磨き抜かれた、シーグラス

 ずっと手元においておけないものなんて必要ない。
 ハタチを過ぎたばかりの頃は言い切れた。まだ本当に美しいものを知る前で、己には過分なものを欲しがったこともなかったから。
 ベッドに足を投げ出して、視線を俯けると、そこに寝そべった男と目が合った。美しく筋肉ののった肌には、下着の一枚も身につけていない。寝室に入るときはいつも裸でいて。私が以前に口走った戯言を律義に守ってくれている。男はそういう人間だった。
 カーテンの隙間から差し込む光が部屋を青白く包む。近頃、朝がくるたびに、先の尖った針で背筋を突かれているような心地がする。現実のものではない痛みを振り切って勤めに出ても、一度考え始めると、もう駄目だった。電車に揺られていても、同僚と会話をしていても、空っぽになった部屋を想像せずにはいられない。ヒカルがうちからいなくなる。それよりも恐ろしいことが今の私にはないから。
「獺祭をくだっさい」
 私の耳がはじめて捉えたヒカルの言葉は間違いなくそれだった。焼き鳥屋のカウンター、ひと席飛ばして隣にかけた見知らぬ男の唐突なダジャレに私は思わず吹き出した。ふは、とか、ぶは、とか、格好悪い笑い方だったと思う。
「笑った」
 何かを噛み締めるような声に引きずられるようにして顔を上げると、ダジャレ男と視線がかち合い、驚いた。月並みな表現をすれば、男はギリシャ彫刻のような男前で、生身の人間の造作を単純に美しいと感じたのはそのときが初めてだった。
 獺祭奢らせて。席を詰めながらそう言った。異性にナンパ紛いの誘いをかけることは滅多になかったが、あの日は勤め先で理不尽なことがあって苛立っていたから、誰かれ構わず施してやりたい気分だった。奢られるのは嫌だ、とヒカルは言った。どうして。カウンターの下の骨張った手に指を絡めても、振り払いはしない。女から物を与えられることが単純に苦手なのだと、小遣いをやるようになってから知った。そういう矛盾を飲み下さなければいけない程に、あの頃のヒカルは傷ついていた。
 二人の生活が始まってから間もなくして、私は彼を束縛するようになった。異性との連絡を禁ずるでも、外出を禁ずるでもなく、ヒモという言葉すら知らなかったヒカルに、そういった種類の人間の歪んだ型を教え込んで、彼の自由を奪った。
「お前は顔が良いのを活かしてヒモをしててえらいね」今年の初め、帰宅するなり腰を抱いてきた男に、投げつけてやった台詞は殊更に利いた。ヒカルはその日以降ダジャレを言うこともなくなって、それ自体は寂しかったけど、同時に外に出る気力が萎んでいったようなので嬉しかった。私達は万事そういった調子だった。
 パチンコとスロットは私が、彼に自立心を与える恐れがないと確信し、小遣いの落とし所として許した唯一の娯楽だ。ヒモを得てからひと夏が過ぎたころ、気まぐれに小遣いを多めにくれてやったら、ヒカルが誕生日にプレゼントをよこしてきたことがあった。私は当然それを許さなかった。そういうことをするもんじゃない。極力感情を廃し、一端のヒモなら女に貰った小遣いは賭け事で全額スるものだと教えてやったので、ヒカルはそれを忠実に守っている。プレゼントは、モクレンの匂いのする香水で、私が以前から欲しがっていたものだった。ヒカルのそういった勘の良いところに、私は日々怯えている。
 
 家事をすることすらも許さなかったのはやりすぎだっただろうか。
 ヒカルが料理や掃除をしてくれると、私は決まって体調を崩した。彼は自分の暮らす環境を快適に整えようとしていただけだったが、私には耐えられなかった。何も出来るようになってほしくない。ベッドの上で顔を伏せて、いなくなられそうで怖い、と素直に告白すると、ヒカルは本当に何もしなくなった。テレビすらも見ない。彼に唯一許した娯楽に、私は詳しくなかった。店に近づいたことすらもない。そういった具合なので、二人の間にまともな会話がなくなるまでに、長い時間は要さなかった。
 口を利くことが少なくなると、ヒカルは時々私にマッサージをしてくれるようになった。体の使い方のセンスがいいのか、これがなかなか気持ち良くて、いつかは禁じてやろうと思っているが、ついつい後回しにしてしまう。
 あとはセックスを愉しむだけ。ベッドの上に仰向けになる男の上に跨がり、あの甘やかな声をBGMに腰を揺らす。女に主導権がある行為が好きだったわけでもないのに、ヒカルに意思を持たせたくないあまりに、男の淡い陰毛を恥骨に擦り合わせては、官能を辿るよりほかなかった。まだヒモと養い女ではなかった頃に、初めて体を合わせた日の、普通の男女めいた交配の記憶を呼び戻しながら。
 ヒカルからバネさんの話を聞いたのは、私が暇つぶしに昔の恋人の話をしたときだった。その男はヒカルのように美しくはなかったが、爽やかで面倒見がよく、それなりにモテていた。セックスのときにヨくなると額に汗を滲ませるのが不愉快で別れてしまったが、あの男と交際していた頃の私の精神は、今よりずっと安定していた。ヒカルは私が埓のない話をしても真剣に聞いてくれる。そのくせ自分の過去については語らないのが常だったが、その日は違った。
「バネさんは恋人だったわけじゃないけど」そうした語り出しから始まる恋愛の話のご多分に漏れず、ヒカルは今でもバネさんに未練を残しているようだった。抱かれたかったの、と訊くと否定もしない。今でも、と訊いても同じ。
「じゃあ私がシてあげる」
 ヒカルは拒絶しなかった。バネさんはヒカルをダビデと呼び、アレが大きいということも教えてくれた。私は、うんうん、と頷いて彼の内腿に吸い付く。
 ダビデの内側は熱かった。私は、みっちりと詰まった肉に押し潰されようになる指を懸命にかき回しながら、彼のいうバネさんとやらの強大なマラがそこを掻き分ける甘美な妄想に耽った。
 私のやった小遣いで買った避妊具を、バネさんのマラに被せ、真っ赤に充血した肉を拡げるダビデはきっと何よりもきれいだ。
 どう、と訊いたら、「分からない」と遠い声が降ってきた。
「気持ちよくなってもらわないと困るよ」
 萎びたペニスの先端に唇を押し当てると、彼の美しく張り出した腸骨が僅かに揺らいだ。それが私達の全てだった。
 先日彼とそうなってから一年の記念日を祝った。まともに交際しているともいえないような関係なのだから、記念日もなにもないが、ヒカルが珍しく酒を飲みたいというので、二人でボトルを一本あけた。アルコールの回ったヒカルは珍しく独善的に私をベッドに縫いつけ、腰を振った。それがとても善かった。
 波の音が聴きたい。あれから毎日同じような言葉を吐き出すようになったヒカルを無視して、今朝も勤めに出る。会社の最寄りの駅で買った缶コーヒーを傾けると、昨晩ヒカルの内側に収めていた指が鈍く痛んだ。半分も飲みきらない内に気分が悪くなって、靴底を鳴らし始める。
 ヒカルが聴きたがっていた波の音が、何処の海のものなのか、私は最後まで知らずにいた。



[back book next]

×
- ナノ -