非周知の羞恥

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

手渡された資料を確認しながら、それを用意してくれた滝さんの様子も同時に窺う。
彼の特徴ともいえる長めの茶髪の毛先は今のところ微動だにしていなかった。

「日吉って真面目に部長してるよね」
「そうですか?」
「そうだよ、そうじゃないと今さら半年も前に測った部員の短距離走のタイムなんて知りたがらない」

見た目に反して案外不真面目な滝さんはそんなことを言って、毛先を揺らす。
右足の踵が床から離れるのが見えた。

「あ、これ以上近づかないで下さいね」

瞬間、ぴたりと踵の動きが止まる。
余裕ありげな表情の滝さんと、彼が動きを止めてしばらくは視線がかち合っていたが、俺の方が耐えきれなくなって彼の目元から視線を下ろす。
気が付けば滝さんの持ち上がっていた踵はテニス部の部室の冷たい床に戻っていた。

「近づこうとしていたのか、離れようとしていたのかなんて判断出来ないのに」
「出来ますよ。
……わざわざご丁寧に部室の鍵を閉めて中に入ってきた人が何を言うんですか。
すぐに出ていく人はわざわざそんなことはしません」
「そうかな」
「そうですよ」

その場で一応は納得したらしい滝さんはそのたおやかな手についた五本の指で頬に隣り合う髪を掻き上げ、耳にかけた。
そんな滝さんの仕草を不覚にも綺麗だと思ってしまった俺は自分を嘲るように笑う。
滝さんが何事かと視線をよこしてきた。

「なんでもありませんよ」
「何にもないのにそんな子供らしくない笑い方するんだ?」
「ええ、まあ。
それより、早く帰ったらどうですか」
「せっかくだから日吉と一緒に帰ろうと思ってね」

名案じゃない?
なんて笑う滝さんが憎たらしい。

「少しも」

敬意など払わずに返せば、

「ツンデレだね」

そんな言葉で包まれる。
俺がいつこの人にデレたっていうんだ……本当に、馬鹿げてる。

「今日は手を繋いで帰らない?」
「は?」
「だから、」
「いえ、聞こえてます。
通学路を同性と手繋ぎで帰れる程人生捨ててないのでお断りします」

日の沈みかけた茜色の道、手を繋いで歩く自分と滝さんの姿を想像した。
どう美化したって物語のワンシーンにはなれそうにない。
なにせ俺と滝さんは男同士だ。

「それもそうだね、じゃあ手を繋いで帰るのはやめよう」
「当たり前です」
「代わりに、」

何かを言いかけた滝さんが俺の元へ一歩近づく。

「……近づかないで下さいと言ったでしょう」
「俺は後輩の言うこと素直に聞いたりはしないよ。
……跡部に負けてすんなり部長の席譲った白髪じゃあるまいしさ」

なにがおかしいんだろうか、「ふふっ」と笑う滝さんに尋ねれば、ただの思い出し笑いだと言われた。
そして不意に真顔になった滝さんの手が伸びてくる。
じりりと後退りながら考えを巡らせた。
頭か、頬か、それとも肩か?
ゆっくりと動く滝さんの手は俺の想像の範囲を越えて右手に持っていた資料の束を抜き取る。
そしてそれを机の上に乱雑に放って、空になった俺の右手に自分の手を重ねた。

「これ、どういう意味ですか」

右手を軽く持ち上げて目を細めれば、滝さんは真顔のままで、そのくせふざけたようなことを言う。

「手を繋いで帰れないなら、ここで思う存分触れておこうと思ってね」
「……やめて下さい、不愉快です」
「他人に触れられるのは嫌い?」
「……あなたに触れられるのが特別嫌いなんですよ」
「へえ……」

そこでようやく滝さんが笑顔を浮かべた。

「あなたが傍にいると苛立って、胸がざわめいて、どうしたらいいのか分からなくなるんです」
「それって恋みたいだね」
「……他人事みたいに言うんですね」
「そんな風には思ってないよ。
熱烈な告白を受けたみたいで気分がいい」

ちょっとした冗談でも言うみたいな口調だった。
俺は黙り込んだままその場で身じろぎもしない。

「ひよし、日吉?
……ごめんね、おふざけが過ぎたかな?」

俺の手を握っていた滝さんの手から力が抜けていくのが分かった。
不安げに「ごめん、ごめん」と繰り返しす滝さんの、離れていきそうなその手を、それでも離すまいとして俺はあいていた方の手で握り返した。
戸惑うように歪んだ滝さんの表情を眺めながら思い出す。
ああ、そうだ……この人は本当は臆病なのだ――と。
そして人一倍人目を気にする。
通学路で手を繋ぐなんて夢のまた夢だ。

「あなたが先ほど言ったように、俺が本当にあなたに恋をしているとして、さっきの憎まれ口が告白だったとして、」
「……うん」
「滝さんに何が出来るんですか。
臆病なあなたに男との恋愛を育むことが出来ますか」
「……ひよし」
「なんですか」
「それって俺が日吉のことを好きだっていうのが前提で話してるよね」
「違うのなら軽蔑します」

滝さんが俺に対してとってきた言動の数々はただの後輩に対してするには行き過ぎたものばかりだ。

「軽蔑されちゃうのか……」

それは困るなあ、と。
そこでようやく笑顔を取り戻した滝さんは俺の体を引き寄せて言う。

「……軽蔑されるようなことはないと思うよ。
それに俺も男だから、好きな相手から告白を受けて、これからも今まで通りにいきましょう――なんてことは言わない。」
「本当ですか」
「うん、だから……キスしてもいい?」
「跡部部長ならそんなことわざわざ聞きませんよ」
「……跡部としたことあるの?」
「まさか、ただ……これだから滝さんは最後までレギュラーに戻れなかったんだな、と思っただけです」
「胸が痛いよ……それで、いい?」
「いい、ですけど……」

俺の唇に重なる寸前まで近づいていた滝さんのそれが動きを止める。
吐息混じりの、「けど?」という問いが耳に入ってきた。

「倫理的にはしてはいけないことです」
「……なんか、日吉ってエロっちいね」
「なんですか、そ、」

それ?
言い切る前に唇が塞がれて、後頭部は昔綺麗だと思った滝さんの手におさえつけられていて、呼吸はどうすればいいんだ? なんて悩む俺は、それでも今、この瞬間……自分がテニス部で一番幸せな部員かもしれない、なんて風にも思っていた。



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