隣人は傷つかない
重たげな黒髪を億劫そうにかき上げた男が溜息をついた。吐息からは既に酒の匂いがしている。
男の隣にかけた桃城はそれを不快に思うこともなく、男が口を開くのをじっと待っていた。駅前で待ち合わせ、適当な居酒屋に入ってから1時間近くが過ぎたが、男は必要最低限以上の言葉を桃城によこさない。
酒宴を企画したのは桃城ではなくこの愛想の悪い男だ。五年もの間まるきり連絡をよこさなかったくせに、何事もなかったかのように、「飲みにいかん」などと誘われて、桃城はほんの僅かに腹を立てた。腹は立てたが、近頃は友人と飲みにいくこともめっきり減っていたので、一晩くらいなら、と思い男の誘いを受けたのである。それなのに、いざ顔を合わせてみればこの有様なのでつまらない。
早く帰りてぇな、飲み始めたばかりだというのにそんなことを思う。
「なんか、話したいことでもあったんじゃないすか」
「ない」
「……悩みとか」
「そこまで親しくもないやろ」
こちらが気を遣ってやっているのに、これだ。憎たらしい男、しかしそこまで親しくないのは間違いないのでなんとも言えない。
男とは、十年以上も前にテニスの試合をきっかけに出会った。細々とメールのやりとりなどをして、大人になってからは二人で飲みに行ったこともある。しかしそれだけだ。友達という程親しくもないし、同じ学校にかよっていたわけでもないので先輩後輩の仲だとも言えない。
忍足は間違っていない。間違ってはいないが、それなら何故この男は桃城を誘ったのだろうか。男の考えていることが分からないので、桃城は戸惑った。
なにせ五年ぶりの再会である。元々よく分からない男だとは思っていたが、難解さを増している気がする。彼はいつでも余裕ぶった男だった。しかし今日の彼の態度は今までのそれとは違っている気がする。
黙りこくったまま酒を煽る彼は、落ち込んでいる風にも見えた。五年前、最後に会ったときとは明らかに違う。
しかし見かけは殆ど変わっていない。仕事帰りだという男は、Yシャツをネクタイも通さずに着衣している。一番上のボタンは留めていない。跳ね返った長髪に丸眼鏡、顔の造形が妙に整っているのもあいまって、どうにも胡散臭い雰囲気である。
この胡散臭い伊達男医者をやっているのだ。人間というのは見かけでは判断出来ない。
「黙りこくって、何考えとんや」
それはこっちの台詞だと言ってやりたい。店に入ってからずっと黙りこくっていたのは男の方だ。
「胡散臭い人だなあ、と思ってたんすよ」
「女には品がええ言われるんやけどなあ」
「品がいいのは当たり前っしょ。金持ちのボンボンで、お医者さんなんだから。品がいいくせに胡散臭いんすよ、あんた」
品がいいのに胡散臭い。矛盾している。つまりは変な男である。
へんてこな男が、左手にグラスを持って、こちらを見つめている。節の目立たない綺麗な指だ。爪の手入れも行き届いている。指輪などの装飾品がなくとも充分に観賞に耐えうる指だ。男の指を見つめながら、そこまで考えて、桃城は顔を上げた。男は未だ桃城を見つめている。表情はない。
「あんた、指輪はどうしたんすか。普段はつけねぇの?」
五年前に会ったとき、彼は左手薬指に指輪を嵌めていた。つい最近結婚したのだと言って、そのくせさして嬉しくもなさそうに指輪を爪の先で引っ掻いていた男の姿を、桃城はよく覚えている。
「別れた」
「はあ?」
間抜けな声を上げた桃城を、忍足が鬱陶しげに睨む。伊達眼鏡の奥の切れ長の瞳がすうっと細められた。
「離婚なんて大それたこと、」
なにが原因で、と尋ねるより早く、「ようある話やろ」と、返される。それもそうだと、一度は納得しかけたが、やはり別れた理由は気になってしまう。
「よくある話なのかどうかは、理由によるんじゃないすか」
「不倫や、不倫」
忍足は、面倒臭げにそう言って、グラスの中の酒を一気に煽った。今晩は、よく飲んでいるが大丈夫だろうか。胡散臭げな見かけに反して、忍足はアルコールにはあまり耐性がなかったはずだ。
「それでやけ酒かよ」
「やけ酒やない」
「不倫したの、嫁の方なんすか」
