涼しいうなじ 私は亜久津仁という男に恐怖心を抱いたことはなかった。 確かに奴はいつも獣のようにぎらぎらした眼をしているし、中学生だとは思えない位にガタイが良いし、髪の色なんか銀色だ。 それでも、そんなことは幼い頃から奴と過ごしてきた私にとっては取るに足りないことなのだ。 奴を恐ろしいというクラスメイトの気持ちを理解できないでもない、それでもやはり私はこの先も永久に奴を恐ろしく思うことはないと思う。 現状私はあの獣のことを恐ろしいと感じるどころか、美しいとすら思っていて、今日も奴に呼び出されて奴の家のドアの前に立っている。 ドアの脇のチャイムを鳴らせばどうなるのか、私はよく分かっていた。 それでも、食われると分かっていても、私は自ら望んでこのドアを開かせるために奴を呼ぶ。 ***** 仁は週に一度は私を抱く。 優しい愛撫も、甘い言葉もなく、私が壊れてしまわない程度に激しく。 私は仁とするそういうセックスが好きだった。 マゾではないけど、痛いくらいが調度いいと思う。 私たちは恋人同士ではないし、どう転んでもそういう関係にはならないと分かっているからこそ私は仁に抱かれる。 恋情の混じったセックスなんて最悪だ、気持ち悪い。 恋なんて出来るはずないし、したくもない。 私は昔からそう思っていて、確認をとったわけではないけどきっと仁もそう思っているはずだ。 私たちは似たもの同士だからこそお互いを求め合うのだから。 ***** クラスの友達に今日の放課後はテニス部の練習を見に行こうと誘われた。 テニスが好きなわけでもないのに、そんなもの見てどうするの? なんて、野暮な質問はしなかった。 私は彼女がテニス部の、あのオレンジ色の髪をした女好きの男を好いているとしっていたからっだ。 彼女がオレンジ(名前は知らない)を見つめている隣で私は仁を眺めていた。 似合わないラケットを握った白い腕が伸びる、私がいつも見ている仁の肢体はテニスをしているとなおさら綺麗だった。 銀色の髪を少しも乱さずに試合を終えた仁はテニスコートを出たときに私からの視線に気付いて眉間に皺を寄せる。 仁の様子に気がついた隣の彼女は、 「あ、くつ君がすごい怖い顔してるよ。 なんでだろ……」 と怯えていたけど、私は少しそっけなく、 「さあ」 と言って仁から視線を離すだけだ。 私が仁に抱かれていることは彼女は勿論誰も知るはずのないこと。 私と仁の間に少しでも接点があると思っている人間だっていないだろう。 幼い頃はともかくとして、中一のときにお互い面白半分に初めてのセックスをして以来、私と仁は彼の家以外で口を利いたことがないのだから。 ……よく考えたら変な関係だ。 苦笑しながら先程まで仁の立っていた場所に視線を戻す。 困った様子できょろきょろしている一年生の男の子が立っているだけで仁の姿はなくなっていた。 もう帰ったんだ、そう思った瞬間にスカートのポケットの中で携帯が振動した。 取り出して確認するまでもなくメールを送ってきた相手と内容を察して立ち上がる。 どうしたのかと尋ねてくる彼女に、 「用事が出来た、ごめん」 それだけ告げて、私は走り出した。 向かうのは勿論仁の待つアパートの一室だ。 ***** 今日はいつもより手酷く抱かれた。 長く伸ばした髪の毛を引っ張られ、体はスプリングのきしむベッドに押さえつけられるように沈み込まされる。 そして全ての行為が終わって、ブラウスのボタンを留める私に仁は尋ねた。 「今日、なんであの場所にいた」 「私の隣にいた子があのオレンジのこと好きだったから……別に仁を見にいったわけじゃないよ」 たった今火をつけたばかりの煙草を口にくわえた仁は私を見やって何か言おうとする。 「なに?」 ブラウスのボタンを通しきって煙草をかすめ取れば、仁は不愉快そうに眉をひそめつつも口を開いた。 