×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -
チャンピオンになりハウオリを離れていた幼馴染のハウが帰ってきた。17歳ぐらいの話 ハウ / ポケットモンスター サン・ムーン | 名前変換 | 初出20170131 修正20240105

祝福

 ハウがリーグから戻って来た、という報せに、クラスメイト一同が騒々しくなったのは十二月の終わりのことだった。そのざわめきは、ハウと仲の良い男子が、もらったばかりの吉報を声高に発表したところから始まった。隣から隣へ伝染するように、声のさざ波は拡がっていく。じきに先生が入ってきて静かにと声を張り上げても、ハウオリのヒーローである彼の話題は暫く止むことはなかった。
 先生は、ある程度静まったところでしれっと授業を開始してしまう。今日はハウと飯行こうぜ、という男子の小さな囁きが聞こえる。頭を良くするための、大学受験のための授業はその囁きに負けている。わたしは、窓の外を見て、ハウのことをぼんやり思い出した。
 放課後になり、クラスメイトたちはちりぢりに教室から出て行く。わたしは鞄とラケットを持って、テニスシューズに履き替えた。海岸線を走って、いつものようにテニススクールへ向かうところだった、けれど。
 ハウは、待っていたかのように、海岸通りにいた。ビーチとの深い段差に腰掛け、きらきら光る砂浜に足を投げ出していた。
「なまえー、久しぶり」
 ハウは立ち上がってそう言った。
「今ってもしかして、テニススクールに行くところ?」
 彼の問いかけに、わたしは頼りなさげにこくんと頷く。久しぶりに会った人にさえ人見知りをしてしまうくらい、わたしは17になっても遠慮がちな人間だったのだ。ハウはそんなわたしの反応を気に留めることもなく、「じゃあ、終わるの待ってるー」といってまた腰掛けてしまった。わたしはテニススクールへ向かったけれど、受付で振替レッスンの申し込みだけしてハウのところへ戻ってきた。ハウは驚いたけれど、なんかなまえって変わってないねー、と言って、段差からまた立ち上がった。
 海岸通りの、ビーチが臨めるカフェに、ハウは連れて行ってくれた。ハウオリでは指折りの人気店で、いつも席が埋まっていて入れないお店だ。平日というところが良かったのか、その日はスムーズに入ることができた。
「わー、初めて来たけど、こんな風に海が見える席があるんだねー」
 席に辿り着くと、ハウは椅子に腰掛けないでオーシャンビューに感嘆の声を漏らした。わたしも一緒になって景色を眺める。この店から見るハウオリの海は、外で見る広い空と海の景観とは異なっていて、パノラマのように横に広がっていた。ひろい店内の、海側の壁一面が窓になっている。ハリや床にも使われている濃い茶色のオーク材が、店の橙色の照明に照らされている。その額の中にゆらぐ、薄い青のハウオリの海。
「やっぱりさ」ハウはのんびり言う。「帰ってくるたびに、ここが一番だなって思うんだー」
 そして、朗らかに微笑みわたしの椅子を引いてくれた。わたしは小さくお礼を言って、腰かけた。

