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「たまには二人で飯でも食いに行くか」
 クリスマスの少し前のことだった。部活後、遅くまで部室に残って部長としての仕事をしていた若に、跡部がそんなことを言った。
 唐突に部室に入ってきた前部長に、これまた唐突に夕食に誘われた。そんな状況で、了解ですとは素直に言えない若は、怪訝な表情を浮かべて、「どうしてですか」と、返す。
 理由はない、と跡部は言う。奢ってやるから心配するな、とも言われた。
「慣れない部長の仕事で疲れてるんじゃねぇのか」
 そこまで聞いてようやく、ああ、なるほど、この人は自分を労おうとしているのだな、と悟った若は、苦笑した。跡部と二人きりで料理の載ったテーブルを囲む自分     想像するだけで、居心地が悪い。
 行きませんよ、俺は忙しいんです。そう言うために口を開いた瞬間、跡部と視線がかち合った。全てを見透かすような鋭い瞳に射抜かれて、言葉に詰まる。
「お前、何が食いたいんだ」
「何も、食べたくありません」
 そこで終わりにしておけばよかった。もしくは、もうひと押し、だからさっさと帰ってください、とでも言えばよかったのだ。
「俺を労いたいのならキスでもしてください」
 言った瞬間、後悔した。何を馬鹿なことを言っているんだと、自分を殴り飛ばしてやりたかった。冗談だったことに出来ればよかったが、真顔であっさり漏らした本音を撤回するのは、なかなか難しいことの様に思える。
 日吉若は、生まれつきのゲイだった。そして今は、跡部景吾を好いている。小学生のときに一目惚れして、報われるはずがないと知りながらも、この不遜な男のことを三年近くも好きでい続けているのだ。
 他人に漏らしてしまえば引かれること必至の本音を、こともあろうに跡部景吾本人に漏らしてしまったのは、跡部の言う通り、慣れない部長の仕事で疲れてしまっていたからに違いない。
 喉元まで出かかった溜息を飲み込んだ若が俯いていると、つかつかとこちらに歩み寄ってきた跡部が、若の肩を掴んだ。
「なんですか」
 尋ねる声は上擦っていた。からかわれているだけだ。それが分かっているから平静を保っていたいのに、心臓の拍動は早まるばかりだ。
「お前、意外にいい顔してるな」
 乾燥した唇を、指で撫でられる。その場から逃れようにも、足が震えていて身動きがとれない。
「次に、俺様にキスを乞うときはリップクリームくらい塗っておけよ」
 次ってなんだ、こんな失態二度と晒してたまるか、と唇を震わせた瞬間、そこに柔らかいものが触れた。
 驚いた若が目を剥いたのがおかしかったのか、キスを終えた跡部は小さく笑った。
「次は、目を閉じろよ」
 また、次     そんなもの、ないと知っている若は、自分の肩に触れている跡部の手を振り払った。途端に白けた顔を浮かべた跡部を、きつく睨み付ける。
「ゲイの男は珍しいですか」
「お前、“そう”なのか」
「そうじゃなきゃ、今こんなところで嫌な思いしてませんよ」
「俺のことが好きなんだろ」
 キスしてやったのに、なにが不満なんだ、そう言わんばかりの男に呆れた。物珍しさにからかわれただけだと分かっているのに、あなたとキスが出来て嬉しいですだなんて言えるはずがない。
「好きです」
 ここまで来たら、後には引けない。はっきりと言い切って、跡部を見つめ返す。
「だけどあなたに好かれたいとは思いません。キスもしたくありません。俺は、ただ跡部さんのことを、」




“俺は、ただ跡部さんのことを、後ろから見ていられたらいいんです”
 随分気持ちの悪いことを言ってしまったものだ。
 ふた月前、跡部景吾と唇を重ねた日のことを思い返しながら、若は小さな溜息をついた。あれ以来、跡部とはただの一言も口を利いていない。
 跡部は、存外口がかたいらしく、今のところ若がゲイだという噂が流れているような様子もなく、このふた月は至って平和だった。
 そうこうしている内に、世間は卒業シーズンに入り、これからひと月も経たない内に、跡部はこの校舎からいなくなる。しかし、その事実に対して、若はなんの感慨も抱いていなかった。
