原宗介から購入したものらしい」
「な」
 確かその物件は既にうちの会社で管理仲介することが決まっていたはずだ。仕入れを担当したのは川本なのだろう。普段は温厚なことで知られている男のこめかみに青筋が浮いていた。
「まさかそれも無断で?」
 もしも溝口が善意の第三者だとしても、これだけ事が大きくなっていれば、居直ることも難しいかもしれない。
「いや、あの物件自体は篠原選手が監督が亡くなる何年も前に生前分与されていたものらしい。登記もきちんと移してあった」
「そうですか」
 沢村は安堵の息を吐いたが、川本の表情は未だに固い。由里子の出してくれた日本茶にも口をつけず、凝り固まった首をさすっている。
「だが、これだけ騒動が大きくなると、うちで扱っている物件は正規のルートで売買されたもので、この件には関係ありませんと居直ることもなかなか難しい。溝口さんは気の毒だけど、熱りが冷める前ではあの物件を賃借することは出来ないな」
「それじゃあ明日の接待は」
「今から溝口さんのところへ伺ってみるつもりだけど、たぶん中止だな。そうじゃなくても俺だけで行くよ」
「残念です」
 言葉とは裏腹に、西野の表情は崩れかけている。接待がなくなったことが嬉しくてたまらないのだ。そんな西野の心境を察してか、川本は深い溜息をついたが、叱咤するでもなく椅子から立ち上がった。
「そういうことなので、お前達も繁忙期前で大変だと思うが仕入れには力を入れてくれ」
 臙脂のネクタイを締め直して、川本が辞すと、重たかった店の雰囲気が少し和らいだ。両の手を繋いで伸びをした沢村が視線を彷徨わせると、川本が手をつけなかった茶を手に持った由里子がこちらを物言いたげに見つめていた。


「待ちましたか」
 川本が店を訪れた翌日、火曜日の晩、接待の予定のなくなった沢村は、由里子を食事に誘っていた。その日は互いに出勤日だったが、店舗から直接連れ立って食事の予約をしている店に行くようなことはしない。二人の関係を同僚に知らしめるつもりは今のところなかった。
「俺もさっき来たところ」
 今日は由里子の自宅の沿線の店を予約していたので、彼女は着替えをしてきたようだ。沢村が一足先に入店した飲茶の専門店に遅れて到着した由里子は、白いニットワンピースの上からグレーのチェスターコートを羽織り、ヒールの細い赤いパンプスを履いている。
「今日は運転したんで、緊張して汗かいちゃって……」
 店を訪れた客を、部屋の案内するのに社用車を使ったのだ。最近では電車やバスを使っていくようなこともあるが、不動産営業に車の運転スキルは必須である。しかし由里子はあまり運転が得意ではない。
「地方に転勤になったら内見は全部車で行くんだぞ」
 二人の勤めている会社は全国展開の真っ最中だ。店舗数が多いのは東京や大阪といった主要部だけだが、九州や中国地方にも所々出店していた。交通のインフラの整っていない土地に転勤になれば、自然と車移動が中心になる。
「転勤か……同期の中で初っ端四国にやられた男の子はもう辞めちゃったんですよ」
「まあ地元でもない田舎に行かされるのは厳しいよな……」
「沢村先輩はどうしますか、今度の春から四国とか九州に異動になったら」
「行けないとは言えねぇし、かと言って会社辞めるわけにもいかないから言われた通りにする」
 言いながら、御幸のことを考える。沢村が今の会社に入社した後、関東外への異動があると知った御幸は複雑な表情を浮かべていた。もしも自分が女だったら、早々と結婚して、仕事も辞めていたのかもしれない。
 考えても仕方のないことを思い、溜息をつく沢村の目の前に由里子が大きなポットから注がれた温かい烏龍茶を差し出してくれた。
「彼女さんのこと考えてましたね」
「どうして」
「転勤の話が出て、家族や恋人ことを考えない人はいないでしょ」
 見透かしたように笑われる。柔らかく細められた瞳の奥に寂しげな色が宿っている気がした。
「由里子と一緒にいるときはあの人のことは考えない。だからお前もそうやって話題に出すなよ」
 自分本位なことを言っている自覚はあったが、そう言うより他なかった。