 ハウがアローラリーグのチャンピオンになったのは、今回が初めてのことではない。12のとき、15のとき、そして今回の17のとき。計3回である。12のときは、島めぐりの末に。15のときは、彼の祖父であるハラさんが四天王を勇退されるときに。そして、今回。なぜリーグに挑戦して、チャンピオンであり続けようと決心したのか、わたしはまだ知らないままだった。まだ……なんて、甘く考えすぎかもしれない。その理由を知るときが、わたしに訪れるのだろうか。
 ハウは、メニューと睨めっこした末に、これにするー、とポキを選んだ。わたしはエッグベネディクトにした。「あ」ハウは、なにかを思い出したかのように、くすくすと笑い出す。どうしたのかを訊くと、なまえって昔から卵が好きだったよねと、ハウは大きな瞳を瞑って言った。
「そういえば、ハウ。今日は男子からご飯に誘われてなかった……?」
 わたしは、店に入った頃合いから気にかかっていたことを問いかけた。教室の中の小さな騒めきの中の一つに、そんな話題があったような気がしたのだ。ハウは一拍おいて「今日はやめてって言っといたー」と素っ気なく言った。「そっか」わたしもわたしで、深く掘り下げなかった。
「言いそびれちゃったけど、おかえりなさい」
「あー、そうだね。ただいま。ありがとう」
 頭の後ろを掻いてそう言ったハウの声色は、さらにおとなっぽくなっていたような気がした。「いやー、負けちゃった」と苦笑いをする。それでもすごいよ、とわたしはフォローを入れる。
「最初におれがチャンピオンになったのってさ、ミヅキがたまたま他の地方に行くことになって勇退したのがきっかけだったと思うんだけど、覚えてるー?」
 ミヅキという名前をきいて、わたしは思わずドキッとしてしまった。覚えてるよ、と動揺を隠しながらも答える。ハウとミヅキは出会った頃から不思議と仲が良くって……11歳の頃、わたしは少しモヤモヤとした気持ちを抱えたものだった。ミヅキは、とんでもない女の子だった。ポケモントレーナーとして、天才的だったのだ。その才能を買われ、今でも別の地方へ遠征に行くことが多いようだ。学校にはそもそも入っていないし、わたしは彼女とは親密ではない。ミヅキの話は、ミヅキと仲のよい友だちや、ハウから聞くものがすべてである。
「それでおれは初めてチャンピオンになったけど、防衛できないまま負けたんだ。だから、じいちゃんが四天王の座を降りる前に、意地でまた挑戦した。でも、またすぐに負けちゃった」
「今回は、長かったよね。1年くらいは、ずっとチャンピオンだったんじゃないかな」
 たしか、1年前の年が明けた頃には、ハウはすでにチャンピオンだったと思う。ハウは肯いた。
「おれ、迷って、負けちゃったんだー」
 懐かしむように、多少の悔しさを滲ませるように、ハウは遠い昔に思いを馳せる。
「でねー、その、迷った原因をなんとかしたくて、戻ってきたんだー」
「そう……なんだ?」
 わたしが愛想笑いを浮かべ首を傾げると、ハウはもどかしそうに目を泳がせて、「うんー」と曖昧に語尾を伸ばした。


・・・



 おれはなまえが女の子として好きだ、本当に。自覚するようになったのは、島めぐりの節目節目に、ハウオリに帰省したことがきっかけだったと思う。ずっと一緒にいることが当たり前だったなまえが、おれが居ないところで、おれの登場しない人生を送っていることに、すごく動揺してしまったことが始まりだった。なまえとは、家が隣同士だった。
「テニス始めたの?」
 アーカラの大試練を終えた後、おれは一旦ハウオリに帰ってきた。本当に、軽い気持ちで帰ってきたんだ。それで、前みたいになまえに会った。何も変わっていないと思っていたはずの彼女は、真新しいテニスラケットを持って、「これからレッスンがあるの」と控えめに笑っていた。
「ねえ、なまえもさー、来月11歳になるけど……島めぐりは行くのー?」
 おれの期待していた答えは、「もちろん」だった。というより、その言葉以外は、ありえないとすら思っていた。でも、なまえは少し表情を曇らせて、
「ううん、わたし、ハウオリでやりたいことがあるから……」
 と、言ったのだ。「そっかー」おれは、そう朗らかに答えた。心臓を握り潰す勢いのショックを彼女に見せないように。
 次に帰省するときは、ミヅキも一緒に連れて行ってみた。なまえって全然男勝りとかでもないし、ポケモン勝負もそんなに好きではない。やっぱり、島めぐりを楽しんでいる女の子であるミヅキの姿を見ることが一番、島めぐりに興味を持つきっかけになるのではないか、と思われたのだ。でも、なまえは控えめに微笑み続けるだけだった。おれは、なまえにも島めぐりに来て欲しかった。わからないことがあれば、相談に乗りたかった。共通の話題が欲しかった。でも、結局おれは彼女に「フラれて」しまったわけだ。
「男はしつこくないほうがいいぞ」
 おれは、漏れなくククイ博士に恋愛のお説教を食らった。博士には一度だって、なまえのことがすき、なんて言ったことないのに。それで、おれはなまえを島めぐりに誘うのは諦めた。ついでに、自分の気持ちにも蓋をしてしまったのである。

