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 資格の勉強のためのテキストを閉じて寝室に足を踏み入れる。静かな音をたてて作動する空気清浄機の裏で、最近では殆ど本来の用途を果たしていないアロマランプが部屋の中を薄っすらと浮かび上がらせていた。ダブルベッドの真ん中で、死んだように眠る恋人の眉間を指でそっと撫でる。一緒に暮らし始めて四年の月日が流れたが、未だこの人は本当に俺の恋人なのか? と思うことがある。それくらいに現実味のない組み合わせ。冷えた足を布団の中に差し込みながら端正な寝顔を見つめていると、この男が自分のような凡人と付き合っていることが不思議に思える。
「わ」
 沢村が布団の中に完全に体を埋めるのと同時にぐっすりと眠っていたはずの御幸が身じろぎをした。
「なんだよびっくりした……まだ寝てなかったのか」
「言うても一時っスよ」
 本当は三時前なのだが眠っていた御幸には時間を確かめる術がないから嘘をついた。
「いやいや充分遅いから、ほら来いよ」
 暖かな腕に抱きとめられる。お前の足冷やい、と呟いた御幸は次の瞬間にはもう眠りに落ちていた。
 恋人はオフシーズンには遅くても二四時には就寝して八時前には床から抜け出す生活を送っている。対する沢村は、最近家から最寄りの店舗に異動になったためめっきりと夜更かしになった。
 沢村の勤めている賃貸不動産の営業店の始業は朝の十時だ。入社したての頃は三十分前には出社していないと遅刻の扱いになるという暗黙の了解があったが、昨今の働き方改革によってそれもなくなった。仕事に慣れてくると、物件のオーナーに会いに行くだの、部屋の窓の採寸をするだのと理由をつけて十時を過ぎて出勤するようなことも増えてくる。なので普通の勤め人に比べれば早起きの必要はないが、その代わり殆ど毎日残業があって帰りが遅くなるので、自然と夜更かしの生活にシフトしていた。身体が資本で健康的な生活を送る御幸とは近頃すれ違いがちだ。
 この人は俺と一緒にいて幸せなのか――。
 考えても仕方のないようなことを考えることが近頃増えた。元々は御幸の告白によって始まった関係だったが、現状の自分がこの男に釣り合っているとは到底思えない。
 御幸から想いを告げられたのは高校二年生の冬のことだった。あの頃御幸は既にプロ入りが決まっていて、顔立ちはますませ精悍になり、途轍もなくモテてていた。倉持が顔を合わせるたびに、なんでアイツが俺よりモテんだ、とボヤいていたのをよく覚えている。そんな男に突然告白されて、優越感を覚えなかったといえば嘘になる。
 夏の甲子園、秋大で充分な活躍を示していたとはいえ、自分が御幸程のスター選手でないことは自覚していた。悔しくも己よりは確実に高みにいる相手に告白されて、並び立てたような気分になってしまった。男には興味がなかったが、好きな女もおらず、憎まれ口を叩きながらも御幸のことは深く尊敬しており、好きになれるような気がした。だから告白に応じたのだ。
『アンタと付き合います』
 沢村がそう返事をしたとき、御幸は呆けたような顔をしていた。お前男と付き合うってこと分かってんのか、と問われた記憶がある。自分がなんと返したのかは覚えていないが恐らくはいい加減なものだったのだろう。御幸は泣きそうな顔で沢村の肩を叩いた。そうしてこう言ったのだ。
『お前が他に女作っても俺は何も言わない。だけど男は俺だけにして』
 思いもよらぬ言葉に、少し驚いたが、男同士ってそんなもんか――と思うと肩の荷が下りた。
『はぁ。じゃあ御幸先輩もそうしてください』
 今では、あの言葉は御幸が、同性愛の知識も持たずに自分を受け入れようとする沢村を思って示してくれた逃げ道なのだと分かる。女と関係を持っても何も言わないが、何も感じないわけではないのだということも。
 しかし、そのとき感じたそんなもんか――は二十六になった今でも沢村の御幸に向ける感情の根底に居座っていた。気が付けばゾッとするほどに長く続いた泥濘のような関係、今更断ち切るのも煩わしいが、これが先のある繋がりなのか、沢村は未だに計れずにいた。



 始業時間十分前に店に体を滑り込ませると、恰幅の良い男の姿が目に飛び込んできた。誂え物のいかにも高級そうな紺のダブルスーツ、臙脂のネクタイが白いシャツに映えている。
「おはようございます」
 程よく明るい声色で沢村が挨拶をすると、男は笑顔で振り返った。品の良いオードトワレが薫る。エリアマネージャーの川本は、いつも同じ匂いをさせていた。
「少し遅いんじゃないか」
「今はまだ早く来てするようなこともありませんから」
「まあ君のことだから仕事はキチンとこなしてるだろうね」
 そう言って肩を叩かれる。川本に限らず、沢村は上司には可愛がられる性質だった。
「今日はどうしたんスか」
 体育会系特有のやや崩れた敬語を使っても、川本はあまり気にしない。適度な成績を保って、業務に真面目に取り組んでいれば、細かいことは気にしないこの上司を沢村はそれなりに好ましく思っていた。
「メゾンリリィのオーナーさん知ってる?」
「ああ溝口さんですね。二、三回会ったことがあります」
 溝口は沢村達の担当するエリアに何軒かアパートを持っている土地持ちの男だ。年齢は五十そこそこだが、妻帯しておらず、いつ見ても覇気のない目をしていた。
「あの人が築十五年くらいのマンションをひと棟買ったらしくてな、他の物件と同じようにうちで管理仲介させてくれるようなんだが」
「それで接待ですか」
「費用は向こう持ちだ。きっと美味い店に連れて行ってくれるぞ」
「沢村、慎んで参上いたします」
「お前ならそう言ってくれると思ってたよ。最近の若い子は接待を嫌がる子も多いけど、彼を知り己を知れば百戦殆からずって言うからな」
「俺は美味いもんが食えたら万々歳っスよ」
 軽い調子で言いながら、上司の言った言葉を胸の中で反復させていた。彼を知り己を……なんとなく聞いたことはある気がするが、あまり日常生活で聞くことはない言葉なのでやけに引っかかる。川本は日ごろから本を読む種類の人間らしく難しい言葉をよく知っている。あまり言葉を知らない人間だとは思われたくないので、後で意味を調べておこうと思った。
「じゃあ再来週の定休日の前日あけといてくれよ」
 川本は、左手をはためかせて店を出て行った。小脇にレターパックを抱えていた。何らかの書類を受け取りに来たついでに店にいる適当な人間に接待の誘いをかけにきたのだろう。沢村より先に出勤していたのは店長の藤浪と、三十を過ぎて中途採用された谷原、沢村の2つ下の後輩の益田由里子と事務のおばちゃんの四人。店長と谷原には小さな子供がいる。溝口はキャバクラ好きだが、由里子のような若い女がいるとそういう店にも行きにくいから沢村に任を与えたのだろう。
「人好きするのも考えものね」
 店長が肉付きの良い頬を持ち上げて笑う。入社二〇年のベテランは、彼女怒るでしょ、と探るような目をして言った。先日宴の席で恋人と同棲していると口を滑らせてしまったのだ。
「仕事だってちゃんと分かってますから」
 御幸も先輩選手や球団関係者との付き合いで飲みに行ったりその手の店に行くことも多いので特別文句を言われたことはない。お前って昔から上の人間に目かけられるよな、と笑っていたくらいだ。