「……分かりました。そうですよね、折角ずっと憧れてた先輩とこんな風に、」
 由里子の言葉を遮るように、中国人の店員が小籠包ともち米焼売の入った蒸篭を運んでくる。テーブルの端に積み重ねられた取り皿とレンゲを各々の前に置いて、沢村は口を開いた。
「どっち二つ食べる? 両方でもいいけど」
 小籠包と焼売は、レタスの上に三つずつ行儀よく並んでいた。由里子は幾分表情を和らげて、それをじっと見つめる。
「小籠包にしてもいいですか」
 頷いて、小籠包の頭を箸でつまむ。レンゲの上でそれを開き口に含むと、我慢できる限界といった熱さのスープが口腔を容赦なく襲った。由里子もまた、顔を真っ赤にしながらそれを頬張っている。
「ここの小籠包すっごく美味しいですね」
「焼売も美味いぞ」
 しばらくは黙々と出される飲茶に舌鼓を打った。時々交わされる会話も、前回のような腹を探り合うようなものではなく、互いの幼少期の話や、仕事の話ばかりだ。御幸とは既に互いの全てを知り尽くしてしまっているようなところがあるので、由里子との会話は新鮮に感じられた。
 沢村は胡麻団子、由里子は杏仁豆腐をデザートに食べ、帰り支度を整える。会計は割り勘でと言って聞かない由里子を、「また次の飯のときに」と、押しとどめて店の外に出ると、吐息が白むほどに気温が下がっていた。
 寒くないか、と振り返りながら言いかけた沢村の腕を由里子が掴む。
「じゃあホテル代は割り勘にさせてください」
「は」
 目を白黒させる沢村に、「今日は行かないんですか」と、追い打ちをかけるような言葉を浴びせかける。
「……行く」
 小さく呟くと、掴まれていた腕が強く引かれる。不実を犯した後の御幸とのセックスを想像すると、背中に電流が走った。


十一

 時は流れて、六月の中旬。不動産仲介業にとっては地獄と呼ぶに相応しい程忙しい一から三月の繁忙期が過ぎ、入居後のクレームの回避も落ち着いてきた頃、御幸の方もセ・パ交流戦の最後の試合が終わり、久方ぶりに二人揃っての休日がとれた。
 とはいえ交流戦の最中、サヨナラの場面でホームランを放った御幸の人気はますます加熱しており、しばらくは人の多い場所にいくことは出来そうにもない。そんな事情もあって、休みの前日、明日の休暇は一日家で過ごすことを沢村は提案した。二人で見ようと思って録画していた番組も随分溜まっている。
「いやせっかくだから明日は出かけよう。俺が運転するから海でも見に行こうぜ」
「海ねえ」
「嫌か」
「嫌じゃねえけど」
 御幸と付き合い始めてからデートで海へ行ったことは一度や二度ではない。御幸は、海のない長野出身の沢村は海を見せてやれば喜ぶとでも思っているのかもしれないが、沢村は釣りをするだとか、泳ぎに行くだとかという明確な目的もなしに男二人で海に行くのは気乗りしなかった。
「最近車乗ってないだろ。この前税金払ったら、たまには遠出でもするかって気になった」
「先輩がタクシーばっか使うからでしょ」
 マンションの地下駐車場で使役されるのを待っているアルファードが不憫に思えて、沢村の気持ちは海行きドライブにやんわりと傾く。
「大体税金以前に毎月税金よりも高い額の駐車場代払ってるんですからね」
 二人が暮らしているのは都内某所の高級分譲マンションの一室である。部屋を買ったオーナーが結局家を建て、いつか子供に贈与するまでの間賃貸物件として運用しているのだ。子連れの家族が暮らしていてもおかしくないような物件なので、家賃は勿論、駐車場代もバカらしい程に高い。御幸が友達もいないくせにわざわざミニバンを買ったせいで、比較的良心的な値段の立体駐車場ではなく平地の駐車場を契約しているので尚更だった。
「いいじゃん俺が払ってるんだから」
「俺だって先輩がもっと車に乗って出かけるならいいと思いやす」
「だから明日乗るんだって。それでいいだろ」
 この話はこれでおしまいとばかりに一旦中座して、御幸は冷蔵庫で冷やしていた日本酒の瓶を手に取ってきた。ラベルには大きな獺祭のふた文字の傍に磨き二割三分と書かれている。
「いつの間に買ってたんすか」
「貰ったんだよ。家に帰るまで常温で置いてたのが気になるけど」
