とろりとした山

 幼なじみというのは案外噛み合わないものだ。幼少期、私と日吉若は蒟蒻ゼリーとそのプラスチックの入れ物の様にぴったりと寄り添い合っていた。
 あの頃の私たちはお互いのことを何でも知っていた。それなのに体が成長して、男と女に別れてしまった途端、私は若のことがよく分からなくなってしまった。

「好きだよ」

 私を好きになってよ、という意図を滲ませて呟く。放課後の教室から、テニスコートを眺める若が小さな溜息をついた。
 二人きりの教室に吹き込んだ風が若のサラサラとした前髪を揺らす。切れ長の瞳が露になって、しかしそれに私の姿は映っていない。最後に若と見つめあって会話をしたのはもう随分と前のことだ。私が若のことを好きだなんて言いだしたから彼は私の目を見て話すことが出来なくなってしまった。
 ごめんね、若。気まずいんだよね、許してね。頭の中をぐるぐる回るそれらは言葉にならない。数十回目の告白への答えはもちろんNoだ。
 見込みがないことは分かっていて、それなのに私は告白を繰り返す。若は私からの告白に相当なストレスを感じているはずだ。薄い唇が色をなくしている。

「もういい加減に諦めろ」
「そうあっさりと諦められるなら若にそんな顔させてない」
「あっさりじゃないだろ」
「しつこいかな」

 若が頷いた。私は笑う。自分がしつこいことなんて理解している。

「この気持ち何年ものだと思ってるの、そりゃしつこくもなるよ」
「せいぜい一年かそこらだろ」

 若の言う通りだ。私は彼の幼なじみだが、幼いころから彼を好いていたわけじゃない。私が若に惚れたのは、私達が中学校に上がって以降のこと、身長が伸び、男に近づいていく若相手に私は手の平を返したのだ。
 私は若の男の部分に惚れた。テニスラケットを真剣な表情で振るう若は惚れ惚れするほどにいい男だ。
 男は女を好きになるものだ。女は男を好きになるのだから間違いない。性別のある生き物は異性と交尾をするように作られている。だから異性を愛せない人間は異常だ、どこかおかしい――そういうことになっている。その前提から見ると若は異常だ。若は異性を愛せない。私のことが気に入らないわけではないらしい。私は若が男だから若に惚れたのに、若からしてみれば私は女だからいけないのだ。

「若はホモだもんね」

 若がその呼称を嫌っていることを知りながらあえてそう言う。若はゲイだ。男しか愛せない人種なのだ。初恋の相手も男だったという。私は幼い頃、彼の全てを知っているつもりでいたが、彼が“そう”だとは知らずにいた。そうして現在、若の秘密を知る人間は彼が恋した男を除けば私だけだ。
 若の様ないい男を初恋の相手に選んだ私とは違い彼は男を見る目がない。彼の惚れる男の八割は変態で、残りはド変態だ。見る目がないというより変態が好きなのだろう。男の集団の中から変態を見つけだすという能力において彼の右に出る者はなかなか出てこないと思う。

「真面目そうな顔して変態男しか愛せないんだから気持ち悪い」
「同じ男に何十回も告白し続ける女も気持ち悪いだろ。病んでるんじゃないか、お前」
「幼なじみ、しかも好きな相手がゲイなんだか病みもするでしょ」
「どんな性癖を持ってても俺の自由だろ」
「そうだね、私がアンタのことを好きでい続けるのも自由だ」
「あまり困らせるなよ」

 眉尻を下げた若が俯いた。若はクールに見えて案外優しい奴なので、私に無駄な時間を過ごさせていることに心を痛めているのだ。
 若は私によく自分が好きな男の、恋人の話をしてくれる。どこで見つけてくるのか若の恋人はかなり頻繁に変わるが、毎回違ったタイプの変態なので覚えやすい。
 二人前の恋人は塗装屋だった。若はワイシャツをめくって、私にペンキで真っ赤に染まった腹を見せてくれた。
 前回の恋人は女子校の教師だった。更衣室から盗んだ女生徒の体操着の匂いを嗅ぎながら若とことに及んだその男はつい昨日変態教師として新聞に名前を連ねていた。
 若は私に幻滅されたいのだ。だから変態に犯される情けない自分について語って聞かせる。
 しかし私は若に幻滅してやることが出来ない。愛は盲目だ。変態ばかりを選んでしまうこの変態男を本当の意味で愛せるのは自分しかいないのではないかと思ってしまう。むしろ私は若が変態を愛している以上彼を諦めることが出来ないのだ。

