ねえ、先生

初めて出会ってから三年しか経っていないというのに、この恋を自覚したあの日が随分昔のことのように思える。
卒業生の涙声の仰げば尊しを聴きながら、先生は何を想ってあの長い指を鍵盤の上で踊らせていたんだろうか?
頭の片隅、ほんの少しでいいから私のことを想ってくれていたらいいと思った。

卒業式が終わって、各クラスごとに集められた教室でクラス担任の最後の話が終わった。
周りのクラスメイト、特に女子は大抵の者が涙を流していて、それでも私の瞳は依然乾ききっている。
心がないわけではないのだ。
現に仰げば尊しを歌っていた最中には涙をこぼしそうになった。
それでも結局涙を流さなかったのは、今はまだ泣くべきときではないという気持ちの方が強かったから。
私にとっての本当の卒業式はまだ終わっておらず、未だ胸に潜めたままの気持ちは今にも飛び出していってしまいそうだ。
教室に残っていたクラスメイト達が続々と校舎を離れていく中、私は一人音楽室へと足を向けた。

*****

いつものようにノックをして、だけどそのノックの意味がなくなってしまいそうな位に素早く音楽室のドアのノブを引く。
幸い今日もいつものように音楽室の鍵は閉められていなかった。

「先生」
「……君か」
「やっぱりここにいたんですね」
「ああ、ここの窓からは別れを惜しむ生徒達の様子がよく見える」

珍しく笑顔を浮かべた榊先生はそう言って私を手招きした。
私は先生に自分の存在が認められたようで嬉しかったけど、こんな風に先生と言葉を交わすことも明日からはなくなるのだと実感してどうしようもなく悲しくもなる。
それでも複雑な胸中を察せられないように笑顔を浮かべて、先生の隣に立って窓から皆の様子を見下ろした。
別れを惜しんでいるのは何も生徒だけではなく、卒業式で涙ぐんでいた先生達も同じこと。
卒業生と関わりのあった先生の殆どはこの音楽室の窓から見える校庭に出て、卒業生達と会話に花を咲かせていた。
榊先生はなんであの輪の中に入ろうとしないんだろう……ふと思い浮かんだ疑問を私が口にするよりも先に先生が口を開く。

「君はあの輪の中に入らないのか」
「……えっ」

私の考えていたことと全く同じことを考えていたらしい先生に驚いて、私は間抜けな声をあげた。
不信げな表情になった先生が「どうかしたのか」と尋ねてきたけど黙って首を振る。

「私はいいんです」

皆とは集まりたいときに誘いあって遊ぶことだって出来る。
だけどこの音楽室で先生の隣に立っていられるのはきっとこれが最後だから。

「よくない」
「せんせ?」
「中学の卒業式は一生に一度しかないんだぞ。
それを友人達の姿をこんな中年教師と眺めて終わるだなんてとんでもないだろう」

先ほどまでとは打って変わって厳しい表情になった先生はそう言って私の背中を押した。
どうやら出ていけと言いたいらしい。

「……分かりました、皆のところへ行きます。
だけど、その前に一つだけお願いがあるんです」
「なんだ?」
「蛍の光を弾いて下さい」
「そんなことでいいのか?」

私がこくりと頷くと、先生はひとつため息をついて蛍の光を弾き始めた。
先生の指が奏でる柔らかい音を耳で感じながら、私は歌い始める。
卒業式では歌うことのなかった蛍の光を。
卒業式で歌った仰げば尊しと違って、この歌は音楽の授業で練習をしたことがない。
それでも私が歌詞に詰まることも、音程を間違えることもなく歌うことが出来るのはテニス部の部活のない放課後に先生と何度か練習をしたからだ。
先生は私が音楽の授業に熱心な生徒だと思っているから、練習の必要のない蛍の光を見てほしいと初めて言ったときにもさして違和感を持った様子はなかった。
私は卒業までのふた月程、殆ど毎週放課後の音楽室に通い、先生と二人きりでいられるという幸せな時間を過ごしていた。
四番を歌い始めたとき、私は思い出す。
先生との最後の練習になった先週の放課後、、

『先生とこうして歌の練習をするのもこれが最後なんですね』

と言った私に先生が言った言葉を、そのときの表情を。

『ああ……置き去りにされるような気分だ』

先生は酷く切なげな表情をしていた。
その言葉に驚いた私の表情を見て、自分が何を言ってしまったのか気がついたらしい先生はすぐにいつもの厳しい表情を取り戻して、

『今私が言ったことは忘れなさい』

そんなことを言ったのだった。


*****

蛍の光を歌い終わって、さすがだと誉めてくれた先生に、

「これで名実ともに私も卒業です」

なんて笑顔で言えば、先生は当たり前のように「卒業おめでとう」と言ってくれた。
いよいよ先生との別れが辛くなってきた私は、唇を弱々しく噛みしめてから、思い切ったことを言ってみる。

