短編 鬼 | ナノ

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染み通っていく

「オイ」と声がかかって、手渡されたお茶碗を受け取ると、その手元を無表情で眺める顔がそこにあって、私は思わず手を引っ込めてしまった。

「……」
「ご、ごめんなさい!」慌てて破片を拾おうとしゃがみ込むと、同じようにしゃがみこんだのか、不死川さんの着物の足元が少し乱れる。
それでもやっぱり、その視線は私の手元にある。
見えてるんだろうか。
そう思って、不死川さんの前で手を振ってみてもなんの反応もない。
やっぱり見えているわけではないらしい。
何を見ていたんだろう。
わかることはないのだろうけれど、私の破片を握る指先に重なる不死川さんの指の少ない手が、なんだか凄く頼りなく思えてしまった。

□■■■■

その日の夜はすごく冷えた。そう思った。
珍しく、不死川さんが縁側で軽く体を震わせたからだ。
仕方ないなぁ、って、なんでもない気持ちで不死川さんの見様見真似で釜戸に火をつけて薬缶に熱々のお湯を沸かす。
それから熱湯を急須に入れて、とお盆にお茶のおかわりを用意して、また縁側まで運ぶ。
そうしたら、そこには立って待つ不死川さんがいて、やっぱり私の持つお盆をじ、と見ていた。
まっすぐにお盆を見ていて、……ちがう。
多分、私のお盆を持つ手を見ている。
そこに注視されていたのがいつからか、私はもう分からないけど、存外その淡い色の作る目がゆっくりと何かを測るみたいに上ってきて、丁度私の視線と交わった。ような、気がした。

「……」
「な、にか……言ってくれたら……答えるのに……」

私の言葉に答える声はない。
当然だ。

「ねぇ、」

聞こえていないのだから。
当然だ。

「なにか、言ってください」

聞こえることなんて無いのだから。

「なにか言ってよ……」

いつもみたいに、「いんのかァ」とか、
二つ並べた湯呑を見て「飲めねェんだろォ」ってちょっと笑ったりとか、
「食えたら良いのになァ」って、ちょっと意地悪な顔したりとか。

そうしたら私、いつもみたいに一度だけ壁を叩くし、「そうですねー」って、言える。
「意地悪言う!」って、拗ねたフリして言える。
ただ静かに私を見る、何かを確かめようとする視線が、あちこちに突き刺さってくるみたいだ。

「も、やだ。……帰りたい……」

無性に泣きたくなった。
不死川さんが、……あなたが、
あなたが玄弥さんであって欲しいと私に願うみたいに、私も、あなたが実弘君であってほしいとどこかで願っている。
あなたと実弘君を重ねてる。
今ここに、実弘君にいて欲しいと願ってる。
戻れないとしても、実弘君に会いたいと祈ってる。
実弘君に会いたい。
そんな目で、見ないで。
私まで泣きたくなる。
私だって、帰りたい。
実弘君に、会いたい。

「ありがとなァ」

そう言って、不死川さんは私よりも頭一つ高いところからお盆を見下ろして、それからお盆を私の手から、抜き取った。

私だって寂しい。
ずっと。
そう。
ずっとだ。
こうして手は重なってるのに、温度の一つだって感じない。
顔は実弘君そっくりなのに、「サンキュなァ」って言ってくれる実弘君じゃない。
「名前」って、呼んで笑ってくれる声もない。
子供扱いして頭を撫でていく手が、無い。
抱きしめてくれない。
キスだってしてくれない。
「おかえりィ」って言ってくれない。
実弘君じゃない。

誤魔化してきていたのに、急激に叩きつけられていく現実に余裕が無くなっていく。
泣いたって何も変わらなくて、叫んだって何も届く事はなくて。
誰一人にも聞いて貰えない事なんてわかってる。
わかってるのに、もう止められなかった。
また座り直して一人で静かに空を見上げてるその背中に、ただただぶつけるしか無かった。
きっと、これは全部理不尽な怒りだ。
そんな事も、わかってる。

「帰して!私を帰らせてよ!!」
「私じゃなくても良かったじゃない!」
「実弘君に会わせて!」
「お母さんに、お父さんに会いたい!」
「私は、別にあなたの世話を焼きたいと思ってるわけじゃないのに!」
「自分だけ、っ、自分だけそんなに寂しそうにしないでよ!」
「私だって、ずっと、……ずっと寂し……っ、う、」
「私だって、実弘君に、……会いたい……っ」

不死川さんが悪くない事なんてわかってる。
辛くて仕方ないんだろう、なんてことだってわかってる。
それでも言ってしまえば、私だってきっと悪くない。
本当はずっとずっと不安だった。
私はなにか本当は病気だったりしてしまったんだろうか。とか。
実弘君の家で、私死んじゃったんだろうか。とか。
もしそうなら、実弘君に迷惑をかけてしまってたりしないかな。とか。
お父さんとか、お母さんに説明はするなら多分、実弘君だ。
なにか嫌なことを言われたりしていないだろうか。だとか。
もう、会えないんだろうか。とか。
もう、帰れないのかな。とか。
ずっと、考えてた。
本当は、泣きたいくらいに不安だった。

