痛いのが好き1

 西陽の鋭さに目を細める。さして舗装もされていない薄汚い道路を、中古のワゴンRは進んでいく。
 さっきのコンビニで飲み物を買えばよかった。乾いた喉を誤魔化すように生唾を飲み込みながら、運転席の男に視線をやる。
「次の角右折って、この先に曲がれるような道あるか」
 免許を取り立ての覚束ない手つきでハンドルを握る男の横顔は、一般人ではまず見られない程に秀麗で、やっぱり救えんなぁと思った。
「あ、そこやないスか」
 薄暗な高架の傍に立つ、古びた低層ビルを指差す。塗装の剥げ落ちたその根本からは、幅広の高級車なら一発アウトな細道が伸びていた。
「ここっぽいな」
 ウインカーも出さずにその道に入りこんでしばらく車を走らせていると、目当ての建物が見えてきた。普通車が三十台は優に停められそうな駐車場の入り口に、『天然温泉』という看板が掲げられている。
「随分ひなびた場所ですね。あの人、」
「こんなところで童貞捨てたんか。あの坊ちゃんが」
 引き継ぐように言いながら、白石は車を停めた。閑古鳥が鳴いてるのをいいことにいやに大雑把な停め方をしている。普段は誰よりもきっちりしている男が、タイヤが白線を半分踏んでいても停め直しもしない。捨て鉢な口の利き方をしていても、この人も緊張しているのだろうか。
「泊まりたいんですけど」
 使い込まれすぎて、細かな傷のついたロビーカウンターの内側には白髪染めをしたばかりと言った風な黒髪を撫でつけた六十絡みのおばちゃんが立っていた。腐りかけの温泉に、突然現れた美形に、しわの目立つ頬が紅潮している。
「十二時間で五千五百円。前金やで」
「二人で?」
 一瞬男の容姿に目を奪われたことを恥じるように無表情を取り繕って、おばちゃんが頷く。
 えらい安いんやなぁ、と財布を取り出す男に、千円札を三枚差し伸べた。
「ええよ、後輩に出させたくないわ」
「アンタに借り作るんも癪なんで」
 無愛想な声で財前が言うと、「ほな」と札を一枚だけ抜かれる。部屋番号の刻まれたバーのついた古臭い鍵をおばちゃんから受け取った男は、「ほな行こか」とエレベーターに向かって歩みを進めた。
「財前は結局男とシてへんの」
 エレベーターの扉が閉まった瞬間、そんなことを尋ねてくる。
「はぁ」
 目的地は二階なので、返事をするでもなく溜息ひとつこぼしただけでその小さな部屋は密室でなくなる。二階のライトがチラチラ光って開いた扉の先には、お互いに体を任せ合ってしなだれかかる年の行ったカップルの姿があった。
 不倫やろか、と思いながらすれ違う。どこまでいっても陰気な雰囲気の、宿とすら呼ぶに値しないこの建物には、後ろ暗いところのある人間が似合う。さっきのカップルのような、自分たちのような。少なくとも忍足謙也には、こんな場所は似合わない。

 部屋に辿りつくなり冷蔵庫を開いた白石は、水の入ったボトルを発見して財前に投げてよこした。
「喉乾いとるやろ」
 昔と変わらず気配りの効いた男の性分が憎たらしい。
 一口、二口と喉に通して投げ返すと、白石は躊躇いもなくそれに口をつけた。ただの回し飲み。それでも謙也が相手なら、成人した今でも恋を知らない中学生のように自分の心臓は拍動したはずだ。
「白石部長は、どっちがええんスか」
 挑むように、しかし熱は込めずに訊ね返した。ペットボトルの蓋のしまるキュッという音が響いたのちに、「どっちでも。まぁ経験豊富ってワケやないけど」と返ってくる。
「歳下は初めてやで。ちゃんとリード出来るか心配やわ」
 和室の入り口に小さくなって正座する財前との距離を、白石はこともなげに詰めてきた。俺相手に勃つ、と生々しいことを聞かれてもいまいち現実味がない。
「分からん。女としかヤったことないし」
「女の子とヤれるなら上でええんとちゃう」
「それとこれとは話ちゃいません」
「違うんかなぁ」
 考え込むように首をひねりながら、白石は鞄からコンビニで買ったブツを取り出した。六枚入りのコンドームと小袋入りの潤滑油、自然に濡れない男同士の行為には必需品らしい。
「財前は、謙也に抱かれたかったんやろ」
「……それは自分の方でしょ」
 落ち着き払った声に剣呑に返す。白石はしばらく黙り込んだのち、
「だって謙也カッコええやん」
 静かに眉を開いた。
「まあ、それなりに」
 中学生の頃には、この男が謙也のことを好いているだなんて少しも想像していなかった。あの頃の自分は、己の手の届く範囲のことに、謙也のことに夢中で、この恐ろしく秀麗な容姿をした男のことを気の良い部長以上の存在としては捉えていなかった。
「気のない返事やなぁ。長い付き合いなんやし、もうちょい心開いてくれてもええのに」
「こんなところまでついて来ただけでも充分やろ」
 財前は白石のことを嫌っているわけではない。むしろ一人の人間として、昔から尊敬していた。それこそせっかちでいちびりの想い人よりもずっと。
「緊張しとる?」
「こんな場面でリラックス出来るわけないやないですか」
「せやなぁ」
 どこか遠くを見つめながら、白石は財前の膝に頭をのせた。なんで俺がこの人の膝枕せなあかんねん。怪訝に思いながらも、コンドームの箱を弄ぶ白石を押し除けることは出来なかった。
「風呂どうする。一応温泉みたいやけど」
「シてからでええんとちゃいます」
 湯に浸かってしまうと、いらないことを考えてしまいそうな気がした。部屋に入った勢いのままでなければ、こんな馬鹿げたことをやり遂げられるとは思えない。
「謙也はどうしたんやろ」
 白石の呟きは、擦り切れた畳に吸い込まれていった。その畳の上に布団を敷いて、女と絡み合う謙也の姿を想像すると体の芯がスッと冷えていく。
「つまらんこと気にしてへんではよしましょ」
 謙也が恋人と寝た場所で、謙也のことを好きな男と、謙也の話をしながら夜を明かすなんてあまりにもゾッとしない。
「俺、勃たんかも」
 サラサラと流れる髪を猫のように財前の膝に擦り付けながら白石が言った。
「そしたら俺が挿れましょか」
「なんや悪いし、順番にシよ」
「二回もシたない」
「せやけどこんなところで、セックスでもせんと間も持たんやろ」
 言いながら白石は財前のスラックスのジッパーに指をかけた。
「謙也さん、」
 ジッパーを下ろす指の動きを止めて、白石が顔を上げる。
「俺たちがこんなことしとんの知ったらどう思うやろか」
 数秒の沈黙の後、今にも泣き出しそうな顔をして白石は口を開く。
「傷つくんちゃう。ええ気味やわ」
 萎え切ったペニスを口に含んだ男の口内は、いやに冷たかった。

