その先に君がいた

 11月2日、仕事終わりの倦怠感から平素以上に生気のない目をした伊武深司は、安っぽいニューハーフバーのソファの上で、色とりどりのオカマからの酌を受けていた。伊武の右隣に腰かけたオカマは、腰まで伸びた金髪を揺らめかせながら彼の腕にまとわりついている。
「あのお兄さんにこんな可愛い友達がいたなんてね」
 かつて妹たちがままごと遊びに使っていた、着せ替え人形のそれのようにぱさついたオンナの、水気のない髪の毛が伊武の頬を掠めた。隣に腰掛けているオンナはアメリカ生まれの人形のようにくどい顔をしていて、体格がいい。少し離れた席では、三十代半ばほどの伊達男が口元をゆるませながらごつい女の体を弄繰り回している。そのお兄さんと呼ぶには少々董がたった男は、伊武の上司だった。仕事終わりで疲れきった伊武をこのわけの分からない場所に引きずりこんできた張本人である。自分にはその手の趣味はないと抵抗した伊武に、「僕だってノーマルだよ」と語り、何事も人生経験だなどと言ってこんな場所まで引っ張り込んできたその男は、店に入ってきてからのにやけづらを眺め見るに、完全にあっち側の人間である。どうやら上司はこの店の常連らしい。お目当ての娘がいて、ここに通っているのだと伊武についたオカマが教えてくれた。
「……そいつが来たら帰ってもいいのかな」
「アンタ、社会人のくせに上司をたてようって気概が全くないのね」
「サービス残業は嫌いなんだよな」
「あほらし、そんなの好きなやついないわよ。ま、昼にがっつりお勤めして、夜はこの店で夜の蝶やってるようなのもいるけどね。あんたの上司のお目当ての子もそうよ、昼は会社勤めしてるみたい」
「……興味ないな」
 ホモの事情なんてどうでもいいよな、こんな場所一秒だっていたくないーー頭の中でそうぼやいて、あくびをする。社会人になってからは、人前でぼやくことはめっきり減った。こうして上司に付き合って嫌々飲み会などに出かけることも珍しくはない。それでも伊武の本質は中学生のころのまま変わってはいなかった。気に入らないことがあれば、不満の言葉は湯水のように湧き出てくる。ただ少しだけ大人になって、それをせき止める技術を会得しただけだ。
 今夜は上司のおごりということもあり、オンナにすすめられるがままに酒を喉に通した。相変わらず上司は、ごついオンナといちゃついていたので、伊武は一人きりでオカマの話を聞いている。常に上司に気を使い、自分から酌などをしなければいけない普段の飲み会に比べれば気楽でいい。
 そうこうしている内に夜は更け、伊武が時計の時刻を気にし始めた頃、上司のお気に入りは現れた。既に終電の時間が迫りつつある。かなりの重役出勤だ。
 そのオンナは気が付けば上司の隣に腰掛けていて、先ほどまでとは比べものにならないほどに表情筋を緩ませた男と談笑を始めていた。伊武の座っている位置からでは後ろ姿しか見えないが、彼の隣にかけているオンナに比べれば細身である。
「売れっ子なのよ、あの子」
 そんな話を聞いても、伊武は上司のお気に入りに対してなんの関心も抱けなかった。顔を見たいとも思えない。伊武は女好きではなかったが、男にはなおさら興味がない。他人に興味を抱くことは稀である。
「あっちに俺の後輩がいるから、顔見せてきてやってよ」
 酒に酔った男の大声が聞こえたと思うと、男の隣にいたオンナが立ち上がった。そうしてオンナがこちらを振り向いた瞬間、「だから嫌だったんだ」と、伊武は小声で呟いた。こちらに視線を合わせたまま、動きを止めたオンナはたしかに他のオンナ達に比べると女に化けるのが上手かった。綺麗だと言えなくもない容姿をしている。しかしヘテロの伊武にオンナの容姿の美醜は関係無い。彼の中で重要な意味を持ったのは、オンナが化粧という化けの皮を剥いだ後に残った中身だった。いくら化粧で誤魔化したとしても、本体を知っている者からすればオンナの、彼の正体は明らかである。
 それから少しも間をおかずに、伊武は気分の悪くなったふりをして店を出た。終電をわずかに逃してしまっていたため、仕方がなくタクシーをひろう。
