Look down on red.

 私は嫌な女だ。人を見下すことでしか自分を保てない。例えばクラス替えで隣の席になった女の子、性格はいいけど頭は悪いし太ってる――痩せたところで私の方が可愛いけどね、なんて思っちゃう。そんな性格の悪い私の恋人は、やはり性格の悪い男で、勉強が出来て、顔が良くて、所属しているテニス部ではレギュラーらしいけど、他人を見下してばかりいるので今一つ小物感が拭い去れない。しかも眼鏡、青縁眼鏡。そんな青縁眼鏡が最も馬鹿にしているのは眼鏡と同じテニス部で、私のクラスメイトでもある切原赤也だ。

『切原はテニスは少々上手いが、頭は悪いし顔も大したことがない』

 眼鏡はいつも彼について私にこう語ってきかせる。切原のことを頭の悪い天パだとしか思っていない私は、『そうかもね』と返す。私も彼と同じように切原を馬鹿にしていた。
 その普段からカップルで揃って馬鹿にし切っている相手、切原赤也が、今学校を出ようとしている私の目の前に立っている。場所は大学裏口付近の田んぼ脇の畦道。農学部所有の水が張られただけで何も植えられていない状態の田んぼを切原が眺めている。私はそんな奴の後ろを素通りしようとしていた。アンタ部活は? などと聞いてやれるほど私と切原は親しくないのだ。

「よう」

 存在に気付かれたくはなかった。しかし畦道は自転車の通行も許されない程に狭い。忍者でもない私が切原に気付かれずに通り抜けることは不可能だった。

「バイバイ」

 溜息をついた私が仕方なく返事をすると、切原が私の行く手を遮る様に目の前に立ちふさがった。

「なに? 迷惑なんだけど」
「カンジ悪いな、お前」
「切原に愛想良くする必要ないでしょ。それで、何か用?」
「田んぼ入らねえ?」
「はあ? 田植えでもさせるつもり」
「それは俺たちの仕事じゃねえだろ」
「じゃあ、」
「気持ち良さそうじゃねえ?」

 切原の視線が田んぼの水面を捕えた。土色をした田んぼの水は足をつけて気持ちいいような代物にはとても見えない。

「気持ち悪そう」
「来年、高校生になったら授業で田植えするらしい」
「興味ない」
「泥の感触は面白いんだってよ」
「誰情報?」
「姉貴」
「附属高校?」
「二年」
「へえ」

 お姉ちゃんも天パだったりするのかな。そうだとしたら少し可哀想……なんて言ったら失礼か。

「なあ、入ろうぜ」
「どうして私を巻き込みたがるの?」
「共犯者がほしいんだよ」
「友達誘いなよ」
「こんな馬鹿らしいことよっぽどの暇人じゃねえとやらねえだろ」
「私のこと馬鹿にしてるでしょ」
「だってお前、いつもつまんなそうな顔してんだろ。田んぼ入ろうぜ」

 たぶん楽しいからと呟いた切原は赤いラインの入ったスニーカーと、アングルソックスをその場で脱ぎ捨てた。私は小さな声で、「馬鹿らしい」と吐き捨てて、それなのに切原が田んぼに入っていくのを見つめていた。

「気持ちいい?」
「意外に水が冷たいな」

 泥の感触を楽しむように足踏みをした切原が笑った。私は思わずローファーの踵を持ち上げる。少し入りたくなってきたのだ。

「お前も来いよ」
「足切ったりしたら危ないでしょ」
「切ったら絆創膏貼りゃいいだろ」
「馬鹿だ」

 私は切原赤也という男を心底馬鹿にして鼻で笑った。しかし気が付けば畦道に踵を持ち上げた方のローファーが落ちている。私はもう片方のローファーも脱ぎ捨てて紺のソックスに指をかけた。

「結局入るんだろ」
「うるさい」

 苛立ちながら返して、二足のソックスを一まとめにする。裸足の私の爪先を見つめた切原が、意外げな声を漏らした。

「爪、青いんだな」
「ああ」

 そういえば爪、青く塗ったんだった。優等生とされている私がペディキュアを塗っているなんて知ったら先生たちはどんな顔をするだろう? なんて、幼稚な反抗心で誰にもバレない場所を青く染めた。
 青く染まった足の親指を水につける。切原の言うとおり中の水は冷たかった。両足を田んぼに沈め切って、切原を見つめると田んぼの泥を足の甲で持ち上げていた