「咥えるん上手いですね」
 熱のない声を落とすと、白石は長い睫毛を上向けて財前を見上げた。言葉通りに白石の口淫は巧みで、少しでも気を抜けば射精してしまいそうだった。その一方で、自分の腰に回された男の、案外と逞しい腕のラインを眺めていると、頭の芯はどんどん冷えていく。
 どうして自分は男とこんな場所を訪れているんだろう。時々吐息を漏らしながら自分のモノに貪りつく男には遠く及ばないが、財前はそれなりに異性にモテるし、メッセンジャーで呼び出せばお手軽に一夜を共にすることの出来る後腐れのない関係の女の子もキープしている。
「つまらんわぁ」
「はぁ」
 ようやくペニスから口を離した男の眉はつり上がっている。怒っとっても美形なんやなぁこの人は。心の中でこぼしながら、男の前髪を耳にかけてやる。
「やっぱり男やなぁと思って。どれだけ上手くても、なんや興奮出来へんわ」
 口から解放された瞬間萎え始めたペニスを扱く。
「そしたらそのまま布団被って寝たらええやん」
 冷ややかな声だった。怒っているのだろうが、後輩相手に声を荒げる気にはなれないらしい。
「ほなそうさせてもらいますわ」
 愛想なく返すなり、財前は並べて敷いた二組の布団の距離を離した。白石に背を向けて布団に横たわる。風呂は、明日の朝でもいいだろう。
 謙也の初体験の場所がラブホテルじゃなくてよかった。この男と一つのベッドで肌を寄せ合って眠る自分を想像するとぞっとしない。
「俺、別に白石部長のことが嫌いなわけやないですけど、同じ相手好きな男二人が傷舐め合って寝るって、 冷静に考えたら寒すぎますわ。俺ホモやないし、謙也さん以外の男とか、」
 肌掛け布団を顎まで引き上げた財前の額に冷たい物が触れた。なんスか、と声を上げる暇もなくそれは財前の視界を奪う。
「うわ、そういう趣味あるんや。引きますわ」
 あくまで冷静な財前の手首を白石は、後ろ手にまとめてしまう。プラスチックのような無機質な感触とカチャンという音、手錠でも嵌められたのかもしれない。
「彼女にこういうことせぇへんの」
「せんこともないですけど」
 財前の歴代の相手はマゾヒストが多い。
「好きなわけやないし……っ」
 首筋に舌を添えられる不快感に眉をひそめた。皮膚の薄い部分をなぞるように蠢く男の舌は薄い。
「いっつも涼しい顔しとるのに案外敏感なんやなぁ」
 耳元で響く男の声からは何の感情も読み取れない。それが不気味で、財前はアイマスクの中でかたく目を閉じた。
「ほな始めよか。これ以降は口きかへんから、謙也に抱かれとると思ってくれたらええわ」
 いけしゃあしゃあとそう言った男は、財前の体を仰向けに返すと、半開きになった唇にキスを落とした。
「謙也さんは死んでも男にキスなんてせんし」
 一人ごちると、もう口をきかないと言った男は、「せやろなぁ」と相槌を打ちながら財前の鎖骨を指でなぞった。