「どこまで」
 愛想のない運転手に、ミラー越しに尋ねられた伊武は自宅の最寄り駅の名前を言おうとして、口をつぐんだ。新宿から自宅までは微妙に遠い。上司の金で呑んだ以上の額が飛んで行くのは間違いない。金に困っているわけでもなかったが、嫌々飲みに行った先で無駄な金を使えばいい気はしない。溜息をついた伊武は、頭の中に浮かんだ内科の名前を告げた。それはしばらく会っていなかった友人の自宅の近所に建っている。

 タクシーを降りたのが深夜一時半、友人は留守だった。彼が家をあけていることは知っていたから、落胆することもなくアパートの部屋の前に座り込む。やることもないので携帯を開くと、一時間ほど前に妹からメッセージが届いていた。
『誕生日おめでとう! もう寝ちゃってるかな?』
 それを見て初めて伊武は自分がオカマバーで誕生日を迎えたことに気がついた。もっとも三十路前の男なので一つ年をとったところで何ということもないが。
 妹に対して礼の言葉を返した伊武は、最後にこのアパートを訪れたときのことを思い出していた。思い出していたといっても大それたことをしたわけでもない。二人で袋麺を食べながらテニスの中継を見て、終電もなかったから家に泊めてもらった。もう五年以上は前の話だ。ここが角部屋でなかったらきっとどの部屋が彼の部屋であるかも思い出せなかっただろう。
 大学を卒業後一人暮らしを始めてからというもの、結構な頻度で伊武を家に呼びつけていた友人はあるときを境に彼を家に誘わなくなった。居酒屋で酒を飲んでいる時に、恋人が出来たのだと報告した口で、だからもう家には呼べねえんだと言われたことを伊武はよく覚えている。恋人がいつ家を訪れるか分からないのだと語る友人が、幸せそうには見えなかったのが印象的だった。
 それから五年、あの日聞いた話はとっくに時効だろうと判断して伊武は彼の家の前にいる。友人宅は新宿に近い。
 時計の短針が2という数字をほんのわずかに通り過ぎたころ、彼の友人は姿を見せた。予想よりも早い帰還だ。自宅のドアの前に腰掛ける伊武に気づいた友人、神尾アキラは酷く動揺した様子で後ろへ一歩後退した。伊武はその場から立ち上がり、彼の元へ二、三歩踏み出す。
「おま、どうしてここに……」
「普通にスーツなんだ」
 質問には答えずに呟くと、残業上がりといった風貌の友人の顔が青ざめた。
「そんな顔することないだろ。俺をなんだと思ってるわけ」
「お前が変なこと言うから」
「女装したまま戻ってくると思ってたから」
 目の前で大きく肩を震わせたこの男は、先ほどまで伊武のいたオカマバーにいた上司のお気に入りのオンナである。少し厚めに化粧をしたくらいでは、旧友の目は誤魔化せない。
「お前……脅しにでもきたのか」
「だから、俺をなんだと思ってるわけ。わざわざそんなことしにくるほど暇じゃないつもりでいるんだけど」
「じゃあ何しに……」
「神尾の客のせいで終電逃したから泊めてもらおうと思って」
「勝手なこと、」
「とりあえず鍵あけてよ、寒くなってきた」
 長時間外に出る予定もなかったからマフラーも巻いていない。唇を噛んで、小さく身震いする伊武を目の前にした神尾は、大きな溜息を吐いて部屋の鍵を取り出した。

 神尾がその手の店で働いていることをつきとめたからといって、部屋に上がり込んだ伊武が彼に必要以上にその話題を振ることはなかった。ただ神尾の上客であるらしい自分の上司については、昔のような口調でぼやいてみせたので、変わらないな、お前ーーと言って友人はようやく笑顔を見せた。そんな彼の、靴下を脱いだ素足の爪がパッションカラーに彩られていて、神尾は少し変わったなと、伊武は心の中で呟く。
