石榴の実には憂鬱が何粒詰まっている

 このたび、かつてのチームメイトが結婚することになった。することになったといっても籍はもう入れており、式も既に執り行われている。式の方には、親戚だけが立ち会ったらしく仁王は披露宴からの参加となるが、神前式だったときいている。現に披露宴の会場の入り口から柳生と肩を並べて現れた彼の妻は白無垢姿だった。袴姿の柳生は、会場の隅のテーブルでテニス部時代のチームメイト達と共にテーブルを囲む仁王を一瞥して、バツの悪そうな顔をした――ような気がしたが、いつもの様に眼鏡をかけているし、普段より距離が開いているのでよくは分からない。眼鏡の男と和服は愛称が悪かった。いや、他の眼鏡男がどうなのかは分からないが、柳生が袴を着こなせていないことは間違いがなかった。学生時代、紳士などというふざけたニックネームをつけられていた男には、ウエディングドレスと対になるタキシードの方が似合っただろうにと思う。とはいえ結婚式、披露宴等というものは女が主役なのだろうから、柳生の妻が衣装を着こなしていれば充分なのだろう。高砂で柳生と並び腰掛ける女は遠目に見ても美しく、和装だろうが洋装だろうが充分に着こなせそうだった。
 二人が入場してからしばらくして、同じテーブルに座っていた丸井が仁王とジャッカルに声をかけ、柳生の元へ行くことになった。先付けの料理には手をつけておらず、刺し身を運んできたコンパニオンは微妙な表情を浮かべている。丸井とジャッカルが柳生を冷やかしている間、仁王はだんまりを決め込んで、柳生と、彼と同じように友人に囲まれている彼の妻を眺めていた。彼の妻は美しかったが、近くによって見るとどことなく中性的な雰囲気であった。目と眉の距離が近くて、勝ち気そうに見える。式の段取りが決まる前、彼女の方は、一生に一度のことだろうからウエディングドレスを着て、洋風の式をあげたいと言ったそうだが、そんなことに拘るタイプにはとても見えなかった。
 席に戻って料理を胃袋の中に片付けていると、柳生の両親がビール瓶を持って酌をしに現れた。柳生の母親が丸井、ジャッカルのビアグラスにビールを注ぎ、柳生の父は、今日はありがとう等と声をかけている。どことなく柳生に似た二人は、仁王のグラスにビールを注ぐ順番がやってくると微妙に表情を暗くした。おめでとうございます、似合わない祝いの言葉を吐き出すと、母親の方が、唇を震わせて何か呟いた。ごめんなさい、そう言った気がしたがよくは分からなかった。
 二人がお色直しをするために退場だの入場だのを繰り返す度に彼らに向けられるスポットライトは仁王の席の真後ろに設置されていた。司会者に煽られた出席者達の大きな拍手に包まれながら入場する二人を照らすライトが仁王の頭頂部にぶつかる。距離が近いせいか熱を持ったその光は、仁王の心を虚しくさせた。早く結びの……いや、終わりの時間になってしまえと仁王は思う。披露宴とそのあとに控えた二次会さえ終われば、新婦の隣に立つ男は、彼女の夫ではなく仁王の男に戻るのだから。

 そうして迎えた結婚初夜、翌朝の仕事が早いだとかなんとか適当な理由をつけて二次会には出席せずに帰宅した仁王がシャワーを浴びて部屋でくつろいでいると、玄関の鍵が開く音が聞こえた。柳生だ、すぐに察した仁王は、男の元に駆け寄りたいという願望に駆られたがぐっと堪えて、ソファの上で眠ったふりをする。時刻は午前の一時を回っていたから、眠っていたとしても不自然ではない。リビングのドアが開く音と、静かな足音が、鼓膜を震わせる。眠っているんですか、控えめな声が静かな室内に響く。男が更に近づいている気配を察して、仁王はほんの僅かに瞼を震わせた。ソファのわきに膝をついたらしい男が、仁王の頬に触れる。
「眠ったふりはやめなさい、仁王くん」
「なんじゃ、ばれとったか」
「あなたは存外可愛らしい人ですから、こんな日は眠らずに待っていると思いました。ただいま戻りましたよ」
「よう戻ってきてくれた」
