家守小径

 テニス部の部長がすげ変わってから、若を格好いいという女子の声をしきりに聞くようになった。髪型は担子菌類だし、性格にもそれらが好む環境に似てじめついたところがあるのに、彼女達に言わせればそこもまた今っぽいのだという。それらは一過性の流行で、時間を重ねれば通り過ぎていくものだと思っていたし、事実分かりやすい形で騒ぐ女の子の数は減っていたが、それでもゼロになることはなかった。
 熱っぽい視線を若に向ける人間は、いつも私の目の届く範囲に確実にいる。
「アンタ昔は人気なかったのにね」
「いきなりどうした」
 突拍子もない私の言葉に、若の声が尖った。雨粒が傘を叩く轟音が、それに重なる。
 横殴りの風を伴った雨の前では、ちっぽけな折り畳み傘などは役に立たない。ぐっしょりと濡れた靴底にいつの間にか紛れ込んだ砂利が、足裏の痛覚を刺激する。
「突然スクールカーストを登り詰めて行った幼馴染への妬みやっかみ、冷やかし」
 いけませんか、と重ねた言葉は無視された。雨のせいで聞こえなかったわけではないと思う。
 若は決して目立つ子供ではなかった。体捌きのセンスが良いとかなんとかで、古武術の道場を営むお父さんには大層可愛がられていたし、いつでも几帳面に切りそろえられたさらさらの前髪の下では、くっきりとした二重瞼の瞳がきれいに揺らいでいたけど、性格が明るくないから、子供が集まる場所では少しばかり浮いていた。
 外見には子供らしく振る舞っていても、内側にはややこしいものを抱えていた私は、この男のそういうところに過分に惹かれた。愛想や可愛げといった言葉とは無縁の日吉若は、大切なものを独占しておきたい子供の目には魅力的に映ったのだ。
「今日の部活、きつかった?」
「お前には関係ない」
「つーめた」
 傘がないのと泣きつけば相合傘を許してくれる程度の関係ではあるはずなのに、この男とまともなやりとりが成立したことはもう何年もない。
「汗の匂いはしないけど」
 すん、と鼻を鳴らしたら、若は歩みを止めた。その瞬間に滞留した空気は、爽やかな柑橘の香りを纏っていた。シートで拭ったか、シャワーを浴びたか、汗の残り香にありつけなかったことを残念に思う自分に辟易する。
「この道」
 気味が悪いと言われるものだとばかり思っていたのに、若の声は呆けていた。匂い云々の発言は届いていなかったらしい。傘で守られた頭は、雨水でしとどに濡れたコンクリート塀の合間の小径に向けられている。
「まだあったのか」
 そっとこちらを振り返って、今度は忌々しげに肩を震わせた。
「へえ」
 私は、耳がないふりをしてそこを通り過ぎようとする。しかし上手くいかなかった。折り畳み傘の細い柄を握った手に、若の冷えたそれが重なったからだ。
「行くな」
 思いがけず強い力で引き寄せられて、ときめきを覚える暇もなく、青臭い雑草の茂ったその道に押し込まれる。
「気味が悪いよ、なに」
 靴下と素肌の境目を撫でる草の感触が不快で視線を落とすと、雨宿りをするように蠢くカメムシと視線があった。私のものより幾分大きい若の足は、小学生の自転車がつけたと思わしき細い轍を踏んでいる。
「忘れたとは言わせない」
 二人で握り込んだ傘を弾き飛ばして、若は私に迫ってきた。氷帝の門をくぐってからここに至るまで、自分の肩は濡らしても、部活終わりのこの体は冷やすまいと、小さな傘を幼馴染の方に向かって傾け続けた私の小さなエゴも無に返る。
「ごめんね、忘れました」
 口に出してみてから、これはまるきり覚えている人間の文法だな、と思った。少しだけ勢いを弱めた雨粒が二人の体を濡らす。
「今日、奴が部室の壁に張り付いていた」
「ムカデ?」
「ヤモリだ。本当に忘れたわけじゃないだろうな」
 その爬虫類の名前を口に出した瞬間、若は頭を左右に振った。小径を縁取るコンクリ塀に奴らがひっついていないか気にしているのだ。挙動不審。冷めた声をあげると、「お前のせいだろ」と肩を掴まれた。
「本当に覚えてないから」
「お前が覚えてなくても、こっちはトラウマになってる。今日だって他の部員の前じゃなかったら叫びだしてたぞ」
「そうなんだ」
「ここまで言っても他人事か。お前があんなもの見せなかったら、俺は」
 肩にかかる圧が強くなる。思わず顔を顰めてしまう程の痛みを、下唇を噛んで堪えながら、かつて沢山のヤモリ達が張り付いていたコンクリ塀に目を向けた。やっぱり覚えてるんだろ、と若が言う。忘れられるはずがない。あいつらは私にろくでもない呪いをかけた。
 
