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初対面の自社の副社長に急に石の採掘に誘われる。彼女の爪にあしらわれたネイルが好きだと、彼は言い張るけれど…… ダイゴ / ポケットモンスター ルビー・サファイア | 名前変換(無) | 初出20170210 修正20231022

プレッピーとネイル


 石みたいな爪だ。
 わたしの、ピンクの単色ネイルを見てそんなことを言ったのは、ダイゴさんが最初で最後だった。
 そのときのことは、今でもよく憶えている。平凡なわたしにしては、いつまでも語り草にできるような、少女漫画でありがちなロマンチックな出会いだったのだ。もっともそれは、周りの人からしてみれば、ということだけれど……。

 彼とは、紅葉のうつくしい時期に、会社内のカフェスペースで初めて出くわした。

 わたしは、吹き抜けの清々しい空間で一杯五十円のカフェオレを飲んでいた。びっくりするほど安いのは、半分以上が福利厚生で賄われているからだ。そこでわたしは、自分の部署内のいざこざとか、昨日の残業のきつかったこと、今日の晩ご飯のことなどにぼんやりと思いを巡らせて、どちらかといえば感傷的な気持ちに浸っていた。熱々のカフェオレは、わたしの冷えた指先を情熱的に温めてくれた。でも、冷ややかな心の氷や、足の先の痺れまではどうにもしてくれなかったし、わたしだってカフェオレごときにそこまで期待をしていなかった。
 ああ、だれか終業後に食事に行ってくれる人とか、いないかなあ……。
 なんて、思ったりして、また気持ちが暗くなった。今日もまた、残業がある。

 そうして、薄めのカフェオレを舌を火傷しないように冷ましながら飲んでいると、銀髪の男性が角を曲がってやってきた。わ、珍しい髪の色。わたしはそう思って横目でちらりと見た程度だった。こんな人も会社の中にいたのだなあ、とやはり頭はぼんやりしていた。疲れていたのだ。デボン・コーポレーションは大きい会社だし、こんな雰囲気の人がひとりふたりいてもおかしくない。二階の自分の部署にはこんなお洒落なスーツを着た人はいないけれど、上層階はそんなもの当たり前な風潮なのかもしれないし。
 銀髪の男性は、優雅に歩いてやってきて、わたしの側にあるコーヒーメーカーのボタンを押した。わたしは距離を取ろうとして、その場を離れるべく足を踏み出した。おそらく、それがいけなかったのだろう。わたしの爪が光を反射したのが目に入ったのか、男性はわたしの爪先と顔を交互に見て、こう言ったのだ。
「石みたいな爪だ」
 わたしは、必然的に歩みをやめた。急停止したので、手のひらの中のカフェオレが揺れた気がする。
「え?」
 先述した通り、わたしはとても疲れていた。彼が何を言っているのか、本当によくわからなかったのである。でも、次第に「いしみたいなつめだ」の、ごく表面的な意味合いをわかり始めると、なんだかとても苛々してきた。
「い、石ですか?」
「ああ、石だ」
 石って、あの、石ころのことだよね? イシツブテとか? ざらざらしてるってこと? 取るに足らないくらいに、くだらないってこと?
 わたしは、その場をどう立ち去るか考えた。初対面ながらに敬語も使わず、意味不明な評価をしてきたこの人と、関わり合いになりたくなかったのだ。しかし、仮にもここは会社だ。喧嘩か何か起こして、あとで呼び出されるのもいやだ。
「どうもありがとうございます」
 わたしは、やっとの想いでそれだけを告げ、そこを去ろうとした。「まって、まって」銀髪の男性は、そんなわたしの葛藤をも無視して話を続けた。
「ぼくはびっくりしたんだよ、こんな会社の中に石があるなんて、って。その色の石は、最近ぼくが非常に興味を持っている色なんだ。もしかしてきみも、その色が好きなのかい?」
「この色って、このピンク色のことですか?」
「そうだよ。それ以外にも何かあるの?」
 銀髪の男性はにっこり笑った。「その爪の色、ローズクォーツみたいで、本当に綺麗だよ」
 その言葉が魔法みたいに身体中を駆け巡るのに、そう時間は掛からなかった。じゃあね、と手を振って銀髪の男性は立ち去って行ってしまい、わたしは少しぬるくなり始めたカフェオレを手に、暫くその場で立ち尽くした。あとで同僚にそのことをお喋りすると、その男性はなんと我が社の副社長ということがわかった。それで、「すごいロマンチックな出会いじゃない!」と部署内のちいさな給湯室でちょっとした騒ぎになった。


