リストラされる千石さん
「実はリストラされちゃったんだよねぇ」
自販機の下に百円落としちゃったんだよねぇ、とでも言うような軽さでそんな言葉を吐いた千石清純を、彼の恋人である亜久津仁はまじまじと見つめた。
ステンレス製のフォークから、コンビニモンブランの、もったいぶってとっておいた栗の甘露煮がことりと落ちる。皿の上で滑るそれを、今度はフォークでしっかりと刺してやりながら口元に持っていった亜久津に、浮かれた頭の色をした男は「それ美味しい?」と尋ねる。
「まあまあだな」
正直な感想を伝えてやると、ちょっと真面目な顔になった千石は「次はもっといい店の買ってこようか」などと言う。それに対して「これでいい」と返したのは、会社からリストラされたという千石を気遣ったから……というわけでもなく、コンビニモンブランの味に十分満足しているからだった。
「それならよかった。今はまだ貯金があるからいいけど、今後再就職するまでは生活も厳しくなっていくと思うんだ」
コンビニモンブランを土産に持った千石が、亜久津の一人暮らしの部屋に訪ねて来たのが今から三十分前。それから座椅子(千石が持ち込んだものだ)に腰掛け、亜久津がモンブランを食べるのを眺め始めてから二十分が経つ。現在の時刻は午後十一時時四十分、平日の夜中に押しかけてきて、黙りこくっている千石を怪しんだ亜久津が「用もねぇのに来たのかよ」と尋ねて返ってきた言葉が、冒頭のそれだ。
「何かしたのかよ」
「何かって?」
「理由もねぇのにクビにはならねぇだろ」
「リストラって突然されるものだと思うけどね」
そう言った千石は、オレンジの髪をかきあげて溜息をつく。ふわりと形を変えた千石の髪に手を伸ばして、容赦なく引っ張る。数本の髪の毛がぷちりと抜けて、迷惑げな表情を浮かべた千石が、痛いと呟く。
「こんな浮かれた髪の色してっからクビになったんじゃねーの」
無表情に呟くと、笑われた。そんな馬鹿な理由があるはずがないと彼は言うが、オレンジの髪を持つサラリーマンなんて、亜久津は千石以外に知らない。
「一時期亜久津がギンギラギンにしてたのと違って、俺のこれは地毛だし」
「胡散臭ぇな」
「子供の頃の写真、見たことあるだろ」
言われてみればたしかに、亜久津は千石の小学生の頃の姿を見たことがあった。ランドセルを背負ってカメラに向かって微笑む幼い千石の髪は、今と同じ色をしていた。亜久津の昔の写真も見せてよ、と言われたので、渋々幼い頃の写真をまとめたアルバムを出してやったのに「子供の頃から目つきが悪かったんだね」などと言われて腹が立った覚えがある。
「地毛でもその色はまずいんじゃねぇのか」
「だーから、髪の色は関係ないんだって。案外しつこいね、亜久津って」
「うるせぇよ」
千石はリストラは突然されるものだなどと言ったが、髪の色は関係ないと断言するからには、リストラされたのには何か別の理由があって、彼はそれがどんなものなのか知っているのではないかと思う。昔から運と愛想だけはよかった男なので、大した理由もなく会社をクビになるとは思えなかった。
「……亜久津が何を考えてんのかは分からないけどさ、リストラされたのには本当に大した理由はないんだよ。会社はいつだって人件費を削減したがってるし、」
「薄給のお前クビにしたところで大した意味ねぇだろ」
「そうなんだよねぇ。あとは、上司との折り合いが悪かったり」
「ハッ、愛想の良さしか取り柄がねぇくせに、そんなしょうもない理由でクビになったのかよ」
「……酷い言われようだな。少し傷ついた。まあ、間違ってはないけど。クビになったのも、愛想が良過ぎたせいだし」
「どういう意味だ」
無愛想なせいで損ばかりしている亜久津には、愛想の良さが仇になるような状況は想像出来なかった。そうして怪訝な表情を浮かべていると、座椅子から立ち上がった千石が唐突に抱きついてきた。亜久津の首に腕を回して「あっくん、俺を慰めてよー」と、猫撫で声を出す。相手が恋人だとはいえ、男にそんなことをされても気色が悪いだけなので無理やり引っぺがそうとしても、相手の力が思いの外強く、上手くいかない。