 ミヅキとはまだ連絡とってるの、となまえが言ったのは、先ほど注文したポキが運ばれてきた、そのタイミングだったと、思う。せっかく見つけた話題を振ったときにこうやって会話が断絶されてしまうと、お互いなんとも言えない気持ちになるのを、鈍感なおれでも知っている。なまえが焦って胸の前で両手を握りあわせるのを見て、おれは店員をよそに「たまにだけど、とってるよー」と答えた。それでも、なまえは浮かない表情のままだったけれど。店員は、おれたちのグラスに水を注いで去って行った。
「そういえば、なまえもテニスの試合、結構いいところまでいったって聞いたよー」
 じいちゃんからそのまま横流しに聞いた情報を、おれは本人に伝えてみる。こんどは、彼女の表情にすこし花が咲いた。やっぱりなまえはテニス一筋なんだなあ、と視覚で説得させられてしまう。
「テニスで有名な大学に入ろうと思うの。そこで、大学だけの大会に出て……プロにはなれないけど、インストラクターの資格をとって、将来コーチになりたいなって、思い始めたところなんだ」
 言い終わったときに、次はなまえのエッグベネディクトが運ばれてきた。すがすがしい笑顔で、なまえは皿を受け取る。
「ハウは、進路は……?」
「あー、おれは……」
「やっぱり、ポケモン続けるんだよね」
 おれは、このときまた迷ってしまった。ポケモンを続けていくか、どうか。それは、ハウオリでやるべきことを為してから決めることだと思っていた。でも、そのやるべきことを目の前に、何故だか怖気付いてしまう。迷ったことによって負けて、あれだけ決心してリベンジしないで帰ってきたのにも関わらず、だ。でも、そんなことなまえには関係なくて、すべておれの心の持ちようの話なんだ。
 おれは、なまえにちゃんと気持ちを伝えようと思って、ハウオリに戻ってきた。


・・・



 わたしがテニスを始めたきっかけは、島めぐりに行く勇気がない自分に対する、一種の逃げ道だった。
 幼いときからずっと一緒にいたハウは、わたしより先に11歳になった。ハウは、ポケモンが大好きだった。それに、島キングであるハラさんの孫ということもあって、最初から周りの子たちと一線を画していた。それでも本人は強さより楽しさを優先するような性格だったから、彼は常に人に囲まれていた。太陽のような存在だったのだ。
 早く島めぐりに行きたいねー、がハウの口ぐせだった。友だちとポケモン勝負をしたり、リリィタウンで他のトレーナーの大試練を観戦したり、何かあるたび彼はその言葉を口にした。だから、わたしも幼い頃から、ハウと一緒に旅立つつもりでいたのだ。でも、ハウは、わたしを置いてミヅキと先に行ってしまった。
 ミヅキは、ハウが島めぐりに出かける少し前に越してきた。都会的な白い肌に透明感のあるエキゾチックな黒髪がとても綺麗な女の子だった。彼女はもう11歳になっていて、ポケモン勝負のセンスがずば抜けていた。そして、すぐにハウと仲良くなった。きっと、お互いにいいライバルだったのだろう。ハウはきっと、ポケモン勝負に関しては、周りの友だちでは少し物足りなくなってきていた頃なのではないかと思う。
 仕方のないことだ。わたしは自分に言い聞かせた。ハウを責めるようなことではないし、そんなつもりも全くない。でも、やはり少しは哀しかった。目標を見失ったような気さえした。こころにぽっかりと空いた穴は、そう簡単には塞がらなかった。そのときに出会ったのが、テニスだったというわけだ。