 神尾が、シャワーを浴びると言い残して部屋を出ていくと、彼に借りたスウェットに身を包んだ伊武はベッドに横になった。洗濯をしたばかりなのだろうか、ベッドシーツからは洗いだちような爽やかな香りがする。神尾はこのベッドで男と寝ているのだろうか、そんなことを考えると少し気持ちが悪かった。伊武は片手で数えられる程にしか女と付き合ったことがないが、自分が男と肌を重ねることは今後決してないだろうと思った。神尾は自分とは違う種類の生き物なのだ。神尾がしているようなことは自分には出来ない。そんなことを考えていると、彼が酷く遠くに行ってしまったかのように思えて、胃のあたりがきりりと痛んだ。伊武が特定の人物に感情を揺らされることは稀だ。しかし神尾アキラという人間とは学生時代殊更親しくしていたので、彼の一般的とは言えなくなってしまった生き方を知ってしまった現在は微妙な感情が芽生えている。とはいえ凡庸だったはずの彼の変貌に伊武が関わっているわけでもなし、どうしてやることも出来ないのだが。
 神尾アキラが新宿二丁目のよからぬ店に出入りしているという噂が流れ始めたのは、伊武の記憶が正しければ大学の二回生の頃だった。まだ少年と呼ばれる年齢だったころ、同じ中学の同じ部活で共に汗を流していた二人は高校こそ別々のところへ進学したものの、腐れ縁と言うべきかなんというべきか、大学生のときには再び同じ学び舎に通うことになった。当然のようにテニスサークルへ入り、中学の時と同様にとまでは言えないにしてもそれなりに力を入れて活動していた二人には共通の友人も多かった。伊武が二十歳の誕生日を迎えたころ、そんな友人の中の一人が新宿のゲイバーに神尾が入っていくところを見たと言い出したのだ。神尾がそんな場所に行くとは思えない、彼が中学時代から最近まで同級生の女に恋慕の情を抱き続けていたことを知っていた伊武は友人の言葉を一蹴した。友人の方もそれもそうだと納得し、その話はその場で終息したが、それからも新宿二丁目界隈での神尾アキラの目撃情報は相次いだ。ただそこにいただけなら、なんとでも言い訳のしようもあっただろうが、神尾を目撃した者の内の数人は、彼が下手な女装をしていたという。その頃には皆の中で神尾アキラゲイ疑惑は、殆ど確信に変わっていた。とはいえ幸いにも彼らは心根が優しかったので、その目撃談が神尾本人に伝わることはないまま今日に至る。神尾は自らの働く夜の店に伊武が訪れたことを気まずくおもっているのだろうが、そんなこと今更気にしたって仕方がないのだ。伊武は上司からの誘いを受けたとき、咄嗟に神尾の顔を思い浮かべた。
 神尾は何故ああなってしまったのだろうか、そんなことを考えていると、濡れ髪をタオルで拭き取りながら彼が部屋に戻ってきた。もう寝るか、そう問いかけてくる神尾をまじまじと見つめる。姿形は昔とそう変わらない。
「寝る」
 そう返したとき、先ほどまで鮮やかな色に染まっていた神尾の足の爪が普通の状態に戻っていることに気がついた。爪の色落としたんだ、ぼそりと呟くと、彼は表情をゆがませる。
「気まずいからこっそり落としてきたのに、空気読めねぇな、深司は」
「今更女装の痕跡隠したって意味ないんじゃない」
「それでも、ゲイだってことは隠してるしな」
 そう言う神尾はバツの悪そうな表情を浮かべている。大学時代サークル内で自分がゲイであるという噂が流れていたことを知ったら、彼は酷いショックを受けるに違いない。
「やけに陽気な色だったからいいことでもあったのかと思った」
「……逆だよ」
 これまた微妙な表情を浮かべた神尾は、しばらくの沈黙の後そう言った。いいことなんて何もないからせめて明るい色を身につけて気分を上げようとしていたらしい。ある意味単純な男である。
「恋人に振られたの」
「前に言ってたのとはかなり前に別れた」
「ふーん、他にもいたのか」
 しかも振られたんだ、そう続けると図星だったらしく神尾の顔が青白くなる。踏み込みすぎただろうかと思っていると、今度は彼の肩が震え始める。顔を覗き込んで見ると、意外なことに彼は笑っていた。しかし顔色は優れないままである。
「お前の言うとおり、新しい男にも振られた」
「ふぅん」