「物分かりのいいことを言う女の子ほど怒らせると怖いものだけど」
「そうなんスかね」
 相手は男だし、自分は女役だ――等と口にするわけにもいかず、沢村は適当な相槌を打って自分のデスクに向かう。店長は椅子にかけていたコートを羽織って、他店に行く用があると行って店を出て行った。
 店長が外出してからしばらくして店の裏口から西野が入ってきた。遅刻だぞ、と声をかけると、「嫁さんが弁当詰めるの遅くって」と、悪びれもせずにニヤリと笑う。
「店長にはお客さんに鍵渡しに行くって言っておいたから」
 言いながら、沢村の隣の椅子にどっかりと座り、スーツのポケットから社用の携帯電話を取り出す。何やらメールを打っているのを覗き見ると、鍵を渡しに行ったのは本当らしいことが文面から読み取れた。
 西野は沢村の同期だ。生まれは岐阜で、高校生の時に親の都合で東京に出てきたという。境遇に少し似たところがあるので、入社前の研修の時期から親しくしているが、先日の異動で初めて同じ店で働くようになった。同い年だが既に妻帯している。
「さっき川本さん来てた」
「へぇ」
「メゾンリリィのオーナーとの接待、お前も誘われるかもしれねぇぞ」
「俺あの人苦手」
「仕事なんだから仕方ねぇだろ。あ、そういえば川本さんが彼を知りなんちゃらかんちゃら」
「敵を知り己を知れば百戦殆からずだろ」
「おー流石インテリ」
 パチパチと手を叩くと、向かいのデスクの由里子がフッと笑った。どういう意味なんですか、と尋ねてくる。
「言葉通りだよ。敵と味方のことをしっかり知っておけば何回戦っても負けることはない。孫子の教え」
「何も調べずに出てくるあたり沢村先輩とは違いますね」
「ぬ、生意気な」
 眉尻を上げて言ったものの、実際由里子の言う通りだ。沢村の出身大学は名門と呼ぶに相応しい学校だか、スポーツ推薦だったので授業について行くので精一杯だった。卒業出来たのは奇跡だったとすら思える。西野は真っ当な経路で入学して有名国立大学を卒業しているし、知識欲が強い。一時同じ店舗で仕事をしていた川本は西野のことをうちの会社には勿体無い程の秀才だと言っていた。
「オタクなだけだよ」
 さして偉ぶることもなく西野がそう言ったタイミングで、高校生らしき娘を伴った母親が店を訪れた。最初に母親と目が合った西野が席を立って応対する。
「あーあ、私が行けばよかった」
「あのお母さん面倒そうな感じだけどな」
 声をひそめて囁き合う。
 西野の向かいに腰掛けるその人は、細い縁の眼鏡をかけていて、顎が細く、神経質げな印象を受ける。西野は客のあしらいが上手いので大丈夫だと思うが、由里子のような若い女が相手だとナメてかかりそうな気がした。
「私今月売り上げ良くなくって」
「あー……」
 賃貸とはいえ、あまり営業成績が悪いのも考えものである。肩を落とす由里子は、一昨日のこと契約寸前まで行っていた客によその不動産屋に鞍替えされたばかりなのだ。
「そういうときもあるって」
 励ますように言って、デスクの引き出しに入っていた飴玉を由里子に差し出してやると彼女の口角が小さく上がった。
「沢村先輩、久しぶりに飲みに行きません」
 由里子は入社前のバイトの期間を沢村が前にいた店舗で過ごしており、その頃はちょくちょく飲みに行っていた。
「明日の晩ならいいぜ」
 どんな店に連れていってやるべきか考えながら返事をすると、由里子は表情をパッと明るくする。
「明日は早くあがれるように今から仕事片付けまくりまーす」



 その日は久々に八時前に帰宅することが出来た。玄関で靴を揃えていると、食欲をそそる匂いが鼻梁をくすぐる。
「ただいま戻りましたー」
「おかえり。麻婆茄子作ってるぞ」
 キッチンに立つ御幸はお玉を手に持っていた。スープの味見をしようとしていたらしい。白地にブルーのストライプの入ったエプロンがよく似合っていて、改めていい男だなぁと思う。
「冬場に茄子を買うなんてすっかりエラくなったもんですね」
 高校生の頃、飯を作ってやると実家に招かれ、麻婆茄子をリクエストしたら、冬場に高い金出して茄子なんて買えねえよ、と叱咤されたことを思い出す。同じように青椒肉絲をリクエストしたときも、時期外れだと叱られた。
「プロ野球選手が百円二百円をケチってたら応援してくれてるファンに申し訳ねぇだろ」
 御幸はそう言って笑ったが、プロ入りして十年近く経とうと金銭感覚は存外に庶民的で一緒にスーパーに行くと肉のグラム単価を気にしている姿をよく目にする。御幸は顔を指す仕事をしているので、さすがに二人で安アパートに住むわけにもいかず高級と言えるレベルの部屋で暮らしているが、それ以外の面では普通の会社員の沢村と同じような生活を自然にしてくれるので助かっていた。
 シャワーを浴びるほどの時間はないと言われ、スーツとシャツを脱ぎ、スウェットに着替えてリビングに戻ると、ダイニングテーブルに二人ぶんの食事が並んでいた。沢村が食事を作ると大皿に一品料理とご飯がどんと並んで、カット野菜がついていれば上出来の部類だが、料理に心得のある御幸は麻婆茄子だぞと言ってもそれだけしかないということはまずない。今日の献立は、麻婆茄子と豆もやしと人参のナムル、ニラ玉餡掛け。最後に出されたスープにラー油をたらしながら、「ニラ玉と酸辣湯どっちにも玉子入れちまったんだわ」と御幸は気まずげにしているが、沢村からすれば大した問題ではなかった。
「そんなんどうでもいいじゃないスか」
「酸辣湯に豆腐入れたいから麻婆豆腐じゃなくて麻婆茄子にしたんだぞ。玉子がカブったら意味ないだろ」
「よく分かんね。いただきます」
 御幸の言葉に被せるように言って、酸辣湯をかきこむ。具は豆腐と卵の他に細切りにされてトロトロになった白菜と椎茸、酸味と辛味のバランスが良い。御幸は主菜が中華の時は大体これを作る。大学を卒業して同居を始めてから、沢村はすっかり御幸の料理の虜だ。
「まだ残ってるなら明日スープジャーに入れて持っていってもいいスか」
「いいけど夜に食うほど美味くないぞ」
 時たま夕飯の残りを詰めて会社に持って行くことがあり、目ざとい由里子は、「彼女さんお料理上手なんですね」と声をかけてくる。彼女じゃないと否定するのも面倒なので曖昧に笑って受け流すが、料理上手の恋人を持って幸せなのは間違いない。
「テレビなに見る」
「なにか録画してるバラエティ、出来れば軽めの」
 御幸がリモコンを操作すると、お笑い芸人がひな壇に並んでテーマに沿ってトークをするバラエティが映し出された。ああだこうだと言いながらそれを見て食事を胃に流し込む。あっという間に一時間弱が過ぎて、来週はプロ野球がテーマの回だと予告が流れる。
「御幸先輩の話題出るかな」
「出るとしたら広報から話くると思うけど」
 先ほどまで和気藹々と会話をしていたのに、急につれなく言って、御幸は食器をさげはじめた。来週の回を二人で見ることは恐らくない。二人でいるときに野球の話を深くすることは、現在に至っては全くと言っていいほどなかった。恐らく気を遣われているのだと思う。
「片付けくらいは俺が」
「いやいや、お前はシャワー浴びてこいよ」
 甲斐甲斐しくそう言って、御幸は笑った。
