かげおくりしてた頃 それは海原祭の打ち上げから帰宅する最中に起きた。 俺は同じクラスの、特別親しいわけでもない古畑という女子と二人きりで帰っていた。 ただ変える方向が一緒だっただけで、俺が彼女に好意を寄せていたとか、そういう理由からじゃない。 俺は恋人にフラれたばかりで、打ち上げで変にテンションが上がってしまっていて、それは隣にいた古畑も一緒だったと思う。 古畑は中学生だというのに異性関係が派手で、そのときも新しい恋人が出来たばかりだった。 こう書くと、古畑が軽薄そうな見た目をした女子だとイメージする人が多いと思うけど、古畑は見た目だけで言うと“そういうタイプ”には見えない。 古畑の第一印象は真面目そうな子だったし、今だって地味だとまでは言わないにしても特別派手な格好はしていない。 そんな大抵の人に堅苦しい印象を与える容姿をしているというのに、古畑真理佳という人間はいつも気の抜けたような表情をしているし、教室内に「あはは」という何も考えていなさそうな笑い声を響かせている。 特別優れた容姿をしているわけでもないのに不思議とモテるのは、言動の一つ一つに隙があるように感じさせるからだと思う。 とにかく、容姿的には“そういうタイプ”でなくても、古畑は十分すぎる程に軽薄な人間だ。 今だって新しい恋人の話をしているけど、いつ別れるか分からないだとか、大して好きでないだとか、ロクでもないことばかり語っていて、終いには他に好きな人がいるとまで言っている。 ゆっくりとしたペースで自転車をこぐ隣りの古畑に、 「恋人が可哀想だよ」 言ってやってから溜息をつく。 すると、俺の溜息を間違った意味で捉えてしまったらしい古畑は、フラれたのがショックなの? なんて言って、俺の顔を覗き込んできた。 何でコイツが俺がフラれたことを知っているんだろうか、不思議に思いこそしたけど、人の口に戸は立てられない。 友達の多い彼女のことだ、噂好きの友人にでも聞いたのだろう。 「少しは落ち着いたけど、やっぱりまだショックだよ」 こうも正直に心情を吐露する必要はなかったと思う。 だけど今の俺は本当に参ってしまっていて、行き場のない感情をどこかに吐き出したいと思っていた。 そしてそれは部活の仲間ではいけなかった。 もっとどうでもいいような相手でないといけなかった……だから古畑に言ったんだと思う。 単に打ち上げの後でテンションがおかしくなっていたというのもあるんだろうけど。 俺の言葉を受けた古畑は表情を暗くして、自転車をこぐ速度を更に緩めた。 意外な反応に驚いている俺に、 「人に好きになってもらうのって難しいよね、幸村君」 そう言って、 「私にも苦しいときはあるのです」 と収める。 恋が苦しいだなんて言葉からは対極に位置しているのが古畑だと思ってのに。 失恋の痛みなんて感じていないかのように次の恋に移り続ける古畑でも、本当は苦しい思いをしているのだろうか。 俺が考えを巡らせようとしたころには彼女は気の抜けたような笑顔を取り戻していて、軽い調子で、 「慰めてあげようか」 なんて言っていた。 さっきの言葉は漫画の台詞でも真似て言ったものなのだろう、そう結論づけた俺は笑った。 慰めてあげようか、なんて得意げな表情で語ってこそいるが俺は知っている。 古畑は人を慰めるのが下手だ。 特に恋愛が絡む悩みだとそれは顕著になる。 当たり前だと思う。 古畑は恋愛に関して一般と同じ価値観を持ちあわせてはいないんだから。 「幸村君は私なんかが自分のことを慰められるわけないって思ってるよね。 ……仕方ないか、私言葉をひねり出すのド下手だし」 俺の考えを見透かしたらしい古畑は笑いながら言葉を続け、普段よりずっとタチの悪い、悪ふざけのような言葉を口にした。 「だから舌で慰めてあげるよ。 性欲発散したらスパっと楽になるかもしんないじゃん?」 ***** 「幸村君」 目が覚めたとき、視界に写ったのが古畑ではなかったことに安心する。 教室で眠ってしまっていた俺を起こした丸井はそろそろ部活の始まる時間だと俺に告げる。 ああ、そうか……今日は委員会があったから部活はいつもより遅い時間からだったんだっけ? 