男は無言のまま、瞬きを繰り返した。だんまりすか、と呟くと、「察しとるやろ」と、苛立ったように返される。
「やっぱりやけ酒なんじゃないすか」
「……あの女は、いつかやらかすと思っとった。どうせ終わるんやったら、早い方がええやろ」
「たしかに」
忍足の言いたいことは分かる。しかし、忍足が結婚してから既に五年が過ぎている。彼は今にも三十路に届きそうな年齢だ。これは、早かったと言えるのだろうか。
「色々、無駄にしましたね」
「黙っとれ」
「なんで俺を誘ったんですか」
遠慮なく尋ねると、一瞬の間を開けて、「……嫁のことを、知っとるから」と、返された。忍足の言う通り、桃城は彼の妻のことを知っている。知っているとは言っても、彼に話を聞いただけで、実物を見たことがあるわけではないのだが。
「奥さん、レズだったんですよね」
忍足の眉間に皺が寄った。嫌なことを思い出してしまった、という顔だ。
「なんでお前なんかに話したんやろな」
「仲のいい友達には話しにくかったんじゃないすか」
五年前、忍足と最後に会ったとき、桃城は彼の薬指に指輪が嵌められていることに気付き、それをいじった。当時新婚だった忍足は、そうとは思えない苦い表情を浮かべて、「そんなええもんちゃう」と、言ったのだ。その日の朝、彼は妻に自分は同性愛者であると告白されていたのである。
「おかしな女やな、と思った」
「レズだから?」
「女好きやのに、黙って男と結婚したから」
「世間体とか」
「気にするような女が、女と不倫するんか」
「俺には分かんねえっすよ」
お手上げだと言わんばかりに両手をあげると、答えが与えられた。忍足の妻だった女性は、子供を欲しがっていたのだという。
「子供作ったんすか」
「気色悪くてセックスなんか出来へんかったわ」
「それじゃあアンタ、この五年間、」
「ヤっとらん」
「マジすか」
どうにも極端な男だ。真面目な男だとも思う。相手が不誠実ならば、自分が誠実であり続ける必要などないだろう。彼が両手を広げれば、飛び込んでくる女など掃いて捨てる程いるはずだ。
「ええ歳やし、ちょっとくらいヤらんでも耐えられるやろ」
「ちょっとって……五年は長いだろ。老け込むのはまだ早いんじゃないすか」
「せやけど、勃たんもんは仕方ないやろ」
「は? インポなんすか」
こくりと頷いた忍足の目元が赤い。かなり酔っているようだ。素面ならこんな話するはずがない。
「嫁に、私はあなたの精液だけ欲しいんです、とかなんやら言われてから全く勃たんなった」
「それは……」
不憫すぎる。そこまで言われて五年も結婚生活を持たせた男は、やはりどこかおかしいと思う。
「それ言われたのってどのタイミングなんすか」
「五年前、お前と飲みに行った日の朝やな。私ビアンなの、子供は欲しいわ、あなたは精液だけ出してくれたらいい……一気に言われてワケわからんなった」
「あの晩かなり荒れてましたよね」
「よう覚えとらん。嫁が“そう”やって話して以降の記憶がない」
記憶がないだと……桃城は、眉間に皺を寄せた。あの晩、男はたしかに酔っていた。酒に酔ってぐでんぐでんになった男は、桃城に、
「俺はよく覚えてますけどね」
あの日のことはしっかりと記憶に焼き付いている。だからこそ桃城は、今晩男の誘いを断れなかったのかもしれない。
「アンタは、レズがなんぼのもんじゃいだの、女同士がそんなにええんかだの言って騒いでたんですよ」
「全く記憶にない」
「俺に抱きついてキスしたことも?」
「……冗談やろ」
「こんな気色悪い冗談言わねえよ」
もっとも酔っていたせいか、キスをされても不快な気分にはならなかったのだが。
「それはすまんかったなあ」
「女同士とか、男同士とか、そんなにええんかって」
「……つまらんこと言ったんやな」
「面白かったですけどね。あれっきり連絡よこさないもんだから、あのことを気にしてんのかと思ってましたよ」
「ほんまに覚えとらんかった」
「ずっと連絡をよこさなかったのは」
「お前のことなんかずっと忘れとった」