 熱い湯を頭から浴びながらやんわりと首を横に振る。日中は殆どパソコンに噛り付いているせいか、首と肩に鉛をぶら下げているような怠さがあった。御幸の前でそれを言ってしまうと、揉んでやる、とすぐに背中に張り付いてくるのでこうして一人の時間に体をほぐすようにしている。
 自分の方が余程疲れているだろうに、御幸は沢村によく尽くしてくれる。本当なら自分が女房役になってもっと身の回りのことをしてやるべきなのだろうが、なかなか上手くいかない。
 高校卒業と同時にプロ入りした御幸ももう二十七歳だ。似たような歳の選手には妻帯している者も多い。公私共に支えてくれるパートナーを見つけるべき年齢に達しているのは間違いないだろう。自分がその邪魔をしているのでは、などと考えるほど殊勝な人間ではないが、互いに異性のパートナーを設けてもいいのかもしれないと感じることもあった。告白を受けたときに交わされた、互いの異性との浮気を認める協定が、結婚適齢期を迎えた今になって意味を違えながら存在感を増している。
 浴槽に入るのと変わらないくらいの時間をかけてシャワーを浴びて、リビングに戻り、ソファにかけると、湯気のたったマグカップが差し出された。コーヒーだと思って受け取ったが、甘い匂いが嗅覚を刺激する。御幸の淹れるココアは美味い。
「スティックのと全然違う」
「そりゃあ俺の愛情がこもってるからだろ」
「だからちょっとしつこいんだ」
 軽口を叩くと、可愛くねぇ、と額を叩かれた。実際には鍋で練って作っているからだと以前に聞かされたことがある。思い返せば幼い頃に亡くなった祖母も同じようにココアを淹れてくれていた。
「御幸先輩ってばあちゃんみたい」
 リモコンを指で玩びながら呟く。はぁ、とこぼす御幸は不服そうな顔だ。
「世話の焼き方がばあちゃんに似てる」
「お前って初孫?」
「そうっスよ」
「ばあちゃんお前のことめちゃくちゃ好きだったんだろうな。だから俺も似たり寄ったりな可愛がり方になるんじゃね」
 真面目な顔をして言われて、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。うなじのあたりがむず痒く疼く。
「そんなに俺のことが好きかよ、御幸一也」
「好きだよ」
 頬に熱がこもる。面映さに目が細まりそうになるのを必死にこらえて、御幸の顔を見つめた。もう充分に聞きなれたはずなのに、御幸の声は未だに沢村の胸を高揚させる。軽薄そうでいて、どこか影のある低い声、こんな声で口説かれてグラつかない女はいないと思う。
 俺も好きです、という言葉を黙って飲み下した。それは今まで一度も口にしたことのない言葉だった。もしも御幸が、「お前はどうなんだよ」と、尋ね返してくれれば好きだの愛しているだのと返したかもしれないが、御幸の愛の言葉はいつでも一方的で、沢村に同じような言葉を求めることは決してない。
「誰にでも言ってそう……」
 結局はいつもの減らず口。
「言うわけねぇだろ」
 隣に掛けた御幸が笑う。スッと通った鼻筋を眺めていると、改めて綺麗な顔してんな、と思った。役者並みとまでは言わないが、スポーツ選手の中ではかなり整っている方だ。女性ファンが多いので有名で、時たま業界関係者と付き合っているというような噂も流れる。
「この前大和テレビのアナウンサーと一緒だったらしいですね」
 先日御幸が交際していると報じられた相手は、沢村も可愛いなぁと思っていたキー局の新人アナウンサーだった。
「局の他の人とか先輩も一緒に飲んでたよ。だいたいそれネットニュースどまりの話だろ」
「それじゃあテレビで付き合ってるって言ってたらそれは本当なんすか」
「そういう訳じゃねえけど」
「まあ別に、女の人と飲みに行くなとか、付き合うなとか、言いませんから。俺も明日後輩と飲みに行く約束したんで帰り少し遅くなります」
「珍しくヤキモチ焼いてんのかと思ったら、自分が女の子と約束してるの誤魔化したかっただけかよ」
 野球をやめて以降の沢村は、嫉妬という感情とは無縁に生きていた。御幸に恋人がいるような噂を週刊誌やインターネットで目にしても、追求したことがないどころか、一週間もすれば忘れてしまう。
「女の子って言っても俺も二人きりじゃありません。同期の西野と三人ですから心配しないでくだせえ」
 さり気なく嘘をついたのは、由里子が自分に好意を持っていることを自覚しているからだった。
「西野ってあの頭いい奴だろ」
「そうそう。今日も俺がエリアマネージャーに言われた、」
 そこまで言ってスマホで昼間に聞いた言葉について調べる。昼間に二回は聞いたが、未だに正しい形を覚えることが出来ない。
「あ、これか。彼を知り己を知れば百戦危うからずって知ってやすか」
「なんとなく聞いたことはあるような」
「孫子の兵法らしいんですけど、今日エリアマネージャーに接待に誘われた時に俺がそれ言われて、うろ覚えで西野に話したら何も調べもせずにすぐに意味教えてくれたんすよ」
「戦う前に自分のことも相手のことを知っとけみたいな感じか」
「先輩もなかなかやりますね。相手と自分のことをよく理解していれば百回戦っても負けることはないって意味らしいです」
「野球もそうだったらいいのにな」
 どこか遠い目をして御幸はそう呟く。以前御幸が長めに家を空けていた時期に彼の部屋に入ったことがある。部屋の壁に寄り添った本棚には試合のデータが纏められていると思わしきクリアファイルや、DVDがびっしりと並べられていた。
「そうじゃないから野球は面白いんじゃないすか」
 自分で言いながら胸がチクリと痛む。
「そうかもな」
 沢村の心境を察したのか、御幸がそれ以上野球の話をすることはなかった。明日の飲み会楽しめよ、と言ってまだ十時過ぎだと言うのに部屋に引っ込んでしまう。沢村は、ボンヤリとテレビの番組表を眺める。セックスをしないのが普通になってどれくらいの月日が流れただろうか。



 由里子との約束に選んだ店は、店の近くにある大衆向けの焼き鳥屋だ。店内は仕事終わりのサラリーマンで溢れ騒然としており、ムードがいいとは言い難かったが、初老の大将が出してくれる串は焼き加減が素晴らしく、料理上手の女将さんが作る角煮などの一品料理もかなりの物だ。
 入口から右手にカウンター、左手に座敷がある。会社の同僚や友人と来るときには座敷で飲むが、今日はカウンターの奥にある掘りごたつの席を予約していた。入り口が障子で仕切られており、店内の喧騒から逃れられるとまでは言わないが一応個室になっている席だ。
「何食べよっかな」
 洒落た店でないのでがっかりされるかと思ったが、席に通された由里子は浮き足立った様子でコートをハンガーに掛けていた。全部美味しそうですねぇ、とニヤつきながら飲み物のオーダーを取りに来た店員に二人ぶんのビールを注文する。
「私こういう店大好きなんです。接待でいくような高級な店とか、男の人がデートで連れていってくれるようなお洒落な店ってあんまり得意じゃなくて」
「今日はデートじゃないからな」
「先輩、もしかして警戒してます?」
「からかうな」
  由里子は、メニューの裏に差し込まれた串の注文用の紙に鉛筆を走らせている。時折、せせりは何本ですか、キモ刺し食べられますか、と尋ねてくるのに適当な相槌を打ちながら、机の下でスマホに目を落とす。