そればっかりを、今までは考えなくて済んでいたのは、紛れもなく不死川さんが居たからだ。
それだって、わかってる。
実弘君に私が会いたいと願うみたいに、あなただって、不死川さんだって会いたい人が居たんだろう。
不死川さんにも、大切な人が居たんだろう。
不死川さんだって、きっと、寂しくて押し潰されそうなんじゃないだろうか。
ゲンヤさんに、会いたくて、きっとどうしようもないんだろう。
私に、ゲンヤさんであって欲しいと願ってしまうくらいに。
そんな事だって、わかってる。

「っ、実弘君に、会いたいの……、」
「……なァ」

思い掛けずに、降ってきた不死川さんの言葉に顔を上げる。
変わらず、私にはその、私よりもずっと大きな背を向けて、真っ黒な空の下で淋しげに佇んで、不死川さんはただ静かに語るみたいに呼びかけている。

「てめェ、ずっとここに居たのかァ」

ずっと、って、だから、いつからよ。
いつまでよ。
多分私は凄く苛立っていて、泣いたばっかりのぐちゃぐちゃな顔だってことも忘れるくらいだったから、この時ばかりは何を言っても聞こえない、見えることもない、なんてことにひどく感謝したりした。
何度も何度も深呼吸をしてたら、そのうち、風も吹いていないのに不死川さんの髪が揺れた。
不死川さんは、静かに後ろを向いて、私の立っている位置に視線を置く。

私は縁側から降りて、砂利を踏む。
適当な小枝を探して、それから不死川さんのもとに戻ってかがみ込む。
真っ暗だから、凄く時間がかかっているけど、不死川さんはただ静かにぼぅ、と一連の流れを見ている。
ひどく見えにくい砂地に、私はゆっくりと木枝を這わせた。

すこしまえから

「そうかィ。……いつも、ありがとなァ」

こちらこそ

「…………戻らねぇのかァ」

もどれない

淡々と、私の字を見ながら静かに話す音は、やっぱり実弘君にそっくりだった。

「そうかィ」

かえりたい

そこまで書いてから、ざっ、と消した。
私はその言葉を無かった事にした。
無かったことにして、膝を抱えた。
今にも落ちてきそうなほどに、嫌味な程の近い星を眺めてから、不死川さんの方を見る。
やっぱりなにも言わないけれど、また胸元を一度撫でた不死川さんの手元から、カサっと乾いた音がしていた。
やっぱり、ひどく寂しい。

■■■■■

そのうち陽が出てきて、山と空の間に奇麗にきれ間が出てくる。
眩い日差しに目を窄めながら縁側を伺い見ると、長いまつげはしっかりと降りていて、あの鋭い視線を覆い隠していた。

「寝てる……?」

つん、とほっぺを突いてやろうと指を伸ばすけど、その指は不死川さんの肌を通り抜けていって、なんの温度を感じる事もない。
私はまた、不死川さんの部屋から上着を取ってこよう。そう思って立ち上がった。
立ち上がったところで、不死川さんの手に握られたいつもの紙が、カサっと音を立てる。
また、飛んでったら悲しむだろうから、と、思ったから。
思ったから、その紙を手から抜き取ろうとして、最後の一文だけが嫌に目についた。
不死川さんは、もう、読んだんだろうか。
読めたのだろうか。

いけない。
いけない。
絶対良くない。

わかってたのに、結局私は最後の一文から遡るみたいにそれを一語一句漏らさずに目に入れていて、不死川さんの手から抜き取るのもやめていた。

心臓がバクバクして、息が詰まった。
不死川さんに、読んでほしかった。
遺書じゃない。
これは、遺書なんかじゃない。
遺書なんかじゃなかった。

多分ここには、不死川さんの願い全部が詰まってた。
不死川さんへの想いがうんとうんと詰まってた。

いまだ深く息を吐き、縁側で柱に背中を預け、静かに眠る不死川さんが、どうかどうか。
どうか幸せであれと。
私も一緒になって願ってた。



朝日もすっかり上りきり、瞼の裏でさえ熱くなってくる頃。
不死川さんはその長い睫毛を持ち上げた。
キラキラと淡い紫が陽の光を反射して、透き通ったような白んだ空を写してた。
身体を起こし、不死川さんは静かに手にしていた手紙へと視線を向けようとしてから、すっかり折り目が硬くついた手紙を畳みなおしている。
結局、読むこともなく、封筒にしている表紙に角張った字で記された遺書・・の文字を何度も何度も指でなぞり上げて、やはりまた、胸元へと仕舞う。
そうして静かに息を吐き出した不死川さんは、静かに奥へと入っていった。

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