「今日は涼しかったし大丈夫でしょ」
 密かに日本酒好きの沢村の声が跳ねるのを、御幸は微笑ましげに見つめていた。
「けど今日は買い物行く時間もなくて肴がな……」
 ワイン用の薄口のグラスをカウンターに起き、冷蔵庫をごそごそと漁る。
「ピーナッツ豆腐とハムしかねえ……あっ」
 それだけあれば充分だ、と思いながらもグラスをテーブルに移動させていると、野菜室の前でかがみ込んだ御幸がパッと手をあげる。カイワレのパックが残っていたようだ。
「ハムで巻くと結構イケるんだよな」
 カイワレのフィルムを開くその顔には喜色が溢れていた。駐車場代について語る姿とのギャップが激しく、微笑ましい。その一方で、由里子もカイワレとハムの取り合わせが好きだったな、とこの数ヶ月で関係を深めた女ことを思い出さずにはいられない。
 体だけの繋がり、すぐに終わるかとも思われた由里子との関係は想像外に長く続いている。最近ではセックスフレンドというよりは第二の恋人と呼べる存在になっており、五月末の社員旅行では同じ行き先を選び三泊四日を沖縄で二人過ごした。店舗の人間は、沢村が元々いた恋人と別れて由里子と付き合っていると思っているようだ。
 由里子が二番目の女に甘んじることを認めているとはいえ、己の現状に正当化の余地が一切ないことは理解していたが、彼女との関係が始まって以降、マンネリ気味だった御幸との生活に潤いが戻ったことは事実だった。由里子を抱いた後は、御幸のことが堪らなく愛おしく感じられる。
「出来たぞ」
 酒の肴が完成したらしい。カイワレに巻かれたハムにはマヨネーズ、小鉢のアーモンド豆腐にはわさびが添えられていた。グラスによく冷えた獺祭を注ぎ、乾杯も交わさずにみ下す。水のように軽いのに驚いて、一気に煽りそうになるのをぐっと堪えた。
「……美味い」
「飲みやすいな」
 そこまでは酒を好まない御幸は、沢村ほどの感動なくカイワレに口をつけた。
「この前会社の奴と飲みに行った店で飲んだ少し安い獺祭よりもずっと軽い」
「軽いってなんなんだよ。美味いってこと?」
「いやどっちが美味いとは言いきれねえけど」
「よく分かんねえ。つーかお前最近よく外食するよな。俺の作った飯がそんなに不満かよ」
 じっとりと見つめられて、心臓が早鐘を打つ。獺祭は由里子と一緒に飲んだ。御幸がシーズン入りしたのをいいことに、近頃は由里子と夕食をとることが多い。ホテルに行くかどうかはまちまちだった。
「今の時期アンタは忙しいだろ」
「ふーん、バカ村のくせに気使ってんのかよ」
「昔の俺とは違うんすよ! 本当は俺が夕飯作って待ってたいけど、シーズン中の大事な体に変なもの入れられんでしょ」
 不実を誤魔化すために妙に饒舌になってしまう自分を認めると、苦いものが込み上げてきた。御幸はそんな沢村を、高校時代から変わらぬ余裕ぶった笑顔を浮かべて見つめている。恐らく彼は、沢村に女がいることに気がついているのだろう。その上で沢村が決定的な証拠を示さない限りは、それを指摘しないつもりでいる。
「つーか話戻るけど、駐車場代が勿体無いって言うならお前が車乗れよ。たまには乗らないとバッテリー上がるし」
「それは無理。人の車運転するのってなんか気持ち悪ぃし……隣にアンタ同乗してるならいいけど」
「社用車は運転するだろ」
「それは仕事。大体都内住みで男一人で車乗っていくとこなんかねえし」
「友達乗せればいいじゃん」
 友達という言葉に含みがあるように感じられるのは自分にやましいところがあるからだろうか。
 それ以上は取り合わず、テレビの電源を入れると、スポーツニュースが流れていた。セ・パ交流戦のハイライトを映しているようだ。チャンネルを回すのも不自然だし、御幸の活躍に関心がないわけでもないのでBGMとして採用する。由里子と関係を持ち始めてからというもの、以前に比べたら穏やかな気持ちで野球を見ることが出来るようになった。
「他に何か」
 リモコンに手を伸ばす御幸をそっと制した。むしろ最近では、沢村より御幸の方が、神経質に野球の話題を避けようとしている。