 大して興味もないくせに、話を振ったからどんな反応をすればいいのか分からない。神尾は、自嘲するように笑いながら、伊武をベッドに促した。自分は床で眠るという。しかし家主を差し置いて自分だけベッドで眠るというのはさすがに気が引ける。自分が床で寝ると言うと、神尾は伊武に毛布をよこして部屋の照明を落とした。
 なんとなく寝付けなくて、スマートフォンをいじっていると、画面上部からぴこんと、引いてないのか? というメッセージが飛び出てきた。送り主は神尾である。
「口で言いなよ」
「言いづらいだろ」
「まあ、引いてるけど」
「……引いてんのかよ」
「そりゃあ引くでしょ。だけど神尾が俺のこと好きなわけでもないし、別にいいんじゃない」
「そういう問題なのか」
「俺のことを好きにならない限りは、神尾は害のない友達だよ」
 暗い部屋の中で、神尾が息をつめたのが分かった。酷いことを言っているのは自覚していたが、気を遣って取り繕うようなことを言うのも嫌だった。
「お前らしいな」
「ごめん」
「そこで謝るのはお前らしくないけど」
「神尾は変わった」
「俺は変わってよかったよ」
「そうなんだ」
「俺、杏ちゃんのこと好きだったよ」
 その名前を最後に彼から聞いたのはいつのことだっただろうか。かつて耳にタコが出来るほどに聞かされた、彼の想い人の名前。彼の口からその名前を聞くことはもうないと思っていた。
「好きだったのは知ってる」
 かつて彼らの同級生だった橘杏は、今では結婚して名字が変わり、子供も産んでいる。思い返せば、神尾がゲイバーに出入りするのを目撃され始めたのは、彼女に子供が出来たことが発覚したころであった。当時短大に通っていた彼女は、在学中に妊娠し、卒業を待って相手の男と結婚した。神尾の杏への入れ込み方はなかなかのものだったから、それがショックで異性を愛することがなくなったのかもしれない。
「俺、こうならなかったら今でも杏ちゃんのこと好きなままだったかもしれない。あのままでい続けるよりは、たぶん今の方がましだ」
 伊武は、29年間生きてきて、いくらかの女と付き合っていたが、本気で好きだと思えるような相手はいなかった。橘杏のことを一途に想っていた神尾の気持ちは分からない。分からないが、彼女を想っていた中学生の彼は幸せそうに見えた。それだけに彼女に振られてしまってからの彼は痛ましかった。彼女とどう接すればいいのか分からず苦しんでいるように見えた。
「あの仕事楽しいの?」
 神尾は含みのある笑顔を浮かべて頷いた。腹の立つことも多いが、店に立っている時は嫌なことも忘れられると言う。
「それなら、よかった」
「相変わらず心ないな、お前」
 そう言ったきり、神尾は口を開かなくなる。しばらくすると、規則正しい寝息をたてて眠り始めた。疲れているのだろうなと思いながら、その寝息を聞いていると、妙に穏やかな気分になって、伊武は瞳を閉じた。

 それからというもの、週に一度程度のペースで神尾の店に通うようになった。その手の店に連れて行っても、文句を言うこともなく、会社で噂をすることもない伊武を彼の上司は気に入ったようで、頻繁に誘われるようになったのだ。伊武は上司のおごりでいくらかの酒を飲んだあと、上司よりも先に店を出る。そのあとは自分の家には帰らずに、神尾の家に泊まることが通例になりつつあった。彼の家の鍵は不用心なことこの上ないが、伊武が来ると分かっている日には家のポストのなかに放り込まれている。
「ねぇ、あの人と寝たの」
 あるとき、夜の仕事に行くために身支度を整える神尾にそんなことを尋ねた。あの人と指された相手が伊武の上司であるとすぐに察したらしい神尾は、微妙な表情を浮かべる。
「そんなことお前に関係ないだろ」
「ああ、寝たんだ。つっこまれたの、つっこんだの?」
「……ヤってねえよ」
「ふーん」
「……なんでそんなこと聞くんだよ」
 そんな風に返した神尾が、何かを期待しているように見えて、居心地が悪かった。友達だから気になっただけだ、そうも言えずに伊武は珍しく黙り込んだ。
「深司」
「気になるから。神尾じゃなくて、自分の上司のゴシップが」
