才能の人

 諍いの始まりはささいなものだったと思う。
 好きな作家の新作について語り始めた彼女に、俺は、半ば前のめりになって講釈をたれた。あの先生は占い師の誰々に傾倒していて、君の好きな本にかかれているあの台詞はどこどこがルーツになってる、みたいな。
 他の人間が相手なら、そんな風にひけらかすようなことは言わないのに、彼女は俺にとって特別な存在だったから、共通の話題で話が出来るのが嬉しくてたくさん言葉を連ねてしまった。それがよくなかった。
 喋りすぎた、と思ったときにはもう遅くて、彼女の瞳は揺らいでいた。
「先生は、与えられた情報を自分のものにして作品に取り込むセンスがずば抜けてるよね」
 言い訳をするみたいに続けると、深い溜息。
「そういう話がしたかったんじゃなかった」
 あなたはズレていると思う、と眉が下がる。俺はメンズファッション雑誌の編集者で、彼女は俺が文芸出版社にいたころに担当していた若手の作家だ。文字を武器にする人間に、ゆっくりと言葉を選ぶ時間を与えたらもう勝てない。そもそも言い負かしてやりたいと思うこと自体が間違いだ。
「あの作品には、作家が文字を紡ぐことに対するこだわりがある。そこに私は美しさを感じる」
「うん。そうだね。先生はこれを書くときに──」
 俺はまたその本のバックボーンを語ってしまった。女の子を相手に検察官みたいに証拠を並べて話を展開させるようなことをするのは悪手だと、いつしか姉さんが義兄さんに語っているのを聞いたことを不意に思い出す。
 彼女はいよいよ顔色を悪くして、むっつりと黙り込んでしまった。沈黙が続いたのは、五分程度。じっくりと言葉を吟味した彼女は、黒く澄んだ瞳で俺を射抜く。
「私はたぶんあなたが思っているより、文字を書くことが好きだし、自分の大好きな先生が、こんなにも美しい文章を書き表してくれたことを清純が思ってるよりも喜んでるから」
 そこで一旦言葉を切って頷く。
「あなたの好きな占い師の先生はすごいのかもしれないし、作品の背景に詳しい清純は編集者としては正しいのかもしれないけど、そういうことを言われても困る」
 きつい言葉だ。それにこちらが悪かったのかもしれないな、と思わせるのが上手い。あなたが思っているより、の一文で恋人である俺を自分の外側に追いやった上で、「文字を書くことが好きだし」と続けることによって俺が彼女の好きなものの領分を侵したという印象を与えることに成功している。
 だけど、好きな人の心を傷つけてしまった罪悪感に苛まれた俺が、どれだけ傷ついているのかは想像も出来ない。やりとりをしている相手に対する思いやりが薄くて、世界が自分の内側だけで完結している。典型的な優しくない人間。
 ある意味嘘がないともいえるし、究極の不器用だ。プライドが高すぎるところが愛おしいといえば愛おしい。
 自分以外の人間とは上手くやれないんじゃないかと人にも思わせるから、他人を一人きりにするのが不得手な気性の人間を惹きつけそうな気もする。
 俺もまたそれに引っかかった一人だった。彼女に傷つけられるたびに厭気がさして別れたくなるけど、こんな風にしか他人と関われない女の子から手を離すのが恐ろしくて、いつまでも離れることが出来ない。きっとこの子は、そういう人間を他にも飼っている。本当は一人ぼっちなんかじゃないし、そもそもこの手のタイプはそばにいる人間なんて必要としていなくて、この関係自体俺が望んでるから続けているだけなのかもしれない。
「ごめんね。仕事の応援にきたつもりが、邪魔になっただけだったかな」
 返事はない、当然ない。執筆作業に使っているPCのモニターに向き合った彼女は、無言のままキーボードを叩き始める。担当になった当初は、こういう性格では偏った物語しか紡げないんじゃないかと心配していたけど、彼女の書く物語は美しく、優しさに満ち溢れていた。ある種本物のプロだ。
 マンションを背に立ちながら、「嫌な気持ちにさせてごめんね」と、担当だったころにやりとりで使っていたアドレス宛にメールを送った。重たい足を無理くり動かしながら、彼女との思い出を辿る。
 思えば彼女とは初めから噛み合わなかった。自分の価値観の外にある要素に対して攻撃的な彼女に、俺は何度も辟易された。
 例えば、彼女は料理が甘いのを好まない。甘口の醤油はもちろんのこと、砂糖の入った玉子焼きなんてもっての他だ。他にも、文体が鬱陶しいという理由でとある作家の本を一冊読み切ったことがなかったり、二輪車には乗らないのにカワサキのバイクを目の敵にしていたり、そうしてそういう嫌いなものの話を、平然と空気中に巻き散らかす。彼女が厭うものを好きな人間が見たら傷つくかもしれない、という考えは頭にない。性格が悪いわけじゃない、無知なだけだ。一つ一つは些細なことだったけど、それが俺には苦しかった。
 彼女はSNSをしていたし、担当として、作家がこういう偏った物の考え方をするのには問題があると考えて、そういう言い方はよくないよ、こういうことを呟いてはいけないよ、と一々指摘していた。悪手だった。彼女はパンクして、まだ恋人ではなかった俺を、担当から外してほしいと編集部にかけ合ってきた。
 編集長は呆れながら言った。
『作家の思想なんて偏ってるくらいで丁度良い。俺たち凡人とは違うんだから。お前が口出ししていいのは、作品が面白くない形でブレたときだけだ』
