嗅ぎ分けてシャーク

「酷い男だったんだろ。せいせいしたな」
 男が言うのに頷きながら、柳生に土をかけていた。雨が降ったあとの土は、水気を含んでいる分だけ重い。
「骨が折れるね」とあっさりと呟いた私に男は呆れたようだった。ならはじめから殺すな、と言いたげな沈黙が夜の森林に満ちる。
 人間が土の匂いを嗅ぎとる力は、サメが血の匂いを嗅ぎとるそれよりも鋭いのだという。それを教えてくれたのは今私たちの作った穴の中に横たわっている男だ。柳生はどんなことにでも詳しかった。年寄りじみていると思ったことすらある。これから小雨が降る日に外を歩くたびに、私は柳生のことを思い出すのだろうか。
 ショベルの足掛けに体重をかけて、一度掘り起こした土をすくう。雨の残り香、土の匂いに、柳生が品よく香らせていたトワレの残滓がかき消えていく。
「私も一緒に土に入ろうかな」
 冗談めかして言うと、男は手を止めて鼻を鳴らした。「それで俺だけがお縄か」
 確かに深夜に呼びつけておいてそれではあまりにも可哀想だ。長い息と共に柳生の残り香を体から追い出しながら、土にショベルをめり込ませる作業にまた戻る。
 まだ少女だった頃に柳生と銀杏を土に埋めたことがある。台風で地面に散らばった若い実を、私が考えもなしにたくさん拾ってきたのだ。あのときはゴミ袋越しに指で果肉を剥がそうとしても上手くいかず、呆れた柳生が庭の隅からバケツを持ってきた。
「土に埋めて追熟させるといいそうです」
 祖父に教わったのだという。柳生は祖父をとても尊敬していた。私は柳生の祖父のことがあまり好きではなかったが、柳生のことは好きだった。だから何でも柳生の言う通りにした。その日も同じだ。子供の頃に使っていた小さなスコップで、家庭菜園の土をすくってバケツに敷き詰めた。ざらざら。土がこぼれる音が耳に心地良かった。
 次の週の休みに、私たちは銀杏を掘り起こした。祖父の教えは正しく、黄色い実は見事に熟れていて、袋越しに指に力を込めただけで容易く果肉が剥がれる。中から出てきた殻は硬かった。今になって、あの感触は人間の骨のそれに似ていたのではないかと思う。
「人の死体ってどれくらいで腐るんだろ」
 闇の中で吐き出した声が思いがけず大きく響いたのに驚いた。車のライトに僅かに照らされた柳生の体は、今のところは柳生らしく、紳士めいた形を保っている。
「土に埋めたら結構持つんじゃねえか」
「身が剥がれるころにまた来ようよ」
 男は微かに笑った。「お前、いい趣味してるな」
 あの日の銀杏の殻のように、柳生の骨が剥き出しになる日が楽しみだった。時間がかかるなら、それでもいい。タイムカプセルみたいでロマンティックだ。いつか柳生の肉が土に還って白いラインが綺麗に浮き出したら、私は指の骨が欲しい。月並みで照れ臭いけど、あれにはとても良くしてもらった。どんなときでも繊細に動くから、敏感な場所を掠めても安心していられた。
 他の人のよりも馴染むよ、といつしか言った私に、柳生が浴びせた声は冷ややかだった。「当たり前でしょう」
 当たり前の行為を思い出すと体の芯がじん、と疼く。サメと土の話を聞いたのは、初めて繋がった日だ。あの日も雨が降っていた。濡れた制服の張り付いた私の肌に触れた柳生の指は震えていた。怖いのって訊いたら「この世で一番あなたが怖い」と言われた。それが妙に嬉しかった。シーツに染み込んだ私の血の匂いを嗅ぎ分けたとき、柳生は苦しげに喘いでいた。私は、私は少しも苦しくなんてなかった。気持ちいいだけだった。
「おい、休むなよ」
 男の声に背中を押されて、ショベルの持ち手を握り直す。水気を含んだ土は重い。ひとすくい事に柳生との繋がりが解けていく。心は凪いでいるのに、筋肉は悲鳴を上げていた。休むなと言われたばかりなのに手を止めて、スマホのバックライトで穴を照らす。
 柳生の体はもう殆ど隠れてしまっている。男は私に言って聞かせるのを諦めて、黙々とショベルを振るっていた。柳生の柳生らしい相貌に、ほどけた土が散る。昨日までは当たり前のように息をしていたのに、頬の青さが空々しかった。
 私という人間の明日に、確実に柳生がいないのだと思うと変な感じがした。私が使役することの出来る時間の全てに存在していたのが柳生だから。柳生に抱かれなかった昨日 。柳生に抱かれるかもしれない明日。柳生の指は、唇は、声は、的確に私の心を、官能をつついた。
「こういうもんは身元を特定する材料になる」と得意げに言った男に眼鏡を剥ぎ取られた柳生の顔を見下ろしたとき、妙に胸がざわめいた。
「私、柳生の寝顔を見たことがなかった」
 口に出した瞬間に、全てが土に覆い隠されてしまう。死に顔は綺麗だったな、と男が言った。それが誇らしかった。
 柳生を柳生と呼んでいたのは、柳生の昔の恋人だ。
「彼女なんだから比呂士って呼べば」と笑う私に、柳生は柳生だからって。その突き放すような言い方がカッコよかったから、私も柳生を柳生と呼ぶようになった。当然、柳生はいい顔をしなかった。
 彼女と柳生はそのあともしばらく続いたけど、最後の終わり方は酷かった。失敗しましたね、と柳生は笑っていたけど、笑い事じゃなかった。彼女は私のことを「頭がおかしい」と罵り、それを柳生のせいにした。それがとても悲しかった。私の頭がおかしいのは、柳生のせいじゃない。だけどそれを言葉で説明するのは難しかった。
「銀歯もとっておくんだったな」
 帰りにハンドルをにぎった男が言う。そのまま口笛まで吹き始めるので肩から力が抜けた。「柳生に銀歯はない」
 ついでに金歯も、歯の治療痕もない。キスをして舌を絡めるまでもなく、それくらいのことは知っている
 口笛の音色は思いがけず耳に馴染んだ。癒される、いいメロディだ。何の曲、とスマホを弄りながら訊くと「今作った即興」だと言う。サブスクのアプリを閉じて、ボイスレコーダーに切り替えた。
 男は馬鹿だけどいい奴だった。二回か三回セックスをしただけなのに、あんなところにまで付き合って、素敵なメロディまで聴かせてくれる。
 男は柳生の患者だった。胃カメラを飲まされて、鎮静剤の残る体を病室に横たえているところに声をかけた。柳生によって粘膜に長いものを入れられた私たちは竿兄妹のようなものだ。
 ゴミ袋を切らしているのを思い出して、帰りにドラッグストアに寄ってもらった。体を酷使した男は怠そうだったけど「回り道でもないしな」とそれに応じた。黒いバンが、地元のドラッグストアの駐車場に滑り込む。
「待ってていいよ」
 緑のカゴに入れたのは、可燃用のゴミ袋と、ミニサイズのクレラップ、それから六枚入りのコンドーム。それらがレジに通されていくのを眺めながら、柳生は私が用意したゴムなんて絶対に使わないのに、と切なくなったがもう柳生はいないのだった。
「やぎゅう」
 マスクの下で名前を呼んでみる。「あ、レジ袋入りません」コートのポケットからエコバッグを取り出しながら、今度は心の中で繰り返す。やぎゅう、やぎゅう。セックスの最中みたいだ。今度は漢字を思い浮かべながら。柳生、柳生。