 わずか数回の出来事が、子供心には永続的な日常として記憶されることがある……先日読んだ小説でそんな文字の並びをひろったが、私が若にあのヤモリ達を見せたのは、たった一度きりだ。
 幼稚舎にあがってしばらくが経つまで、私達はとても仲が良かった。あの頃は私も若と同じ先生に算盤を教わっており、教室への行き帰りは必ず二人でしていた。
 今では部員二百人を束ねる部長などという大それた責務についている若も、当時は同じ年齢の子供なりに寂しがりで、教室まで子供の足で二十分程度一人歩きすることを厭うていた。時たま私がずる休みをしようとすると、部屋まで上がり込んできて手を引いてきたものである。
 行き帰りで往復四十分の二人きりの時間、私たちの間で俎上にあがっていたのはもっぱらオカルト関連の話題だった。今にして思えば、幽霊や妖怪といった不可思議なものについて語らう数十分は、家庭環境や性別の異なる私達が、その差を意識せずにいられる唯一の時間だったのかもしれない。
 教室への行き帰りの最中、特にあたりが薄暗くなり始める帰り道、私達は学校の図書室で借りてきた都市伝説や、七不思議の登場人物になりきってみたり、近所の神社に祀られている神様の正体について議論を交わしあったりした。
 当時の若にとって最もお気に入りの遊び道具が、私達が近道と呼んでいたあの小径に放置されていた古い柱時計だったことを覚えている。文字盤の文字は全て消え去り、針すら動かないそれは、彼の好奇心を大いに刺激したようだ。
 その頃、お洒落やアイドルといった女の子らしいトピックに少しずつ関心を持ち始め、オカルトとの縁が薄れつつあった私は、それを男の子特有の幼稚な趣味だと軽蔑すると同時に、若のそんな嗜好に寄り添えるのは自分だけだという優越感に浸っていた。他の人間には真似出来ない手段で、彼を喜ばせてやりたいという欲求が芽生えたのもその時期だ。
 ある日のこと、いつものように学校からの帰路についた私は、一人であったにも関わらず、あの草の生い茂る小径に入った。そうして道の途中に投げ出された若のお気に入りの柱時計の前でしゃがみこんだ。
 それまでまともに眺めたこともなかった古時計の、振り子がぶら下がっている空間は、仕切りのガラスが透明であるが故に中の様子がよく見えた。何本もの鉄の棒に支えられたゼンマイや、錆び付いた歯車、埃と湿気で濁った空気の中に沈んでいたそれらを覗き込むうちに、これは使えるな、と思い至る。
 熱に浮かされたようにガラスの仕切りの端を指で叩くと、そこは容易に開いた。そっと手を差し入れると、中は思ったよりも広い。これならたくさん詰めることが出来そうだ。意気揚々と立ち上がったあの日の私はどんな顔をしていたのだろう。
 日の落ち始めた空の下、学校指定の鞄を背負って佇む私の影を見下ろして、柱時計はまるで誘いをかけるように、口を開いていた。幼い私はコンクリ塀に目を向けて、お目当の生き物を探す。
 チッチッチッ、という鳴き声が鼓膜をかすめる。黒目がちのつぶらな瞳をこちらに向けたその生き物に、私は音もなく手を伸ばした。やもりを捕まえたのは初めてではなかった。若も可愛いといっていたので、家で飼うつもりで、寿命を調べたこともある。ひょろひょろと細長くて、生命力を感じさせない見かけに反して、彼らは十年ほども生きるという。
 だけどその時捕まえたものは、他の個体と比べても随分と小さく、また、弱っているように見えた。構わず時計の仕切りの内側に落として、ガラス戸を閉じる。元気かどうかなんてどうでもいい。とにかく数が必要なのだ。
 背中を丸めて、洋服が汚れるのも構わずに、その可愛い生き物達を捕まえる。時々尻尾が千切れても気にしない。草の間にいる個体に手を伸ばした拍子に、落ちていたガラスで指を切った。それでも血だらけの手のまま、何度も時計の仕切りを開いて、ヤモリを詰める。その繰り返しをしているうちに、気づけば辺りはすっかり暗くなっていた。
 鞄からスマートフォンを取り出すと、母から何度も電話がかかってきていた。バックライトで時計を照らすと、そこに滞留した数え切れない程のつぶらな瞳が蠢くのが見えて、ようやく満足することが出来る。可愛い彼らが飢えてしまわないように、昼にどうしても食べられなかったゼリーの封を切って、仕切りの内側に落としてから帰路についた。