 名前も知らない他球団の選手のプレイをしばらく眺めていると、パッと画面が切り替わり、見知った男の姿が映し出された。第三試合九回裏二アウトの場面でホームランを放った瞬間の映像だ。拳を掲げ、塁を回る姿が凛々しい。その後他の試合での映像が映し出され、御幸の大胆なリードが投手、ひいてはチームの士気を上げたとナレーターが賞賛する。御幸に球を放っているのは、以前親の遺品の無断売却のスキャンダルで世間を賑わした篠原投手だ。
「この人謹慎してたんじゃないんすか」
「お前篠原さんのこと知ってんの?」
「この人が売った不動産の中にうちで扱おうとしてたのが混ざり込んでて大わらわだったんすよ」
 その物件に関しては正当な取引だったので、ほとぼりも冷めてきたということで今月から仲介を開始している。
「うわ……あの人いい球投げるんだけどな」
 自分以外の投手を認める言葉を聞くと、未だに嫉妬で肌が泡立つ。御幸がいれば、どこまでも高みに登っていけると思っていたのに、沢村のボールを御幸が取ることはもうない。沢村は、永遠の失恋を経験したのだ。
「さ、先輩の活躍も見たところだし溜まってたドラマでも消化しやしょう」
 なんでもない風を装って、ハードディスクの画面に入力切替する。
 テレビを通じて久々に見たボールをとる御幸の姿が瞼に焼き付いて離れない。十八.四メートル先でミットを構えるあの姿を、高校時代の沢村は愛していた。それは同性愛の域に達するようなものではなかったが、野球選手としての道が絶たれるまでの沢村が、捕手御幸一也への執着と恋人としての彼に対する愛情を混ぜこぜにしていたのは紛れも無い事実だ。
「明日のドライブ、どんな曲かけましょうか」
 複雑な感情を隠すように明るく笑う沢村を、御幸は真意の読めない目をして見つめていた。

十二
 沢村の複雑な感情とは対照的に、翌朝の天気は快晴だった。どこまでも青い空に薄い雲がちらほら流れていくのを、沢村は助手席の窓から眺める。
「しかし本当にバッテリーが上がっているとは」
「すぐ直してもらえたんだからいいだろ」
 今朝は互いに八時には目を覚まして、御幸の用意した軽めの朝食を食べ、十時前には出掛ける支度を整え終えていた。所詮は単純な性格の沢村は、家を出る前には自分が海行きドライブに否定的な感情を持っていたことも忘れ、浮き足立っていた。自分よりも時間をかけて髪型を整える御幸を急かしていたほどだ。
 しかし、いざ駐車場に降り、車のエンジンを掛けようとすると、カチカチカチ……と頼りない音がなるばかりで一向にかかる気配がない。ブースターも、それに繋げるもう一台の車もないので仕方なくJAFに電話すると、立て込んではいなかったようで、ものの二十分でやって来てくれた。しかしバッテリー自体がいかれていたらしく、結局は新しいものと交換してもらったので高くついてしまった。
「乗る予定もないならバッテリー外しといたらよかったのに!」
 出発前のトラブルを蒸し返して、ぶつくさ文句を言う沢村の横で御幸は大らかに笑っている。済んだトラブルが原因で久々のデートの空気を悪くしたくないのだろう。
「まあそんなにカリカリするなって、音楽でもかけてくれよ」
「……うす」
 昨晩このドライブのためにわざわざプレイリストを編集したのに、ゴタゴタしていて忘れていた。車の走行中はカーナビの画面の操作が出来ないので、信号待ちのタイミングを待って、素早くBluetoothの接続をする。程なくして村下孝蔵の初恋が流れ始め、ハンドルを握る御幸が唇を噛んだ。
「……古いな」
「今日は懐かしのラブソングで攻めてみました」
「うちの親好き」
「うちも」
 どうやら同じ世代らしい。顔を見合わせてニヤリと笑い合う。信号が青に変わり、車が発進する。
「お前の親御さん元気?」
「元気っすよ。今度野菜送るって言ってやした」
「いつも悪いなぁ」
「先輩に迷惑かけてないかって気にしてた」
「かけまくりだな」
「昔ほどじゃないでしょ」
 沢村は、不服げに口を歪めた。
 沢村が大学を卒業したタイミングで、当時充分に実績を積んでいた御幸も寮を出て、二人で暮らし始めることにした。その頃に一度だけ御幸を連れ立って長野に帰省したことがある。両親は、その頃には人気選手になっていた御幸が息子のルームシェアの相手だと知り、大層驚いていた。