 深夜のコンビニ、スイーツの陳列棚の前で、財前ははたと立ち止まった。シュークリーム、ミルクレープ、プリン、滑るように流れていった視線が、カップ入りの冷やしぜんざいのところで留まる。買うべきか否か、悩む財前の左手にはインスタントの焼きそばが握られていた。空腹のあまり腹が鳴りそうになるのを堪えると、小一時間前まで間近で眺めていたバンドの女性ボーカルの、跳ねるような歌声が頭の中で駆け巡る。
 大学入学を機に始めたライブハウスのアルバイトは、元々作曲が趣味だったこともありそれなりに水が合ったが、ライブは深夜にかかることも多く、設営にはそれなりに体力を使うので、仕事を終えて自宅の最寄駅にたどり着く頃には毎度耐えがたい空腹に襲われた。
 こんなことならまかない付きの飲食店のアルバイトにすれば良かったと悔やむことはしょっちゅうだが、せっかく慣れてきたバイトを辞める気にもなれずに、週に何度かは一人暮らしのマンションの近所にあるコンビニで夕食を買い込んでいる。
 今時はコンビニ弁当や冷凍食品も馬鹿にできないが、今日はチープなインスタント麺の気分だった。バイトが一人休んで普段よりも体力を使ったので体が塩分を求めているのだろう。
 スイーツの棚の前で足を止めたのは、疲れた時には糖分だと身体が訴えかけてくるからだ。配送車の訪れたばかりの時間のコンビニのスイーツコーナーは非常に魅力的である。
 その中でも、今売れてます、というPOPの裏に一つだけ残ったカップ入りのぜんざいは強い引力を持っていた。あんこの表面に二つ並んだ白玉がなんとも罪作りだ。
 こんな時間に食ったら太るなぁ、大学生男子らしからぬことを考えながらも棚に向かって手を伸ばした財前の目の前で、白玉ぜんざいが宙に浮く。
「あ」
 無意識の声が漏れた。ぜんざいを手に取ったのは、いつの間にか隣に立っていた男である。反射的に相手の顔を確認しようと視線を横に向けると、「あぁ、すんません」と頭を下げられた。顔はよく見えないが、声と体型から察するに似たような年代の男である。
「いや、気にしてないんで」
 今日は縁がなかったのだと納得することにしてその場を去ろうとすると、「あれ、財前やん」と肩を叩かれた。なんやねんと立ち止まると、頭を持ち上げた男と視線がかち合う。
「白石部長」
 白石蔵ノ介、中学時代の部活の先輩。自分の前にテニス部の部長を務めていた男だ。
「おー久しぶりやなぁ」
「まあ、そうですね」
 財前の気のない返事に、「相変わらずクールやなぁ」と笑みを深めた白石は、その辺ではちょっと見られない位に整った容姿をしている。
「別に普通やと思いますけど」
 かつてこの男が、好みのタイプを問いかける質問に対して、「逆ナンせん女の子かな」と答えて部員全員の不興を買ったことを財前は思い出した。実際あいつと外出たらめっちゃ逆ナンされんねん、とボヤいていた男のことも同時に。
 まぁ、しゃあないか。こうして久々に顔を合わせても白石の容姿に陰りは見られない。
 むしろ少年らしさの抜けた分、あの頃以上に垢抜けて、それでほんまに素人なんかと毒づきたくなるような具合に仕上がっている。
「財前はあんまり変わらへんなぁ」
 イケメンは白玉ぜんざいを片手にそんなことを言った。
「変わらんわけないでしょ。成長期に五年も顔合わせんかったのに」
 自分で期待したほど身長が伸びなかったことを見抜かれた気がしてバツが悪い。
 そんな財前の気持ちも知らずに涼しい顔をした男は、「これ、俺がこうてもええ」と尋ねてくる。
「先にとったのは部長の方やしもちろんええですけど、そういうん好きやったんですね」
 昔から健康志向だった男が、深夜に甘い物を食べる姿は想像しにくかった。
「いや、まあ嫌いなわけやないけど、これはツレに頼まれてな」
 なんや女か、冷めた視線を向けた財前から、白石は取り繕うようにしてインスタント焼きそばを取り上げた。
「お詫びと言ってはなんやけどこれは奢ったるわ」
「いや、ええですけど」
「遠慮せんでええやん。たまには先輩風吹かしてみたいねん」
「今の後輩に吹かしてください」
 埒がないやりとりをしながらも、焼きそばを取り返そうとした拍子に、男の買い物カゴに無造作に放り込まれたコンドームのパッケージが視界に飛び込んできた。
 うわ、この人もこんなん使うんや。クリーンなイメージのある男と避妊具のミスマッチな取り合わせに財前は瞬きを繰り返した。
 軽い動揺から財前が視線を逸らしたのを見計らって、白石はカップ焼きそばを手にしたままレジに並ぶ。
 昔は他の先輩らの下ネタにも絶対のらんかったのに。淡々とした態度で買い物カゴをレジに出す男の背中を、財前はなんとも言えない心境のまま見つめていた。後ろ姿さえも秀麗なその男が、女の体に跨る姿はどう頑張っても想像がつかなかった。

 足を一歩踏み出すごとに吹き出す汗、鬱陶しいばかりのセミの鳴き声。暑い、暑すぎる。額を通り過ぎて視界に悪影響すら及ぼし始めた汗を、ミニタオルで拭った財前は大きな溜息をついた。春から一人暮らしを始めた財前のアパートから最寄り駅までは徒歩二十分かかる。
 高校を卒業するまでは運動部に所属していた彼は体力があったし、五月くらいまではまだ涼しかったのでその程度の距離は気にならなかったが、六月の雨と梅雨明けの急激な気温上昇には参らされた。
「いらっしゃいませ」
 火照る体に導かれるようにしてコンビニに足を踏み入れ、ペットボトル飲料の棚からマッチを手に取ってレジに向かう。頭を剃りこぼった若い店員がブルーのラベルの裏側のバーコードをスキャンするのをぼんやりと眺めていると、入口の自動ドアが開いて、外から流れ込む温風が財前の頬を撫でた。
「お、財前やん」
「こんにちは」
 声をかけてきたのは白石だった。黒いヘンリーネックのカットソーにカーキのパンツ。その辺の男なら周囲に埋没してしまいそうな服装がモデルのようにサマになっている。
「誰」
 白石にそう尋ねたのは、彼が伴っている男だった。清潔感のある髪型と服装をしていたが、どう見積もっても三十代中頃に見える。友達にはとても見えないが、白石が「昔の部活の後輩やって」と答える口調がやけに近しげな雰囲気なのが気になった。
 なんだか気味が悪い。
「じゃあ俺授業ありますんで」
「おーまたな」
 こういうときは深くは関わらないのが吉だろう。財前は適当な会釈を済ませると、店員からマッチを受け取って店を後にした。一度は閉ざされた自動ドアが開くとき、白石の隣に立っていた三十路男は何かを探るような目をして財前を見つめていた。
「きっついわぁ」
 肌を焼く日差しの下で、自分に向けられた値踏みするような視線を反復しながらマッチの蓋を捻る。ぷしゅ、と炭酸の気の抜ける音が聞こえると、それだけで体内温度が三度くらいは下がったような気分になった。
 味蕾に広がる人工的な甘味。冷たい内に飲み切らないと、悲しいくらいに味の落ちるそれが喉を通って体の内側に落ちていく。
 こんなもの、美味くもないのに。懲りもせず何度も手にとってしまうのは何故なのだろう。