・・・


 どうして今まで知らなかったんだろう? というようなことが、生活の節々に綻びのように現れてくるようになると、何故だかそのことばかりが急に目に入ってくるようになるのだから、不思議である。流行っていたことすら知らなかったのに、ひとたび見かけると、今まで何処にいたのかというくらいそれらを見かけることがある。SNSでピンク色が流行していることを知ってから、街中ピンクで溢れかえっているような気がした。そして、不思議とローズクォーツの話もよく耳にするようになった。どうやらローズクォーツとやらは、ホウエンにはない石であるらしい。それなら、あの銀髪の男性はいまごろホウエンではない何処か遠くにいて、その石をひたすら探し回っているのかもしれない。

 わたしのデスクの横に、「うけざら」の札がぶら下がっている。この札が下がっている日は、あの吹き抜けのところにあるコーヒーメーカーの受け皿洗わないといけないのだ。わたしは納品書や請求書の類を片付けて、重い腰をあげる。立ち上がった時にブランケットが膝から滑り落ちそうになって、慌てて拾い上げた。

 低いヒールを小さく鳴らして、わたしは吹き抜けのある全社員共有のスペースへ足を運んだ。お客様も通すことのあるカジュアルなスペースで、ここではポケモンを出してもいいことになっている。といっても、わたしはポケモンを持ち歩いていないので、無縁の話ではある。
 角を曲がってそのスペースの目の前まで行くと、きらりと銀色が光ったのでわたしは思わず足を止めた。あの、副社長である。またしても遭遇してしまった。彼の姿なんて、今までこのスペースで見たことも聞いたこともないのに。つい、一週間前までは。
 副社長は、わたしの顔を見て「あ」という顔をした。わたしはぺこりとお辞儀をし、コーヒーメーカーのそばへ近寄る。副社長はわたしに手を振って「やあ、ローズクォーツさん」と言った。
「きみもコーヒーが好きなの?」
「いえ、受け皿を洗いに来たんです」
 副社長は感心と驚きが入り混じった顔をして、「そうなんだ。いつもありがとう」と言った。
 わたしは妙な気まずさを抱えながら、受け皿をコーヒーメーカーから剥ぎ取る。そして、そばにあったティッシュを二、三枚引き抜いた。ティッシュは、洗った後の受け皿についた水分を拭い取るために使う。
「ねえ、今度、石を採掘しに行かない?」
 副社長は、わたしが立ち去る前に躊躇なくそう提案した。突然の、意味不明なご提案に、わたしの体の中にあった気まずさは一瞬にして離散する。わたしがやっとの思いで発した言葉は、「は、はい?」という、動揺を隠しきれないものだった。
「きみのセンスなら、きっといい石を見つけられると思うんだけれど」
「あ、え、……石、ですか?」
「うん。ローズクォーツはさすがにこの辺にはないから無理だけど……メノウとか」
 メノウ。めのう。瑪瑙。言葉は知っているものの、それがどんな代物であるか、わたしにはちっとも想像がつかなかった。
 副社長はわたしの返事をろくに待たず、ポケットから名刺一枚とペンを取り出すと、裏にさらさらと何かを書き出した。書き終わると、わたしに向かってそれを爽やかに差し出す。
「裏、読んで。待ってるよ」
 つい、受け取ってしまった。両手がふさがっていたのにも関わらず、である。だれだって、あのように微笑まれたら、差し出されたものを貰わずにはいられないと思う。わたしは彼が立ち去っていくのを見て、手元の名刺に視線を落とした。ツワブキ・ダイゴ、と大きく華奢な明朝体の上に小さく飾られた、専務取締役の文字。下部には、メールアドレスと電話番号。裏を見ると、乾ききっていない青いインクでこのように書き綴られていた。

 10月4日 9時 カナズミシティ北ゲート 不安ならメールして


「それって新手のナンパなんじゃないのかな」
 名刺の一件を仲良しの友だちに打ち明けたところ、そう言われてしまった。そんなにスムーズに誘ってくるなんて、絶対そういうの慣れてるよ。イケメンだし、背も高いし、お金も持ってるし。イケメンだし。慣れてる要素しかないよ。イケメンだし。しかも、石の採掘って洞窟とかにいくんでしょ。暗くてひとけもなさそうだよ、危ないよ? 散々な言いようだったが、確かにこの状況から考えるとそれが普通の発想だと思う。このときまでは、わたしも本気でそう思っていた。そのため、恐れ多くも断りのメールを入れさせていただいた。名刺をもらったその日の夜だったと思う。どこまで遜ればいいか分からず、すごく丁寧な文章を送ってしまった。

「夜分遅くに申し訳ございません。本日、ツワブキ様より石の採掘にお誘いいただいた者です。確認をしましたところ、お誘いいただいた日程の都合がつかないため、誠に恐縮ですが今回は見送りとさせていただけませんでしょうか。せっかくお声がけいただきましたのに、申し訳ございません。何卒、よろしくお願い申し上げます。」