『あんまり遅くなるなよ』
 御幸からのメッセージに、『了解』とだけ返事を打って、画面を暗転させた。
「彼女さんに連絡ですか」
「まあ」
「怒ってませんでしたか。女の子と飲みに行くってきいても」
「そんなことで怒らねえよ」
「寛容なんですね」
 言われてみればそうなのかもしれない。大学時代には先輩からの誘いで合コンに行くようなこともあったし、そのことは逐一御幸に伝えていたが、行動を制限するようなことを言われたことは一度もなかった。それは社会人になってからも同じで、それこそ由里子が研修生だった頃にも度々二人で飲みに行っていたが、「お前もいい先輩してるんだな」などと言ってニヤつくばかりだった。
「失礼しまーす! お飲物お持ちしました」
 仕切りの向こうから店員の若くて張りのある声が響く。
「はーい」
 由里子が返事をすると、個室を仕切っている障子が開かれて、髪を一本縛りにした大学生らしき女性の店員が生ビールを机に並べた。
「ありがとうございます。あ、これもお願いします」
 由里子が注文用紙を手渡すと、若い店員はニッコリと笑い中座した。
「可愛い子でしたね」
「うそ、見てなかった」
「また来ますよ。だけど先輩っていつもそうですよね。他の先輩がお客さんが可愛かったみたいな噂してても、いつもよく見てなかったって言うでしょ」
「そうか」
「女の子に興味ないんですか」
「う……」
 核心を突くような由里子の言葉に、乾杯もせずに飲み始めたビールが喉を焼いた。まさか男と同棲していることが会社の人間に漏れているはずはないが、思わず探るような目で由里子を見やる。
「彼女さんに一途なんですね」
「そういう意味か」
「違いますか」
「違わない……と、思う」
 好きだと伝えてやったことすらないと言ったら、恐らくは自分に好意を寄せているこの年下の女は呆れるだろうか、それとも喜ぶのだろうか。
「それより仕事の相談がしたいんじゃなかったのか」
 話を逸らして、お通しのキャベツをつまみにビールを飲んでいると、再び仕切りの外から声がかかった。先ほどと同じ若い店員がサラダと長芋スライスを持って入ってくる。ピッチの早い由里子はお代わりのビールを注文して、取り皿にサラダをより分け始める。
「私カイワレって結構好きなんですよね」
 そう言いながら由里子は自分の取り皿に気持ち多めにカイワレをより分けた。取り分けられたサラダの上の、季節外れのキュウリを食むとごま油の香りが広がる。
「うちのも好きだな」
「彼女さんのことうちのって言うんですね」
 からかうように言われて頬が熱くなる。本当は男なのに彼女と言うのも躊躇われ、恋人という表現もむず痒く感じられて口をついて出た言葉だったが、古女房の話をする亭主のようでこれはこれで恥ずかしい。
「カイワレ勝手に食べて怒られたことありますか」
「カイワレを? いやそれはないな、ウインナーとかならあるけど」
 御幸が買ってきていたシャウエッセンを勝手に食べて叱られたことを思い出す。時に御幸は、実家の母親以上に母らしく沢村を叱咤するのだ。
「ウインナーは怒られそうじゃないですか。家族の留守に勝手に食べる時は絶対電話で聞いてからですよ」
「意外に細かいんだな」
「うち親が厳しいんで」
 一般的な親が厳しい話とは百八十度違う内容を語る由里子はいたって真剣である。仕事の話はどこへやら、揉み海苔のかかった長芋をサクサクさせながら、カイワレの話をしたくて仕方がないようだった。
「大学生の時に居酒屋で働いてて、あっちょうどこういう感じの少しひなびたやっすい店ですね。そこにメニューにカイワレをハムで巻いたのがあったんですよ。それがめちゃくちゃ好きで、家の野菜室に入ってたカイワレと自分で買ってきたハムで再現してカイワレ全部食べたら、お母さんにこっぴどく叱られました」
「ぷっ……なんだよその話」
 あまりにしょうもない内容に吹き出す沢村を尻目に由里子はなおも続ける。
「私ずっと実家暮らしで自分で料理しないから知らなかったんですけど、カイワレってめちゃくちゃ安いんですね。お母さんが家にあるもの勝手に食べて怒るときってお金使って買ったものがなくなったからじゃなくて、料理する時にあると思ってた物が知らない間に欠けてたら困るからなんだって今更ながら分かりました。納豆とかもずくは勝手に食べて怒られたことありませんからね」
「由里子っていくつだっけ」
「二十四になりました」
 ケロリとした顔で答える。二十代半ばの娘が大真面目にするような話か、と呆れつつ、二人きりで飲みに行くということでほのかに抱いていた警戒心は今の話で随分薄まった。
「沢村先輩は大学から一人暮らしですか」
「一人暮らしは大学生になって初めてしたけど、高校生の時は寮で暮らしてた」
「じゃあ親御さんとは中学まで一緒に暮らしたきりですか」
 静かに頷くと、えー! と体が仰け反るほどに驚く。未だに実家暮らしの彼女からすると想像もつかないことらしい。
「大変じゃなかったですか」
「寮では同じ野球部の人間と同室で飯も勝手に出てきたから」
 大学時代の一人暮らしもなんだかんだ御幸が食事を奢ってくれたり、作ってくれたりしていたので、母に仕送りが残り過ぎていると不審がられていたくらいだ。由里子の想像するような苦労は殆どしていない。
「そっか野球してたんですよね」
「まあ程々にな」
 少しの謙遜も交えて言ったが、由里子は気にしていないようだったので安堵した。テレビ中継のある夏の甲子園に二度も出場しているので、店に来る客や物件のオーナーにはちょくちょく顔を差される。案内中や接待の折にかつてのプレーの話を持ち出されるとどうしても気詰まりしてしまう。
「野球は大学でも?」
「そうじゃないと俺の頭であんな大学入れねぇって」
「そっか。プロになろうとか思わなかったんですか」
 存外にズケズケと尋ねてくるので辟易した。プロになれるだけの実力がなかったのかもしれない、とは考えていなさそうなあたり本当にスポーツに興味がないのだろう。
 店員が運んできた塩焼きのキモを齧る。ややレアに近い焼き加減のそれは店の人気商品だ。由里子も美味そうに食みながら、それでも沢村をじっと見つめている。
「高校生のとき、プロから指名が入ったけど学生野球でもっと経験を積んでおきたいと思って」
 実際には少し違う。御幸の球団からの指名が入らなかったから一旦学生野球を経由することにしたのだ。大学で今度こそ御幸の球団から指名されるくらいに力をつけて、また彼と一緒に野球をしたいと考えたが、今になって思えばそれが全ての間違いだった。
「それじゃあ大学卒業するときも指名されたんじゃないですか」
「……いや、されなかった。三回生のときに野球はやめたんだ」
「そうですか……」
 沢村の重たい雰囲気を察してか、さすがの由里子もこれ以上話を聞くことを躊躇しているようだった。彼女は野球にというよりは、純粋に沢村自身に興味があるようである。
「デリケートな部分でしたかね……土足で踏み入るような真似してすみません」
「そんなに気にするようなことじゃねえって」
 肩を落とした由里子を励ますように明るく言った。
「怪我してやめたとかじゃねえし、気になるなら話すよ」