「幸村君が委員会をサボるなんて珍しいよな」 「そうだね」 廊下を歩いていると少し前を歩いている丸井がそんなことを言うから適当な言葉を返した。 サボろうと思ったわけじゃないんだけど、結果的にはそういうことになってしまったのだ。 「そういえば、」 「ん?」 何かを思い出したように丸井がつぶやいた。 歩くことはやめずに、だけど少し顔を俺の方へ向けている。 「幸村君のクラスはこの前文化祭の打ち上げをしたんだろ?」 「え、ああ……」 「歯切れ悪いな。 楽しくなかったのか?」 「ううん、楽しかったよ」 楽しかった……打ち上げ自体は、本当に。 「いいよなあ。 うちのクラスの奴らは打ち上げなんかやる気ねえみたいなんだよ。 俺も食い放題したかったぜ」 「ふふ、丸井らしいな。 今度落ち着ける日があったらテニス部で打ち上げをするのもいいかもしれないね」 「言ったな? んじゃ、楽しみにしてるぜ」 「分かったよ」 一旦会話が終了して、しばらくの沈黙が続いた。 今ここにいるのが丸井でよかったと、心から思う。 俺を起こしにきたのが真田や柳だったとしたら、きっとこうはいかなかったと思う。 打ち上げの話を持ち出したときの不自然な態度で、俺に何かがあったのだと察してしまっただろう。 あの日のことは誰にも知られちゃいけない。 俺と、古畑、二人だけの秘密。 大したことじゃないなんて、古畑は言うけど。 俺にとってはあまりにも重たい、一人で抱えるには苦しすぎる痕。 ***** 打ち上げでの一件以降、頻繁に古畑の夢を見るようになった。 小慣れた様子で俺のそれを扱く古畑、喉の奥まで咥えこんで瞳を生理的な涙で濡らす古畑。 十分に一度のペースで「ちょっと休憩」と言って口を離し、古畑は取り留めのない話をいくつもした。 状況にそぐわない、日常の話を……いつもの気の抜けたような表情で。 そして最後の“休憩”で古畑は言った。 『ここから先、私十分くらい一人で帰らないといけないんだけどさ……寂しいから送ってくれない?』 声のトーンはいつもと変わらず明るくて、だけど俯いていたから古畑がどんな表情をしていたのかは分からなかった。 俺はその頼みを一度は了承したけど、その誰にも知られてはいけない行為をしていた公園を出るとき、 『遅くなっちゃったからやっぱり送れない……ごめんね』 ゆっくりと自転車をこいでいた古畑は、 『そっか……まあ、全然大丈夫だけどね』 それだけ言って、別れの言葉も言わずに自転車をこぐスピードを早めて行ってしまった。 それ以来、古畑とは話していない。 だけど元々殆ど話すことのない相手だったから当然だと思う。 あれ以来俺は古畑のことを目で追ってしまうようになった。 古畑が恋人の話をしているのを聞くと、酷く胸が痛む。 ……きっとこれは恋だ。 認めたくはないけれど、打ち上げの日以来自分をフったあの子のことなんて少しも気にならなくなってしまった。 性衝動から始まった恋なんて上手くいくはずがない、分かっているはずなのに。 「……好きになってもらうのは難しいよね、か」 彼女にフラれたことがまだショックだったと言った俺に、古畑は暗い表情でそう言った。 一人で帰るのが寂しいから送ってほしいと言った。 思えば、打ち上げの日に一緒に帰ることになったのは古畑が誘ってきたからだった。 傲慢な俺は、察しの悪い俺は、古畑は本当は俺のことが好きなんじゃないか、なんて……都合の良すぎる期待をしてしまう。 馬鹿らしいとは思うけど。 ***** ちらりと右に視線を向ければ古畑がいる。 イヤーマフラーの角度を直しつつ、白い息を吐きながら俺と足並みを揃えて歩いている。 今の状況は偶然生み出されたもので、古畑が俺と話すために故意に下校時間をずらしたなんてことはありえない。 そう分かっているはずなのに弾む胸を抑えることが出来ないのだ、俺は自分で思っていたよりもずっと古畑のことを好きになってしまっているらしい。 「幸村君、今日は真田君と一緒じゃないんだね」 ずっと黙っていた彼女が不意にそんなことを言った。 俺が普段は真田と帰っていることを何で知っているのかと尋ねたら、そんなの誰でも知ってると返される。 