小説 | ナノ

大正八年八月。
酷く汗ばむ陽気であった。
青物屋なんぞをやっていた私の生家の前にも、西瓜やら黄瓜などが出そろい、青々とした顔をきらびやかにみせてあった。

父の呼び込みの声に、母の勘定をする音。
それを遠くに聞きながら、私はまだ産まれてさほど経っていない三人目の弟のあんまりにもちんまりとした指先に手を滑らせた。
小さい。
私がきゅ、と握り込んでしまえば、痛みに怯え泣くであろう。
私がきゅ、と力を籠めれば、たちまちにこの小さな手は砕けてしまうのだろう。
守らなくちゃ。
私が、大切に、大事に、宝物を懐に仕舞うみたいに。
あぶ、ぶぅ、ととんがった富士山のような山形の唇から漏れる声があんまりにも愛おしかった。

真中の弟は、病弱だった兄の分まで元気をもらっているのかもしれない、と思う程にはやんちゃに、元気に育っていた。
春ごろに、久方ぶりに姿を見せた私の頭の先から足の先までを舐めるように見ては「知らない人は入れてやんねぇ!」と玄関口で通せんぼをするくらいには、元気であった。

直後、私は父と母に抱きかかえられ「よぅ生きて戻ってくれた」とわんわんと泣かれたものだから、宥めるのにも苦労をしたし、それを見た弟が、漸く私を姉だと理解したらしかった。
けれど、父と母とを泣かせる悪い奴、と思われてしまったらしく、暫くは口を効いてももらえなかったのは、少し、悲しかったかもしれない。

それからも、もう数か月。恐らく、四か月も五か月も経っていた。
最初は喜んでくれていた父も母も、働かない私には手を焼き始めたらしい。
如何せん、体のど真ん中に走る大きな手術痕、首筋の引きつれ、顔の真中左の頬に走る傷跡は「婿を探す」というのも夢のまた夢の話しである、と諦めざるを得ない様相であったし、私もそんな夢を見る気には到底なれなかった。

かと言って、家の前にこんな様相で出てみれば、あそこの娘は、とひそひそとやられることは請け合いである。
私とて、持て余していた。
自分自身を。

けれど、本当はそれだけではない。
私は待っていた。
あいつが約束を覚えているかどうか、それは分からないし、そもそも生家であるここを教えてもいないのだから、辿り着くのかもわからない。
それでも、待っていた。

とはいえ、こうも時間が経ってしまうと、困った。
私も、今の状況はいささか、気まずい。

そんな状況であったから、斜向かいの藤の家から提案のあった、京都の方にあるのだとか言う、藤の家紋を掲げているのだという料亭の厨房の手伝いだかを紹介してもらうことにした。
こうしてまた、私はこの家を離れることに決めたのだけれど、特別寂しい、とは思わなかった。
ただ、きっとこの家とは縁がないのであろうな。と、そのくらい。



あの最後にあった、鬼の始祖・鬼舞辻無惨との凄惨な戦いの場では、たくさんの隊士がその命を散らしていった。
私とて、いつ消え去っていてもおかしくはなかった。
不死川が居なかった。
あの日、あの戦場に、私の傍に不死川は居なかった。
だから。そう言ってしまっても良いのかもしれない。
「肉の壁になれ!」私はその言葉の通りには到底動くことは出来なかった。だからせいぜいあの場で出来たのは、隠の仕事の手伝いなんぞをするくらいのもので、私はあそこで刀を捨てた。
不死川のように、どこに居ても、誰が相手であったとしても「勝つ」「殺す」「柱になる」そう信じ続ける事は出来ないし、藻掻くつもりも、無かった。
そうして私は初めて、あぁ、何のことはない。私は不死川の隣に居たかったのか。そう、気が付いた。
けれど、だからこそ、最後は逃げられなかった。
きちんと、最後まで出来る事をするしかなかった。
だからそこだけは、不死川にも、胸を張りたい、と思う。最後まで、私はきちんと足掻いて、私なりにやりきれた。
そこに、後悔は一つとして置いてこなかった。

続々と蝶屋敷に運ばれる隊士たちに交ざり、頬を縫ってもらい、折れてしまっていた腕を診てもらったり。
息を引き取っていく隊士たちの、最期を看取る手伝いも、したかもしれない。
そんな事を一月も続けたのだけれど、不死川は居なかった。

どうも、あの場に居たらしい鬼の能力のせいであろうが、この蝶屋敷へと戻って来られた隊士の数自体が、総数の半分にも満たなかったそうで、腕の痛みが引いてすぐ、私は急遽組まれた捜索隊へと志願した。
何人か、隊士であったとみられるものを引き上げる事はあったが、それでも。不死川は見当たらなかった。

だからこそ、私は考えたのだ。
不死川はきっと、生きている。
生きていて、自分の足でどこぞへと行ったのだろう。
例えば、それはあの柱稽古の時にも大きく靡いていた髪の向かう方へと行ったのかもしれない。
例えば、世話になったあちらこちらが、不死川はそれなりに多いから、そこいらへと挨拶に向かったのかも。
例えば、例えば。
私はそう、考える事にしていた。

「鰻、まだ食べさせてもらってない」

私がそう言ったら、頬を真っ赤に染め、もごもごと言い淀んだ挙句に「終わったら」などと言っていたから。
不死川は、そう言ったから。

「兄ちゃんと、今度は、皆を一緒に守ろうって、俺、言ったんだ……約束、したんだ……」

不死川はそう言って、こんなところまでやってきたのだ。
そんな男がした約束だ。
いつまでだって、待つに値するものだ。と、私は信じている。





目の前で口をふにゃふにゃとやった弟が、とうとう声を上げて泣き始めた頃。
おもてから、先まで響いていたお客であろう婦人たちとはまるきり違う、男特有の少しばかり擦れた声が響いた。

「待って、お乳ね、母ちゃんにもらおうね、ほら、母ちゃん呼びに行くからね」

普段から顔に傷のある女がうろつくのは、と、おもてに出るのをすら控えているものであるから、この瞬間が少し、緊張する。

青物がずら、と並ぶ籠の向こう側。
表通りを歩く婦人や女学生を背景にして、その人は立っていた。
奥の襖をほんの少し開け、母に声を掛けようと視線をちら、とやっただけでもわかったのは、その圧倒的な存在感には覚えがあったから、かもしれない。
顎のあたりに引っ掛けていた傘を外し、こちらへ頭を下げるその姿に、私は思わず「風柱さま」と呟いていた。

大正八年八月、某日。

私は不死川玄弥の死を知った。

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