 神尾の一人暮らしのアパートの中で流れていた時間がぴたりと固まった。期待を全力で裏切る返答に、珍しく家を出る前から女装をしていた神尾の、マスカラをつけた重たい睫毛と、グロスによって艶めく形の良い唇が震えた。
(人形みたいだ)
 しっかりとした化粧をして、ウェーブのかかった茶色のウィッグをかぶった神尾は、幼い頃に妹の持っていた人形によく似ていた。神尾のことを知っている人間以外に、彼が男であることが分かる人間は殆どいないだろう。近頃伊武は、女装した神尾の姿を見ると、みぞおちのあたりがムカムカする。
「仕事遅れるよ」
 平素通りに冷たい声で投げかけると、神尾は何も言わずに立ち上がった。美しい顔を隠すようにマスクを付けると、「行ってくる」と、暗い声で呟いて部屋を去って行った。
 神尾が自分のことを意識し始めていることに気がつかないほど、伊武は鈍い人間ではなかった。しかし同性愛者と関わる機会が増えたからといって、かつての旧友から向けられる恋情を素直に受け入れられる程、そちらの世界に浸ってはいなかったし、彼が本気で自分を愛するようになると考える程、彼のことを知らないわけでもなかった。
 伊武の自宅とさして変わらない広さの神尾の部屋は、彼の部屋に比べると収納スペースが多く見えた。つと記憶を遡ると、神尾は昔から物を捨てるのが苦手だった気がする。テニス部時代の彼のロッカーには不要になった物がたくさん詰まっていた。その事で橘桔平に叱られる姿を当時はよく見かけた。彼が現在生活している部屋は、流石に昔のロッカーのように雑然とはしていないが、物が多いのは確かだった。
 一つ欠伸をして、彼の家の引き出しの一つを何気無く開けてみると、不動峰の体操着が入っていた。伊武は鼻をすんと鳴らす。これ何に使うの、なんて尋ねたら、使わないけど捨てられないだろ等と言うに違いない。そんな神尾だから、橘杏のことを一途に想い続けることが出来たのだと思う。想いを募らせ続けた結果、同性愛者の道に足を踏み入れるとは流石に予想出来なかったが。
 翌日、普段よりやや遅い時間に目覚めた伊武は、どうやら既に出勤してしまったらしい神尾が食べ残した食パンを半分かじりながら彼の家を出た。始業五分前に出勤し、自分の席についてみて、オフィスの雰囲気が平素とは異なっていることに気がつく。同僚達、特に女子社員が妙に騒がしいのだ。
「付き合ってるって噂も聞かなかったのにね」
「ちょっとしたお見合いみたいな感じで、すぐに決まったらしいよ」
「ちょっと狙ってたのにショックー……」
「あんたなんか相手にされないでしょ」
 ひそひそ話のつもりなのだろうが、如何せんボリュームを絞り切れていない。数人の女子社員の会話を盗み聞きして、どうやら同じ部署の誰かが結婚するのだと察する。他人にあまり関心のない伊武からしてみれば、どうでもいい話題で、普段なら数分で忘れてしまうような内容だった。馬鹿馬鹿しい、そう思ってデスクトップの電源を入れようとしたとき、伊武のデスクから数メートル離れたデスクに向かって、誰かが「おめでとうございます」と、言うのが聞こえた。誰が結婚するのだろう。一応確認しておこうと顔を上げると、そこにはーー。

 その日の業務を終えた伊武は、神尾の家の最寄り駅で電車を降りた。近所の公園で適当な弁当を二つ買って神尾の住むアパートに向かう。彼の家に二日続けて訪ねるのは今日が初めてのことだった。
 不用心なことに新聞受けの中にしまいっぱなしの合鍵を使って彼の部屋に足を踏み入れると、スーツ姿のまま部屋の真ん中に横たわる神尾の足先が見えた。
「風邪でもひいてるの」
「ひいてない」
「それならなんでスーツも脱がずにそんなところで寝てるわけ」
 返事はなかった。溜息をついた伊武が机の上にコンビニ弁当の袋を置くと、寝返りをうった神尾と視線がかち合う。
「あの人さ、」
「誰のことだよ」
「うちの上司」
「……うん」
「結婚するって」