「そうでしょ? 幸村君と真田君が仲良しなのは皆知ってること」 「仲良しっていうのかな」 「仲良しでしょ。 変な意味じゃないけどさ、幸村君と真田君はお互いのことよく分かりあってるように思えるんだよね。 そういうの、すごく羨ましいよ。 私にも、気持ちを理解したい相手がいるから」 「それって、」 誰なの? と、尋ねようとしたところで古畑が歩を止める。 そしてもう暗くなってしまった空を見上げて呟いた。 「今日はよく晴れてたって知ってる?」 「知ってるよ、ずっと外で部活をしていたか」 「あれだけ晴れてたら影送りも綺麗に出来ただろうね」 「そうだね……」 突然空の話を始めた古畑の意図が汲み取れなくて、気のない返事になってしまったかもしれない。 古畑は寂しげな表情をして、「幸村君は影送りなんかしないよね」と言った。 確かに俺は自発的に影送りをしたりはしないかもしれない。 誰かに影送りをしようと言われて断ることもしないとは思うけど。 「影送りが好きなの?」 「好きだったよ」 「今は好きじゃないの?」 「今日からは……」 「今日からってなん……で」 古畑の瞳から涙が溢れるのを見た。 突然の涙の理由が分からなくて戸惑う俺に、嗚咽混じりに古畑は言う。 「別れたの……今日彼氏と別れたんだよ、私」 「そう……なんだ」 恋人と別れたから泣いてるの? なんて馬鹿げたことを聞いてしまいそうになったのは、古畑が打ち上げの日の帰り道に今の恋人のことを、いつ別れるか分からない大して好きでない相手だと評していたからだ。 だけど頬を涙で濡らす古畑を見て察する。 「……好きだったんだよね」 「す、き……今でも好きだよ」 「じゃあ何で俺に……俺にあんなことをしたの?」 こぼれ続ける涙を必死に拭いながら、古畑は俺の目を真っ直ぐに見つめて、とても残酷な言葉を吐いた。 「当てつけだよ……。 私ばっか好きみたいで苦しくて、腹が立って、だから他の人とも関係を持ってやろうって……そう思ったの。 馬鹿だよね、そんなことしたって嫌われるだけなのに。 そもそも他の人の咥えたなんて言えるわけなかった……全く意味なんかなかった」 ……当てつけ。 古畑にとって、アレは恋人に対するただの当てつけだったらしい。 なんの意味もない行為だったらしい。 それなのに俺は、勝手に好きになって、勘違いして……惨めなだけじゃないか。 「古畑は、」 俺のことを利用したんだね。 そんな言葉が口をついて出そうになったのを、すんでのところでくい止める。 そしてその代わりに、 「彼氏のどこが好きだったの?」 古畑の恋人は突出したところのない奴だった。 優しそうな人だね、なんて言われそうな顔をしていて、市大会でも優勝出来ないようなサッカー部のキーパーをしていて、成績は中の上。 古畑みたいな破天荒な奴がここまで入れ込むような相手には到底思えない。 「幸村君は知らないだろうけどさ、あの人と私小学校が一緒なんだ。 小学校のときからずっと好きなの。 だけど私はあの人に好きになってもらえるなんて思ってなかったから、あの人を好きだって気持ちを忘れようとしてたくさんの人と関係した。 最悪だよね……頭軽すぎて自分でもうんざりする」 小学生の頃から好き? 尻軽のくせに一途なんて矛盾してるよ。 どうしようもない。 「どこが好きかなんてなかったよ。 あの人は幸村君みたいに綺麗な顔をしてたわけじゃないし、スポーツがすごく出来るわけでもないから」 珍しく真面目な古畑の言葉を聞きながら俺は、ああ……綺麗な顔をしていても、テニスが上手くても、それは古畑に好かれる要因にはならないのか、なんてことを考えていた。 ……辛気臭すぎる。 正直これ以上古畑が恋人……元恋人への愛を語るのを聞いているなんて耐えられないと思うのに、話を遮ることが出来ない。 たぶん、古畑が俺よりもずっとずっと辛そうにしていたからだと思う。 「あの人とは小学三年生のときに同じクラスだったの。 ちいちゃんのかげおくりの授業のときに、先生が今日は晴れているから皆で手を繋いで影送りをしようって。 