 ポキを頬張るハウは、いつものあっけらかんとした気持ちではないみたいだった。ほんの少しだけれど、何かを黙っている、そんな表情だった。その時点で、わたしはハウに聞こうとおもっていたあらゆることを諦めた。チャンピオンのこと、これからのこと、ミヅキのこと、それから、わたしのこと。
 店内は、落ち着いたBGMをバックに、のんびりとしたラジオが流れている。昔馴染みのトランジスタ・ラジオ風で、ノイズ混じりの決してよくはない音質が、逆に耳に心地よかった。「Hou’oli Makahiki Hou!」電波の向こう側では、新年の挨拶を意味する昔の言葉が紹介されていた。わたしは卵の黄身をフォークでくずしながら、「ハウオリ・マカヒキ・ホウ」と心の中で呟いた。
「ハウは、新年もこっちにいるの?」
 ふと心に浮かんだ、当たり障りのないことをを問うてみる。黙り込んだままだったハウは、はっと顔をあげて、「いる、いるよ!」と慌てて答えた。
「あの、おれ……しばらくリーグには挑戦しないことにした、から」
 へへ、と笑うハウの、このなんともいえない表情、わたしは初めて見た気がする。だって、彼はいつも余裕があって、どんと構えるタイプの男の子だったから。本人は自覚がないだろうけれど、わたしは幼い頃からハウのそういうところに憧れ続けてきたから、よくわかるのだ。
「じゃあ、その、一緒にお祝いしない? ハウオリのメインストリートで、カウントダウンするの。ニューイヤードリンクも無料でもらえるし……」
「えっ、ニューイヤードリンク!」
「あ、」
 と言った時にはすでに遅かった。ハウは、年の割に大きな瞳をあちこちに動かしている。褐色の肌に、少し血色がすけて紅潮している。ニューイヤードリンクとは文字通りカウントダウン参加者に配られる無料のドリンクで、「家族みんなで乾杯しよう」つまり、これを飲めばみんな家族、なんていう洒落たコピーで有名なものである。しかし、学生の間ではもう一つの言い伝えみたいなものがあって、例に漏れずハウもそれを知っていたのだろう。これを二人で飲めばカップル成立、なんて、盛り上がるのはジュニアハイスクールまでだと思っていたけれど……。
「ちがうの……」
 わたしは手を振って、恥ずかしさを押し隠しながら否定した。彼のきれいな瞳にも頬が真っ赤のわたしが映っているんだ、と思うと、余計に羞恥が増した。
「あ、あついねー!」
 ハウは、豪快に笑って、手で顔を仰ぐようにした。「ソーダでも頼もっかー!」ハウの申し出にわたしはぶんぶん頷いて、気づいたらソーダが運ばれてきていた。輪切りのレモンが添えられた、透き通ったピンクの炭酸に、緊張はまだ緩まない。
「じゃあ、11時半に、迎えに行くねー」
 ハウが言う。なにが、じゃあ、なのだろう、狼狽しすぎて記憶が飛んでしまっている。ふとハウの手元を見ると、ソーダのグラスは空だった。それぐらい時間が経っていたのか、と焦ってしまう。わたしは自分のグラスのストローを引き寄せ、ちびちび飲んだ。はじける泡の喉越しは、心臓のどきどきを増してしまうようだ。

 それから、年末までは、ひどく長く感じられた。


 わたしの家のドアの前にハウがいる光景は、とても懐かしいけれど、でも昔とはやっぱり違った。わたしより背の高いハウは、そのまま大きくなったというより、縦に伸びたというような印象だった。以前と比べてスラッとしていて、今日は特に服装が細身だったから、余計に際立っていた。黒のスキニーにボタニカル柄のヴィンテージ風シャツ。とてもお洒落だと伝えると、ハウは首を傾げて、「でもこれ、じいちゃんが昔着てたやつらしくてさー」とシャツの腹の部分を少し引っ張る。
「なまえも、えーと、かわいいねー」
 白いワンピースを褒められ、わたしは俯いてしまう。にやにやが止まらない。
 わたしたちは街の外れに住んでいるから、ハウオリのメインストリートまで少し暗い道を歩いた。喜ばしくあたたかな夜だから、わたしたち以外にも出歩いている人々はたくさんいた。星空を眺めて、ハウと星座のあてっこをする。昔よく、どちらかの家に預けられたときは、こうやって星を指差していろんな話をしたものだった。
「懐かしいねー」ハウが嬉しそうに言う。「昔に戻ったみたいでさー」
「ずっと子どものままでいられたらいいのにね」
「なまえは、そう思うの?」
 心の中だけで思ったつもりが、つい口が滑ってしまった。「だって、ハウとこうして一緒にいられるんだもの」わたしがそう言ってしまうと、「たしかに、子どものままってのも悪くないねー、でも」と、ハウ。
「でも?」
 わたしは問いただした。
「なんでもない!」
 彼はそれきり、そっぽを向いてしまう。