 数秒の間を置いて、知ってるよーーと、言った神尾の顔があまりにも青白いのにぞっとした。伊武が知らなかっただけで、神尾はあの男のことを好きだったのだろうか。夕立の空のように真っ暗な表情をした神尾の唇が震える。あの人のことが好きだった、そんな台詞を吐かれたらきっと自分は笑ってしまうだろうと伊武は思った。
「愛人になれだってさ」
 ふざけてるよな、と彼は唇の端を吊り上げる。
「昨日は同伴出勤だったんだよ。昼も仕事してるし、普段だったらそんなの絶対しねぇんだけど、どうしてもって頼まれたから仕方なく行ったら、寿司屋で結婚するから愛人になってくれって」
 苦虫を噛み潰したような表情で言葉を並べて、神尾はむくりと体を起こした。ふざけてるよな、と付け足す彼に、「あの人のこと好きだったの」と問うと、大きく首を揺すぶられた。
「仕事でなら関われるけど、それ以上にはなれねぇよ」
「それならなんでそんな死人みたいな顔してるわけ」
「それは……深司には、関係ない」
「自分に関係あることならわざわざ聞かないんだけど」
「……お前って、本当にやな奴だな」
「そうかな、本当にやな奴ならゲイになった幼馴染の家に飽きずに通ったりしないと思うけど」
 怯みもせずにそう言うと、神尾はようやく笑顔を見せて、「そうかもな」と、言った。
「俺、前にも愛人になれって言われたことがあるんだよ」
 唐突に語り出した神尾を、伊武は相槌も打たずにじっと見つめた。さっきまで笑っていたのに、昔に比べると生白くなってしまった彼の顔には再び暗い色が浮かんでいた。
「愛人になれって言われたときは、なに言ってんだって思った。そのときはまだそいつのことよく知らなかったし、俺、その前の男にいつも浮気されてて……自分が男取られて辛い思いするならともかく、俺は同じことしたくないって思ってた。それなのに……気がついたらそいつのこと好きになってて、傍にいたいって思うようになってて、奥さんいても俺が男の中で一番に愛されてるならいいやって思うようになった」
 意外だった。神尾が、橘杏以外の人間にそんな強い感情を抱く日がくるとは。
「それで、神尾は幸せになれたの」
 意地の悪い質問をすると、神尾の目元がすっと赤らんだ。
「なれたらお前なんかの前で、こんな顔して、こんな話してねぇよ」
「ああ、そうか。それで、どうなったの。奥さんに子供でも出来たわけ。不倫がばれて別れろとでも言われたの」
「いきなり別れたいって言われた」
 きっとオカマの愛人の存在がわずらわしくなったのだろうと伊武は思った。陳腐な話だ。
「奥さんにばれたのかって聞いたら、奥さんとは離婚するって言われた。俺のことがいくら好きでも離婚は出来ないって言われてたからわけ分かんなくなって、嫌だ、嫌だ、別れたくないってごねたらーー」
 そこで言葉に詰まる。今にも泣き出しそうな顔をする神尾を見ていると、さすがに辛くなって、「もういいよ」と、伊武は呟いた。それなのに神尾は震える声を絞り出す。
「結婚するまえに出て行った恋人が見つかったからもうお前とは付き合えないって」
「それって女」
「男だよ。俺は男の中でも一番じゃなかった。それどころかあいつ、俺とは平気で不倫してたのに、より戻せるかも分からない男が見つかったからって離婚までして……好きになって、馬鹿見たのは俺だけだった」
 二十年来の付き合いの友人の惨めすぎる告白に、さすがの伊武も言葉を失った。どうしてこの男は、自分を一番に愛してくれる相手を選ぶことが出来ないのだろうか。
「そのこと思い出して感傷的になってただけだよ。女々しいだろ」
 いつもなら、確かに女々しいね……なんて言ってやるところなのだが、流石にそうも言えなくて、「あの上司、殴ってこようか」などと、柄にもないことを口にする。
「なんだそれ、似合わねえ」
 そこでようやく表情にわずかに明るさを取り戻した神尾が、「腹減ったなぁ」と、呟いたので、コンビニ弁当の袋を差し出した。
「お前にしては気が利くなぁ」