 当たり前じゃないですか、と柳生が言い切る前に、彼の首に腕を回す。首元に鼻を寄せるとほんのりと酒のにおいがした。二次会でたくさんの人間に酒をすすめられたのだろう。祝いの言葉もたくさんかけられただろう。
 柳生の結婚は、偽りのものだった。籍を入れたのは本当だが、柳生と柳生の妻の間に愛情はない。柳生はかれこれ十年以上も仁王の恋人をしていて、大学を卒業してからはこの家で二人暮らしをしている。そのことは放任主義の仁王の両親や、堅物の柳生の両親も承知のことだったはずなのだが、最近になって柳生の父親が、世間体のために愛情のない、偽りのものでもいいから嫁をとれと言い出した。勿論普通は自分に愛情を注ぐことのない男と結婚するような女はいないので、柳生の父親は仁王と別れて恋人を作れという意味でそう言ったのだと思う……が、愛情なしでも籍を入れてくれる女が見つかってしまった。それが昨夜柳生の隣にいた女である。元々は大学時代柳生と同じ学部だった彼の友人らしい。柳生とは卒業後も交流を続けており、父親からの打診に心を悩ませた柳生が相談を持ちかけると、それなら自分が結婚してやると言い出したそうだ。そこまで聞いた仁王は、その女はお前のことが好きなんじゃないのかと訝しんだのだが、更に話を聞いてみればなんのことはなかった。彼女も同性愛者だったのである。柳生と同じようなことを両親に言われていたのだという。無論そんな話を聞いても仁王は、恋人が所帯を持つことにいい顔は出来なかったが、それでも二人の関係を続けるためには必要なことなのだと自分に言い聞かせ二人の結婚を承認した。
「お前さんも、とんだペテン師じゃな」
「人聞きの悪い」
 だけど間違ってはいませんね、と柳生は苦笑した。つられて仁王も口元を持ち上げる。
「彼女のご両親は、知らないようです」
「なんを」
「私達の本当の関係を、それから彼女の性癖を」
 仁王は絶句した。それでは約束と違うではないか、と柳生を責めるように睨む。
「それじゃああの女の親はおまんらのことを普通の夫婦じゃと思っとるということか」
「そのようですね」
 仁王は深刻な顔になった。このたび柳生姓に入ったあの女、ただの美人かと思えばとんだ食わせ者である。
「あの女、本当にヘテロじゃないんか」
 どうしてもそれだけは確認しておきたかった。それが嘘だとすれば、自分の男の結婚を許した自分はとんだ間抜けである。
「それは間違いないでしょう。あれほどの美人が学生時代には浮いた噂一つありませんでしたから」
 柳生はそう言うが、仁王はなんとなく釈然としない。それに、仕方のないことだが、柳生が女のことを美人だと語るのも気に食わない。視線を柳生の顔から逸らした拍子に、彼の左手薬指に指輪が見えて、仁王は唇を噛んだ。
「まあ、親御さんが本当のことを知らなくとも問題はないでしょう」
 それはどうだろう。彼女の両親が事情を知っているのといないのではだいぶ話が変わってくるような気がする。まず第一に女は、柳生に嘘をついていたことになる。彼女は自分も親に嘘の結婚をしろと言われていると語ったのだから、娘の性癖を両親が知らなかったのはどう考えたっておかしい。
「本物のペテン師じゃな」
「怖い顔をしないでください」
「じゃけど、」
 ぞっとしない想像がどんどん進んでいく仁王の右手を柳生がとった。そのまま持ち上げられて薬指にキスをされる。何事かと思っていると、指先にひやりとした感触が走った。
「は、阿呆じゃろ」
 右手の薬指に指輪が嵌めこまれている。よく見ればそれは、柳生が左手の薬指に嵌めているものと同じデザインである。
「元々指輪が欲しかったからいい機会だったんです。これからはこうして指輪をつけていてもいらぬ勘ぐりをされることもありません」
 唐突なプレゼントが嬉しくないわけではなかったが、柳生の周りの人間は彼が仁王と対で嵌めているそれを、婚姻の証としてとらえるのだ。両手を上げて喜ぶことも出来ない。柳生は少しずれていると思う。
「私達はこれからもなにも変わりません。二人の気持ちさえ通じあっていればずっと側にいられますよ」
「……そうじゃな」