 それから数日後の算盤教室の日はひどく蒸し暑く、時計を見て帰ろうと私が誘っても、若は気乗りしないようであった。それでもどのみち帰り道なのだからと手を引いて、苦心して時計に詰めたヤモリ達が待っている小径に入る。若はヤモリを可愛いと言っていたし、あの時計がお気に入りだった。好きなものが二つ合わさっているのを見たら喜ぶに違いないと、当時の私は本気で考えていた。
 しかし、小径の半ばに差し掛かり、時計が視界に入ったところで、若は突然立ち止まる。
「ねえ若、この前ここでさ……」
 そう声をかけた途端、彼は弾かれたように駆け出した。草に覆われた地面に投げ出された時計を持ち上げて、力一杯上下に揺さぶる。
 やがて仕切りが開き、粘膜をまとって塊になったヤモリ達がずるんと滑り落ちて、細い轍の上に散らばる。殆どは死んでいるようだったが、中にはぎりぎりのところで命を繋ぎ止めて、仲間の死体の下から這い出てくるものもいる。
 若はしばらく呆然とそれを見つめていたが、ふいに我に帰ったように時計を放り投げると、「なんなんだよ!」と叫んだ。若が大きな声をあげるのを、私はそのとき初めて聞いた。
 若が震える指で、ヤモリ達の死体の塊をほぐしてやり始めたとき、私はようやくことの重大さに気がついて、恐ろしさのあまりその場に立ちすくんだ。
「お前がやったのか」
 誤魔化しても仕方がないので頷くと、若は無言で私を突き飛ばした。突き飛ばされた勢いで尻餅をつく私が、痛いよと呟くと、「それくらい我慢しろよ」と、弱り切って小さく身動ぎをする脚のちぎれた一匹のヤモリを手のひらにのせた。
「時計、汚してごめんね」
 やっとのことで謝ると、若はいよいよ逆上した様子で、死にかけのヤモリを私の鼻の先に突きつけた。
「時計じゃないだろ。なんで分からないんだ」
 今にも泣き出しそうな顔で怒鳴る彼の足元には、先程まで生きていた小さな生き物の死骸があって、私はそれを直視出来なかった。だけど初めて若にまともに怒られたのが悔しくて、負け惜しみのような言葉を吐き出す。
「そいつもどうせすぐ死ぬよ」
 若は何も言わずに踵を返して、元来た道を戻り始める。私は慌てて後を追いかけたが、若は一度も振り返ってくれなかった。
 それ以来、その時計の小径に行くことはなくなった。若とは喧嘩別れのように疎遠になって、私は算盤教室をやめた。

 家が近くで、親同士の仲が良いので、今では帰り道に傘に入れてくれと図々しく泣きつく程度の関係に修復されているものの、今日まで若があの日の話を持ち出すことはなかった。
 強くあろうとする男が、どこにでもいるちっぽけな爬虫類をまともに視界に入れることが出来ず恐れている。彼のらしくもない弱みを作り上げたのが自分であるという事実に、 仄暗い喜びと、浅ましい手応えを感じる。
 お前があんなもの見せなかったら、俺は……そこまで呟いたきり、顔を伏せてしまった若の頭上に、彼の放った傘をかかげる。
「下着まで濡れてるんだ。もう遅い」
「頭に血が昇ってるときに体を冷やしすぎるとよくないよ」
「誰のせいで……いや、覚えてないのか。もういい、帰ってくれ。傘はお前にやる」
 そこまで言っても私が立ち去ろうとしないので、痺れを切らしたように幼馴染は顔を上げた。つぶらな、黒目がちの瞳に撃ち抜かれて、後退りをしたくなるのをぐっと堪える。
 容赦なく降り注いだ雨粒が頭からつたって、細やかな鱗に覆われた若の表面には、透明の小径が幾重にも重なっていた。
「若、今どんな顔してるの」
「見ての通りだ」
 つぶらな瞳が、わずかに細くなる。だけど私は、彼の表情の機微を読み取れない。
 テニス部の部長がすげ変わってから、若を格好いいという女子の声をしきりに聞くようになった──その頃から、幼馴染の顔がヤモリに見えるようになった。まるであの日潰えた沢山の命が、罪を忘れるな……と呪いをかけてきたかのように。
 もちろん誰にも相談したことはない。好きな男の顔だけがヤモリに見えるだなんて説明したところで、異常性癖者のレッテルを貼られるのがオチだし、初めのうちは気味が悪かったけど、一週間と経たない内に爬虫類になった幼馴染にも慣れてしまった。
 これは凶事ではない。西陽に透けて輝く、彼のさらさらとした前髪を遠目に眺めることが出来なくなった代わりに、長らくまともに顔を見ることも出来ずにいた若と視線を合わせられるようになったのだから。
 私と対峙するたびに過去のトラウマを反芻する若の表情の変化に怯える必要ももうない。
「俺にはお前が何を考えているのか分からない」