「若は可愛いね」

 つまらない、いやある意味面白すぎる男にばかり恋してしまう若は馬鹿だ。可愛くて仕方がない。

「よく言われる」
「変態に?」
「ああ」

 それじゃあ私も変態だ、と笑うと、低い声で「よせ」と言われた。若は私のことを思ってそう言ってくれるのだろうが、私は変態になってみたい。変態の、男になりたい。そして若を檻の中に閉じ込めてやるのだ。若は抵抗するだろうか、変態を愛した自分が悪いと肩を落とすだろうか、どちらにしても悪くない反応だ。告白するたび悲しげな顔をされるよりは随分いい。

「体操着の変態とは自然消滅でしょ」
「そうだな」
「次の相手は、」
「いる」

 意外だった。昨日の今日で随分と切り替えの早いことだ。

「今度は長丁場になりそうだ。しかも負け試合にしかならない。ようやくお前の気持ちが分かりそうだ」
「負け試合?」

 戦いに挑むような口調で言う若に思わず聞き返した。今までの若の相手は全て若の様な少年に興奮する類の変態だったのだ。若はそういう変態を見つけるのがとても上手い。

「次の相手は男に興味がないからな」
「へえ、誰」

 教えてもらえるとも思わなかったが、問う。若は勝負に勝つまでは相手のことを教えてくれない。しかし今回ばかりは例外らしくあっさりと口を開いた。

「あの人だ」

 そう言って若がテニスコートの方角を指さす。私も窓のふちに手をかけてそちらに視線をやるが、勿論あの場所に立つ人間一人ひとりの顔なんて見えるはずもない。

「見えないんだけど、私の知ってる人」
「知らない奴はいないだろうな」
「……下克上」

 ぽつりと呟いて、テニスコートから視線を逸らす。若が瞬きをするのが分かった。重たい沈黙が私達を包む。やめときなよ、という言葉はすんなりと出た。それは恋する女としてではなく、彼の幼なじみとしての言葉だった。

「未来がない」
「そんなものは元々ない」

冷めた声だ。若が泣いている。涙を流さずさめざめと泣いている。

「私本当は知ってたよ」

 何を? とは尋ねられなかった。若は黙りこくって俯いている。宙ぶらりんの右手が痛々しい。

「若の初恋の相手、知らないフリして生きていきたかったけど」
「俺は分かりやすいだろ」
「わかりにくいよ。若が何を考えているかは分かるけど、どうしてそういう風になっちゃうのかは分からない」
「ゲイの気持ちが女に分かるはずがない」
「そうだね、分かってあげられなくてごめんね」

 呟きながら再びテニスコートを見やる。いや、睨むと言った方がいいかもしれない。私はどこにいるかも分からない氷帝の王を睨んだ。若が本当に好きな相手、若の初恋の人。

「恋人になれなくてもいい」
「なにそれ」
「俺はあの人の背中を追うのが好きなんだ」
「女々しいよ、すごく」

 だってそれ、私と一緒だもん。私も若と恋人になれなくてもいい。若の背中を追うのが好きだ。目を見て話せたらもっと幸せだと思うけど。

「男が男を好きになる時点でまともじゃないだろ」
「自虐のつもりかもしれないけど、それってすごく失礼な発言だよ」

 私はまともとかまともじゃないとかどうでもいいと思う。若が自然に生きられる道を選べばいい。王様はおすすめしたくないけど。

「あの人競争倍率百倍くらいありそう」
「もっとだろ」
「そうだね、たぶん東京一の高物件だもんね。じゃあ五百倍」
「妥当だな」
「あの人こんにゃくゼリーとか食べたことないよ、きっと」
「お前は好きだったな」
「若もね」
「俺は普通だ」