 唇にキスを落とされて、瞳を閉じる。柳生の言うとおり、二人でいつまでもこうしていられればいいと思う。しかし柳生の考えが正しいとはとても思えない。いくら想い合っていたとしても、二人きりで暮らしていくことは不可能なのだ。人間は他者からの影響を受けながら日々変化していく。だからこそ柳生はあの胡散臭いレズ女と籍を入れたのに、なぜそれが分からないのだと疑問に思う。愛し合っていればいつまでもやっていけると思えるほど、仁王は物分かりのいい男ではなかった。

 仁王の不安に反して、柳生の言うとおり二人の生活は今までと殆ど変わらなかった。柳生には、彼の父親が用意した女と暮らすためのマンションがあったが、そちらには一切帰ることはなく仁王の家に帰ってくる。嫁はどうしているのだ、仁王がときたま尋ねてみても、「どこか女性の家にいるのでは」と、返すだけで関心もなさそうである。
「おまんの親はそれで満足なんか」
「満足はしていないでしょうが、私だけならともかく相手もヘテロではないのですから仕方がないでしょう」
 つまりは相手の女がヘテロであったなら、どう出てくるかは分からないということである。仁王は難しい顔をした。
「うちの親のことを気にしても仕方がないでしょう。私達の生活には関係ないじゃないですか」
 またこれだ。本当に関係がないと思っているのなら、仁王は柳生に今すぐにでも女と離婚してほしかった。
「柳生は、女を好きになったことはあるか」
 一度も尋ねたことのなかった、聞きたくなかったことを仁王は問うた。
「小学生の頃にはありましたが、成長しきってからはあなただけですよ」
 少しの躊躇も見せずに柳生は答える。仁王は奥歯を噛み締めてから、「男は」と、問うた。柳生は再び、「あなただけです」と、返す。仁王が想像していた通り、柳生は根っからの同性愛者ではないのだ。女と添う可能性もあった男だ。そんな男を自分が変えたのだと思うと感慨深くもあるが、何がきっかけでヘテロに戻ってもおかしくはないのではと不安にもなる。
 仁王は根っからの同性愛者であった。幼稚園児のとき初めて好きになったのは男の先生だったし、小学校に入学してからも女という生き物を目にかけたことはない。だけれどそれが普通ではないことは分かっていたから自分の気持ちを誰かに打ち明けたことはない。小学校の高学年のとき、保険の授業で子供が出来る仕組みを習ったとき、気持ちが悪いと感じた。どうにもこうにもグロテスクだと。同級生の中には、セックスというものについて授業で習う前から知識をつけていたものもあって、それらは授業のあと興奮気味に下品な話をしていたが、仁王はそれに呆れていた。自分は同性愛者でよかったと感じた。そのとき仁王は、セックスは子供を作るためだけに行われるものであり、授業でならった男性器を受け入れる器官が自分の体にはないので、男同士ではセックスは成立しないと考えたのだ。
「初めて男同士のセックスをどうやってするんか知ったとき、どう思った」
「……正直に言えば、気持ちが悪いと感じましたね」
 遠慮がちに柳生は言った。しかしそう語る柳生以上に、初めて自分の種のセックスについて知ったときの嫌悪感は仁王の方が強かったと思う。彼は昔から自分が男にしか恋情を向けられないということに劣等感を憶えていたので、男女のセックスについて知ったとき、少なからず安堵したのだ。自分は異性を好きになる人間のように汚いことはしなくてもいいのだ、と。そう思うことで、彼は自分の中に根付いた劣等感を和らげようとしていた。
