浮き、沈み

 今よりも随分昔、俺がテニスボールと跡部さんの背中を追いかけていたあの頃、跡部さんは俺のことを好いていると言った。俺が必要なのだと言った。俺はその言葉を信じて、あの人の手を握った。誰よりも尊敬するあの人に愛された自分は、誰よりも幸せな人間なのだと思った。
 そうして現在、二十代の男が暮らすのには広すぎるマンションの一室に、俺はあの人と二人で暮らしている。仕事はしているものの俺はあの人に養われている状態で、マンションの同じ階層の人間は俺のことをゲイカップルの女役であると認識していて、ときたまやってくるあの人の家の使用人は俺のことを若様と呼ぶ。そして俺はそんな自分の現状をどうしようもなく馬鹿馬鹿しいものであると感じていた。まず第一に一人暮らしするのに十分な収入を得ている、二十も半ばを過ぎた男が恋人に養われているだなんて情けないし、隣の部屋に住むどこぞの金持ちの二号さん(三号さんかもしれない)にあなたもなのね、なんて目で見られるのにも飽き飽きしているし、あの人の家の人間に改まった態度で接せられるのは酷く居心地が悪い。そして何よりそんな不満だらけの状況にあっても少しでも長い時間をあの人の元で過ごしたいと思ってしまう自分の十代の女みたいな願望が一番馬鹿馬鹿しい。そもそも幼稚舎の六年生だったあの日、あの人がテニスをする姿を偶然に見つけてしまったがためにこんなことに……などと後悔していても仕方がないのでわりと落ち着いた心境で濡れせんべい片手に茶をすすってあの人の帰りを待っているわけだが、いつ帰ってくるのかも分からない人間をつまらないテレビを眺めながら待つのはなかなかに骨が折れる作業だ。何時間も正座しているから足がしびれてしまって立ち上がることも出来そうにない。ある種絶対絶命だ。跡部さん、早く帰って来てください。もっともあなたが帰ってきてくれたところで俺は玄関に出迎えにいくことも出来ませんが。
 暇潰しにもならない考えをめぐらせながら、空の急須を傾けたとき、鍵の回る音が聞こえた。跡部さんだ。現在時刻は午前0時、翌日に仕事を控えているはずの人間の帰宅時間としては遅すぎる、と俺は思う。あの人の基準は知らない。

「帰ったぞ」

 リビングのドアを開いた跡部さんはパジャマを身にまとって正座する俺を見つけると渋い表情を浮かべた。家の中でくらい足を崩して座れと言いたいらしい。

「待ちくたびれました」

 女々しいことを言えば苦笑を浮かべた跡部さんが俺の隣にかける。帰宅が遅れたことを素直に詫びる跡部さんは、俺の膝に手を置くと、早く足を崩すように促した。たしかにいつまでも正座を続けていては嫌味っぽく感じられてしまうだろう。

「それではお言葉に甘えて……と、言いたいところなんですが、実は足がしびれてしまって」
「情けねえな」

 呆れたように呟いた跡部さんは、しかしすぐさま口元を歪ませて俺の膝から手を離す。そうして離した手を俺の肩に添えると、そのまま俺の体を床に引き倒した。

「……なにするんですか」

 不快感から目を細める俺を見下ろす跡部さんは、左手で俺の骨盤を押さえ付けると、空いた右手を俺に見せつけるようにしてひらつかせる。そうして意図の読み切れない俺が小さく溜息をついた瞬間、跡部さんはそのひらつかせていた右手の指で俺の痺れきった足先をなぞった。

「っ……」

 もたらされた電撃のような痺れに思わず小さなうめき声を洩らすと、跡部さんは更に笑みを深めて俺の足をさする。

「変態……」

痺れこそすぐにおさまったものの、足に触れるその手つきが妙にいやらしかったので呆れ混じりに呟いた。

「うるせえ」

 俺の胸に顔を埋めた跡部さんは、拗ねたようにこぼす。その様子が三十前の男にしては可愛かったので頭を撫でてやると、跡部さんが安心したように吐息を漏らした。その呼気の中にアルコールの匂いが混じっていることに気が付いた俺は、眉間に皺を寄せる。

「どなたと呑んできたんですか」
「……忍足だ」
「それにしては元気がありませんね、何か落ち込むような話でも聞かされましたか」

 跡部さんの口から出された名前が見知ったものであることに安堵した俺は更に質問を重ねた。今日の跡部さんは少し様子がおかしい。

「忍足の今付き合ってる女……昔の女だった」
「あなたのですか、いつの恋人ですか」
「中二」
「へえ」

 もう十年以上も前の話じゃないか。何を落ち込むことがあるというのだろう。

「まさか未練があるとか?」

 最悪の可能性を考慮して尋ねれば、馬鹿馬鹿しいと一笑される。

「もう十年以上もお前以外の人間に意識が向いたことなんざねえよ。……ただ、一時的にとはいえ忍足と好みがかぶってたと思うと気持ち悪ぃ」

 酷い言い種だな。忍足さんとは親しくしているはずなのに。

「まあ、分からないでもありませんけど。俺も鳳との間で同じようなことがありましたから」
「幼稚舎のころの話しか」

 跡部さんがからかうように笑う。

「高等部のときの話ですよ。俺が高一のときに交際していた女と、鳳が高等部を卒業するころに付き合っていたんです」
「……初耳だな」

 呟きには苛立ちの色が混じっていて、しまったなあ、と思う。これは言ってはいけない話だったか。

「俺も中二のときにあなたから気持ちを受け取ったあの日から他の人間に心を向けたことはありませんよ」
「白々しいな」
「怒っているんですか」
「当たり前だろうが」

 天下の跡部様が男に二股をかけられたのだ怒るのも無理はないだろう。

「……俺は本当にあなたしか見ていませんでしたよ。ただ、不安だったんです」
「……不安?」
「ええ、あなたにお前が必要だと言われたとき、俺は本当に嬉しかったんです。だけど、それから時を経ていく内にあなたは魅力を増していき、俺は下剋上下剋上と口ばかりの自分ではあなたの傍にい続けることは出来ないだろうと思うようになったんです。だから保険をかけようとした」

 跡部さんは物言いたげな表情を浮かべていたが、結局は黙って俺が話の続きをするのを待っていた。

「結局は上手くいきませんでしたね。俺はあなたのことを自分で思っているよりずっと好いていましたから、彼女を大切にすることは出来なかったんです」
「……よかったな」
「はあ」
「お前の昔の不安なんか知ったことじゃねえが、結果的にお前は今誰よりも俺の近くにいる。これからもだ。その女と上手くいかなくてよかったな」
「……そうですね。彼女には悪いですが、俺は今すこぶる幸せです」

 不満なら数えきれない程にある。それでもこの人と共に生きることが出来るのだから俺は幸せ者だ。

「二度目はねえぞ」
「なにがですか」
「浮気だ」
「俺の心の浮き沈みはあなたに依存しています」
「めんどくせえな……」
「それでも、」

 げんなりした表情を浮かべる跡部さんの頭を再び撫でる。

「これからも俺を必要としてくれるんでしょう?」


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