 そうだっけ、と笑う。若が溜息をつく。若いのに溜息の多い男だ。これじゃあ幸せになんてなれるはずがない。

「ヤモリは、」
「嫌いだ」
「早いね」
「お前のせいで嫌いに……苦手になったんだ」

 顔面を蒼白にした若が口元を手で覆う。昔のことを思い出してしまったらしい。若はヤモリにトラウマを持っている。私のせいだ。申し訳ないけど悪気はなかった。

「ヤモリ、捕まえてるときは楽しかったね」
「あの道はカメムシの臭いがした」
「草の臭いだよ。実際にはカメムシじゃなくてヤモリがたくさんいた」

 私と若は幼稚舎からの帰り、家と家の間たくさんの草に覆われた細い道を通っていた。その道にはたくさんのヤモリがいて、私達は奴らを捕まえて家に帰ることを日常としていた。

「お前が餌をやらなかったから死んだんだ」
「やってたよ、小さく切ったこんにゃくゼリー」
「……だから死体がぬめついてたのか」

 捕まえたヤモリを私は家にある虫カゴに貯めていた。飢えたヤモリはどんどん死んでいって、虫かごの中には死体の山が出来たけど若には黙っていた。言いづらかったし、ヤモリ狩りはやめたくなかった。だけどある日若に虫カゴを見つけられてしまったのだ。庭におきっぱなしにしていたのが悪かった。驚いた若が素っ頓狂な声を上げていたことを覚えている。それ以来、若は爬虫類やら虫やらが得意じゃない。

「あのときのお前は狂ってた」
「そうかな、子供だっただけだよ。今思い出すとゾッとするけど」
「俺は今でもあの道の前を通るだけで寒気がする」
「私は子供があの道から出てくると、手元を見ちゃうよ」
「嫌な思い出だ」

 そうだね、と頷いて再び考える。あのときの私は狂っていたのだろうか。若は狂っていたというが私はそうは思わない。むしろ今の方が狂っていると思う。女を好きにならないと分かりきっている男の背中を追い続けて満足するなんて正気の沙汰じゃない。それと同じで、競争率五百倍の天上人を好きになる若も狂ってると思う。

「狂った団子三兄弟だ」
「意味が分からない」
「若と私」
「二人しかいないだろ」
「仲間を探しに行こうぜ、兄弟」
「うるさい」

 フフンと笑う私の頭を若がはたいた。それと同時に若の後頭部を何者かがはたく。それも結構強く。驚いた私と若が同時に振り返ると、そこには王様が立っていた。テニスコートにいるものだと思っていたのにきっちりと制服を着込んでいる。

「部活はどうしたんですか」

 初対面なのに不躾な質問をした私を、王様が睨む。負けじと睨み返すと今度は若に睨まれた。

「それはこっちの台詞だ」

 この言葉は若に向けたものだ。そういえば若もテニス部だ。私が無理やり呼び止めたものだから、今は部活をサボってこんなところにいる。

「すみません」

 若の「すみません」は何故だか反抗的に聞こえる。ちなみに私の「すみません」はふざけているように聞こえる。
 眉間に皺を寄せた王様は、しかしそれ以上何も言わずに若の手首を掴んだ。若が息を飲むのが分かる。私は口笛を吹こうとして口を尖らせた。上手くいかずにスーという力の抜けた音だけが漏れる。

「女とイチャついてる暇があるなら練習しろ。それで俺を越える気か」
「若はあなたを越える気なんてありません」

 真理を言った私を王様は数秒見つめた。だけど結局は何も言わずに若の手を引いて歩き始める。二人が教室を出ていく寸前、困った様な顔をした若と視線がかち合った。

「あ、久しぶり」

 だけど少しも幸せじゃない。胸がざらざらする。苦笑いを浮かべた私はその場にしゃがみ込んだ。





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