 小学校を卒業する頃だっただろうか、自宅にインターネット環境が整った。中学生だった姉は大はしゃぎして、好きな俳優の写真をあさったりしていたが、仁王は家族が寝静まったあとこっそりと自分のような人間について調べた。そのとき初めてゲイと呼ばれる人間は少数派だが、自分の他にも大勢いると知り少しだけ安堵した。だけれど、仁王はそれと同時に知ってしまった。男同士でもセックスが出来るということを。そして男同士のそれは肛門を使って行われるということを。ショックはあまりにも大きかった。男女のセックスについて知ったとき、グロテスクだと感じたが、自分たちはそれを排泄物が出るところを使って行うのだ。気持ちが悪いと思った。理不尽だと感じた。そのとき初めてヘテロに生まれればよかったと感じた。女性同士では、挿入によるセックスは行われないということも知り、更に落ち込んだ。自分は絶対にそんなことはしないと心に誓った。それなのに、中学生になった仁王は自分より随分と歳上の男と心を交わし、抱かれた。初めは嫌悪感しか抱かなかったその行為は、ほんの数回交わす内に慣れてしまった。子供を孕まない、無意味なセックス。快楽のためだけに行われるそれに、仁王の体は馴染んでいった。ヘテロに対して抱いていた劣等感は、未だ拭い去れない。
「だけど、セックスは愛がないと出来ないものでしょう。少なくとも嫌いな人間とは交われませんよ。私は仁王くんとするのが好きです」
「おまんは俺以外の体を知らんじゃろ」
「知りたいとは思いません。私には一生あなただけいればいいんです」
 柳生がそう言ってくれる内はなんとかなるだろうと仁王は思う。仁王は嫉妬深い。柳生が自分以外の人間を抱いたことがあるなんて事実には耐え切れないと思う。二人と三人ではそう変わらないが、一人と二人では大違いである。自分にとっての男も、柳生だけであったらよかったのに、と仁王は思う。
「あなたは、私だけではないんでしょう」
「本気になったのはお前さんだけじゃ」
「分かっていますよ。私は、幸せです。あなたのような人に愛されて」
 仁王が柳生がかつてはヘテロであったことを気にするように、柳生も仁王の過去を気にしているのだ。それを意識すると少しだけ胸がすく思いがした。

 柳生が初めて妻との新居に止まったのは、それからひと月後のことであった。彼女の両親が訪ねてくるので、こちらに帰ってくるわけにはいかないとのことだった。ついにこの時が来てしまった。柳生の妻の嘘によって、自分たちの関係に不具合が生じるときが。仁王がそんなことを言うと、柳生は呆れたような顔をして、「たった一日のことでしょう」と、言った。その言い方に頭がきて、一日でも嫌なのだと言い返すと、子供のようなことを言うなとピシャリと跳ね返された。なんとなく嫌な雰囲気のまま柳生は仕事に出て行って、仁王も出勤した。朝の言葉通り、夜が更けても柳生は家に戻らなかった。一日だけのことだ、柳生の言葉を何度も反芻させて心を落ち着かせようとするが上手くいかない。途中で涙が溢れてきた。柳生、柳生……とうわ言のように繰り返しながら、堪え切れなくなって柳生の携帯を鳴らす。しかし何度コールしても彼は出てくれない。最後にはベッドに突っ伏して、女子供のように声をあげて泣きだした。たった一日離れただけでこんな状態になってしまうほど自分が男をに依存してしまっていたことに驚く。結局その日は眠れなかった。
 翌日の晩、何事もなかったかのように戻ってきた柳生は、電話のことにこそ触れなかったものの、真っ先に「昨日はすみませんでした」と、謝ってきた。先手を打たれてしまうと、責めることも出来ない仁王が俯いていると、柳生は彼の頬に触れた。
「もう寂しい思いはさせません」
 そう語る柳生の、仁王の頬に触れた手の薬指には、仁王の指についているものとは別のデザインの指輪が嵌められていた。それにまた腹が立って、汚い言葉が喉奥までせり上がってきたが、堪える。自分が我慢すれば、上手くやっていけるはずだと楽観したかった。
 しかしそれからというもの、柳生が家をあける頻度は増していった。それでも初めの家は、機嫌を損ねた仁王に謝り、優しく接してくれたのだが、仁王の怒りが増していくにつれ、それもなくなった。
「これから一週間程家をあけます」
 そう言われたときは、初め彼の言葉の意味が飲み込めなかった。餌を待つ魚のような間抜けさで口を半開きにする仁王をすり抜けて、柳生は家を出ようとする。仁王が思わず柳生の服の首根っこを掴むと、結果的に首をしめられることになった柳生が、目尻をつりあげる。
「あなたは何がしたいんですか」