なんでもないことのように忍足は言う。嫌な奴だ、そう思いはするが腹は立たない。桃城の方も忍足のことなど数日前にメールが届くまでは忘れていたからだ。
そのくせ今は五年前の唇の感触さえ思い出せそうな気がする。五年前のあの日、忍足は悲しんでいるのやら苛立っているのやらよく分からない顔をしてウイスキーの水割りのグラスを握っていた。酒に溺れて記憶をなくしてしまいたいと言っていた。
足も立たないくらいに酔った男に、「嫁さんがレズなら忍足さんはホモになったらいいじゃないですか」と、訳の分からないことを言った桃城の唇に、男は自分のそれを重ねた。そうしてすぐにそれを離すと、やっぱ男は無理やわと、笑った。それだけの話だ。それなのに今、ほろ酔いの男を見つめる桃城はどぎまぎしている。
レズビアンの妻に逃げられて自棄飲みをしている男は、本来持っているはずの冷静さを損ねている。その代わり、酒に濡れた薄い唇と、縁の赤らんだ切れ長の瞳は、三十前の男だとは思えないような色気を孕んでいた。
「アンタ、本当に五年もヤってないんすか」
こくりと頷きながら、男は桃城から目を逸らした。不審に思った桃城が、どうかしたのかと尋ねると、「恥ずかしなってきた」と、言う。よくよく見れば、男の滑らかな頬には赤みが差していた。
「五年もヤってなかったら殆ど童貞だよな」
あえておちょくる様なことを言ってやれば、形の良い眉と瞳の距離が狭まる。忍足が苛立っていることを確認した桃城は、唇の端を緩めた。男がグラスをテーブルに置いたのを見計らって、それに自らの手を重ねる。
「他の客が見とる」
「見てたっていいじゃないすか。どうせ他の場所で会うことなんてないんすから」
「そういう問題やない。大体お前そっちの趣味はないやろ」
「学生時代何度か男とヤったことがあります」
「冗談やろ」
「マジ」
幾分顔を近づけて肯定すると、嫌悪感を表した男が腰を引いた。
「引いてるんすか」
「当たり前やろ」
「奥さんにレズだって言われたときもそういう反応したんすか」
「出来んかった」
嫌われたくなかったのだと、忍足は言う。呆れた男だ。本当に情けない。相手は忍足に、勃起不全になってしまうほどのことを言ったのだ。嫌われたくないだなんて思う方がどうかしている。
「もしかして、別れる間近まで好きだったんすか」
「今でも嫌っとるわけやない」
「じゃあ好きなのかよ」
黙り込んでしまった男の手首を引いて、無理矢理立ち上がらせる。幾分萎れた様子の男が、抵抗のために腕を振る。しかし酔っているからか、本気で抵抗する気がないからか、その力はか細い。そうして最後には、抵抗するのも面倒になったらしく、全身から力を抜いた。
*
最後に男とセックスをしたのはいつだっただろうか。近場の安ホテルのベッドに、アルコールの回った体を弛緩させた男を横たわらせた桃城は、大学時代の思い出をたどっていた。
大学在学中に出来た友人の中にゲイがいた。その男が何故だか自分を好きになってしまい、試しに一度くらいなら――と、軽い気持ちでセックスをした。一度ヤってみると思いの外具合がよく、当時は他に好きな相手もいなかったのでその後も何度か体を重ねた。そうして最後には、「お前は俺の体しかいらないんだろ」などと詰られ、最後に一度だけセックスをして関係は終わった。
最後のセックスを、どんな体位で致したのかは覚えていない。しかしそのとき自分がどんな気持ちでいたのかはよく覚えている。桃城は、どこか納得のいかない気持ちでいたのだ。ヘテロである自分が男であった彼に対し、性欲の発散以外の何かを、例えば愛情なんて望むはずがない。そんなことは分かっていたはずだ。何を不満に思うことがある、そう思っていた。
今になって振り返ると、当時の自分は若かった。自分を慕う相手に対してよくもあれだけ酷いことを思えたものだ。あれでは男である忍足に自分を妊娠させるための精液だけを望んだ前妻となんら変わらない。
「なん、考えとん」
「……なにも」
眠たげな表情を浮かべながらも、体を起こそうとする男の肩をおさえてベッドに縫い止める。本当に勃たないんすか、と問いかけながら腿を撫でてやると、伊達眼鏡の奥の切れ長の瞳がすっと細められた。