「いえいえ、私自分ばっかり話してたから悪いなって思って、先輩の話も聞きたくなっただけなんです。言いにくい話なら聞きません」
「言いにくいというか、あんまり人に気分良く聞いてもらえるような話じゃないから。ずっと話してないだけなんだ」
 野球ファンを名乗り沢村を知っているような人間の中には、彼が野球をやめた事情を知っている人間も時々いて、気遣わしげな態度を取られることもあった。
「それじゃあこの話はやめましょう! 今日は食べて飲んで騒ぎまくりましょうね」
 由里子のカラ元気が胸にしみる。沢村は気がつけば、大学時代のことを振り返っていた。


 沢村が進んだ大学には、二十年近くもそこで勤める有名な監督がいた。監督は沢山の教え子をプロの球団に輩出しており、スカウトマンからも一目置かれる人物だった。しかし彼は決して人格者などではなかった。
 沢村が入学したときには野球部の部費は月に八千円だったが、監督が就任した頃は月に二万円だったという。部員の数は常に百人ほど、その頃は会計も杜撰で部費の使用用途については監督に一任されていた。その金を元手に、監督は将来有望な選手には小遣いを渡して自分の子飼いにし、その選手達がプロになると契約金や年俸から裏金を受け取っていたのだ。
 部費が引き下げられ、監督の権限でそれを使うことが出来なくなったころには彼は既にプロ入りさせた選手からの裏金でひと財産を築いており、沢村が入学する段になってもそれを元手に選手を手懐けていた。
 無論プロ入りを蹴って大学入りした程の有望選手である沢村にも監督は金を握らせようとしたが、得体の知れない金銭を受け取ることへの嫌悪感と、片岡監督とはあまりにも異なるその人物への不信感から、沢村は決してそれを受け取らなかった。監督はつまらなそうにしていたが、それでも彼を選手として日陰に追いやるようなことまではせず、二回生に上がる頃には沢村は先発投手になっていた。
 監督の手中に置かれた選手達に囲まれてする野球は楽しいものとは言えず、どこの球団でもいいから早く卒業してプロ入りしたいと考え始めていた頃、それは起きる。プロ入り後、肩を故障して現役を引退したOBが監督の不祥事をメディアに売ったのだ。
 有名大学の野球部監督の不祥事に、メディアは飛びついた。既にプロ入りした選手、大学在籍中の選手も監督から金を受け取っていた疑いで非難された。沢村もその中の一人だ。金を受け取っていないという証拠は示せなかったし、示せたとしてもイメージが大切なこのご時世に傷物の選手がプロ入りなど出来るはずはなかった。沢村の大学はリーグ戦にもしばらく出場停止になり、三回生に上がったタイミングで沢村は野球をやめた。
 その後は、それまで身の入らなかった勉強にも精を出し、就活に役に立つと言われている資格の勉強に励んだ。野球選手としての道が閉ざされたのはショックだったが、長野の田舎で働きながら、高校大学と私立校の学費を捻出してくれた両親のことを思うと、塞いでばかりもいられなかった。
 そのときに取った資格の一つである宅建を生かし、現在は賃貸不動産を取り扱う仕事をしている。
 そういう経緯もあって、御幸とは野球の話を殆どしないし、彼の出ている試合をテレビで見ることもない。気を遣わせてはいけないと思う一方で、プロ野球選手として活躍する御幸を見るとあまりの眩さに切なくなるのでどうしようもない。
 思えば御幸が甲斐甲斐しく沢村の世話を焼くようになったのも、あの出来事以降のような気がする。野球をやめた沢村との心の距離がこれ以上離れてしまわないように、御幸は必死に沢村の世話を焼くのだろう。
 事実元々は捕手としての御幸への強い尊敬から始まった関係であるが故に、野球をやめてからの沢村は彼に対して抱いている感情をはかりきれずにいた。


 二軒目の行き先として由里子がバーを指定してきたとき、『あまり遅くなるなよ』という御幸からのメッセージが頭を過ぎったが、酒の入った体は自然と駅とは反対方向へ向かっていた。
 由里子の行きつけだという若年層向けのバーで壁際のテーブル席に座り、腕時計をに視線を落とすと、時刻は二十二時を少し回ったところだった。スマホの画面に新着のメッセージは来ていない。
 いつの間にか由里子が頼んでいたウイスキーの水割りで喉を潤しながら、彼女の言葉に耳を傾ける。
「沢村先輩の目ってウイスキーの色に似てる」
 酔っているのか砕けた口調の由里子が顔を近づけてくる。呼気が交わる程の距離まで迫られても、不思議と嫌悪感は抱かない。
「私先輩の顔大好き。目がぱっちりしてて、だけど一重瞼で、男前すぎないとこがいいんですよね」
「お前失礼だな」
「あはは。だけど先輩だって自分のこと男前だとは思ってないでしょ」
「当たり前だろ」
 男前というのは御幸のような人間のことを言うのだ。
「当たり前とまで言われると否定したくなるけど……先輩はとても素敵ですよ。声大きすぎるけど、爽やかだし、仕事も丁寧で出世株だし……なにより優しい」
「優しくなんかねぇよ」
 本当に優しい人間なら御幸のことをもっと愛してやっているだろう。好きだ愛してると言って、尽くされただけのものを彼に返してやっているはずだ。大昔に言われた言葉を免罪符に、自分のことを好きな女と二人きりになったりはしない。
「先輩の彼女さんは幸せ者ですね。どんな人なんですか」
「稼ぎが良くて、頼りになって、料理上手で、顔が良くて、俺に尽くしてくれる……嫌味なくらい完璧な人」
「なにそれ」
 勝ち目ないなぁ、と零しながら、彼女はウイスキーを煽った。大きな瞳がにわかに潤み始めたのに気がついて、「飲みすぎるなよ」と、諌めると、意固地になったように沢村のグラスにまで口をつける。
「明日休みだからいいんです」
「……俺はそういう無茶な飲み方する奴は好きじゃない。とりあえず烏龍茶挟めよ」
「トマトジュースにしときます」
 互いにノンアルコールの飲み物を頼んで椅子に深く座り直す。必要以上に距離が狭まっていたのがリセットされると、相手の顔をマトモに見る余裕が生まれた。由里子も冷静さを取り戻したらしく、きまりの悪そうな表情で沢村を見つめている。
「ここからは仕事の話だけだぞ」
「先輩の恋の話を聞かないと仕事に手がつきません」
「お前なぁ」
「彼女さんと長いんですよね。西野さんに聞きました」
 返事はせずに頷いた。相手が男だとは勿論伝えていないが、西野には恋人とは高校時代からの関係だと言ったことがある。
「なんで結婚しないんですか」
「結婚出来るような関係じゃない」
 これ以上暴かれたくないという気持ちとは裏腹に、烏龍茶で潤った口は彼女の問いかけに条件反射で応えていく。
「……不倫とかじゃありませんよね」
「そんなんじゃないけど、結婚は出来ないし、しない」
「したくないんだ?」
 したくないのとは少し違う気がする。だけどもしも同性同士の結婚が法律で認められるようなことがあっても、御幸と籍を入れることはきっとない。
「お前には分かんねえよ」
「分かりませんよ。分からないから私の付け入る隙がないか必死に探ってるんじゃないですか」
「仕事の相談だって言うから来たのに」
「浮気したことないんですか」
 真っ直ぐな視線で刺されて、きまりの悪さに顎が震えた。