 強い口調で言われて、体が震えた。それはこちらの台詞だ。そう言いたいのに、言葉が出ない。心臓がありえない早さで拍動し、目眩がしそうになる。
「俺は、お前さんがおらんと眠れんのじゃ」
 何十秒も考えた末に出た言葉がそれだった。柳生がため息をつく。そんなことかとでも言いたげである。
「目をつむっていれば眠れますよ」
 そう言い放って柳生は家を出た。残された仁王はその場に蹲る。その拍子にスウェットのポケットからこぼれ落ちた携帯を、柳生の手によって閉じられたドアに叩きつける。心は晴れなかった。
「もう無理じゃ……」
 呟いた仁王は、携帯を拾うために立ち上がった。

 柳生が家をあけてから五日が過ぎた。あと二日待てば柳生は帰ってくる。そう思いたいが、一週間ほどといったのだから、一週間をすぎる可能性だってある。仁王の精神は、既に限界に達していた。夜は眠れないし、腹が立ったり、悲しんだりで、暴れるので家の中を荒らすことを繰り返している。そのくせ柳生が戻ったときに自分のヒステリーを悟られたくないので、荒らしたあとは数時間も経たないうちに元の状態に片付ける。極限状態だと自分では思う。もう一日だって待つことは出来ないと。思い悩んだ末に仁王は決断した。柳生の家を訪ねると。
 披露宴のときに配られた二次会の案内状の裏に、二人の新居の住所は書いてあった。柳生が仕事に出たあとでは意味もないので、始発にのってそこへ向かう。前日の晩は眠れなかったので、目の下にはクマが出来ていた。最寄り駅に到着して、地図のアプリで住所を確認しながら歩いている間、何度も足を止めようとした。こんなことをしてもまた揉め事が増えるだけだ。そんなことはわかっているのに、少しでも会いたいと思ってしまう。マンションに辿り着き、エレベーターのボタンを押してからは、披露宴のときに会ったきりの柳生の妻の美しい顔を何度も思い返した。あの女に、また会うことになる。そう思うと急に息苦しさを感じた。柳生がいるはずの部屋のチャイムを鳴らす。足が震え、瞼がひくひくと痙攣した。チャイムをならしてから、十秒も経たずに、ドアは開かれた。
「忘れ物ですか」
 そんなことを言いながら顔を出したのは、愛しい男である。女の方は既に家を出ているらしい。妻が戻って来たものだと思っていた男は、心底驚いた顔をしている。
「久しぶりじゃな」
「たった五日でしょう」
「おまんにとってはたった五日でも、」
 仁王が語気を強めると、眉をひそめて、悪いうわさがたってはいけないと言って仁王を部屋に入れた。その態度にも腹が立った。
 興奮状態の仁王をリビングに通すと、「なぜ来たんです」と、柳生は問うた。冷たい目をしているように感じるのは、押しかけてしまったことに多少なりとも罪悪感を憶えているからだろうか。
「待ちきれんかった。家におる間もずっと不安なんじゃ、おまんがここで女とどうしとるのか想像してしまう。今日も女がおるかと思ったが、たえきれんかった」
「妻は早出なんです」
 柳生はさらっと答えた。あまりにも自然に出た妻という言葉に仁王は動揺する。柳生はもう自分の男ではなく、あの女の夫だと思った。
「……別れる」
 震える声で言うと、初めて柳生が動揺を見せた。なにを言うのです、と仁王の肩を掴もうとするので思わず一歩後退する。
「お前さんは、ここで何をしとったんじゃ。俺を放っておいて、女とよろしくやって――男の体に飽きたならそう言えばよか」
「私が愛しているのはあなただけです。疑っているんですか」
「……お前さんは、ええんか。俺が他の女と結婚しても」
「情はありません」
「情がなくても、嫌にきまっとる。書類の上だけでも、お前さんが他の人間のものになるんは嫌じゃ。それでも、それでも堪えとったのに、今度は家にも帰ってこん。俺はどこまで耐えればいいんじゃ。終わりなんてないんじゃろ。俺は、おまんを信用しきらん。楽には生きられんのじゃ」
「……私は、妻に愛情はありません。それは本当です。ですが、妻は、妻は私を愛していたのです」
「嘘じゃったんか」