 小石原焼きの皿にのせられた焼き鳥の串には、溢れんばかりの青ネギとごま油がかかっていた。塩気の効いたそれを口に含むと、しっかりとした炭火の風味と共に柔らかなレバーの甘味が口の中に広がる。
 ──明日の夜七時に鳥造で。
 暇な夏休みを持て余す財前を、一行きりのメッセージ一つで焼き鳥屋に呼び出したのは中学時代の先輩の忍足謙也だった。
 その鳥造を俺は知らんけどな、と思いつつ前日の内にインスタで確認していたその店の外観は、昨年末にオープンしたばかりというだけあって真新しいがこじんまりとしていた。
 この分だと謙也とカウンターで肩を並べることになるかもしれない。ポケットの中のスマホを握りしめる手の平に汗が滲んだ。
 食事を終えた家族連れの客が出てきた拍子に辺りに漂った炭火の匂いに引きずられるようにして、黒いのれんをくぐる。外観と違って中は案外奥行きがあった。些か天井が低く照明が少なかったが、落ち着いて酒を酌み交わせそうな雰囲気だ。
 ご予約のお客様ですか、と近づいてきた店員の肩口に、一枚板のカウンターを覗き込む。謙也の姿はない。まだ着いていないのだろうかと思ったが、時刻は六時五十七分だ。せっかちの謙也が到着していないとは思えない。
「忍足で予約しとると思います」
 財前がそう言うと、若い女の店員はにこりと微笑んだ。ああ、それではこちらに、と背中を向けて、カウンターと四人がけのテーブルの間を進んでいく。店の奥には襖で区切られた小上がりの個室があった。
「お連れさまお見えです」
 そう言った店員の足元には、謙也の物と思わしき原色のスニーカーが踵を揃えて置かれていた。その隣には、どう見ても女物にしか見えないベージュのサボサンダルが寄り添っている。
「時間ぴったりやな」
 遅れるかと思ったわ、と襖の向こうから顔を出した男は、半年前に顔を合わせた時と変わらぬ笑顔を財前に向けた。
「一応先輩なんで」
 サンダルを軽く押し除けて、謙也のスニーカーの隣に自分の靴を並べる。これくらいのことは許されるだろう。
「一応ってなんやねん」
「ふふっ、謙也完全に舐められてるじゃん」
 肩を落とす謙也の隣には、サンダルの持ち主であろう若い女が腰掛けていた。前回謙也と顔を合わせた時に、「新しい彼女、かわええやろ」と見せられた写真の女だ。
「彼女。付き合いも長なってきたからお前にも紹介したくてな」
「やだ。真面目な顔しちゃって、長いって言ってもまだ一年じゃない」
 女はそう言ったが、それは財前が知る限り謙也の交際期間としては最長記録だ。人間が悪いわけではないが、謙也には女性との関係が長続きしない決定的な欠陥がある。この女もそのことに薄々気付き始めている頃だろう。
「どうも」
「お前は相変わらず愛想ないなぁ」
 片想いの相手から誘いをかけられてのこのこ現れたら突然恋人を紹介されて機嫌良く応対出来る人間がいたら見てみたい。ましてや財前は元々愛想の良いタイプではない。謙也だってそのことは充分承知しているはずだ。
「いつも話とる中学時代の後輩。見ての通り愛想無いけど結構可愛いやつやねん」
 いつも、どういう風に自分の話をしているのだろう。中学で一年半だけ一緒に部活をしただけの後輩のことを、謙也は未だに“可愛がって”くれる。こちらの感情とは裏腹にそこに特別な意味はない。この裏表のない男にとっての自分は、有象無象の友人の一人でしかない。
「こんばんは。突然押しかけちゃってごめんね。謙也が一番可愛がってる後輩がどんな子か見てみたくて」
「別に、謙也さんとサシで飲んでもそんなに盛り上がらんし」
「なんやねんお前、相変わらず生意気な奴やなぁ」
「謙也さんも男二人きりじゃつまらんでしょ」
 そんなことないわ、という言葉が返ってくるのを期待したが、
「財前君は何飲む」
 女が身を乗り出してきたのでうやむやになった。
 それから、とりあえずのビールが運ばれてくるまでの間ずっと、財前は謙也と女が目の前でいちゃつくのを眺めていた。短い相槌を打ちながら話を聞いたところによると、女は謙也と同じ大学の医学部医学科に通う同級生で、神奈川出身。
 勤務医の娘ということで出自もはっきりしており、いずれは実家の病院を継ぐことになる謙也の相手として不足はない。今までの恋人に比べても身を入れているように見えるのにはその辺の事象も絡んでいるのだろう。