 高校時代は寮生活で部活漬けだった沢村が童貞を捨てたのは、御幸との付き合いが始まって以降のことだ。しかも相手は御幸ではない。告白の時に言われた言葉を免罪符に、沢村は大学時代に二人の女と関係を持った。野球選手としての道が断たれて自暴自棄になっていた時期のことだ。御幸が沢村の不貞に気づいていないとは思えないが、それについて追及されたことはない。
「先輩、彼女さんのこと大好きなんですよね」
 気がつけば、由里子は沢村の隣に掛けていた。いつの間にグロスを塗り直したのだろう、艶やかな唇が迫ってくる。ほんのりと熱を持った体の心地よさに瞠目していると、ゆっくりと唇を重ねられた。
「なっ」
「誘うような目をするからいけないんですよ。先輩って時々襲いたくなっちゃうくらい可愛いから」
「変なこと言うな、変態っ」
「先輩」
 からかう様に笑っていたかと思えば急に真剣な目をして沢村を見つめる。
「私二番目でもいいですよ。彼女さんと別れなくてもいいから、私にも先輩の時間と体を少しだけ分けてください」
「そんな不義理が、」
 通るか、と言い掛けた唇をまた塞がれる。いい歳をした大人が、公衆の面前で何が悲しくてこんなことを……と考えながらも、由里子の瑞々しい体を拒むことが出来ない。冷えていた体にそっと熱が灯る。
 俺を縛り付けなかったアンタが悪いんだ――投手として御幸に向き合うことが出来なくなったとき、もしも彼が、それでも俺だけを見ろと言ってくれていたらどれだけ励みになっただろう。野球選手としては終わってしまっても、自分には御幸一也しかいないと思って生きていきたかった。
 数年越しの恨み言が体の中でフツフツと湧き上がってくる。酷く厭世的な気分で、由里子の細い手首を掴んだ。今度は自分から、舌を絡ませて深く口付けると、次第に御幸のことは頭から薄れていった。



 酒の回りきった重たい体を引きずってベッドに潜り込む。近頃は襲いかかる睡魔に抗うようなことはしないが、今日ばかりは違った。ホテル帰りの体は未だに熱を孕んで沢村を突き動かす。
 難しい顔をして眠る恋人の耳に唇を落とすと、眉間の皺がより一層深まった。起きてんの、と尋ねると、「寝てるよ」と、不機嫌な声で返される。
「遅くなってすんません」
 言いながら、頑として瞼を開けようとしない恋人の耳輪に舌を這わせる。子猫がミルクを飲むときのような調子でしばらくそうしていたが、アルコールに侵されているのと、先ほど由里子とした行為での消耗で上手く舌が回らず、焦ったい思いで歯を立てた。
「痛っ……お前ふざけんなよ」
  跡が付きそうな程に強い力で手首を掴まれて、それだけで体の中心に火が灯った。御幸は酷く苛ついているようだったが、それでもまだ、「疲れてるんだよ」と布団にこもり直そうとする。
「先輩、待って、」
 沢村は手早く服を脱いでベッドの上に座り込んだ。布団を剥ぐって、御幸に己の体を見せつけるようにしながら口角を上げる。
「きて……」
 数時間前、安ホテルの一室で全く同じように由里子に誘われて、その体に貪りついた。自分が抱いた女の動きをなぞるようにすると、興奮で奥歯の根が合わさらなくなる。
「沢村、お前俺を怒らせるのがそんなに楽しい?」
 予想に反して緩慢な動きで布団から出てきた御幸が、沢村に向き合うようにして胡座をかく。
「だって怒らせてするくらいじゃねぇと、最近アンタとのセックス全然燃えねえ」
「あっそ」
 呆れたような言葉と共に、パンッと音がするくらいに強く頬を張られた。
「――っ、ア」
 暴力的なやり口に、頭の芯が痺れる。そのまま乱暴にベッドに押さえつけられると、それだけで達してしまいそうなくらいにペニスが張り詰めた。
「最後にしたのっていつだっけ」
 乱暴な仕草とは裏腹に御幸の声は酷く冷静だった。
「二ヶ月、くらいまっ、あっ」
 最後の行為のことを思い出しながら答える沢村の耳たぶに鋭い痛みが走る。顎を引けば皮膚が千切れてしまいそうなくらいの力で、御幸は何度も沢村の耳を食んだ。
 いつもこうだったらいいのに、と二ヶ月前の作業的なセックスに重ねながら思うが、これが日常になってしまえばきっとこんなことでは感じなくなる。
「遅くなるなって言ったよな」
 胸の先の飾りを弾かれて、腰が浮く。熱を持った先端から、先走りが漏れているのが分かって、太ももをすり合わせた。
「了解ってお前は返した。いま何時だ」
「一時っ」
 パンッ――実際の時間よりも二時間程早い時間を申告すると、また頬を張られた。興奮で目尻を赤らめる沢村を見下ろす瞳はゾッとするくらいに冷たい。
「最近そうやって時間誤魔化すけどちゃんと分かってるからな」
「別に、アンタに迷惑かけてない――」
 シーツに投げ出した腕に力を込めて起き上がろうとするが、御幸に肩を押さえ込まれているのでそれは叶わなかった。何年もスポーツをやっていない人間と、現役のプロ野球選手の筋力差はあまりにも大きい。乳首を愛撫していた手が下へ下へと降りてゆき、先走りで濡れそぼったトランクス越しの自身に触れると足の指がピンと伸びた。
「さーむら、お前本当に叩かれるの好きだよな」
 布越しに竿を撫でられて、もどかしさに腰が動く。肩を抑えていた方の手の指が、口の中に潜り込んできて、唾液を絡ませるような蠢いた。
「は、ふっ――んん……きもひ……」
 うっとりと目を細めて、指を吸ったが、すぐにひきぬかれてしまう。バカ村と、呟く御幸の声には欲情の色が滲んでいた。寝間着のスウェットのズボンと、トランクスを一気に脱ぎ捨てて露わになった御幸のペニスは高く屹立している。自分のことを殴ってそうなったのだと思うと、自身に集まる血液が更に勢いを増した。
「咥えて」
 甘く、艶のある声で命令されると決して逆らえない。のろのろとした動きで、膝立ちになった御幸のペニスを口に含む。舌の先端に力を入れて、鈴口を弄んでいると、髪の毛を掴んで無理やり頭を押さえつけられた。
「んっんんー!」
「少しも上達しねぇのな」
 下手くそ、と罵りながらも、御幸の先端からは先走りが溢れており、独特の塩味が沢村の舌を襲う。ジュポジュポと音を立てながら口腔内を犯され、自由が効かないながらも、御幸の快感を少しでも高めようと口を必死に窄めた。熱い芯が唇の内側を行き来する感覚に悦びに震えていると、喉の奥を抉られる。
「んっ……ぐぐ――」
 咳き込みそうになるのに口いっぱいにペニスに咥えこまされているためそれは叶わない。必死に鼻で呼吸しながら、嘔吐感が過ぎ去るのをやり過ごす。真っ赤に染まった目尻からは大粒の涙が滴っていた。
『竿の裏……好きなんでしゅか』
 不意にホテルのベッドの上での由里子の姿がフラッシュバックする。熱く昂ったペニスを苦しげに受け入れた女の桃色の唇の記憶が自分の今の状況に重なり、沢村はますます興奮を深めた。
 唇からカリが出たり入ったりする度に、じゅぷ、じゅぷと淫靡な音が響く。つと視線を上げると、御幸の冷えた視線とかち合った。御幸は一旦沢村の口から自身を抜くと、ベッドに恋人の体を仰向きに横たわらせる。両内腿で肩を、尻で胸を押さえつけるような形で、沢村を跨ぎ、再び口腔に挿入した。そのまま激しく腰を揺るがせ始める。
「んーっ……う、う……」
「は……気持ちい、お前の口マンコ最高」