「気持ちいいか」
「悪くない」
「そうかよ。――爪、」
「なに?」
「赤く塗れよ。そんな辛気臭い色やめて」
「辛気臭い?」

 青という色にそんなイメージを抱いたことのなかった私は目を丸くした。青といえば爽やかで、綺麗で、だけどどこかお高くとまっている色……そんなイメージだ。

「よく分からないけど、私赤は嫌いだから」

 今のは嘘だ私は赤が嫌いじゃない。だけど赤は切原赤也の色だから、ここで赤を肯定するのは見下しているはずの切原自体を肯定するようで嫌だった。

「お前やっぱり嫌な女だな」
「知ってる」

 適当に返しながら足踏みをする。足の裏にへばりつく泥が不思議と気持ち良かった。


*****


 それから一週間も経たない内に、私は青縁眼鏡の練習試合を見るため休日登校していた。テニスというスポーツに少しの興味も抱けない私は、彼の誘いを断ろうとしたのだが、相手の部活を見に行くのも恋人としての勤めだなどと言われてしまえばそれも叶わぬ夢となった。
 眼鏡は三年になってからレギュラーになったらしいが、去年の内からきっちり努力していたのだろう。素人目に見ても普通に上手いテニスをした。周りのギャラリーの女の子達も眼鏡に対して黄色い声をあげている。スポーツの出来る男というのはそんなにいいものなのだろうか。私はそうは思えない。プロになるわけでもあるまいし、部活でやるスポーツなんて所詮趣味に過ぎないじゃないか。それがいくら出来たところで、勉強の出来る人間には叶うまい。まあ眼鏡は勉強も私より出来るけど。
 眼鏡の試合が終わってしばらくが経った頃、切原赤也がコートに出てきた。瞬間、ギャラリーの雰囲気が先ほどまでとは一変する。皆一様に緊張した面持ちを浮かべ、切原赤也を見つめていた。
 切原赤也の相手は向こうのチームのエースらしい。近くのギャラリーがエース対決だと言っていたので間違えはないだろう。
 そうして試合が始まった。素人の私が素人目に見て感想を述べる。切原赤也はすごかった。切原のテニスは上手いだとか、努力してきたんだろうだとかそういうことを思わせるレベルを遥かに凌駕している。暴力的な程にすごいテニスだった。ボールを捕える瞳の本来であれば白い部分は赤く充血していて恐ろしいが、それでも私は奴のプレイから目を離すことが出来なかった。
 不意に頭の悪い彼を馬鹿にしていたことが恥ずかしく思えてきた。切原は秀才ではないが、テニスという一分野においては天才だ。そんな天才を、少し勉強が出来るだけの私が馬鹿にしていた。なんと恥ずかしい勘違い女なのだろうか、私というやつは。彼の目がテニスボールを追っている。真剣な表情はイケメンと呼ばれる者のそれからは離れていたが、男らしくある種魅力的だった。胸の奥で劣等感が火の粉をあげはじめている。そしてそれは大きな火柱へと成長していき、私は、


*****


 練習試合が終わった後、私は青縁眼鏡に別れを告げた。切原赤也を知った私は、彼に魅力を感じることが出来なくなっていたのだ。
 そうして今日も私は畦道に立っている。田んぼには水が張られているだけだ。私は畦道にかがんで水のなかを泳ぐおたまじゃくしや、名も知らぬ小さな生き物を見つめていた。
 そうしている内に背後で足音が聞こえてきた。切原赤也だ。振り返った私は奴を睨むようにして見上げた。

「田んぼ、入るのか」
「アンタは?」
「入る」
「じゃあ入る」

 私は立ち上がって、ローファーを切原赤也の足元へ転がした。切原が、「きちんと揃えて脱げよ」と眉間に皺を寄せる。それを無視して紺のソックスを脱ぎ捨てると、切原の視線は私の爪先に釘付けになった。

「赤は嫌いだったんじゃねえのかよ」

 拗ねたように呟く。私はそれがおかしくて小さく笑って、

「情熱を見せびらかしたくて」

切原の手首を引いた。



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