「そんな嫌な顔するなよ。ホモの上司にセクハラされた上に会社クビになった恋人が可哀想じゃないの?」
「ホモの上司?」
その言葉は、初めて聞いた。首に回る千石の腕を握り、今度こそそれを引っぺがす。名残惜しげに離した手を、今度は亜久津の膝の上にのせた千石は「前に話しただろ」と唇をとがらせる。
「聞いてねぇよ」
「いや、話した。絶対話した」
「てめぇのしょうもない話なんざ、」
「いちいち聞いてないって言うんでしょ。感じ悪いな。とにかく、俺はホモの上司に弄ばれたの」
「ヤられたのか」
真顔で尋ねると、太腿の肉をつねられた。ヤられてたまるか、と言った千石は微妙に機嫌が悪そうだった。
「俺が他の奴とヤってもいいわけ」
「 知るか」
「うわ、最低。答えになってないし」
千石はそう言うが、他の奴とヤってもいいのか、なんて質問すること自体がおかしいと亜久津は思う。恋人が他の人間とヤってもいいと思うような男はそうそういないだろう。
「俺は亜久津が他の奴とヤったら泣くから」
「つまんねぇこと言うな」
「なんだよ、それ。あんまりつれなくされたら浮気するからな」
「したら殺す」
強い口調で言って、膝の上の手を掴むと、彼の恋人は照れた様な表情を浮かべた。面倒臭い奴だ。しかし千石が面倒なのは今に始まったことではないので、その場では気にしないふりをする。学生の頃に比べれば随分と丸くなった亜久津は、融通をきかせることを覚えた。仕事の時には敬語だって使える。
「今のあっくん超カッコ良かった。もっかい言って」
「死ね」
「ワルだ、ワル。カッコいいなぁ」
「うぜぇ」
心底そう思った。アルコールでも入っているのかと疑いたくなるようなうざったさだ。酒臭くはないので、素面なのだろうが、それならなおさらタチが悪い。
「無職にワル呼ばわりされたくねぇよ」
「その呼び方、かなりきつい。ダメ人間みたいだ」
「無職は無職だろ」
「どうして俺が無職呼ばわりされなきゃ……仕事クビになったからか。本当にムカつくな、あのホモ上司」
脱線していた話を元のレールに戻した千石は、ホモの上司の話の続きを始めるべく口を開いた。
「前にも話したけど、亜久津が聞いてないって言うからもう一度話すね」
「無職が嫌味言うな」
「職を失って傷ついてるんだから嫌味ぐらい言ってもいいだろ。 何ヶ月か前、その上司と一緒に飲みに行ったんだよ。可愛い女の子いっぱいいる店に連れてってもらってさ、相手の奢りだったから、勧められるままにガブガブお酒飲んだんだよ。相手は上司だし、ご機嫌取らなきゃとも思ったしね。そしたら、帰り際ふらついちゃって、終電も出てるからタクシーで送ってやるって言われて車に乗ったのが運の尽き、気がついたら半裸でホテルのベッドに寝かされてて、上司が俺の上に乗っかってて、ぎょっとしたから殴って帰ったら、人事にあることないこと吹聴されてクビになった」
「結局てめぇの不注意が原因じゃねぇか」
「やっぱりそう思う? だけどまキャバクラ連れてってくれた上司がゲイだなんて普通思わないだろ」
俺って昔からここぞってときの運が悪いんだよねぇ、と千石は遠い目をする。
「中学最後のテニスの大会中に、一番強かった部員が辞めちゃったりね」
あーあ、俺ってアンラッキーだなぁ、と白々しく呟く千石の頭を小突いて、しかし流石に不憫に思えてきたのでそのまま抱き寄せてやる。らしくないと言われればそれまでなのだが、千石は大人しく亜久津に抱かれていた。
「どうしよっかなぁ……」
耳元で聞こえたその言葉に、ふざけてばかりいた千石の本音が詰まっている気がして、苦い表情を浮かべた亜久津は、彼を抱く腕に力を込めた。
翌朝は携帯のアラームが鳴らなかった。電車に乗る時にマナーモードにしたまま、それを解除することを忘れていたのだ。それでも定刻通りに目覚めた亜久津は、隣に千石が眠っているのを確認して舌打ちをする。
気持ちよさそうに寝息をたてる千石は、リストラされたばかりの無職男にはとても見えない。彼を起こしてしまわないように注意しながらベッドから体を起こして、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。寝起きの粘つく喉を潤した亜久津は、恋人の今後について考えてみた。