 横っ面を殴られたような心地がした。彼女を人好きのする形に矯正したいと思うのは、俺のエゴに他ならない。それに気がついたとき、彼女に惹かれてる自分に気がついた。彼女との関わりを、仕事として処理することが出来なくなっていた。
 担当から外れてしばらくが過ぎた頃、プライベートに踏み込むような些細なメールが彼女から届いた。嬉しかった。
 俺はいつものナンパモードで、彼女を口説いた。恋愛に関心がなさそうに見えた彼女は、案外あっさり俺を受け入れた。ラッキーだと思った。だけど、交際が始まってからも俺は彼女を怒らせてばかりで、二人で楽しく過ごせる時間なんてほとんどなかった。
 彼女とぶつかうたび、俺は酷く傷つく。こんなに好きな相手と上手くやれないんだから、他の人間のことも不快にさせているんじゃないかと考えてしまう。彼女が投げる言葉のナイフは、人の弱みの根源は「恥」なのだと、俺に理解させてくれた。
 だけど傷ついた心が地の底まで落ちる前に、結局誰かが俺を引き揚げてくれる。それはお前はよくやってるよ、という上司からの労いであったり、お前がいないとつまんねぇよという親しい同僚からの飲み会への誘い文句だったりする。だけど俺の心に直接的に傷をつけた原因である彼女に癒されることはまずなかった。
 俺はそういうことを繰り返すたび、誰とでも上手くやれる人間である必要はない、人と自分はある程度分けて考えるべきだという考えを深めていく。
 彼女はいつも俺を成長させてくれる。だけど俺の心が彼女に寄り添うことはない。決してない。彼女は悪い人間じゃないし、俺は自分が想像していた程柔らかい人間じゃない。他人には寛容なのに、自分が懐に入れた人間に対して多くを求めすぎるところがある。
 占いの本の編集がしたくて今の会社に潜り込むまで、俺はあまり小説を読んだことがなかった。
 そんな俺でも綺麗で心地の良い文章と、そうでない文章の違いくらいは分かる。彼女の作り出す物語は美しいし、温かい。
 就職してからは仕事のためにたくさん本を読んで、それっぽいアドバイスは出来る様になったけど、後付けの知識をいくら積み重ねたところで俺に物語は紡げない。
 仕事で関わる相手には君は賢いねとよく言われる。だけどそれは俺が人の嫌がることを言わないからだ。親しくない人間が相手なら、ある程度空気を読んで、相手が欲しがる言葉を発することが出来る。
 普通の会社なら、それだけ出来れば充分なのかもしれない。だけどここは出版社で、あの頃の俺は文芸編集だった。良いアイデアを出して、売れる作家を発掘しないことには、上にはいけなかった。向いていないと思っていたから、ファッション誌の編集部に異動になったときは安心した。アイデアが必要なのはどこも同じだけど、もう彼女と同じ畑で頑張らなくていいことが嬉しかった。
 彼女の小説は売れたり売れなかったりした。だけど売り上げに関わらず全て面白かったし、文字の並びが綺麗だった。こういう言い方は失礼なのかもしれないけど、やっぱり彼女は才能の人なんだと思う。俺はその言葉が持つ掴みどころのない輝きに、昔からすぐ惹かれてしまう。
 近頃亜久津のことをよく思い出す。神様の寵愛を一身に受けた、正真正銘の才能の男。亜久津の体は、この世の何よりも美しい。あの体に躊躇いつつも触れることの出来た数年間は、時たま俺の心を蝕む。亜久津の体の感触を反覆するたび、自分が悲しいくらいにテニスが好きだったことを思い知らされるのが苦しい。
 その日は亜久津のことを考えながら眠った。朝になっても、彼女からの返事はなかった。それで不意に気持ちが冷める。もっと人の気持ちになれと罵ってくれたんでもよかった。謝ればいいと思ってるでしょと責め立ててくれてもよかった。どういう形であれ、返事が欲しかった。だけど思い返してみると、出合いたての頃から彼女はそうだった。
 俺はこの手のコミニュケーションツールで人と関わるのが好きだったけど、彼女はそうでもないみたいだった。ごく稀に発生する楽しいやりとりの中で、不意に梯子を外されたように返事が途絶えることが何度もあった。
 俺達は根本的に相性が悪い。二人の間に流れた時間は、それを確認するだけのためにあったのかもしれない。
 俺は彼女のメールアドレスを削除して、ラインをブロックした。君の書く物語が大好きだったよ、と送るべきか迷ったけどそれもしなかった。最後の最後に優しく出来ないくらいに、自分が彼女を好いていたことに気がついて悲しくなる。
 髭を剃って、顔を洗って、身なりを適当に整えた俺の足は、自然とかつて通ったあのアパートに向かう。少し驚いた顔で俺を迎え入れた優紀ちゃんは、何も知らないはずはないのにあっさり亜久津が今住んでる場所を教えてくれた。
 優しくない彼女と、一方的に別れたつもりでいる俺の心は、彼女よりももっと優しくない亜久津を求めていた。
 自分が今までに散々彼女を傷つけてきたことを悔やんで、俺が彼女よりももっと深く傷つけたかもしれない亜久津の体を求める。
 とにかく、今の俺には亜久津仁が必要だった。
 タクシーから降りて見上げた新しくも古くもない鉄筋のマンションは、笑えるくらい亜久津のイメージに合っていた。
 エレベーターなんて気の利いたものはない。四階まで階段でひと息に上がって、無機質な呼び鈴のボタンを押す。
「久しぶりだね、君の人生邪魔しにきたよ」
 ドアを開くなり言い放っても、俺の唯一の男は顔色一つ変えなかった。




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