 今日はうちの家族に俺たちのこと言いますからね――と言って、長野くんだりまで付き合わせたのに、『アンタ女の子連れ込んだりしちゃいけないよ』と、唇を三角形に尖らせた母の台詞に怯んで、「この人が俺の恋人だよ」とは言えなかった。御幸は、いつになく愛想よく、感じよく、普通よりも仲の良いただの先輩のフリをして、祖父の作った野菜をダンボールいっぱいに受け取り帰路についた。
「いつまで先輩と暮らしてるつもりか、とか聞かれねえの?」
「いや……まあ、ぼちぼち。ははは」
 曖昧に頷いてみたが、これでは図星だと言っているようなものだ。まだ子供の内に遠方に送り出した息子のことが心配でたまらないらしく、母親は沢村の近況を聞き出そうと、頻繁に電話してくる。電話をかけてくるのは母親だけだが、たまに届く野菜入りの段ボールには祖父の字で“ひ孫待つ”と書かれていたこともあった。野球をやめたことで、心配をかけてしまったので、これ以上心労をかけたくはない。
「先輩の親父さんは」
「相変わらず。そんなに儲かってはないけどよく働いてるよ。仕送りよこそうとしたら叱られた」
「らしいっすね」
 そこで話題が途切れて、なんとなしに初恋の歌詞を辿る。空の明るさとは、不釣り合いな夕方の歌。二番のサビが通り過ぎたとき、御幸がゆっくりと口を開いた。
「お前って」
 そこまで言って、躊躇うように一拍二拍置く。喉元まで出かかった言葉を口にするかどうか迷っているようだった。その間に曲が終わり、次の曲が流れ始める。
「なんなんすか……言いかけてやめるのはなしでしょ」
「いやあまりにも青臭いこと言いそうになったから」
「普段からわりとクサイから気にしないよーに」
「お前、相変わらずうざいな」
 運転中だというのに側頭部を小突かれた。運転に集中してくださいよ、と噛み付くように言うと、真面目な声が返ってきた。
「お前って初恋いつ?」
「はあ。いい年した大人がよくそんなこと聞けるな」
「うわ、最悪。最近のお前って本当に可愛くねえな」
 もういいよ、と言った御幸の隣で、初恋、初恋――と記憶を辿っていく。小学校の低学年の頃まで遡れば、可愛いと目で追っていた女の子もクラスにいた気がするが、初恋と呼べるほどのものではない気がした。
「初めて付き合ったのはアンタですけど」
「それは知ってる。お前キスめちゃくちゃ下手だったし、セックスのやり方も知らなかったよな」
「な! キスはともかく、男同士のセックスのやり方なんて知るわけないでしょーが。しかも問答無用で俺が女役だったし」
 初めてのセックスのことを思い出すと未だに尻の奥に鈍痛が走る気がした。快楽なんて欠片もない、ただ体をぶつけ合っただけの交わり、当時のことを思い出すと、御幸もセックスの知識が深かったとは思えない。
「アンタが下手だから椅子に座るのも一苦労だった」
「何回かしたらすぐにヨがってたくせによく言う」
「う……」
 二度、三度と体を重ねる内、沢村は御幸とのセックスの虜になっていった。互いに多忙な中無理やり時間を合わせてホテルに通い、猿のように体を重ねた。今はセックスをする日の方が珍しいが、当時は会ってしない日の方が希少だった。
「まあ、お前がそこまで言うなら、今からでも俺が女役になってもいいけど」
「えっ……」
 思いもよらぬ申し出に、声が裏返る。片手でハンドルを握る御幸の横顔を注視しても、本気で言っているのかどうかは読み取れない。
「どうする?」
 今は薄手のシャツに包まれた御幸の体がどれだけ美しいのか、沢村は知っている。理想的な筋肉に包まれたその体を組み敷いて、自分の物でいっぱいにする――その行為に魅力を感じないと言えば嘘になるが、御幸が自分を抱く時の冷えた目、乱暴な手つきは、それ以上に沢村の劣情を煽るのだ。
「遠慮しときます。騎乗位とか重そうだし……」
「最後のチャンスだったのに、お前ってほんとドMだよな」
「うるさい! あ、御幸先輩の初恋はいつなんですか」
「お前……自分はちゃんと答えなかったくせに、そんな話の蒸し返し方するなよ」
「いいから答えてつかぁさい」