 そんなことを言われても腹を立てる気にもなれなくて、その後は二人で並んで弁当を食べた。昨晩はよっぽど精神状態が悪かったのか、部屋の片隅に散らばった神尾のコスメグッズを眺めながら伊武は考える。神尾は橘杏に出会わなければもっと幸せに生きることが出来たのではないかと。鶏の唐揚げを嚥下し終えて、思いついたその考えを口にしようとした伊武は、すんでのところで思いとどまってペットボトルのお茶に口をつけた。どんな生き方をすることになったとしても、神尾が橘杏を否定することはありえない。昔から彼を見ていた伊武はそのことをよく知っていた。
「今日は家に帰るのか」
 そんなことを尋ねる神尾の声が酷く寂しげに聞こえた。面倒くさいからここで寝る、それだけ言って伊武は食べ終えた弁当箱をゴミ箱に放った。

 上司が婚約をしたことを知ってからというもの、単調な仕事をしていて、ふと息をついたとき、神尾のことを考えてしまうことが増えた。幼い頃二人でよく遊んだ公園のこと、別々の小学校に通いながらも、放課後は互いの家をよく行き来していたこと、伊武の妹を神尾がよく可愛がっていたこと。テニスを始めてからは二人で過ごす時間が更に増えて、二人で不動峰中学に通えることを神尾はとても喜んでいた。神尾のように分かりやすく喜んだりはしなかったが、嬉しかった。二人一緒のクラスにはなれなくて、小学生のときとは異なり知らない人間の増えた教室でストレスを溜めた伊武は神尾の家によく電話をかけた。ぼやきという名の愚痴をぶちまけても、神尾が迷惑げな態度をみせたことは一度もなかった。テニス部の先輩の愚痴をいうと、嬉々としてのってきたことも覚えている。そんな二人の関係は橘兄妹が転校してきてから少しずつ変わっていった。テニスの練習に打ち込めるようになって、電話をする頻度はかなり減ったし、以前ほど長々とは話さなくなった。その代わり部活での関わりは増えたが、橘杏に恋をした神尾は暇さえあれば彼女の話ばかりをするようになった。杏ちゃんは可愛い、杏ちゃんは優しい、杏ちゃん、杏ちゃん、杏ちゃんーー面白くない、そう感じなかったといえば嘘になる。女に化けた神尾の姿を見ると当時のつまらない嫉妬心の端切れが胸の奥に降ってくる。“ああ”なってしまってから、神尾はきっと幾度となく恋をしたのだろうが、その中のほとんどは彼女への宗教めいた感情を彼の中から押し流してくれるに値するものではなかっただろう。彼が不倫関係にあったという男は、彼の胸の中に生きていた彼女の存在を小さくしたのだろうが、それと同時に彼の胸に新たな傷跡を作ったのだ。大した男がいたものだと思う。
 今でも神尾は橘杏のことが好きで、不倫相手の男のことが好きなのだと思う。そしてそれとはとても並べきれないほどに微かな好意を伊武に向けている。手酷い失恋をして落ち込んでいたところだったわけだから、もしかすると相手は誰でもよかったのかもしれない。現在神尾が自分に抱いている感情は、かつて彼が杏に抱いていたそれのように彼の生き方を左右してしまうような重みを持つことはないだろう。かつて伊武は、「橘のどこがそんなにいいわけ」と、神尾に尋ねたことがあった。そのとき彼は、何故そんなことを聞くのか分からないというような顔をして、「だって杏ちゃん可愛いだろ」と、返した。可愛い女なら他にもいるだろ、とぼやいた伊武に、だけど一番可愛いだろと間髪入れずに返してきたので、ああこれは重症だな、と思った記憶がある。
 神尾の人生に登場したのは一番始めなのに、橘杏にも、神尾を手酷く振ったという男にも、伊武はきっと敵わない。そんなことを考えると酷く嫌な気分になるので不思議だった。自分が神尾に対してどんな感情を抱いているのか次第に分からなくなってくる。神尾のことを落ち着いて考えることが出来ない。それならわざわざ考える必要もないと分かっているのに、神尾の顔が頭から消えない。ちくちくとした胸の痛みを伴った不快感と、何か大きなものに駆り立てられているような焦燥感がまぜこぜになったような感情が押し寄せてくる。こんな風になったことは初めてのことで、伊武は少し動揺していた。しばらく神尾とは距離を置いたほうがいいのかもしれない、そんなことを考えて、再開してからというもの、自分が彼の家に連絡もなしに行くことはあっても、彼が自分を誘ったことは一度もないということに気がつく。