新卒の大学生ですら、なかなか就職が決まらない時代なのだ。まだ若いとはいえ、前の会社をリストラされた様な男の再就職がそう簡単に叶うとは思えなかった。
千石は、ちゃらけている様でいて、存外堅実な男だ。多少の貯金はあるのだろうが、それもあまり長いことは持たないだろう。現在暮らしている部屋の家賃を払いながらの生活は厳しいのではないかと思う。
あれやこれやと考えている間にも時間は過ぎてゆき、気が付けば家を出なければいけない時間が迫ってきていた。仕事もないくせに、人のベッドの上で気持ちよさげに寝こける恋人を憎たらしく思いながらも、てきぱきと出勤の準備を整えていると、ベッドの上に置いたままにしていた携帯がバイブした。滑らかな白いスーツの上を、小刻みに振動する携帯が滑って千石の鼻先にぶつかる。
「う、」
「 起きたか」
「あれ。俺、いつ寝た」
「知るか」
「ん、まあいいか。おはよう」
「俺はもう出るぞ」
「ああ、そうか。亜久津は俺と違って仕事があるんだ」
あくびを漏らしながらベッドのふちに腰掛けた千石がこちらを見つめる。双方無職のゲイカップルなんて洒落にならないだろうと亜久津は思う。
「携帯」
「はい」
自分の安眠を妨害したそれを亜久津に向かって放った千石は、再び布団の中に潜り込んだ。まだ寝る気か、と呆れる亜久津から目を逸らすようにして寝返りをうつと「この部屋寒いねぇ」と小憎たらしいことを言う。苛立った亜久津が投げたエアコンのリモコンは、彼の浮かれた頭に見事にぶち当たる。
「痛ッ」
可愛くもない声を上げた千石は、しかしその数秒後には暖房の電源を入れている。呆れた亜久津が、温もりつつある部屋から無言で出ようとすると、もう一度寝返りをうって「夕飯作っとくから」と笑う。千石が自炊をしないことを知っている亜久津は、なんとも形容しがたい表情を浮かべて、玄関の鍵を開いた。
千石清純はこのまま自分の家に居座る気でいるのではないか。会社で普段通り仕事をしている折、ふとそんな考えが浮かんだ。夕食を作っておくと言っていたのだから、少なくとももう一晩は亜久津の家に居座る気でいるだろう。そうして明日の朝もスーツに着替えて出勤する亜久津を「夕飯つくっとくねぇ」と言って、布団の中で見送る千石の姿は想像に容易い。
図々しい奴だ。そうは思うが、そんな千石を家から締め出そうとは思わない。二人で暮らしたいのであれば、さっさと自分の住居を引き払ってしまえばいいとすら思う。
若いとは言っても、亜久津も千石も周りの同級生がほろほろと身を固め始める年齢に達している。一応は真っ当なサラリーマンとして働いている亜久津は、再就職するまでの間、千石をヒモとして養ってやってもいいような気がしていた。
もっとも、ヒモの状態に甘んじることを千石のプライドが許すのかどうかという問題はあるのだが。腑抜けているようでいて妙に尖っていた昔の千石ならともかくとして、今の図々しい千石清純なら亜久津の提案をすんなりと受け止めそうな気もする。
そこまで考えて、眉間に皺を寄せた。これでは自分が千石と一緒に暮らしたいだけのようだ、と気付いたのだ。誰があんなうっとうしい奴と と、すぐさま自分の脳の軌道修正をはかるが、もう手遅れだった。あんな男さして好きでもないとは言えないくらいに、二人の付き合いは長い。惰性を嫌う亜久津が、こうも長い間同じ人間と付き合い続けることは、今後はもうないかもしれない。
豆粒みたいに小さくなってしまった冷静な亜久津仁は、あんな男といつまでも一緒にいられるかと猛っているのだが、千石清純という男に毒されきった実寸大の亜久津仁は、帰り道千石にショートケーキでも買って帰ってやるかと腑抜けている。それでもモンブランのついでに買うだけだ、とあくまで硬派を保とうとする自分が情けなく思えて苛立った亜久津は舌打ちをした。
「実家に帰ろうかと思って」
大方の予想通り、千石の用意した夕食というのは、卵を落としただけのインスタント麺で(しかも白身が固まりきっていない)、しかし亜久津のそれを横から箸でちょろちょろと掠め取る彼の放った言葉は、かなり意外な物だった。