 動く余地も与えられず激しく犯され、口内が性器になってしまったような錯覚に陥った。屹立した自身からトロトロと溢れる先走りが気持ち悪い。
「もっ、や……ぐ――」
 拒もうとするそばから、喉奥を叩かれる。少しでも酸素を取り込もうと鼻からすっと息を吸い込んだ。
「ッ……もうイくっ――」
「んー……! んっ」
 口の中は駄目だ。慌てた沢村が身をよじって逃れようとするよりも早く御幸は熱い精を彼の喉の奥にぶちまけた。自慰もあまりしていなかったのだろう、久々に受け入れた御幸の精液は酷く粘ついていた。眉間に皺を寄せながらそれをぐっと飲み込み、萎えたペニスをティッシュで拭う男を睨みつける。
「口じゃなくてケツ穴に出して欲しかったんだろ」
「別に」
 拗ねたように沢村が服に手をかけると、「まだダメ」と、それを払われる。
「これも脱いで」
 先走りで濡れたトランクスに指をかけて言う。
「アンタはもうイったじゃん」
「ちょっとしたら復活する」
 沢村がトランクスを脱ぎ去って全裸になったのを認めると、御幸は、彼の下生えを覗き込むような格好で肘をついて横たわり、空いた手で気だるげにペニスを扱き始めた。真心のカケラもない手つきだが、元々ぐずぐずに濡れていたそこは否応なく反応してしまう。
「すげ、ピクピクしてるよお前の」
「んなこと……言うな、ァッ」
 先走りを潤滑油代わりに激しく扱かれると、痛みと快感が綯交ぜになって、頭の芯が痺れた。自身から発せられるぐちゅぐちゅという濡れた音に鼓膜を犯される。
「アッ、あ――みうき、らめ……」
 ホテルで一度出してきたのが嘘のように、沢村のそこは張り詰めていた。ガチガチになったペニスに張り付く睾丸が、射精が近づいていることを告げる。
「イキたあ……イキたいっ」
 腰を浮かせ、足の指に力を込めて射精に備えたが、沢村のそれをいじめていた御幸の手の動きが突然止まってしまう。逃した快感を追い求めるように自ら腰を振って、御幸の手にペニスを擦りつけると、「ふっ」と、馬鹿にしたように笑われた。それだけのことで内腿がふるふると緊張する。
「こっちでイクのは後。うつ伏せになって尻俺の方に向けて」
 残酷な言葉と共に、体を反転させられ、尻を高く掲げさせられた。
「情けねぇ姿」
 触れるか触れないか、フェザータッチで尻の輪郭をなぞられ、こそばゆさと快感が入り混じる。自然と揺れてしまう沢村の尻を見とがめた御幸が、空いた手で中断していた屹立への愛撫を再開すると、「ひゃあ……」と、女のように喘いだ。
「尻穴ヒクついてる」
 喜色を帯びた声が聞こえたかと思うと、パン――と尻を張られた。沢村の白い尻を、御幸の手形が赤く彩る。
「ぃ、ぁ……」
 掠れ声の沢村が身をよじってそれから逃れようとするのにも構わず、二度、三度とそれは続いた。
「なんでっ、なんで叩くの……ぅ、んあっあっ」
「お前が叩かれるの大好きな変態だから」
「ちがっ、うぅ――あァ……」
「違わないだろ」
 更に激しく打たれて、視界に星が舞う。呼吸が乱れ、両の目からはポロポロと涙がこぼれ落ちた。情けない己の姿を、後ろの恋人が嘲るような目で見下ろしていると思うと、それだけで達してしまいそうになる。
「あんまりすると俺の手が痛い」
 そう言って、御幸が尻を高くのをやめて、ペニスを扱くのに専念すると、思わず切ない声が漏れ出した。
「もっと……もっと、叩いて」
「叩かれるの嫌なんだろ」
「すきっ……しゅきです! だからやめないで……アッ!」
 パンッ――
 言葉を遮るように渾身の一発が振り下ろされて、沢村はシーツに崩れ落ちた。真っ赤に腫れ上がったそこを、御幸は再び優しく撫でる。ピリピリとした快感が背筋を駆け上がった。
「お前がこんなにエロいって知ってたら、もっと早く告白して寮でヤったのにな」
「絶対見つかるし、無理」
「変態の沢村君は、人にヤってるとこ見られても余裕で興奮するだろー」
「んなわけ……!」
「……いい加減カマトトぶるなよ。ドマゾのお前に付き合う俺の身にもなってみろな」
 うつ伏せになった体にのしかかるようにして、御幸は沢村の耳元で低く囁く。
「ぅ、御幸の声……無理。えろすぎ……耳犯さないで――」
「はあ? 先走り垂らしまくって、ケツの穴まで濡らして、何が無理なんだよ」
 先走りを潤滑油代わりに、御幸の太い指が沢村のそこに侵入を試みる。くちゅり、という音ともに内部を犯されて、「ぁ、あっ……」と、言葉にならない声が漏れ出た。
「クソひり出すとこに指入れられてそんなに気持ちいい? 今のお前の姿クリス先輩とか、野球部の連中が見たらどう思うだろうな」
「うっ、う……」
 尊敬する先輩の名前を出されて、体は否応なく反応した。自分の中でぬらぬらと蠢く御幸の指をきつく締め上げてしまう。イキ時を見失ったペニスが、腹につくほどに勃ち上がっていた。
「クリス先輩の名前聞いて興奮してんだー? お前本当に好きだな。俺より先にクリス先輩に告られてたら股開いてたんじゃねえ?」
「告られるとか、んなこと……ありえね、しっ――あっ、ァアッ……アンタと一緒にすんな!」
 ばちん――中の指が抜かれて、再び尻肉を打たれる。「ヒッ……」と、痛みに目を剥いた沢村の中に、今度は二本の指がねじ込まれた。
「告られてたらヤってたのかよ、このビッチ」
 自分から持ち出したくせにキレんなよ……と思いながらも嫉妬されると気分が良かった。つい数時間前に女を抱いてきたと知ったら、この男はどれだけ激しく自分を抱くのだろうか。
「ぁ、ッ……クリス先輩の方がちんこでけえし……アンタとするより、あっ……」
「なに、そんなつまんねえ煽りで、キレさせようとしてんの?」
「キレてる、くせに……あ、あああ――」
 風呂場で見ただけだと分かっているくせに、御幸は面白いくらいに逆上して、沢村の中をいたぶった。二本の指によって押し潰された肉壁の中はどろどろで、ヌチャヌチャと音を立てている。
「……お前みたいなど淫乱、俺以外に扱いきれるわけねーだろ」
 存外に切実な響きを孕んだ声で御幸が言うのを、快楽に犯された頭でぼんやりと聞く。女を抱くときは、普通のプレイでも充分に興奮するのに、どうして御幸には酷くされたいと願ってしまうのだろう。人付き合いは不得手でも、自分にはとびきり優しい恋人の、誰も知らない剥き身の姿を暴くのが、いつしか沢村の悦びになっていた。
 充分にぐずついた壁内で、御幸は膀胱の裏側に浮き出たシコリをグリグリと刺激する。
「ぁ、アッ――ッ! せんぱ、そこ……らめ……ィ、あっ……!」
 激しすぎる刺激に陶然とする沢村の尻たぶに御幸は口づけた。前立腺への刺激を続けながらも、汗の滲んだ滑らかな皮膚に舌を這わせ、犬歯を力強く立てる。
「ぃ、たぁ……いやぁ――」
「嫌じゃないだろ」
「いいっ――イイですっ……きもちひ……あんっ」
 敏感な場所を刺激して、いたぶれば、開発されきった沢村の体は面白いほどに反応した。恍惚とした表情の恋人の中から指を引き抜き、御幸は硬度を取り戻した自身を沢村の内腿に擦り付けた。
「さっきイったのに……かたい……」
「っ……こんだけ乱れてるの見たら仕方ねえだろ」
 沢村のマゾヒズムに合わせている体を装っているが、御幸も大概な趣味をしている。