 男が部屋に上がりたがるのを「今度ね」と拒んだ。死体を埋めた後のセックスはいかにも良さそうだったけど、なんとなしに気乗りしなかった。
「分かった。今度だな」と、男は案外あっさり引き下がった。ドアが閉じる。リビングは暗い。照明のスイッチを探る手に、慣れた熱が重なった。
 や、と無声音。続いた「ぎゅー」は掠れている。明かりが灯る。柳生が立っている。「今晩は冷えますね」
 冬の夜だというのに、柳生は極めて爽やかだ。
「指がかじかんで上手く握れないの」
 私は息をするように柳生に甘えた。胸板に額を寄せて、シャツの布地に鼻先を擦り付ける。
「暖めてさしあげます」柳生はいつも私に優しい。
 ベッドの上で服を剥かれた。長い指が肌を辿って、粘膜を静かに濡らす。あれだけ自分に尽くしてくれた人との行為に気乗りしなかったのに、柳生とのセックスを拒むという発想はなかった。避妊具越しでも熱いそれに体を割り開かれると、自分と柳生の境目が分からなくなる。
 規則的な抽挿の最中に、鼻腔が土の匂いを捉えた。柳生にそれを伝えると「ゲオスミンですよ」と前を擦られる。土の中にいる細菌が作る化合物の名前だそうだ。柳生は最中にも平気で蘊蓄を披露する。私は大抵の場合聞こえないふりをするけど、快感に紐づいた知識がこぼれ落ちてしまうことはない。
 喘ぎ声に、ベッドルームには相応しくない音が重なった。ざらざら。ほんのり濡れた土が頬に落ちてくる。木々の、葉っぱの匂いもする。柳生とのセックスはいつものようにいい。これがいいことなのか、悪いことなのか、判別がつかない。自分が繋がっている相手が、本物の柳生なのか、私の体の内に流れた柳生の破片なのかも。
 後戯にも凝る柳生は、事後の倦怠に抗えず寝そべった私の体をいつまでも撫でていた。その指の腹が不意にとろける。腐ってしまうには、まだ早いのに。
「どろっとしてるけど、大丈夫?」って心配してあげたら、柳生は紳士的に笑った。
「あなたの愛液でしょう」
 紳士だって人間だ。ベッドの上で裸になれば、下品なことも言う。



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