 キスしてしまったから、と言うと言い方が悪いが、ふた月前のあの日以来、跡部への好意は徐々に薄れつつある。今でもテニスで下剋上を果たしてやりたいとは思うのだが、逆に言えば、それだけしかないとも言えた。
 跡部のことが好きな人間は、それこそ履いて捨てるほどいるのだから、男である自分が報われる可能性はゼロに等しい。それが分かっていたのだから、唇を重ねることが出来ただけでも満足して、心がぬかるんでしまうのは仕方がないことの様に思える。
 更に言えば、跡部景吾という、この場においては、神にも近い存在への信仰心を失いつつあるのは、若だけではなかった。数ヶ月程前まで、跡部様跡部様と騒いでいた一年生や二年生も、男の卒業が近づいた今では、もういなくなっちゃう人だしねぇと、ブラウン管の中のアイドルに向けるものにも似ていた跡部景吾への憧れを捨て始めているのだ。
 潰したいのに、潰せない。跡部景吾という壁は高すぎる     と、一時は男への下克上を諦めつつあった若は、彼女たちの冷静だとも言える判断に共感した。テニスでは、そういうわけにもいかなかったが、それが恋なら新しい相手を見つければいいとも思う。事実、跡部を忘れた少女達の大半は、既に新しい相手を見つけている。更に彼女たちは、跡部様に比べれば低いハードルだわと、好きになった相手にすぐさま想いを告げてしまうので、現在氷帝学園中等部では新米カップルが異常な勢いで増えていた。
 それがいいことなのか、悪いことなのか、若には判断もつかない。しかし、同じくテニス部員である鳳が、そんな少女たちからの告白ラッシュにあい、毎日疲れた顔をしているのは、少しばかり不憫にも思えた。鳳は、優しい男だから、興味のない相手からの好意も、冷たく切り捨てることが出来ずにいるようだ。告白される度、丁寧に言葉を選びながらそれを退ける作業は、精神を恐ろしく摩耗させるらしい。こんな生活が続いたらいつか廃人になるかも、そんな鳳の台詞は、自慢でもなんでもなく、疲れきった彼の心からの本音だろう。しかし、そんな男にかけてやる労いの言葉を見つけられない若は、結局のところ普段通りに部長としての責務を果たすだけだった。
 そんなある日、若はクラスメートの少女に呼び出されていた。中等部の中庭の片隅で、少女と向かい合う若は、彼女の頬がほんのりと赤く染まっているのを見つめている。気弱げな顔をした彼女は、ゲイである若の目から見ても文句の付けどころのないくらいに美しい顔をしている。
「好きなの、私と付き合ってください」
 シンプルな告白の言葉を、酷くか細い声で呟いた彼女に、どうして俺なんだ     と問いたかった。彼女ほどの美少女に告白をされれば普通の男は首を横に振ることは出来ないだろう。それなのに、彼女はどうしてゲイの自分を選んだのだろう。美しいくせに男を選ぶセンスのない彼女を、若は不憫に思った。
「俺の前は跡部さんだったのか」
 そう尋ねてしまった瞬間、これではあまりにもあんまりだと、若は後悔した。しかし彼女は気を悪くした様子もなく、ただ一言、「今は若くんのことが好きなの」と、呟く。
「ごめんね」
 そう付け足されて、動揺した。責めたつもりはないのだと言うと、小さな笑顔を向けられる。その笑顔があまりにも可愛らしいので、若はますます彼女に同情した。彼女は、報われない恋に振り回されることを楽しめるような女ではないだろう。そんな彼女が跡部を好きになって、彼を諦めたあとの、次の恋の相手として自分を選んだ。やはり彼女には男を選ぶセンスがないのだ。
 そういう意味で、彼女はある種若に似ていた。若は彼女に同情すると同時に彼女に共感した。実りのない恋をする仲間として、彼女を受け入れてやってもいいような気すらしていた。
「私じゃ駄目かな」
 か細いが芯の通った声だ。若は思わず口を開いた。駄目じゃない、そう言ってしまった。しかしすぐにそれを後悔した。不憫な彼女を、つまらない感傷から振り回そうとしている自分を嫌悪した。今すぐに、やっぱり駄目だ     そう言ってやるべきだと思った。
「駄目じゃないなら、一緒にいてもいい?」
 やっぱり駄目だ、とはもう言えない。若はぬかるんだ山道を歩いているような、心細い気分になりながら、彼女の大きな瞳を見つめ返した。

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