 内腿への刺激だけではもどかしいのか、沢村は自身のペニスを御幸のモノに擦りつけ始めている。冷えて引き締まった睾丸が、グニグニと御幸のペニスに接触する。
「せんぱい、もう挿れて……」
 御幸の方も既に限界を迎えていたのだろう。濡れたようなその声を聞くなり、内腿から抜き出したペニスを沢村のナカに突き入れた。張り出したカリが、しこりを刺激しながら押し入ってくると、堪え切れないほどの快感が沢村を襲う。
「ぁっ……ああ……」
「くっ、締めすぎだろ……ちょっとは緩めろ」
 土台無理な要求をしながらも、御幸はグリグリと腰を進める。ペニスを奥まで押し込むと、「ふ」と、息をついてからピストンを始める。
 パンパンパンッ――肉と肉のぶつかり合う音が寝室に響き渡る。腰を強く引き上げられ、獣のような姿勢で犯される沢村は目からは涙、口からはよだれを流していた。
「それ以上はっ……ィ、アッ……おかしくな、」
「はっ、もう充分おかしいくせに笑わせん、なっ」
 熱いモノを打ち込むのと同時に手持ち無沙汰のペニスをしごいてやると、長い間焦らされていたそれの根元で、きゅっと引き締まった睾丸が迫ってきた。
「お前の限界みたいだな。おら、イケよっ――」
「アッ、アアッ……」
 腰の動きを緩め、先走りで濡れそぼった屹立を激しく扱くと、沢村の喘ぎが大きくなる。体が衝撃に耐え切れず、グラグラと揺らめくので、シーツを必死に掴んでいるが、皺が深まるばかりでどうしようもない。
「あああぁっ……ダメっ、イクッ、イキます……」
 その瞬間、沢村の背中が大きく仰け反り、白い精が彼の先端からびゅるびゅると吐き出された。ドロドロに汚れたシーツに、腹が汚れるのも構わずに沢村は崩れ落ちる。
「……はあ」
 沢村は、呆けたように息をついた。硬く勃ちあがった御幸のモノは、未だ己の中にあったが、本日二度目の射精を終えて、気持ちは幾分萎えている。
 先輩も一度イったし、このまま終わらねぇかな……とうつ伏せの姿勢で考えていると、甘い考えを戒められるように奥に突き入れられた。
「ひぁ……っ」
 堪らず喘ぎを漏らし、抗議の目を向けようと持ち上げた頭を、大きな手の平が押さえ込んだ。ぐっ、とカエルの潰れたような声を出してシーツにのめり込む沢村の背中に、御幸は体重をかけて腰を振るい出す。
「んっ……んっ……んんーっ――」
 熱いモノを打ち込まれる度に、沢村の口からはくぐもった声が漏れ出た。御幸の荒い息遣いが、耳を濡らすのを、泣きそうになりながら聞く。一度は萎んだ情欲が、下腹部を発端として燃え出していた。
「……はっ、お前のナカ、気持ちいい。エロすぎ」
 ぱんぱんに張り詰めた肉棒の先で、前立腺をゴリゴリと擦られる。そこから与えられる強すぎる快感は、沢村の価値観や理性を歪ませた。女を抱くために作られた体を、男に隅々まで蹂躙されている……神様はなぜ、男の体にこんな臓器を作ったのだろうか。体を重ね始めた頃は、御幸のモノを受け入れる度、屈辱と情けなさで涙が溢れていたのに、今沢村の頬を濡らすそれは、真実悦びから絞り出されたものだ。
「せんぱっ、ィ……可哀想、あっ……」
「はあ?」
 弛緩しきった表情で自身を受け入れる男に憐れまれて、御幸は苛立ちから、ピストンを早めた。体のぶつかり合う激しい音と、陰茎を絞るずぷずぷと濡れた音が混じり合っている。
 沢村は差し込まれたそれを更に奥へ誘き寄せるように尻を揺り動かし、喘ぎながら、言葉を紡ぐ。
「だって、ちんぽ挿れられて、っ、きもちの、知らないから……アッ」
「なんだそれ……オトコに抱かれるのそんなに気持ちいいの?」
「気持ちいいっ……先輩の、大好きっ……あ、ぁぁんっ」
 この上なく淫らに発せられた言葉に、眩暈がした。御幸は昂ったモノを腰の奥に叩きつけて、愛しい後輩の肩に噛み付く。歯型が残るほど強く噛まれて、沢村の肉壺は激しく痙攣した。痛いくらいに締め付けられて、射精感が込み上げてくるのを堪えながら、御幸は沢村の耳元で囁く。
「好きだ……愛してる」
 この上なく優しい声色で紡がれた言葉に、沢村が返したのは、「そんなのいらない……」の一言だった。シーツに擦り付けられた眉間にはきっと深い皺が寄っている。
「このドマゾ……っ、くっ」
 噛み合わない感情への苛立ちから、緩やかになっていた抜き差しを再び早め、沢村の口を太い指で塞ぐと、マゾヒズムの塊のような男は、嬉しげに身悶えた。媚肉の蠕動に、搾り取られるようにして、御幸は熱いものを放つ。
 ドクンドクン、と精液を出し切るように腰を押し付けられ、沢村は陶然としながら意識を手放した。




 枕に垂らした涎が頬を濡らす感触で目が覚めた。スマートフォンで時刻を確認すると、まだ朝の七時半である。充電もせずに眠りに落ちてしまったので、バッテリーの割合二割を切っていた。
 体を酷使して夜更かしをしたわりに、二度寝をする気も起きないくらいに目が冴えている。深酒をした翌日はいつもこうなのだ。体に残ったアルコールのせいで気怠いのに、夢の世界は酷く遠い。
「先輩」
 隣で眠っているはずの御幸の姿がないのに気がついて、慌てて体を起こす。軽い頭痛に襲われて、眉間に皺を寄せながらも寝室から躍り出た。
「おはよう」
 対面式のキッチンの内側に恋人の姿を認めて、大きく息を吐き出した。おはようございやす、と返すと普段と変わらぬ爽やかな笑顔を見せてくれる。
 出ていったかと思いました、喉元まで込み上げた言葉を飲み込んでキッチンに並び立つ。相手に指摘されてもいないのに、自分から悪さをしたことを認めるようなことを言う必要もないだろう。
「俺もさっき起きたところだから朝飯まだ出来ねえぞ」
 言いながら、千切ったサニーレタスを水を張ったサラダスピナーの中に放つ。起きたばかりだと言うわりに、御幸は髪の毛もしっかり整っていて、顎には髭の一本も見当たらない。
「顔洗ってきやす」
 昨夜の激しい情事は夢だったのかと思われるくらいに、平生通りの朝だった。しかしスウェットの内側に隠された沢村の菊門には未だ異物感が認められる。
 洗面所で顔を洗ったついでに髪の毛を濡らし、ドライヤーで乾かしながら充電の残量の少ないスマホを開いてみると、由里子からメッセージが届いていた。
『昨晩は、ありがとうございました』
 文末に絵文字も顔文字もついていないシンプルなメッセージ。昨日のことは忘れてくれとも、私は本気でしたとも書いていない。きっと今後のことは沢村に任せるつもりなのだろう。
 抱き合った後は、俺にはやっぱりこの人しかいないと思えるのに、一晩眠って眼が覚めると、由里子のか細い腰を掴んだ記憶が、沢村を悩ませる。
 昨晩の御幸に与えられた快楽は、ある意味では由里子に与えられたものだとも言い換えることが出来る。女を抱いた体を蹂躙される快感は、筆舌に尽くしがたい。許されるなら何度でも、同じ快楽を孕みたかった。しかし由里子の若い体をそんな歪んだ性癖のために利用する権利が沢村にあるとは思えない。御幸のことも傷付けることになるだろう。
 キッチンからだし汁の豊かな香りが漂ってくる。沢村は悩んだ挙句、『こちらこそありがとう。また機会があれば』と、自らの快楽を優先させた。
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