「それ、美味しいよね。謙也のお気に入りなの」
 咀嚼したレバーを嚥下した瞬間、つい二十分程前に知り合った女の流れるような標準語によって、財前は現実に引き戻された。
 個室に運ばれて来たビールで乾杯したのち、謙也はゼミのメンバーから電話がかかってきたとかなんとか言って席を中座していた。
 先ほど嚥下したレバーは、謙也が頼んでいたもので、「長くなりそうだしもらっちゃいなよ」女が言うので、好きでもないのに食らった。女も同じものを注文していた。
「美味いスね」
「美味しいって顔じゃないよね。財前君って歳の割にめちゃくちゃポーカーフェイス」
 女の標準語がやけに耳に引っかかる。大学で出来た友人の中にも関東圏の人間はいるのに、その女の言葉遣いだけが特別に耳障りだった。意味のない嫉妬心で胸を焦がす自分が憎たらしい。
 大きな感情を、生きるのには邪魔なだけの強い感情を持たずに生きていきたいのに、こと謙也のこととなるとそうもいかなくなる。
「ここの大将、謙也のお父さんの友達なんだって」
「何度か来たことあるんスか」
「んー三、四回かなぁ。この前は翔太君も一緒に来たよ」
 翔太というのは財前より一つ歳下、大学の一回生になる謙也の弟だ。
「仲ええんや」
 さりげなく探りを入れると、女は口角を上げた。お母さんにもこの前会ったよ、と尋ねてもいないことまで答える。
「はぁ、そうなんスか」
 その辺から最低限愛想良くする気力も失われてしまった。会話が途切れない程度の相槌だけ返しながら、レバーの串を串入れに放って、スマホをポケットから取り出す。
 座敷に放り出されていたメニューを拾い上げて、串のページにスマホのレンズを向けた。へぇ、と女が吐息を漏らす。
「男の子なのにそういうの撮るの珍しいね。謙也はどんなに映える料理が出てきてもすぐに食べちゃうよ」
「あの人早食いやから」
「そうそう。どんだけ時間惜しいのって思うけど……まあ医者にはああいうタイプが向いてるのかなぁ。せっかちだけど失敗したらいけないところでは丁寧だしね。あ、そういえば財前君ってインスタやってる?」
「……やっとりますけど」
 前後の話が全く繋がっていない。謙也の歴代の恋人にはこういうタイプが多い気がする。
「フォローするからID教えて」
「あんまり投稿しとらんので」
「でもそこから連絡出来るでしょ」
 女はいけしゃあしゃあと言って笑みを深めた。財前は渋々スマホの画面を見せる。
「あ、いたいた。普通に投稿してるじゃん」
 御通しのキャベツの他につつくものもないので、女はしばしスマホの画面を覗き込んでいた。時たま、女のものと思わしきIDからいいねされたという通知がスマホに届く。
「財前君、今彼女は」
 この店知ってる美味しいよね、子猫だ可愛いなどという独り言に紛れさせるようにして女は呟いた。
「特定の相手はおりませんけど」
「不特定の相手ならいるんだ」
 わるーい、と囁く声が甘い。この声に謙也は陥落したのだと思うと、ビアグラスを握る指先が冷えていった。
「悪いなぁ、遅なって」
 間の悪いタイミングで戻ってきた謙也に視線が集まる。場に流れる微妙な雰囲気にも気づかずに女の隣にかけ直した男は、青ネギの残骸の残った小石原焼きを認めて、「おお、食ったんや」と破顔した。
「冷めそうやったんで頂きました。一応もう一本頼んでやすけど」
「おおきに。せやけどお前キモなんか食うんやな。昔苦手な食い物聞いたら、さんまのわたって言うてたやろ」
「それはまた別の話っスわ」
 素気無く返しながらも、中学時代に一度言ったきりのことを心に留めていてくれたのだと思うと悪い気はしない。
「私もレバー好きだけどさんまのわたは苦手。苦いもん」
 女がそう言った瞬間、謙也との貴重な思い出が塗りつぶされていくような感覚を覚えた。
「あの苦味がええんやろ」
「えー謙也ってオヤジみたい」
「誰がオヤジや」
 弾むような言葉の応酬。自分には向けたことのない種類の笑顔を女に向ける謙也を眺めていると、心の奥の一番深い部分に澱が溜まっていった。

「ぁっ、そこ……ダメ、」
 しなびたホテルの一室に、謙也の恋人の嬌声が響いていた。
 うっさいなぁ。眉間に皺を寄せながら、腰を進める。
「ダメなようには見えへんけど」
「やぁっ」
 嫌味のつもりはなった言葉を、言葉責めとしてとったのか、嬉しそうに腰をくねらせた女は、
「はぁ、光くんってちょっとエス入ってる?」
 媚びるような声でそんなことを尋ねてきた。つい数時間前に出会ったばかりの恋人の後輩とベッドインして、さっそく下の名前で呼んでくる女の、面の皮の厚さに辟易する。もっとも、そんな女をホテルに誘い出したのは自分も大概ろくでもないが。
「あっ……む、っ」
 甘い嬌声が耳障りで口を塞ぐ。抵抗されるかと思ったが、女にはマゾヒストの気があるらしい。むしろ悦に入ったように体の内側をうねらせていた。
 明日朝から予定があるらしいねん。一足先にタクシーに押し込んだ女を見つめる謙也の目があまりにも優しかったので悪い癖が出た。
 彼女が去ったあとも惚気話を続ける男の隣で、何食わぬ顔をしてその恋人から届いた、「また会おうね」というメッセージに返信する。今晩すぐでも、画面もまともに見ずに財前が打ち込んだ言葉に、彼女はすぐさま反応した。
 へべれけに酔った謙也をタクシーに乗せて、自分は場末のホテル街に向かう。今晩は謙也の奢りだったので懐は暖かったが、男の恋人と上等なホテルで寝る気にはなれなかった。
「くっ、んん」
 口を塞いだ女の内側が激しく痙攣する刺激で現実に引き戻される。手のひらについた女の唾液をシーツで拭き取ってから、何度か抜き差しを繰り返して、財前もあさましい肉の内側で精を解き放った。

「はー気持ちよかったぁ」
 コンドームの入り口を結ぶのに苦心する財前の背中に、女がへばりつく。帰宅後シャワーを浴びていたのか、ボディーソープの女性的な香りが柔らかくあたりに漂った。
「こんなことしてええんスか」
 ようやく縛り終えたコンドームをゴミ箱に放り、手を洗いに行くのを口実に女をひっぺがす。緩慢な動きでベッドに腹を預けた女は、「いいのよ」と笑みを深めた。
「だって欲求不満なんだもーん」
 跳ねるように言って舌を出す。
 やっぱりまだか。鳥造に辿り着いてからずっと荒れていた心が、僅かに平穏を取り戻す。
「欲求不満?」
 何気ない風を装って尋ねると、
「だって謙也抱いてくれないし。付き合いだしてから一度もだよ。信じられる?」
 女は唇を尖らせた。はっきりとした言質がとれたら、あとはもう適当な相槌を打つだけだ。