「ねえ、先生」
「なんだ?
もう外に出るんだろう」
「……先生は、本当は私にこの場を離れてほしくないんじゃないですか?」

馬鹿げた質問だっていうのは分かってる。
それでも……先生の寂しげな表情が忘れられない私は、少しでも長く先生の側にいたい私は、そう言わずにはいられなかったのだ。
ため息をついた先生は、

「私をあまり困らせないでくれ。
君は早く音楽室から出ていくべきだ」

私を突き放すようにそんなことを言った。
私は泣きそうになりながら、それでも必死に堪えて笑顔を浮かべる。

「……先生も一緒に」
「私はいい」
「榊先生、」
「私はもう君の先生ではない」
「……らしくないですよ、そんな大人げないことを言うなんて」

言い切った瞬間に先生があの時と同じ、酷く寂しそうな表情をしていることに気がついた。
それをとっかかりにして押さえ込んでいた感情が一気に溢れ出す。

「先生、私……ずっと先生のことを見ていたんですよ」
「私のことを見ていた?」

喫驚した様子の先生は本当に私の気持ちには気づいていなかったらしい。
四十を三つも過ぎているのに案外鈍感な人なのだ。

「そうです、先生を見ていたんです。
ねえ先生、先生から見た私どんな生徒でしたか?」
「……君はとても真面目な生徒だった。
音楽を愛していたし、誰よりも歌うことに熱心だった」
「ごめんなさい、ぶっぶーです。
私は音楽を好きだと思ったことなんてありませんし、音楽以外の授業はお世辞にも真面目に受けていたとは言えませんから」
「……」
「それなら何故、って顔してますね。
簡単な理由ですよ。
私、先生のことが好きだったんです」

榊先生さっきよりももっと驚いた様子でピアノに寄りかかった。
私はここまで言ってしまったらもう後に引くことも出来ないので畳みかけるように自分の気持ちを吐き出しきる。

「初恋なんです……お父さんより、お母さんより、誰よりも先生が好きなんです」
「君は尊敬の念を恋情だと勘違いしているだけだ。
もしもそうでなかったとしても、思春期に好きになった相手のことなどすぐに忘れる」
「勘違いなんかじゃありません!
それに、そんな簡単に忘れられるはずないです……。
だって一年生のときからずっとずっと好きだったんですよ。
報われないって分かってても、先生への気持ちを断ち切ることなんて出来なかった……そんな、私の三年間の想いが簡単に消え去るとは思えません」
「……すまない」



私を傷つけてしまったと思ったらしい先生はそう言って私の頭に手をのせた。
そのまま撫でられるのかと思いじっとしていたのだが、一向に先生の手が動く気配がないので恐る恐る「先生?」と呼びかける。
先生は私の名前を呟き、こう続けた。

「先ほど君は私から見た君はどんな生徒だったか聞いたな?」

こくりと頷いた私の頭の上で、先生の手がようやく動いた。
せっかくの卒業式だからと念入りにとかしてきた髪の毛が先生の手によってくしゃくしゃと乱れていく。

「私の答えは不十分だった」
「不十分、ですか?」
「ああ」
「それなら先生は結局私のことをどういう風に見ていたんですか」

私の頭を撫でる手の動きをもう一度止めた先生はゆっくりと口を開いた。

「私は君のことを娘のように思っていた。
廊下や、食堂……どんな場所でも私を見つければ笑顔で駆け寄ってきた、あどけない君は独身男の私に娘が出来たかのような錯覚を覚えさせた」
「娘……ですか」

そういえば前に忍足に言われたことがある。
他の生徒には厳しい顔しか見せない榊先生が私と接するときだけはほんの少しだけ優しい顔をする、と。
あれは私に対して父性を抱いていたからだったのだ。
つまり先生は他の生徒を見るのとは違った目で私を見ていたということで、それは私にとって嬉しい事実なのだけど、

「娘じゃ嫌です」

ワガママな私はそんなことを言ってしまう。
先生を困らせたくはないのに。

「そうか」

口を開いた先生は意外にも穏やかな表情をしていて、私は少し戸惑う。

「これから私が言おうとしている内容は教職者としては最低のものだ、それでもかまわないか」

よくないならこのまま黙って部屋を出て行きなさい、先生はそう言った。
先生は「私はもう君の先生ではない」なんて自分から言ったばかりなのに。
もう忘れてしまったのだろうか。