「微妙な顔」
「三十路前の男が、男に押し倒されとんや。微妙な面にもなるやろ」
「眼鏡、外してもいいっスか。アンタの素顔が見たい」
「嫌や」
「なんで」
「目ぇ、鋭いから」
桃城が眼鏡のテンプルに指をかけると、男は僅かに身動いだ。綺麗にメイクされたベッドシーツの上に、幾重に皺が広がっていく。
「本気で抵抗するつもりもないくせに」
伊達眼鏡を取り払った先に見えた男の素顔には、少しのひずみもなかった。完璧に整った美しい顔、金持ちの顔だ。頭の中で自分の顔の造作と比べてみると溜息が出そうになる。しかし男のそれに比べれば大雑把に作られたこの顔もそう悪いものではない。昔から女受けだけはそこそこにいいのだ。
「こんな顔してる人でも、嫁さんに不倫されたりするんだな」
「顔は関係ないやろ」
「選択肢は普通の人間より多かったんじゃないスか。まあ、その選択肢の多さがアンタの女を選ぶ目を曇らせたのかもしんねえけど」
「……もうええ。もう黙っとれ。俺も黙っとるから」
「じゃあ大人しくしててくださいね」
うんざりした様子の男の、無駄に長い髪を指先で梳いてやる。勿論男の髪なので、サラサラのツヤツヤというわけにはいかないが、パサパサとした毛先の感触はそう悪いものでもない。
不快げな表情を浮かべた男は、しかし抵抗する気力もなくしてしまったらしくされるがままになっていた。調子に乗った桃城が、男のうっすらとした唇に自分のそれを重ねても、身動ぎの一つもしない。これでは人形を相手にするのとそう変わらない、そんなことを思いながらも、何度目かのキスの後に男が僅かに息を乱しているのに気がついたときには少なからず興奮した。
男の形の良い顎を強い力で掴んで、触れるだけのキスを舌を絡み合わせる深いものに変える。自らの口内で桃城の舌を待ち構えていた忍足の舌は縮こまっていた。久しくキスをしていなかったので感覚を取り戻せずにいるのか、唇を重ねている相手が男だから戸惑っているのかは、判断がつかない。そんなことは、どうでもいいような気もしていた。
桃城は、忍足を好いているわけではないのだ。久しぶりに再会した男が、離婚していた。落ち込んでいた。なんとなくエロかった。ヤりたいと思った。それだけなのだ。傷心の男を慰めてやろうなどとは少しも思っていない。そんなことは自分の仕事ではないと思っている。それは、この男が次に出会う女の仕事だ。男の傷を癒せるのは女だけである。
今はただ、この男とセックスをして快楽を得たい。そのためには、男にも気持ちがいいと感じさせる必要がある。一人よがりのセックスは嫌いだ。しかし、桃城が今組み敷いている男は勃起不全なのである。これではどうしようもない。
「忍足さんは、どんな女が好きなんスか」
「黙っとれって、」
「どんな女とヤりてぇの」
微妙に苦い表情を浮かべた忍足は、自分を見下ろす桃城から顔を背けた。隙を付いてスーツのスラックスをずり下ろしてやると、戸惑った様な表情を浮かべ、再び体を起こそうとする。
「いきなりかい」
「開発されてるわけでもない乳首なんか弄られても困るんじゃねぇの」
「そらそうやけど」
そんなやりとりをしている間にも、下着から取り出した男の性器を刺激する。萎えたままのそれは、しかしそれなりの質量を持っている。これ程のお宝が五年も使われずにいたのだと思うと、男が急に不憫に思えてきた。柔らかい一物を優しく撫でてやっていると、「そんなんで勃ったら苦労せん」と、吐き捨てられた。
「感じ悪ぃな。じゃあさっきの話の続き、忍足さんはインポが治ったらどんな女とヤりてぇの」
「……なんで、そんなこと答えなあかんのや」
「痩せた自分の姿を想像したらダイエットに成功しやすくなるとか言いません?」
「一緒にすんなや」
「俺は、すました顔した女とヤるのが好きなんスよ。そういう女がベッドの中ではエロエロだったらぐっときません?」
「どうでもええ」
「じゃあどうでもよくない話してくださいよ。忍足さんは、どんな女と、」
「バレエ」
「は?」