「千石のことか」 「せんごく?」 「髪がオレンジの、」 「あー……あの人ね」 千石って言うんだ。 知らなかった。 「下の名前なんていうの?」 どうせ知らないだろうと思いつつも、そんなことを尋ねてみた。 友達の好きな人間の名前くらい知っておきたいと思ったのだ。 ……名字すら知らなかった人間のいうことじゃないかもしれないけど。 私から煙草を奪い返した仁は、肺まで送りこんだ煙と一緒に、 「きよすみ」 それを吐き出した。 「オレンジ、きよすみっていうの?」 「清純できよすみだ、似合わねえだろ」 「たしかに」 全然似合ってないオレンジの名前に少し驚いて、だけどそれ以上に私が驚いたのは、 「……珍しいね」 仁が他人の名前を漢字まで含めて覚えていたことだった。 「仁がフルネーム覚えてる人なんで殆どいないんじゃない?」 「毎日部活で顔合わせてれば嫌でも覚えるだろうが」 ……毎日なんていう程真面目になんてしてないくせに。 大体だからって漢字まで知ってるのは少し変だ。 「もしかして、仲いいの?」 「あいつが勝手につきまとってくるだけだ」 「へえ」 勝手につきまとってくるだけ、か。 この男は自分が何者なのか忘れてしまったのだろうか? 亜久津仁が自分につきまとってくる人間を野放しにするなんてことはありえない。 容赦なく拳をふるえばそれで全てが解決するんだから。 それをしないということはつまり、仁がオレンジが自分の側にいることを許容しているということなのだ。 ……変なの、私が見る限りオレンジは仁が最も苦手とするタイプの人間に見えるのに。 「どうした」 「……どうもしない、帰る」 「はあ?」 「つまんないから」 私は仁が変わりつつあることを感じとっていた。 そしてそれがつまらなかった。 毎日部活に出て、普通に友達を作る仁……そんなの私は求めていない。 そんな仁は気持ち悪い。 * 仁と、その少し後ろを歩く人間とすれ違ったとき、私は無表情を保てていたのだろうか。 ……自信はない。 携帯灰皿を持って仁の側にいたのはあのオレンジではなかった。 饒舌に何かを語りながら仁の後ろについて歩いていたのは確か仁のクラスの女の子だ。 私は仁が同い年の女と外を歩いているところを見たことがなかったから、酷く驚いて、一瞬それを表情に出してしまいそうになった。 きゃんきゃんと響く彼女の声が十分に遠ざかったのを確認してから振り返る。 随分距離は離れてしまっていたが、今はまだ二人の姿を確認することが出来た。 彼女の手が仁の左腕に伸びて、だけど避けられる。 その拍子に少しだけ歩調を緩めた彼女は一体どんな表情をしているのだろうか。 彼女の前を歩く仁には分からないし、彼女の背中を眺める私にだって勿論分かりやしない。 ただ、彼女が仁を好いているのはよく分かった。 きっと仁も分かっていると思う。 そして、仁は現状では恐らく彼女を好いてはいない。 それは言い切れる。 ……だけど、 「自分を好きだって分かってる人間を側においておくなんて……」 やっぱり最近の仁はなんだかおかしい。 それからしばらくして仁からメールが来た。 内容はいつもと同じ、ヤりたいから家に来いっていうメール……ヤりたいとは書いてなかったけど。 自分を好きな女の子と歩いてた足で家に帰って、そのまま呼び出した別の女を抱くなんて、亜久津仁って奴はやっぱり最低な男だ。 黙って抱かれる私も、私だけど。 ぼんやりしていると、仁の白い指が私の長い髪に絡まった。 狭いベッドで、馬乗りになって私を見下ろす仁に、 「仁ってばサイテー」 と言ってやって、にんまり笑う。 私の言葉の意図が分からない亜久津はいらついた様子で私の耳に噛みついた。 尖った痛みが心地よくて、私はそっと瞳を閉じる。 それが仁との最後のセックスになるだなんて、少しも思ってはいなかった。 ***** 授業が始まった頃、教室の窓から鞄も持たずに門を出るオレンジを見た。 四階の教室からだから、勿論顔なんて見えやしないんだけど、あんな蜜柑みたいな頭をした奴は他にいないから間違えようがない。 授業が終わったら彼を好きな友達にそのことを伝えようと思ってたんだけど、それは叶わなかった。 授業が終わりかけの頃にオレンジとは違って鞄を持った銀色頭が門の外へ出ていくのを見つけてしまって、それにつられて私も鞄を持って学校を出たからだ。 当たり前だけど、私が門を出たころには仁の姿はもうなかった。 仁の追跡は諦めて教室に帰ろうかと思ったけど、その数秒後に授業開始のチャイムが鳴ってしまったからそうもいかなくなった。 ため息をついて、歩き出す。 向かう場所は数日前に訪れたばかりの仁の家だ。 ***** アパートの部屋の前に立つ私は目を見開いて固まっていた。 薄いアパートの壁を通して、仁と、彼と一緒にいる誰かの会話が聞こえてきた。 仁と一緒にいる相手は明らかに男なのに、何故だか好きだとか、キスをしてほしいだとか、愛の言葉を紡ぎ続けている。 それに対して歯切れの悪い返事を繰り返す仁はまるでらしくない、こんなおかしな状況で相手の男を追い出さないのも不可解だった。 混乱する頭を冷ます為に、私が深呼吸したとき、相手の男の声に悲痛な色が混じり始めた。 これ以上この会話を聞いていてはいけない、そう感じた私は出来るだけ音を立てないようにアパートの階段を降りて、階段の裏の死角に立つ。 性格の悪い私は仁に愛を囁く男の顔を見てみたいと思ってしまったのだ。 ***** どれぐらいその場所に立っていただろうか。 空腹を感じながら眉をひそめる私の耳に、アパートの階段のきしむ音が入ってきた。 来た……察して、息を潜めて男を待つ。 しばらくして、階段を降りきった男の姿が私の目に写った。 その男はオレンジ色の頭をしていて、赤らんだ頬に左手を、血の滲む唇に右手の親指を添えていた。 ……やっぱり、オレンジか。 私の存在に気付く気配もないオレンジは、ぽろりと一筋の涙を流した。 そして小さくはにかむ。 悲痛な色の感じられない涙を目の当たりにした私は一瞬息が止まりそうになって、もう一度深呼吸をする。 血の滲む唇を舐めて、涙を拭ったオレンジは歩き始めた。 彼の背中を見送る私は、小学生の頃に私を守ろうとした仁が中学生の集団に囲まれて、初めて喧嘩で血を流したときのこと、優紀ちゃんのいない仁の部屋で初めて仁と繋がり合ったときのこと……とにかく今までの仁との思い出を思い出していた。 数ヶ月前に仁の口から発せられたオレンジの名前が頭の中で反響する。 私が仁に最後に名前を呼ばれたのはいつのことだっただろうか? ……思い出せなかった。 それ位に遠い過去のことなのだ。 「……仁が恋をした」 呟いてみて、初めて実感が沸く。 なんだか置いてけぼりをくらったような気分だった。 「好きだから抱かれてたわけじゃない」 そう言って、私はポケットから取り出した携帯の液晶を見つめた。 ***** あれ以降私の携帯が仁からのメールによって震えることはなかった。 それでも私の生活のペースは殆ど変わらなかった。 私の生活は自分で思っていたほどには仁に干渉されてはいなかったのだ。 あれからオレンジと歩く仁を何度か見かけた。 少し表情が柔らかくなっている気がした。 まるで小学生の頃に戻ったみたいに。 変わった仁とは対照的に、私は何も変わらない。 変わったのは、あの日長かった髪の毛を切ったこと……それくらいだ。 * 古い作品だからか場面が細切れで読みにくいですね [back book next] ×
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