「むかつくよなぁ」
 誰にも聞こえないような声でぼやいて、仕事を再開したが、その日はずっとそんな調子で、捗らなかった。

「なにしてんの」
 行き場のない感情を持て余しながら、神尾の家を訪れ、当たり前のようにチャイムも鳴らさず中に入ると、えらく可愛らしいワンピースを着た神尾が姿見の前に立っていた。
「それで仕事行くの」
「いや、あの……今日は店には出ない」
「ふぅん、じゃあなんでそんな格好してるわけ」
 唐突に伊武が現れたことによってしどろもどろになった女装姿の神尾はウィッグは被っているがメイクはしていないので、普段とは違って男にしか見えない。変なの、と呟くと、「お前って憎まれ口ばっかだな」と、返された。
「今更だね」
「変わらないもんなぁ、深司は」
「……神尾が変わりすぎなだけじゃない」
「確かに……今はこんなだもんな」
 そう言ってワンピースの裾を持ち上げる。化粧をしたところで男である神尾にはとても着こなせそうにもない可愛らしいワンピースだ。
「店で見たとき杏ちゃんに似合いそうだと思って」
「それで買ったの」
「いや、前に付き合ってた男が、服でも買ってやるって。だけど俺、なんにも思いつかなくて服屋に行ったらこれ杏ちゃんに似合いそうだなって」
「気持ち悪い」
「自分でも分かってる」
「分かってるならやめたら。橘が男とヤって子供作ったからって女装したり、オカマに混じって夜の店で働いたり、自分のこと振った男にプレゼントされた服着て思い出に浸ったり。そういうのって……ああ、もう」
 最悪だよな、か細い声で呟くと、神尾が酷く傷ついたような顔をする。最悪だよな、俺――なんて言われて、違うと言いたいのに声が出ない。最悪なのは神尾じゃなくて自分の方だ。ただの友人、しかも男が他の人間のことを想っていることに嫉妬している。気持ちが悪い、最悪だ。
「初めて会ったときのことなんかさ、全然覚えてないけど、俺は昔は神尾のことが結構好きだったよ」
 ワンピース姿の神尾の、腕を引いて床に座らせる。すぐ傍に近づいてきた神尾の瞳の縁が赤らんでいた。
「だけど神尾、橘が来てから、口を開けば杏ちゃん、杏ちゃんって……むかつくよなぁ。振られて落ち着くかと思ったら全然そんなこともないし、別々の高校に上がって会うことも少なくなったのに、顔を合わせたら結局橘のことばっかでイヤんなるよなぁ」
 いつの間にか神尾の肩をがっつりと握りこんでいた。思いもよらぬぼやきを聞かされた神尾が困惑しているのが分かった。
「神尾のこと考えると嫌な気分になるんだよ。お前の顔思い出すと、腹が立つ。それなのにお前のこと考えずにはいられない。橘の話も、他の男の話も聞きたくない。こんな気持ちになったの生まれて初めてなんだけど、これってなんなの」
「そ、れは……」
「恋とか、愛とか、間違っても言わないでくれる。俺は神尾のことが――」
 嫌いなんだから、そう言いたかったのにいえない。何かを期待するような顔をしている神尾が憎たらしくてたまらない。
「ただ俺は、神尾が俺のことで悩んだり、苦しんだりしたらきっと胸が空くのに、お前がいつまでたっても橘とか、他の男のこと考えてもだもだしてるのに腹が立つだけだよ。これはお前のことが嫌いだから……間違ってないだろ」
 神尾は間違っているとも、間違っていないとも言わなかったし、頷くことも首を振ることもしなかった。ただただ呆けたように口を少し開いて、伊武を見つめている。半開きの唇を指でなぞる。化粧もしていない、三十手前のその男の顔が――
「お前ってそんな顔してたっけ、ああ、最悪だよなぁ」
 可愛い、そう思ってしまったのだ。最悪、最悪、頭の中でそう繰り返しながら、神尾の唇をなぞっていた指で、伊武は自分の唇に触れた。小さくため息をこぼして、神尾にしなだれかかるようにその場に倒れこんだ。
 


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