やっぱバーチャルな恋ばっかり(略)

 初めて彼を知ったとき、侑士は間違いなく私よりも年上の男だった。細かな時期は思い出せないが、当時の私は字を読むことに慣れ始めたばかりの小学生で、姉の集めていた漫画を巻数も気にせず手に取ることを暇つぶしの手段としていた。その中にいたのが、関東大会氷帝戦の忍足侑士だ。あの美しい指先と、糸を引くような目元に、一瞬で心を縫い止められたあの日のことを、私は死ぬまで忘れない。
 幼かった私にとって、中学三年生の侑士は随分と大人びて見えた。歳下の女の子として彼に恋をしたのは、当然の成り行きだっただろう。頼りになる年上の恋人の侑士と自分を主人公とした妄想は、毎晩のように続き、当時の私は寝不足なのも相まって日中は常にふらふらしていた。気味の悪い子供だったと思う。漫画の本来の持ち主であった姉にもその手の妄想は頻繁に語っていた。子供騙しな夢の話だったが、歳の離れた姉は、こちらに否定的な言葉をかけることもなく、私が全てを語り合えるたびに「幸せそうでいいね」と目を細めていた。
 その言葉と表情の意味を知ったのは、中学に上がり、侑士と学年が並んだ頃だ。新テニスの王子様の連載が始まり、生身の私は自分とは異なり彼が永遠に歳を取らない可能性について考え始めていた。ウォークマンから伸びたイヤホンを耳にさし、彼の声を聴くたびに、自分と侑士の間に横たわる深すぎる隔たりを想う。そういう生活は、私の心を細らせたが、それでも彼への気持ちが潰えることはないままに、私は大人になった。今は二十台の半ばだ。外資系のブランドショップに勤める傍ら、オタクとして真っ当に生きている。
 鰐皮の七十万するバッグを二つ売った月の翌月に、多少嬉しい程度に手取りの増えた通帳を眺めながら、大人になった侑士は恋人にあの手の高級品を買ってやるだろうか、などと埒もないことを考えることがある。私は社員なので定価よりも多少安く買うことが出来るが、それでもきっと侑士にねだる事はしないだろう。金銭的負担はかけさせないから死ぬまで一緒にいてくれ、と懇願する方が自分には似合っている。きっと侑士は嫌がるだろうけど。
 こういった偏った趣味を持ち、格別の美人というわけでもないのに、ある一定の年齢以降恋人が途切れたことは殆どない。よくモテるのね、と揶揄するように言われることもあるが、相手を選ばないだけだ。私に不義理をしない男なら容姿も収入も問わない。どのみち侑士以外なら誰と付き合っても同じことだし、私の愛した男が三次元に現出することはない。生身の体が一人でいることを寂しがるので、彼らには感謝している。
 歴代の恋人達の全てに、漫画やアニメばかりを愛好してきた人間であることは告げてきた。へえどういうの、と問われて、迷いもなくテニスの王子様だと告げると、一様に懐かしそうにされる。
 忍足侑士が昔から大好きでね、と続けてみると、意外だなという男も居れば、好きそうだと頷く男もいる。もちろん侑士を知らない人間も。どの反応だとしても、まさか自分の存在が恋人の心の中で占める割合が、二次元の男に劣っているとは想像もつかないようだった。
 彼らはふとした拍子にその事を思い出し、物の少ない私の部屋を眺め見て、グッズなんかは買わないんだなぁと呟く。時たま侑士のフレグランスを出してみることもあるが、大抵の場合は「あまりお金はかけたくないの」と返すだけだ。その手のものを集めれば集めるほどに、侑士が同じ次元にいない存在であることを思い知らされて辛いだなどとは口が裂けても言えなかった。
 その手の鬱屈が溜まりきったころに、毎年二月が来る。侑士のためにチョコレートを用意する季節が。
 バレンタインはテニスの王子様を愛好する人間にとって、死者の魂を迎えもてなすお盆という行事にも似ている。日頃は二次元にいる彼らが、存在しているかのような体でチョコレートを選び、贈る時間は虚しくも甘美だ。ただの人気投票とはやはり違うのだと思う。何年か前に長く続いたバレンタインの集計を休み、はがきで人気投票を募ったことがあったが、票数がふるわなかったことからもそれは窺い知れる。
 早出の終わり、勤め先のある百貨店のバレンタインの催事を巡る私の足取りは軽かった。店舗のインセンティブが入ったばかりだったからだ。初めからなかったものとしてしまえば、侑士に高級なチョコレートを買ってやれる。
 ぼんやりしていると溢れ出しそうな鼻歌を堪える私の目に留まったのは、催事会場の一番目立つところに陳列された九州のパティスリーのチョコレートだった。ペタルの名を冠したそれは、名前通り色とりどりの花びらの形を模していて、丸く小さな箱に美しく折り重なって収まっている。一つずつ味が違うんです、と語る店員さんの表情も柔らかかった。
 侑士と食べたら楽しいだろうな。
 そう思ってバレンタイン限定のそれを指差したとき、誰かの視線を感じた。振り返ってみると、店舗の常連客がそこに立っていた。物好きにもこのオタク女を気に入っているらしい男性客は難しい顔をしている。
「彼氏に渡すの」
 訊かれて、小さく首を横に振った。安堵したように目尻が下がる。
「自分用か。じゃあ僕が買ってあげるよ」
 じゃあ、とはなんなのだろう。不思議に思いながらも、とりあえず笑顔を深めてみる。男は既に財布を取り出していた。
「じゃあ、いいです。自分用じゃないので、ずっと昔から好きでいる人にあげるチョコなんです」
 そっと頭を下げると、昼の休憩のときに首筋に吹きかけた侑士のフレグランスのラストノートが鼻腔をくすぐった。男は唖然とした表情で、こちらを見つめている。今月の初めに私から買ってくれた財布を握る手が震えているのを認めると、妙に寂しい気持ちになった。