 街の入り口にたどり着くと、そこかしこに人がいた。毎年のことだけれど、やはり混んでいる。しかし、これだけ人がいるのにもかかわらず、不思議と蒸し蒸しとした暑さは感じられなかった。ふと、わたしの白いスカートがふわりと揺れる。ああ、風が強いんだ。潮風が鼻をかすめると、しょっぱい海のかおりが感ぜられる。
「あと5分で、年が明けちゃう」ハウは、ミサンガなどと重ね付けされている腕時計を見て、そう言った。「ドリンク持ってくるから、ちょっとここで待ってて」
 残された私は、海岸側へ寄って、ハウを待った。やることもないので、海に目を向ける。月明かりに浮かんだ巨大で深い青が、ゆらゆら揺らめいていた。ずっと見ていると、吸い込まれてしまいそうだ。海岸も、人が多い。でも、どちらかというと、大人が多いみたい。ザーッという波の音が、人々の産むその喧騒でさえも掻き消してしまっていたけれど。人工的な光の届かないところで、ひっそり影をうごめかせている。
「1分前!」
 拡声された大きな呼び声がかかる。59! 58! 57! カウントダウンは、はやる気持ちを乗せて突然始まった。一秒ごとに、その速さは増していくようだった。ハウは、まだ来ない。混んでいるのかな、大丈夫かな。少し心配になる。42! 41! 40! ひとたび、強い風がハウオリの街を駆け抜けた。カウントダウンとは別に、風を受けて人々は声をあげた。それでも、時間は止まらない。彼はまだ見えないところにいる。わたしは、年明けの瞬間ふたり揃うことが、それほど重要なことだとは思っていなかった……今までは。今は、なぜか、これを逃したらもう無いような気がしてしまっている。
 27! 26! 25! 24! 23!
「なまえー!」
 はずむ足音とともに、ハウはちいさく走ってやってきた。二人分のニューイヤードリンクを大事そうに持ちながら、こぼれないように注意して足を運んでいるみたいだった。建物の明かりを背にしているはずなのに、その表情はとても輝いて見えた。
「よかった!」
 わたしはハウに駆け寄って、差し出されたドリンクを受け取った。17! 16! 15! 「ねえ、来年はいい年になりそうだよ!」ハウは大きな声で言った。
「どうして?」
「それはね……」ハウはわたしから目をそらして、建物側へ目を向けた。燦々とした光が、彼の瞳に無数に映る。「年が明けたら言うねー!」
 10! 9! 8!
 いよいよカウントダウンが10を切った。通りに集まった人々がお腹の底からはき出す声は、あかるい。わたしもハウも、一緒になって声をあげた。5! 4! ドリンクを持っていないわたしの無防備な左手は、あったかくて大きい手に攫われる。同時に、どっと大きな風も突き抜けていった。風をかばうように、ハウはわたしを自分の胸の中に引き寄せた。
「ハッピー・ニュー・イヤー!」
「ハウオリ・マカヒキ・ホー!」
 おおきな拍手と、われんばかりの声の波があたりを支配した。ざわめきはしばらく続き、しかし、いつもあるはずの花火がないので、次第にどよめきに変わっていった。「強風のため、花火打ち上げを見合わせています」といったアナウンスが流れると、がっかりした声と笑い声がちりぢりに沸き起こった。
 ハウとわたしの距離は、いつのまにか適切な距離にもどっていた。先ほどの一瞬の感触は、ゆめだったのか、まぼろしだったのか。わたしはわかろうとして、彼の顔を見た。
「おれ、今日、絶対なまえに伝えたいことがあるの」
 彼はドリンクを地面においた。
「さっきのこととも、もしかして関係あるの?」
「うん……きっとね!」ハウは頭の後ろを掻いた。「おれは、自信があるんだけどねー」
 わたしは、結露ですべるドリンクのカップを、改めて持ち直した。なんとなく、そうしないと落としてしまいそうな気がしたから。ハウは、わたしの目の前で片膝をつく。さっき、なまえの姿を見つけたとき、おれやっと勇気をもらえたんだよ、とハウは言う。わたしは、言葉より先に感覚で得たものに反応して、視界が涙で潤うのを感じた。ハウは控えめに、わたしの左手をとった。大きな手。あったかい手。やっぱり、さっきのは夢じゃなかった。
「おれは、ずっとずっと昔から、きみのことが、なまえのことが……−−」