千石の実家では、現在彼の両親と姉夫婦が暮らしているはずだ。そんなところに、とうの昔に家を出ていった息子が、リストラされたからと言って入り込むのは、どうなのだろう。相手が家族だとはいえ居心地良く過ごせるとは思えない。
「今の家の家賃払ってくのも厳しいしね」
「話は通ってんのか」
「まだだよ。リストラされちゃったから家戻らせてーなんて、そんな気軽に言えるはずないだろ。亜久津に言うのだって会社辞めてからひと月もかかったんだから」
「ひと月も前に辞めてたのか」
そうだけど、と頷いた千石と、このひと月の間に何度顔を合わせただろうか。少なくとも一度や二度ではなかったはずだが、亜久津の家を訪れる千石はいつでもスーツを着ていた。小気味良く仕事の愚痴をこぼしたりもしていたので、亜久津はまさか彼が会社をクビになっているとは思わなかったのだ。
「毎回スーツ着て来てただろ」
「なんとなく気まずかったから、普通に仕事してるフリしてたんだよ。亜久津の家来る前に着たぴしーっとしたシャツにわざわざ皺寄せてみたりね」
「虚しくねぇの」
「……就職試験受けに行くためにスーツ着てた日もあるんだよ」
言い訳がましく呟いた千石が、半分生の卵の白身を箸で掴んで「気持ち悪いなぁ」と漏らす。てめぇで食え、と言う亜久津に「明日はもっと上手くやるよ」と返した千石はいつまでこの家に居座る気でいるのだろうか。
「千石、」
「なに?」
「いつまでここにいるつもりだ」
言ってしまってから、これでは家に居座られて迷惑がっているようだ、と自身の失敗に気付く。案の定苦い表情を浮かべた千石が「亜久津が迷惑に思ってるなら今すぐにでも出ていくよ」などと言うので、亜久津は舌打ちをした。しかしこれがまた良くなかったらしく、すっかり表情を暗くした千石は、黙りこんでしまった。
ずっとうちにいてもいい、そう言ってやるだけで、この場を包む妙に重たい空気はきっと晴れるのだ。しかし普通の男なら二秒も迷うことなく吐き出せそうなその言葉が、亜久津の舌には馴染まない。
自分の持っていた箸を、どんぶりの上にかけた千石が、その場からそろりと立ち上がろうとする。このまま出ていかれてはたまらないと、反射的に宙ぶらりんの千石の手首を掴んだ亜久津が彼を見つめると、「睨むなよ」と嫌な顔をされる。
「睨んでねぇ」
「あっそ、目つきが悪いから睨まれたかと思った」
「喧嘩売ってんのか」
「そんな命知らずなことするはずないだろ」
「そうかよ」
「 手、離してよ。帰れない」
「帰るな」
「帰れって言ったくせに」
「そうは言ってねぇだろうが」
「そうとしか聞こえないこと言っただろ」
これ以上言った、言ってない、の問答を続けても時間を無駄にするばかりだと悟った亜久津は、結局は掴んだままの千石の手首を無理やり引き込み、彼の体を自分の元へ引きつけた。すっかり機嫌を悪くした千石が、家に帰りたいだのなんだの言うのを無理やり制して口を開く。
「ここにいろ」
「は、なんで?」
よもやそんな切り返しをされるとは思っていなかった亜久津は、一瞬言葉に詰まった。しかし、相手のペースに飲まれたら負けだ、という妙なプライドに駆り立てられ、予備動作もなく千石の肩を掴む。
「いろっつったらいろ。実家でプー太郎になろうが、ここでなろうが変わらねぇだろ」
今度は分かりやすいようにはっきりと伝えてやると、亜久津に体の動きを封じられた千石は、視線を彷徨わせた。猿のような形をした耳が、妙に赤い。
「……今のって嫁になれってことだよね」
「気色悪いこと言うな」
予想外の返事に、本気で不快感を覚えた亜久津は「ヒモだ、ヒモ」と言ってやったのだが、千石の耳には届いていないようだった。怪童にプロポーズされちゃったーなどと妙にはしゃぐ千石は、恐らく自分が会社からリストラされたばかりだという事実を忘れている。
「あっくん、俺指輪が欲しいなぁ」
こうもしょうもないことを言われてしまうと、厳しいことを言うのも億劫になってしまう。無職離脱出来たら買ってやる、とその場凌ぎな言葉を残した亜久津は、昨晩から続くゾッとする程に重たい疲労感に襲われて肩を落とした。
山もオチも意味もない。まさにヤオイ。
back