 そうして購入したチョコレートは、一人暮らしの部屋の冷蔵庫の奥に隠しておく。せっかく素敵なものを買ったのだから、バレンタイン当日までに侑士に見つかるようなことは避けたい。そういうごっこ遊びが、私は嫌いじゃなかった。
 それでもバレンタイン当日を迎え、日付けが変わって二月十五日になると、私は侑士のために用意したチョコレートを自分で摘まむ。あれは二次元の男で、死んでも手が届くことはないのだと自分自身に分からせるために。今年も当然そうした。
 例年なら一粒で済ませるものを、花びらを模したそれは薄く舌の上で呆気なく溶けてしまう。所在のなさに引きずられるようにして一枚、二枚と手に取る内、目の奥に鈍い痛みが走った。瞳のふちに浮かんだ透明の液体が、頬を伝って顎から落ちる。
 充分に幸せに生きているはずなのに、私は時々こうなってしまう。胸の内の一番深いところから、屈託なく侑士と戯れることの出来た幼い日の自分の像を引っ張り出して、嗚咽を漏らし続けるのだ。
 初めて恋をした男の幻影に死ぬまで囚われる自分を可哀想だとは思わない。思い出補正という言葉があるが、思い出以外の何が、所詮は一人で生きねばならない人の心を守ってくれると言うのだろう。私は何度人生をやり直せるとしても、幼い指でテニスの王子様のページを開く。
 堪えきれなくなって棚の奥に仕舞い込んだテニスの王子様の文庫を取り出した。関東大会編の一巻の表紙の侑士の腕のラインをなぞってから、本を開くと、あたりが侑士の匂いで包まれる。
 キャラクターをイメージしたフレグランスが発売され、毎日のようにその香りを纏っていても、私にとっての侑士の香りは、ずしりと連なった紙の束と、彼を形作るインクの無機質なそれなのだ。
「ああ、駄目だ」
 溢れた涙が紙の上に落ちそうになって、顔を両の手で覆う。幼い頃はよく、こういう場面で頭を撫でてくれる侑士と過ごしていた。大人になってしまった私は、そういったことを上手く出来ないのが悔しい。
 さめざめと泣き続けている内に、目の奥からくる鈍い痛みが、頭全体を覆うように広がっていった。それをやり過ごすために膝を抱えて浅い深呼吸を続けている内に、意識が遠のいていく。足の指先が酷く冷えていた。浮遊感と、強い嘔気、両手で覆い隠した瞳の内側で、白い光と青い光が交錯する。オタクが過ぎてバッドトリップだなんて、洒落にならない。薄気味悪い像を振り払うように、私は叫んだ。喉が切り裂かれそうなほどに、強く。甲高く。痛々しく。

「もう少し静かにしてくれへん」
 意識を浮上させたのは、耳に馴染んだ低い声だった。未だ叫び続ける私の頭を、何かが撫でる。落ち着き、と後頭部に落ちていったそれは、背中にたどり着いたところで、ぽんぽんと揺らぐ。
 顔を覆っていた手を恐る恐る離して、瞳を開けてみた。
「相変わらず夢見が悪いんやなぁ」
 涙で滲んだ視界に映り込んだのは、本来は深い隔たりの先にいるはずの男だった。



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