 忍足謙也は、地元では知れた病院の跡継ぎであることを差し引いても、女性との付き合いに対して慎重過ぎるきらいがあった。潔癖と呼んでもいい。
『俺がちっさい頃なぁ。うちのオトンと昔付き合っとったいう女の人が病院に押しかけてきたことがあんねん』
 そういう話を彼から聞いたのは、謙也が高校時代に付き合っていた女と別れた直後のことだった。
 彼の父親と、女との関係は謙也の母と婚約するよりも一年以上も前に切れていたらしいが、院内で働く女達の口に戸を立てることは叶わず、ちょっとした騒動に発展した。現役の看護師であった彼の母は気が強く、それ以降父親と一年も口を効かなかったという。
『男っちゅうんは、ああいうとき弱いもんやなぁ。子供の頃から坊ちゃん坊ちゃんって猫可愛がりで育てられとった親父が、あの頃は家で一人きりいつも背中を丸めとったわ。せやから俺はよっぽど信用出来る女の子としかそういうことはせんって決めてんねん』
 好きで付き合っていた女に半年もの間指一本触れずにいた挙句にフラれた高校生の謙也がそんな風に語るのを、財前は表面上他人事のように聞いていた。しかし内心ではそんな女が現れないことを祈っていたし、もしもそんな女が現れたとしても自分には黙っていてほしいと考えていた。
 それでも、時の流れは無情で、年齢を重ねるにつれ謙也は異性の関心を引くようになっていった。医学部志望の開業医の息子、スポーツに長けて性格も小ざっぱりとした男を、年頃の女が見過ごすはずはないのだ。
 数ヶ月に一度顔を合わせるたびに、謙也は新しい恋人の写真を財前に見せた。前の子は、と尋ねると、『フラれた』と肩を落とす。
『セックスせんから毎回フラれるんちゃいます。女子にも性欲あるんやから』
 財前の心にもない助言にも、『いやいやまだ出来んわ』と首を横に振る男の気持ちが財前にはよく分からなかった。この男には、性欲というものがないのだろうかと疑問に思ったこともある。
『あるに決まっとるやん。フツーに溜まったら抜くし。お気に入りの女優さんやっておんねん』
『……うわ、引くわ』
『お前が聞いたんやろ』
 しゃーない俺がシゴいたりますわとか、しゃぶったってもええですけどとか。
 いつもの軽口のノリで吐き出すことは、もちろん出来なかった。一番目をかけられている後輩のポジションを捨てて、謙也の性欲を発散するための道具になるのも悪くないが、男がそんなことを望まないことは、誰よりも自分が一番知っている。性欲処理のためだけに同性の後輩を“使える”ような男だったらきっと好きにもなっていない。