 きまりの悪い顔をして柳生が頷く。そんなことだろうとは思っていたが、苛立ちはとめどなく湧き出る。騙されたのに腹は立たないのかと問うと、不思議げにされた。
「大学生の折からずっと私を愛していたというのです。いじらしいじゃありませんか」
「卑怯な女じゃ」
「妻を悪く言わないでください」
 ああもう駄目だ。これは話にならない。しかし、日を改めようにも今帰れば柳生の中で自分の印象は最悪である。
「妙に肩を入れるんじゃな。あの女と、もう寝たんか」
 さすがにそれはないだろうと思っていたのに、仁王の言葉を受けた柳生は俯いた。自分で言っておいて、「嘘じゃろ」と、呟いた。すみません、と柳生は返す。
「もう無理じゃ」
「ただの一度きりです」
「一度でも、一人から二人になるんじゃ大違いじゃろ」
「あなただってわたしだけじゃないでしょう。私はずっと、そのことを気にしていました。一度くらいいいじゃないですか。あなたは一度のみならず何度も、」
「それを、言うんか……俺が、後悔するようなことを、過去の自分を許せなくなるようなことを」
 昔の自分に足を引っ張られた。仁王は自滅したのだ。柳生の言葉は理屈が通っていない。賢い男にしては珍しいことだ。仁王が他の男と交わったのは、柳生と付き合う以前のことである。浮気ではない。しかし、それでも仁王は柳生を責めることが出来なかった。恋愛は理屈が通らないものなのだ。
「……お前はどうしたいんじゃ。俺とは別れるんか」
「そんな……まさか、私はあなたと別れるつもりなどありません。彼女と交わったのは、彼女が子供さえ出来ればもう別れてもいいと言ったからです」
「子供を、作るためにヤったんか」
 柳生が頷いた瞬間、仁王は彼の頬を打っていた。指輪が、彼の頬にうっすらとした傷をつける。仁王は右手に嵌めていた指輪を取り、力なく放った。
「ただのセックスよりもたちが悪い。俺はお前さんの子供は産めん」
「子供なんていりません」
「今はそう思っとっても、産まれてしまったらお前は子供を愛しく思う。産んだ女にも情が沸く」
「それでも私が愛しているのはあなたです」
「分からんか、愛されとるだけで充分やと思えるほど子供じゃないんじゃ俺は。もう俺達は中学生じゃない」
「二人の気持ちさえ、」
「本当にそう思っとるなら、なんで結婚なんかした。おまんは俺のためだけには生きれん。俺は、お前さんが俺のためだけに生きてくれれば、お前さんだけのために生きられた。だけどもう終わりじゃ。俺達はもう、やり直せん」
「仁王くん、」
「……俺はいつまでも仁王くん、お前の女は柳生さんじゃ。そんなことはどうでもよかったはずなのに、今はやりきれん」
 そこまで言って柳生に背を向けた。テーブルの上に、ラップのかかった朝食が用意されていた。仁王は柳生に料理を振る舞ったことなど一度もなかった。勉強しておけばよかったと一瞬思ったが、そんなことをしたところで自分が女と同じ役割を果たすことなど出来ないし、女の代わりになりたいと思ったこともない。
「仁王くん」
「はじめから上手くいくはずがなかったんじゃ……」
 好きにならんかったらよかった。そう言いかけて、口をつぐむ。こんな終わり方をしてもなお、柳生のことは好きだ。好きだからもうこれ以上は続けられない。リビングのドアを閉じる。柳生がドアのノブをひねろうとしているのが音で分かる。だけれど結局、そのドアがもう一度開くことはなかった。
 二人の関係があっけない幕引きをした数カ月後、街で偶然出会った丸井から、柳生が離婚したらしいという話を聞いた。途端に後悔が押し寄せたが、離婚の原因が女の不倫だと聞いてその後悔はすっと冷める。学生時代から好きだった男と結婚することが出来たのに不倫をする女の気持ちは分からないが、やはり柳生は自分から離婚を切り出す事はできなかったのだなと思うと笑えた。お前はまだ結婚はしないのか、と尋ねる丸井に、「しばらく恋はしとうない」と、返した仁王は自宅に向かって歩き始めた。
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