「分かりやすいと思うけど」
 今も昔も私はこの男のことが好きだ。若を喜ばせたくて時計にヤモリを詰めたし、若が好きだから彼の顔がヤモリに見えるようになっても気味悪がるでもなく傍にいるし、若と一緒にいたいから、傘を忘れたフリをする。
「常識とか倫理よりも、若が先に来るの伝わらない?」
「どうして俺なんだ」
 好きだから、と私が改めて想いを打ち明けることを期待してくれているのか、単純に疎ましがっているのか、ヤモリの顔から若の感情を読み取ることは出来ない。
 まだ仲が良かったころ、若に好みのタイプを訊いたら、まだ七歳かそこらだった若は清楚な人、と言った。私の父が若のお母さんのことを清楚だと言っていたのを聞いていたのだと思う。当時の私は妙にがっくししたあと、母にきれいなワンピースをねだってみたりしたけど、今はもう二人の間に寝そべっている隔たりがそんなに簡単なものではないことを知っている。
「まただんまりか」
「ごめん、色々考えちゃってる」
「お前は昔からそうだ」
 小さく溢れた溜息。ああ、それにはどういう意図があるの。呆れてうんざりしてる、それとも昔を懐かしんでくれてるの。ううん、知りたくない。若の本当の気持ちなんて、表情を読むまでもなく分かり切っている。
「傘、本当は持たされてるだろ」
 私の鞄に触れる若の手、毎日ラケットを握り込んでいるとは思えない、たおやかなそれに、雲の切れ間から光が差し込む。小さくなった雨粒を辿るように顔を上げると、雨は殆どあがりかけていた。若の視線は、空ではなく私の顔に注がれている。
 不意に我に返って、折り畳み傘の入った鞄をひったくるように抱え込む。そうだよ、と吐き出した声は低い。
「忘れたふりでもしないと、昔みたいに二人きりになれないから」
 若はまた溜息を重ねて、私の肩を叩いた。
「俺は正直お前が怖い」
「私も怖いよ。今もこうやって鞄を抱きしめてないと、叫び出しそうだもん。これ以上はまずいってところで、いつも我慢が利かない」
 真夏のガラス越しの密室にヤモリ達を閉じ込めたあの頃から、本質的には何も変わらない。若のことが好きなのに、若が嫌がるようなことばかりしたくなる。
 アンタの顔ずっとヤモリに見えてるよ、あの日喜んでもらえると思ってたのに、子供の頃からずっと好きだった……興奮した頭を振り絞って浮かべた選択肢の中に、若の愛情を勝ち取るものはない。これ以上この場に留まっているのも億劫になって、私はとろとろと立ち上がった。
「待て、また逃げるつもりか」
「私がいつ逃げたの」
「算盤をやめただろ」
「若が私の顔なんか二度と見たくないだろうって思ったからやめてあげたんでしょ」
「俺の気持ちを勝手に決めるな」
 若が叫んだ。表情を読めなくても、怒っているのは分かった。何もかもが嫌になって視線を逸らしたら、濡れたコンクリ塀のてっぺんから何かが落ちた。鼓膜をくすぐるキュッキュッキュッという鳴き声。たらりと長い尻尾を持つ生き物が、私の足元目掛けて走ってきた。
「あ、ぁ、ぁ」
 背中が粟立って、立っていられないような震えがくる。思わず向かいの男にしがみついたとき、抱えていた鞄が地面に落ちた。ヤモリは、すんでのところでそれを躱して、するすると音もなく去っていく。
 震える膝が折れて、その場に崩れ落ちそうになる体を若が支えてくれた。大陸から流れてくる木枯しが、若の前髪をさらさらと揺らす。そのさらさらの下にあるのは、爬虫類の顔ではなかった。
 水気を含んだ制服の布地に包まれた肩に手を回す。以前に触れたときよりも作り込まれた筋肉のフレームを意識すると、心臓が痛いくらいに強く拍動する。
「やっぱり覚えてたな」
 からかうような声、見上げた若の頬は緩んでいた。綺麗な二重瞼の内側に鎮座した瞳は淡く穏やかで、憎悪の情を読み取ることは出来ない。それでも私は若の顔をまともに見ることが出来なかった。
「家が同じ方角なんだ。傘があってもタイミングが合えば二人で帰ってやってもいい」
 頭の上で若が吐き出した言葉を、私はもう聞いていなかった。頼むからヤモリの顔に戻ってくれ。何度も胸の内で繰り返しながら、雨に濡れた草が震える足を撫でる回数を数える。小さな胸をこうも急き立てるものは、あの日ガラスの仕切りの内側に置き去りにした可愛い生き物達の無数の瞳に他ならなかった。



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