「先輩の彼女とシちゃって良かったの?」
 ベッドに戻った財前の胸に女は頬を寄せる。
「 別にええんちゃいます。黙っとったらバレへんし」
 謙也に、アンタのことが好きやと打ち明けるつもりはない。謙也以外の男を好きになったことはないし、好きでもない女を抱くことも出来る。
 報われない恋愛に嫌気がさすたびに、俺は普通に生きていけるんや、と自分を励ます。
「結構酷いこと言うのね。謙也のこと好きなんじゃないの」
「好きとか嫌いとか関係ないやろ」
 馬鹿馬鹿しくて笑いがこみ上げてきた。
 好きな男が体を重ねるかもしれない相手だから寝るのだ。そうすることによって死んでも手に入らない男を構成するものを、少しでも自分の内側に取り込もうとしている。
「まあ、それくらいドライな方がこっちも楽かな」
 女は歌うように言ってスマホを叩いた。
『オカンの気の強さ知っとるから、俺はナースは絶対選ばへんわ』
 ナースは駄目で、女医見習いはええんかい。
 案外あっさりした女は、本当に欲求不満だっただけなのか、「そろそろ帰ろうかなぁ」と脱ぎ散らかした衣類を拾い集めている。
「……もしもこのことが謙也さんに知れたらどうします」
「黙ってたらバレないって光くんが言ったのに」
 柔らかな胸をブラジャーに納めながら女は笑った。
「うーん、どうかなぁ、バレたら普通に別れるよ。どの道このままずっとシないのもキツいし。学部一緒だから多少は気まずいけど」
 自分で身を立てるだけの能力を持ち、そのレールに乗った女にとっては、現在付き合っている相手がちょっとした有名病院の跡取りであることも大した問題ではないのだろう。
 跡取りであるが故に拗れた童貞生活を送っていた謙也が、こういう女に魅力を感じるのは自然の成り行きなのかもしれない。
「明日早いの本当だから私は帰るけど光君は」
「俺も出ます」
 今ならまだ終電にも間に合うだろう。
 手早く衣服を身につけて、女と二人、ホテルの部屋を出る。
 行為の最中とは打って変わって、薄汚いエレベーターが一階に辿り着くのを待つ女は、澄ました表情を浮かべていた。かと言って、愛想を失ったわけでもなく、艶のある茶髪を耳にかけながら、「また会いたくなったらダイメ送って」と囁きかけてくる。
 甘ったるくも気怠けな声色からは、こちらに対する好意は微塵も伝わってこない。なんのかんので謙也のことが好きなのだろう。
「次は先輩が謙也さんと寝たときで」
 ホテルの前で別れる前に、思いつきで提案すると、
「いい趣味してるねぇ。私もそういうの嫌いじゃない」
 またね──タクシーを拾うために目抜き通りに歩いていく女の後ろ姿を見送って、財前はバス停に向かって歩き始めた。
「財前」
 それから一分と歩かないうちに、聞き覚えのある声に呼び止められる。場所が場所だけに訝しみながら振り返ると、五メートル程後ろに白石が立っていた。
「こんなところでなにやっとんスか」
 反射的に、あたりを見渡した。以前コンビニで出くわした白石のツレが周りにいないか確認するためだ。白石は、そんな財前の心を読んだかのように、「今はもう一人やで」と隣に並んできた。
「はぁ、そうスか」
「今日は自分と一緒で事後解散やから」
「趣味悪……黙って見とったんスか」
「その場で声掛けるのもアレやろ」
「そう思うんなら、そのまま知らんぷりしとったらええのに」
「どうせ同じバスやしなぁ」
 事後にシャワーでも浴びていたのか、外灯に照らされた男の色素の薄い髪はほんのりと水気を帯びていた。
 この男が、一夜を共にした相手は男なのだろうか。もしもそうだとしたら四天宝寺中テニス部はあまりにも……先程まで女性とまぐわっていたとはいえ、自分は違うとも言い切れないので、複雑な心境になった。
 なんとなしに無言になる財前の肩を白石が叩く。距離近いなぁ、と体を遠ざける隙も与えられず、これこれ、と差し出されたスマホの画面をのぞき込んだ瞬間、心臓が固まった。
「さっき財前が一緒におったんこの子やろ」
 それは紛れもなく謙也の恋人の写真だった。カフェのテラス席で向かいから撮られたようなショットだ。
「……似てますね」
「誤魔化さんでええから。この写真謙也にもろてん。新しい彼女イケてるやろって」
「まぁ、それなりに美人なんちゃいます」
「はぐらかすなぁ」
 男がどういう答えを望んでいるのかが分からなかった。
「部長のおっしゃる通り、俺がさっきまで一緒にホテルにおった相手は謙也さんの彼女です」
「自分なかなかやるなぁ」
 本気で感心したような相槌を返されて、頭に血が上った。バス停はもうすぐそこに見えているが、この男と同じ便に乗る気にはなれない。
「……俺タクシー拾うんでこのへんで」
「タクシーなら尚更一緒でええやん。家近いし、割り勘にしたら得やで」
「二人きりになりたないんで」
「キツいなぁ。俺、そこそこ尊敬されとるつもりでおったんやけど」
 尊敬はしていた。彼の現役時代は勿論、自分が部長職を引き継いでからはより一層。この男には確かにテニスの実力があったし、一年の時から部長を任されていただけあって人間性が頭抜けていた。
 そういう男だから、今のこの状況が余計に薄気味悪い。白石は、先ほど知り得た財前の弱味を材料に強請りを行うような人間ではないはずだ。
「白石部長が、何を考えとるんか分からんから気味が悪いんです」
「後輩が困るようなことをする趣味はないで」
 そんなことを話している内に、バスが到着した。流れで乗り込むと、白石もそれに続く。幸か不幸か二人がけの席が空いていて、隣同士に腰掛けた。
「隣座ってかまんかった」
「他に空いとらんし、お互い疲れとるでしょ」
「せやなぁ」
 小さく相槌を打ったきり、隣の男は黙り込んだ。窓から移り変わるネオンを眺めながら、ぼんやりとしている。疲れているのは確からしい。
「……白石部長って、ホモなんスか」
 停留所二つ分の沈黙を先に打ち破ったのは、財前だった。白石はゆっくり瞬きをして、こちらを見据える。
「相変わらず遠慮のない奴や」
「まどろっこしいの嫌いやし。近所やからたまに白石部長が男とイチャつきながら歩いとん見かけますわ」
「殊更隠してもないからなぁ。まぁ流石に、中学の仲間の集まりなんかでは言う気にもならんけど」
「とやかく言う人もおらんと思いますけど」
 テニス部のメンバーの顔を思い浮かべながら呟いた財前に、「そらそうやけど」と頷いた白石は、たっぷり間をとってから、
「謙也には知られたないねん」
「意味深やなぁ」
 内心の動揺を気取られぬように極力平坦な声で返したが、相手の方が上手だったらしい。
「ポーカーフェイス崩れとるで」
「……好きなんスか」
 謙也さんのこと、とは付け加えるまでもないだろう。
「昔はめちゃくちゃハマっとったけど、今は男もおるしそれなりやな。自分には負けるわ」
「いつから気づいとったんスか」
 今夜はどこまでもこの男のペースでことが進んでいく。今更誤魔化しても無駄だと察した財前は、居直るように姿勢を正した。
「中学の時やなぁ。自分、謙也を見る目だけちょっと違ったやろ」
「俺は白石部長が“そう”やったとは全く気づきませんでしたわ」
「それはお前が俺に興味ないからやろ。こっちは部長やったし、部員のことはなんとなしに見てたわ。まあ、流石に未だにそれを持て余しとるとは思ってへんかったけどな」
「白石部長が思っとる程のもんやないっスわ」
 往生際の悪い後輩を追い詰めるように、白石はこちらに視線を向けた。
「好きな相手の恋人と寝るんてええもんなん。俺、女の子はからきしやねん」
「アンタ案外ヤな奴やなぁ」
 昔とキャラ変わりすぎやろ、と溢した財前に、
「もうええ大人やし」
 応えた男は、案外ロクな恋愛をしてこなかったのかもしれない。
「……白石部長は、今日のこと謙也さんに言わへんでしょ」
「案外都合ええな、自分」
 白石は、自分の好きな人間が傷つくことを良しとしないだろう。今日の相手が謙也と結婚を控えている婚約者などだったりすればどう出たか分からないが、まだセックスも済ませていないような恋人の不貞行為を告げ口することはないはずだ。

