ぶら、さがる

 元旦。
 爪先から熱が奪われて、竦みあがるように冷たい日だった。
 侑士は妻と共用の寝室で、二つ並んだベッドの片割れに体を横たえていた。
 例年その日は妻の実家で夜を過ごす慣しになっているが、今年は彼女がむずがるので、二人きりでお節を囲んだ。
 妻の炊いたくわいは、芽がぴんと立ってほろ苦く、侑士の心を過去に立ち返らせた。
 締め切った窓を、風が叩いている。カーテンからは、妻がそれを洗い終えた折に吹き付けた香水の残り香がする。
 それをかいでいると、結婚を請うたのは自分なのに、彼女に囚われている心地がした。それでも二人は仲の良い夫婦だった。

 ベッドから足を下ろして、寝室から廊下に出る。湯上がりの妻が、ドライヤーをかけている頃合いのはずだが、家の中は静まり返っていた。
 脱衣所に妻の姿はない。彼女が失念した換気扇のスイッチを押して、浴室から立ち昇る湯気に追い立てられるようにリビングに足を進める。
 そこには続き間の小さな和室があった。部屋の端には、小さなクローゼット、侑士は繊細な指先をその扉に引っ掛けて、中を覗く。

 妻と目があった。長い睫毛に縁取られた瞳は血走っている。
 二人のコートの間で縮こまった体が、パイプに掛かったベルトで宙吊りになっていた。ぶらり、と垂れ下がった足は白い。
「あ」
 あ、あ、あ。口から漏れ出る空気の振動は、意味を持った言葉にならず、喉を傷めつけるばかりだった。
 半狂乱になりながら細い体を持ち上げ、ベルトを緩める。彼女の体は軽く、床に下ろすのにはさして時間もかからなかった。
「なんだ」
 思いがけず意識のあった妻が、最初に漏らした言葉はそれだった。救急車を呼ぶ侑士に向けられた目は乾いている。
「なんちゅうアホなことを」
 それ以上言葉が出なかった。い草の青い匂いのする畳に体を横たえた妻が微かに笑う。車が来るまでは、ろくに会話も出来なかった。
 救急車に揺られる間、彼女は子供が乗った際に活躍するのであろうアンパンマンの玩具をじっと見つめていた。救急隊員の巻こうとした頸椎固定用シーネが、首が細いあまりにどれだけ狭めても用を成さないのが恐ろしかった。

 あれだけしっかりぶら下がっていたのに、病院に担ぎ込まれた彼女の体に異常はみられず、病室に空きもないので即日退院という形になった。
 ロビーで二人並んで座り、彼女の母親の迎えを待つ。妻は、とん、とん、とリズミカルに、つま先でリノリウムの床を蹴り上げていた。
「体重が軽いとなかなか死ねないみたい。もっと太っておけばよかった」
「……そんなに簡単に死なれたら困るわ」
「そうなの。まあ、部屋が売れなくなると困るか」
 自殺未遂者だとは思えないようなあっけらかんとした口調で「あなたのいない日にする勇気はなかった」と彼女は語った。そのくせ、わざわざ元旦に事を為そうとした理由を訊くと「道が混雑して救急車がなかなか来られなければ手遅れになるでしょう」という。

 彼女の身柄は、涙で目を腫らして現れた母親が引き取っていった。ごめんなさい、ごめんなさいね、と最後までこちらに頭を下げ続けた姿が痛ましかった。
「俺にも原因はありますから」
「二人の事情は分からないけど、私は侑士くんが気の毒で」
「俺がですか」
「あなたこの先この子が本当に死ぬまで、今晩宙ぶらりんだったこの子の体に脅迫され続けるのよ」
 運転手と二人きりの車中で、妻の母親と交わした短いやりとりが、胸に重たくのしかかってきた。宙ぶらりんだった体に、脅迫され続ける。言い得て妙だ。
 これから先、二人の生活を続ける上でどんな不満が吹き出しても、愛情の最後の一片が潰えたとしても、それを自分が妻に吐き出すことはないだろう。
 自分が放った言葉が引き金になって、今度こそ本当に彼女が命を絶ってしまったら、侑士はきっと生きていられない。
 宙ぶらりんの体と、血走った瞳は、いつまでも侑士の体を追い立てる。こうなってしまっては、まともな夫婦生活などあってないようなものだ。

 彼女が夫婦の家に戻ってくるまでの数日間、侑士は同じDVDを繰り返し再生していた。二十歳前後の自分と、同い年の従兄弟が、東京でふたり暮らしをしていた部屋で撮った映像。
 ひとりきりで大掃除をしていた折に彼女が見つけたらしいそれは、ぶれやボケが多く、映像物としてはまともに機能していないが、謙也が持ち込んだビデオカメラのマイクは優秀で、音声ばかりはクリアに吹き込まれていた。
 
 妻が戻ってきた晩、侑士は彼女を抱いた。鎖骨を指でなぞり、柔らかな曲線を描く胸を食む。気持ち悪くないの。彼女は囁いた。
「次に会ったら絶対にこうしようって決めとった」
「でも、死のうとした人間って気持ちが悪いよ」
 否定も肯定もせず、細すぎる首筋に視線をやる。宙ぶらりんの女の像が、そこに重なると、嘔気がしたが、途中でやめることは出来なかった。
 今晩抱かなければ、抱いてやらなければ、彼女はまた同じようなことを繰り返す気がした。これが脅迫か、やっかいやな。作り物めいて滑らかな皮膚を撫でれば撫でるほどに、心が冷えていく。中心は未だ萎えたままだ。
「愛しとるで」
 喉のあたりでもつれた言葉を無理やり吐き出しながら、DVDの音声を反芻していると、耳の裏を撫でられた。
「どうして、私じゃ死んでもあなたの穴を埋めてあげられないのに」
 もっと、もっと、と甘い声で男をねだる過去の自分の声に、愛した女の冷え切ったそれが重なった。




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