そのとき女子と男子の境目になったのが私とあの人だった。 男子は皆女子と手を繋ぐのを嫌がったけど、あの人は私とならいいって言ってくれた。 そのときからずーっと好き」 「それならもっと早く付き合い始めればよかったのに……」 「さっきも言ったじゃん、私はあの人に好きになってもらえるなんて思ってなかったんだよ。 二ヶ月前に帰り道一緒になったときに四年ぶりくらいに口利いたし……」 「案外奥手なんだね」 俺には殆ど話したこともない状況でいきなりあんな提案をしたのに。 「嫌われたくなくて慎重になり過ぎてたんだよね……それで付き合い始めたらすぐに別れちゃうっていう、ははは」 「はははって……そんなに好きなら何で別れたの?」 「それは……」 「俺は、古畑のことが知りたいんだよ」 その言語の真意に気づいた様子もなく、古畑は再び語りだした。 自分が恋人に別れを告げた、どうしようもなく馬鹿馬鹿しい理由を。 「あの人は少しも優しくないの」 「優しく、ない?」 「メールをしても、電話をしても、直接話しかけても、いつも気のない返事ばかりだった。 一度も好きだって言ってくれなかった……私が好きだって言っても、なんで俺なんかをってそればっかり。 私は、ただ一言俺も好きだって言ってほしかっただけなのに」 「それだけの理由で……」 「それだけじゃない、私は幸村君と……。 あの後すごく後悔した。 しょうもない理由であの人を裏切った自分は最低だって……自己嫌悪で死にそうだった。 幸村君は知らないだろうけど、あの日以来私は今日まで幸村君の方を見れなくなってたんだ」 知ってるよ。 俺はあの日以来古畑のことばかり見てたから。 俺を視界に写そうとしなかった古畑は知らないだろうけど。 「それで、私は今日あの人の部活が終わるのを見計らって別れようって言った。 あの人は、分かったって即答してさっさと帰っちゃって……私はやっぱり好かれてなかったんだってその場で少し泣いたの」 「それで、終わり?」 「そうだよ、私とあの人の話はこれで終わり。 明らかにバッドエンドだけどね。 幸村君、迷惑かけてごめんね」 「迷惑だなんて思わないよ。 俺は古畑が、」 「幸村君!」 『好きなんだから』 そう言ってしまいたかった。 だけど古畑は最後までは言わせてくれなかった。 故意になのかどうかは分からない。 「私の恋は駄目だったけどさ、私が迷惑をかけてしまった幸村くんにはいい恋愛をしてほしいなあ……なんて思ったりする。 私の分まで……って言うのもおかしいけどさ。 とにかく、古畑真理佳は幸村君のことを全力で応援してます」 『全力で応援してます』 今日の古畑は呼吸をするみたいに自然に俺の心を傷つける。 「私とのことは犬に噛まれたとでも思って忘れて、幸せになってね。 それじゃあ、私こっちの道だから」 早口で言い切って、古畑は細い路地に入っていってしまった。 「こっちの道って……」 まさか毎日あの道を通って帰るわけはないと思うけど。 一つ溜息をついて俺はまた歩を進め始める。 頭も尻も軽い、だけど一途なクラスメイトのことは忘れられそうにはなかった。 ***** 「しつれいします」 「ああ、幸村君。 真田君なら今はいませんよ」 A組に入って早々近づいてきたと思えば、そんなことを言う柳生に少し驚く。 まだ真田に用があるとは言っていないのに、何で分かるんだろうか。 「真田に用事があるとは言ってないだろ」 「確かにそうですが……実際、真田くんに用があるのでは?」 「……そうだよ。 まあいい、真田がいないなら出直すよ」 そう言って教室を出ようとした俺の背中にあまり馴染みのない声がかけられる。 ちょっと待ってくれ、と。 俺は声の主が誰なのか分かった上で、少しの同様も見せずに振り返る。 「何か用か? ……猪瀬」 「幸村はたしかC組だったよな?」 「……そうだけど」 猪瀬は古畑が小学生の頃から好きだったという男で、昨日古畑に別れを告げられたばかりの元恋人だ。 俺は猪瀬とは殆ど話したことがない。 そんな親しくもないはずの俺に声をかけるなんてどういう風の吹き回しなんだろう? ……もちろん、本当は分かってる。 古畑の話題に決まってるって。 