 アームレストに手をかけてにじり寄ると、御幸はしばらく黙念としていたが、赤信号に引っかかったのを見計らって口を開いた。
「高三の春の甲子園の巨摩大藤巻との試合の後、お前マウンドの土取りにいっただろ……あのとき」
「は、俺っすか。しかもあのタイミング」
「俺は主将だったし、捕手としても一人の投手を贔屓する気はなかったし、実際お前らのことは平等に扱ってたつもりだったけど、あの時のお前の姿は胸にきたよ」
 しみじみと語られて、あまりの面映さに、アームレストに掛けていた手を引っ込めて、頬に当てた。目つきがおかしくなっているのが自分でも分かる。
「あの頃の俺は、先輩はもっと心のない方かと……」
「失礼な。これでもお前のこと好きだって自覚して以降は結構しんどかったんだぞ。それこそさっきの歌みたいに練習後のグラウンドを走るお前のこと眺めてみたり」
「走るしか能がない奴だってバカにしてんのかと思ってた」
「……お前は鈍いから、自分が結構モテてるのにも気づかずに彼女作らなかったよな。あそこで作っておけば今頃、」
 御幸の言葉を遮るように、電話の着信音が車内に響いた。自分の握りしめているスマホの画面を確認すると、今日は実家で休日を過ごしているはずの二人目の恋人の名前が表示されている。iPhoneの仕様上、一度通話に出ずに着信を切ることは出来ないので、気まずげに液晶を下に向ける。このままやり過ごそうと、顔を上向けると、カーナビの画面に、電話のマークと益田由里子の五文字が仲良く光っているのが視界に飛び込んできた。冷たい汗がどっと背中に滲み出る。滅多に乗らないので失念していたが、Bluetoothの接続中に着信するとカーナビを使ってハンズフリーで通話する画面になるのだ。
「会社の子?」
「後輩っすね。休みの日に仕事の電話はやめろって言ってるのに……」
「出ろよ。仕事の電話なら会社の携帯にかけるだろ」
 淡々と言いながら、御幸は沢村の仕事用の折りたたみ携帯を指した。気まずさに言葉を失っていると、程なくして着信が切れる。
「今度店舗の飲み会があるんで、その話でしょうね」
 一先ずの危機が去り、いくらか冷静になった沢村がとってつけたような言い訳をする。
「……なんか飲み物でも買わねえ」
 ドライブスルーのついたマクドナルドが前方に見えている。
「いいっすね」
 ヘラヘラと笑う沢村を尻目に、御幸はウインカーを出してマクドナルドの敷地に車を滑り込ませた。注文口の前には三台程の列が出来ており、その最後尾にアルファードをつける。
 機嫌を伺うように視線を寄越すと、冷たいともぬるいとも言い難い微妙な目が沢村を射抜いていた。女のことを追求するか否か決めかねているようだ。
「あの、」
 逆効果にしかならないであろう言い訳の言葉を沢村が紡ごうとしたとき、再び着信があった。由里子だ、と沢村が認識するよりも先に御幸が画面に浮かんだ通話ボタンを押す。
「お疲れ様でーす」
 重たい空気に包まれた車内に、由里子の爽やかな声が響き渡る。固い表情で顎をしゃくられて、沢村は恐る恐る口を開いた。
「お疲れ様、どうした?」
 尋ねてしまってから愚策だと気づいたが、もう遅かった。後から折り返しかけ直すと言えば、怪しまれつつもそれでこの場は凌げたのに。
「今日すっごく日差しが強いから、日焼け止めいるなぁって思ったのに見当たらなくて」
「そんなことで……」
「いえ、この前一緒に沖縄に行ったとき先輩に貸してから見つからないんですよ! 荷物に紛れ込んでないか確認してください」
 社員旅行には地方にいる同期の男と行くと伝えていた。見逃しようのない球を放たれて、隣の御幸が、深く息を吐く。
「……分かった。今出先だからあとで見とくな」
「はーい。また明日ー」
 ベッドの上でも見たことのないような冷たい目で睨まれて、一度は引いた脂汗が体中から流れ落ちた。心臓が痛いくらいに拍動している。
 気がつくと、前の車との間に車二台分の隙間が空いており、後ろから来たアルトにクラクションを鳴らされた。

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