「先生はもう私の先生じゃありませんから」

先生から受けた言葉をそのまま返せば、フっと笑った先生が「矛盾している」と言った。
私も微笑み返して、小さく頷く。
すると急に真面目な顔になった先生が私の目をまっすぐに見据えた。
私は先生がこれから何を言うのかなんて検討もつかない。
ただ、これから先生が言うことによって私と先生の関係が変わってしまうのだということだけは理解出来た。
先生はもうそのための覚悟を決めたのだ。

「先生、大好きですよ」

私もまた覚悟を決めた、その意志を表すためにもう一度幼い告白をする。
この幼い恋心をいつまでも抱いていられるのだろうか、そんなことを考えてしまって今日初めての涙が頬を伝った。
全ては先生の言葉次第で、私がいくら考え、悩んでも仕方がないことだとは分かっているのに。

「私が君のことを娘のように思っていたのは君が二年生の夏を迎える頃までだった。
二年生の夏休みがあけ、久しぶりに私に声をかけた小麦色の肌の君は休み前よりも随分大人びて見えた」
「自分ではよく分からないんですけど」
「そういうものだ。
こんな私でも生徒達の成長を実感するときは嬉しく感じられた。
たったの三年間で子供から大人へと変わり、卒業していく生徒を見守ることにやりがいを感じていたからこそ二十年弱も教員を続けてきた……だが、私は君の成長を喜ばしくは思えなかった」
「……」

先生は実は私のことを嫌っていた?
だから私の成長は喜ぶことが出来なかった?
最悪の考えが頭によぎり、言葉を失った私は睫を伏せた。

「三年に進級し、桜が散るころには君はもう完璧に大人になっていた。
私はやはり君の成長を喜ばしく思えなかった、その理由が分からずに随分長いこと悩んだ気がする」
「……答えは出ましたか」

私の問いに先生は小さく頷く。
ああ、だけど……これ以上何も言わないでほしい。
覚悟を決めたなんて言ったけど、先生に嫌いだなんて言われたら私の心はきっと死んでしまうから。
胸の痛みに耐えるためにいつもよりほんの少し長いスカートをきゅっと掴んだ瞬間、

「私は君に恋をしてしまった」

先生が口にした言葉は張りつめていた緊張の糸を解くには十分なもので、ぽかんと口を開いた私は声になりそこなった吐息を漏らした。

「どうしたんだ?」
「どうしたんだって……驚いているんですよ、私てっきり先生に嫌いだって言われるものだと思ってましたから」
「私が君を嫌う?
そんな馬鹿なことあるはずがない」
「……だけど、先生は私が大人に近づいていくのが嫌だったんでしょう」

小さな声でそう言った私に、先生は困ったように微笑む。
しばらくして、私の右の頬が暖かいものに包まれた。
それが先生の手のひらだと気づいた瞬間、呼吸が止まってしまうのではないかと思う位の緊張が体を走る。

「君は綺麗になった」
「せん、せ……」
「老いていくばかりの私と違い、君はこれから華の盛りを迎える。
周りの男は君を放っておかないだろうし、君も若い男と恋をするだろう。
そんなことを考えると君の成長を素直に喜ぶことが出来なかった……馬鹿馬鹿しいだろう?
四十も過ぎた男が三十近くも年下の少女のことで悩むなんて」
「……たしかに、そうかもしれません。
先生の悩みはとても馬鹿馬鹿しいものです」

私がそう言うと、先生の手が頬から離れていきそうになった。
私は離れていってしまいそうな先生の手の甲に自分の小さな手を重ねて、更に言葉を続ける。

「だって先生……私は先生が好きなんです。
若い男の人なんかよりも先生の方がずっと素敵だって思ってます、それなのに先生がそんなことで悩むなんて馬鹿馬鹿しいですよ」

跡部や忍足、宍戸君……中学生活でたくさんの素敵な男の子と親しくなった。
皆のことをカッコいいと思うこともあったし、皆はいつも私に優しかった。
だけど、それでも私がそんな皆を好きになるなんてことはありえない。
私が恋しく思う相手は先生しかいない。

「ねえ、先生……私これからも先生を好きでいていいんですか。
高等部の校舎からここまで会いに来てもいいんですか」
「ああ」
「先生、私と付き合ってくれるんですか」
「……」

最後の質問に対して、先生は何も言ってはくれなかった。
ただ、私がもう一度念を押すように、

「好きですよ、先生」

そう呟くと、先生の私の頬を包んでいた手が腰に回され、体ごと先生の元へ引き寄せられる。
これ以上の答えはない、そう思った私は小さく微笑んでそっと瞳を閉じた。



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