「今日古畑はどんな様子だった?」 やっぱり。 「どんな様子って言われても、古畑のことなんか気にしてなかったし」 「それも……そうだよな」 嘘だけど。 本当は今日もずっと古畑のことを見てた。 「だけど、」 「だけど?」 「そういえば今日も古畑の呑気な笑い声が聞こえてた気がする。 いつも通りだったんじゃないかな」 「そうか……」 嘘だけど。 本当は今日の古畑は目に見えて元気がなかった。 「どうして古畑のことなんて聞くの?」 「それは……」 わざとらしすぎる質問だった。 「俺、古畑と付き合ってて」 そんなの誰でも知ってるよ。 「ふうん、知らなかったな」 だけど俺は知らないフリをする。 「それで、昨日あいつにフラれた」 「そうなんだ」 「好きでいた期間は長かったのに、終わるのは一瞬だった」 「へえ……」 やっぱり猪瀬も古畑のことをずっと想ってたんだ。 古畑は気づいていなかっただけで。 「って何で俺幸村にこんなこと話してるんだろうな」 「ふふふ、ホントにね。 ねえ猪瀬、」 「何だ?」 「今でも古畑のこと好き?」 「……そりゃあ、」 ***** 「ほら、手繋ごうよ」 「……」 おずおずと差し出された古畑の手を握って、視線を下ろす。 足元に写る制服姿の影は微動だにしない。 今、俺と古畑は打ち上げの日に二人で訪れた公園に二人で立っている。 部活を休んで定期健診に行った病院の帰り道、偶然公園の前を通りかかったら一人ベンチに座る古畑を見つけたのだ。 運がいいと言っていいのかは分からない。 落ち込んだ様子の古畑に、かける言葉も見つからなかった俺は俯いてしまって、気づいた。 地面に写る自分の影が色濃く、くっきりしていることに。 そして空を見上げて、なるほど今日も昨日と同じように影送りをするにはうってつけの快晴だと、一人頷きまだ俺の存在に気づいていなかった古畑に声をかけた。 影送りをしよう、と。 「……きゅう、じゅう」 十秒きっかり数えて、空を見上げる。 制服姿の二人の男女の影が雲ひとつない青空に映し出されていた。 「成功だね」 「うん……久しぶり。 幸村君、好きなの?」 「え?」 「影送りの話」 「ああ、影送りか。 てっきり……」 そこで黙りこんでしまった俺の顔を、空から目を離した古畑が不思議げに覗き込んだ。 てっきりの先の言葉が知りたいらしい。 「古畑のことかと思った」 「あ、ああ……違うよ。 そんなこと聞くはずないし」 「……好きだよ」 「影送り?」 言って、古畑は俺から顔を背けてしまう。 「古畑のことが好き」 「……困る。 しばらくは男子と関わりたくないし、あの人に節操のない女だと思われたくない」 「思われてもいいだろ。 だってあいつは、」 『……そりゃあ、まだ好きだよ』 「古畑のことなんか好きじゃない」 「そんな、そんなこと……」 分かってるよ、と。 古畑はその場に泣き崩れながら、掠れそうな声で言った。 俺はそんな古畑の頭を撫でながら、彼女に聞こえない位小さな声で呟く。 「ごめん」 嘘をついた。 猪瀬はまだ古畑のことが好きだって、知ってるのに。 そのことを伝えたら、古畑が幸せになれるって分かってるのに。 古畑のことが好きで、好きで、仕方のない俺は嘘をつかずにはいられなかった。 「幸村く……私、わたし」 「俺は古畑のことが好きだよ」 古畑が幸せなら、それでいいなんて思えない。 ズタボロの古畑の心につけ込んで、少しでも俺の居場所を作りたい。 「少しも、落ち着かないの……好きすぎて、忘れられる気がしない」 「まだ忘れられなくてもいいよ、俺が“慰める”から」 「……いの、」 猪瀬の名前を紡ごうとした古畑の唇を塞いで、後頭部に手を回す。 古畑に嘘をついたという罪悪感は俺の胸の奥にこびりついて、きっといつまでも消えることはない。 だけど、それでもズルい俺は……目先に見える古畑の幸せには目をつぶって、遠い先にかすかに光っているだけの自分と古畑の幸せだけを見据える。 ***** 神の掌で煌めいて様に提出しました。 書いてから海原祭は冬開催じゃないことを思い出しました。 [back book next] ×
|