 バスを降りると、小雨が降っていた。当然のように傘はない。家までは歩いて十五分、傘の買えるコンビニまでは十分。
「わりと降っとるなぁ」
「すぐやむでしょ」
 お先に、と去ろうとする財前の服の裾を白石が掴んだ。まあ待ちや、と鞄から折り畳み傘を取り出して停留所の屋根の下で開いて見せる。
「家までわりとあるやろ。入りや」
「……相合傘は流石にないわ」
「そう言わんと、先輩の好意には甘えておくもんやで。ずぶ濡れになったら気持ち悪いやろ」
 腕を引かれて、渋々歩き始める。同じバス停で降りた人間は他にはいないので、人目を気にする必要はない。
 ホテルのものだろうか、隣を歩く男の頭からは安っぽいシャンプーの匂いがしていた。似合わんなぁ、と思いながら、アスファルトを踏みしめる。
 この一帯は外灯が少ない。人と連れ立って歩いているので下ばかり見つめているわけにもいかず、時たま薄い水たまりに足を取られてしまう。靴底から雨水の染み出す感触と、隣を歩く男の整った面立ちが、財前の心をざわめかせた。
 ホテル街を歩いていたときは気がつかなかったが、男は案外歩くのが早い。靴が濡れているのを気にして、少し歩みを緩めただけで、後頭部が傘の端から露出してしとどに濡れる。その感触がなんとも言えず不愉快で、これで傘なしで帰るんはキツかったかもしれんなぁと思う。
「白石部長の家、どのへんですか」
「コンビニよりちょっと手前やな。自分の家は」
「うちはあそこよりもう少し奥ですね」
 バス停や駅からやや距離があることもあって、家賃はそう高くない。
「家まで送るわ。なんやさっきまでより強くなっとるし」
 先ほどまでは幼稚園のお遊戯会のような和やかなリズムで傘の上を踊っていた雨は、気がつけば手負いのドラマーのように激しくアスファルトを殴り付けている。
 傘だけ借りてしまえば済む話なのだが、返しにいくことを思うと煩わしかった。
「もうほんまにこのへんでええんで」
 うちあそこ、と指差した男を振り切るようにして歩みを早めた瞬間、一際深い水溜りの真ん中に沈んでいたタバコの空箱に足を取られた。
「あ」
 体勢を整えることも叶わず財前はその場で尻餅をついた。尾てい骨に鈍い痛みが走る。
「派手にいったなぁ」
 傘を傾けたまま伸びてきた男の手を無視して自力で立ち上がる。上から下から雨水に晒された服は、絞ればコップ何杯分にもなりそうなくらいに濡れていた。
 昔はかなりの人格者だった男が、そんな後輩の姿を見て、そのまま帰すことをよしとするはずもなかった。
 
 脱衣所から取ってきたバスタオルを財前に手渡した白石は、玄関と隣接したキッチンでヤカンを火にかける。
「コーヒーでええ」
「長居する気はありませんから」
「夏とはいえそんな格好のまま歩いとったら風邪ひくで」
 おせっかいな男がそう言うので濡れそぼった靴下を玄関に残して、部屋の奥に足を進める。入り口からはよく見えなかったが、部屋の中は案外広い。十畳くらいはありそうに見える。男の一人暮らしなのに片付いていて、髪の毛一本落ちていない。
 ヘリンボーンの床に若草色のカーテンがよく映えていて、几帳面にメイキングされたベッドのサイズがセミダブルである生々しさに目をつぶれば、暖かみの感じられる空間と言えるだろう。
「そこらへんテキトーに座ってええから」
「いや、部屋汚したら悪いんで」
「確かにすごいな」
 キッチンから顔を出した白石が財前の体をしげしげと見つめる。転んだ時に濡れたのは下半身だが、胸から上も直接雨に打たれてしとどに濡れている。
「せっかくやからシャワー浴びて帰ったらええやん」
「いやいや、それは流石に」
「うち、リノベーション物件やから風呂はわりと綺麗やで」
「そういうことやなくて」
「何度か出してきたから取って食ったりせんし」
「キモいっスわ」
 なんなら眠いわ、と瞬きを繰り返す男の肩も雨に濡れている。男二人が折りたたみ傘一本で雨をしのごうというのが土台無理な話だったのだ。
「白石部長は」
「ホテルで入ったし夜は着替えるだけでええわ」
「ああいう場所で風呂入るんてなんや嫌やわ」
「ガス代浮くやん。一人暮らしやろ」
 やりとりしている内に芯から冷えてきて、自然と丸まるような姿勢になる。
「お湯溜めよか」
「シャワーだけ貸してください」
 諦めたように返すと、男は立ち上がった。

 風呂上りに差し出されたジャージのズボンの丈は少々長かった。顔が良くて、背が高い上に足まで長い。嫌味なくらいに“持っている”男は、ヨガマットの上にローラーを置いて、背中をゆるゆると伸ばしていた。
「それ効きます?」
「寝る前にやったら気持ちええで、肩凝っとん」
「バイト行ったあとはわりと」
 なんのバイト。ライブハウスですけど。わりとキツそうやなぁ。まあ、それなりに。
 真っ当な近況報告のようなやりとりを重ねていると、ホテル街から続いた気まずい雰囲気も払拭されていくようだだ。
「ビールあるけど」
「さっきまで飲んどったんで」
「さよか」
 ヨガマットを巻きなおした男が、小さな欠伸を漏らす。うつむき加減になると、睫毛の長さに目がいった。
 この人が相手なら謙也さんも寝たくなるかもしれん。
 つまらないことを考えていると男が顔を上げた。目が合う。眠たげに細められた瞳がぎこちなく瞬いた。男の睡魔が乗り移ったかのように財前の瞼も重たくなってくる。
「眠そうやな」
 それはアンタやろ、の一言が出ない。
「今出てもまた濡れるだけやし、朝までそのへん転がっていったらええ」
「そうさせてもらいますわ」
 他人の家に泊まったことなんて一度もないのに、自然に頷いた自分に驚いた。外は土砂降りとはいえ、一人暮らしの部屋まではそう遠くもない。その僅かな距離を移動するのも今は億劫だった。
 謙也と恋人が親しげに会話を交わす姿を実際に目の当たりにして、案外深く気力を削がれたのだ。
「……謙也さん、あの女と別れへんかな」
 独り言にとどめておきたかった言葉に、殆どベッドと同化しかけた男が痛い相槌を返した。
「別れたところで男は選ばんやろなぁ」

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