「バレエとか習っとった体の柔らかい女。ふくらはぎの形が綺麗で、太ももは太めやったら更にええ」
「なーんか、変態くさいっスね」
「やかましい」
奥さんもバレエやってたんスか。笑いながら尋ねると、渋い表情で再び、「やかましい」を重ねられた。
*
その瞬間は、あっけなく訪れた。五年もの間勃ち上がらなかったという忍足の物が、桃城の口に含まれると、一分も待たずに熱を帯び、硬度を増したのだ。
「本当にインポだったんスかぁ」
小馬鹿にしたように呟き、存外素直だった男のそれを、車のレバーでも握るように前後左右に弄ぶ。いつの間にか体を起こしていた男が、切れ長の瞳を見開いて桃城に握りこまれた自分のそれを見つめていた。薄い唇が、小さく震えている。
「……勃っとる」
「アンタも嫁さんみたいに余所で遊べば普通に勃ったんじゃねぇの」
「そんなん試せんやろ。結婚しとったんやから」
「真面目っスねぇ。俺は、バレなきゃ問題ないと思いますけどね。つーか、アンタの場合バレても問題なかったんじゃないスか。奥さんレズだったわけだし、アンタが余所で女作ったところで文句なんか言わなかったでしょ」
桃城の言葉を軽く無視した男は、サイドテーブルに放られた伊達眼鏡をかけると、桃城の手を払って自分のモノを指で弾いた。
「ええ硬さや」
「嬉しそうっスね」
「そらそうやろ。このまま一生インポやったら、ほんまにホモの女役しか出来んなっとったんやから」
「俺に感謝してくださいよ」
「せやな、ご苦労さん」
そう言って口元を緩めた男がベッドの脇に立ち上がり、下着を整えようとするのを制止する。
「なにやってるんですか」
「帰り支度やけど」
「続きは?」
「不能やないって分かったのに男となんかヤれるわけないやろ」
「……勃たせたまま帰るんスか」
負け惜しみのように問い掛けた桃城のそれもまた、触れてもいないのに硬く勃ち上がっている。こんな中途半端な状況で逃げられてはたまらない。
「手洗いで処理して帰るわ」
冷めた声で答えた忍足は、ずり下げられた下着とスラックスを大雑把に整えると、ホテルの部屋に備え付けられた手洗いに入ってしまう。その一連の流れの素早さに呆気に取られた桃城のモノは、処理をするまでもなく萎えかけていた。
それから五分と経たない内に手洗いから出てきた忍足は、妙に晴れやかな表情を浮かべていた。消化不良の桃城に、恨みがましい目線を向けられると、「振り回してしもうてすまんかったなあ」と、おざなりな謝罪をくわえた。
「今日の飲み代とホテル代は俺がもったるわ。どうせ安月給なんやろ? 金が余ったら美味いもんでも食うたらええ」
帰り支度を完璧に整えた男は、いつの間にか手にしていたやたらに高そうなブランド物の財布から諭吉を三枚抜き取ってサイドテーブルに置いた。こんな男からの施しを受けるなんて真っ平だ、そう思った桃城だが、安月給なのは事実なので、それを突き返すことも出来ず情けない気分になった。
「そしたら、またええ日があったら飲みにいこうや」
適当な口調で言った男が部屋を出て行くと同時に、桃城は大きな溜息をついた。もうあの男からの誘いにはのらない。そう心に誓いながら、諭吉を財布にしまうため通勤鞄を開く。その拍子に、鞄の中から銀色に輝く指輪が転がり出てきた。
「っ、危ねぇ」
これをなくしてしまったら洒落にならない。床に落ちた指輪を拾い上げた桃城は、鞄の中から携帯電話を取り出すと、アドレス帳を開き、目当ての人物に発信する。携帯を肩で挟み、相手が電話に出るのを待ちながら、指輪をはめ直した。通話口から若い女の声が流れ出てくる。酒を飲んでいるらしく、普段より声が高い。
「今から帰る。家で飲んでんならつまみでも買って帰ってやろうか」
アルコールのおかげで上機嫌の女は、「ケーキが食べたーい」と、浮かれた声を上げる。それはつまみじゃねぇだろ、と笑い声をあげた桃城は、左手薬指に嵌められた指輪を右手の指で何度か回転させると、サイドテーブルの上に放られた諭吉を財布にしまい込んだ。
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