 送った後、わたしは携帯電話をベッドの枕元に放り投げて足元のほうに向かって寝転がった。そして、ぼうっと今日あったことを反芻していたのだけれど、お返事のメールはなんと三分もかからずに返ってきたので、浸る余裕もなにもなかった。着信の音が鳴るタイミングがあまりも早すぎて、わたしは思わずベッドの上でたじろいでしまう。でも、仕事用のアドレスに送っているわけだから、副社長がすぐにチェックしていてもおかしくはない、か。そう思い直して、わたしは枕元まで這っていき、受験生が合格発表を確認するときのような緊張感を持ってメールを確認する。

「ローズクォーツさんでしょう? そんなに丁寧にしなくて大丈夫だよ。それなら、いつが都合つきそう? きみに合わせるよ。あと、申し訳ないけれど……きみの名前を聞いてなかったので、教えてほしいな。」

 断り文句が通じない人なのだろうか。それとも、わかった上で押し通しているのだろうか。わたしは、これ以上話がこじれると困ったことになりそうだと感じ、メール上で名前を名乗って「電話してもいいですか?」と聞いてみた。返事は「いいよ」と、とてもシンプルだった。
 ランダムに組み合わされたツワブキさんの番号を、ゆっくり間違いがないように打って、意を決するための深い呼吸をひとつして、わたしは通話ボタンを押す。彼は、ワンコールで出た。
「みょうじさん。連絡ありがとう」
「いえ、こちらこそ、お話する機会をいただきましてありがとうございます」
「それで……いつ頃がいいかな?」
「あー、ええと、その件なのですが……」
 電話越しに、ツワブキさんが「うん」と相槌を打つ。わたしは緊張のあまり手が震えそうになりながら、「あの、石の採掘でないと、駄目ですか……?」と話を切り出した。
「知り合って間もない人と、石の採掘っていうのはちょっと……」
 仲良しの友だちとでも、あまり行きたくないけれど。
「ああ、そういうことか」ツワブキさんは、合点がいったという風に返事をした。「じゃあ、ええと、僕の家でもくる? 石を見せてあげる」
 家。わたしは絶望的に、心の中でつぶやいた。家なんて、まっ暗い洞窟より性質が悪いじゃないか。一体、なんなんだ。意地悪なのか、考えが及んでいないだけなのか、逆に計算通りなのか……はたまた……。
 わたしは頭を左右に強く振って、なんともいえない邪推を追い払う。
「い、家、じゃなくって、どこかで外食しませんか? よければそのときに、石を見せていただければ……」
 自分でもこの対応は苦し紛れだと思う。本当は、石なんて別に見たくない。
「なるほど。じゃあ、そうしようか。明日の十九時はどう? ちょうど空いているんだ。きみが都合よければ」
「あ、では、それで」
「会社の裏口にきてね。表口だと目立ってしまうから。それじゃあ、おやすみ」
「あ、おやすみなさい」
 電話はあっけなく切れた。あれ? わたし、結局断ることができたのかな? わからないが、とにかく暗くて人のいない洞窟から人のいる明るい店内へとイメージが一転した。もしかしたら暗くて人のいない洞窟みたいなバーに連れて行かれる可能性もあるけれど……そうなったら、逃げてしまえばいい。わたしは意を決して布団をかぶった。


・・・


 会社の裏口、には初めて来た。休日出勤する場合にしか使われない社員限定の通路は、社員証をかざして入るタイプのこぢんまりとした出入り口だった。出るときは自動ドアが反応しきちんと開いたが、ひとたび出てしまうとドアはびくともしない。まるで、もう後戻りはできない、とでも言われているみたいだった。
 ツワブキさんは、五分ほど遅れてやってきた。通路の奥で水色がかったプラチナブロンドの輝きが見えたときは、「あ、本当にきた」と少しどきっとした。自社の御曹司と待ち合わせする、なんて、どこか現実味がなかったのだ。
「ごめん、待たせたね」
「いえ……」
 わたしは一応謙遜をする。目線を下げたときにツワブキさんの革靴が目に入った。やっぱり副社長くらいになるといい革靴を履くんだなあ、と妙に感動してしまう。
「肉料理は食べられる?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、そこで。車出すよ」
 裏口付近は、一応駐車場になっていた。ツワブキさんは先だってかつかつと歩いていってしまう。脚の長い人ならではのその早い歩みに、ついてゆくだけで精いっぱいだった。ツワブキさんは手の内に持っていたキーのボタンを押して、まだ少し遠くにある車の鍵を遠隔で開ける。艶のある、だけれどシンプルなブラックカラーの車だった。ツワブキさんは運転席の扉を開けると、助手席を指差して「そっちに乗って」と言った。

 車に乗って駐車場を出ると、赤や黄色の色んなネオンが目に飛び込んできて眩しかった。いつも通る道なのに違う場所のように思える、不思議な感覚だ。歩いているときと車に乗っているときとでは、光の見え方が全然違うのだと思う。眩しい代わりに、影はとことん暗かった。
「ねえ、まだあの色の爪してる?」
 信号に引っかかり、車は止まった。ツワブキさんはハンドルに手をかけたまま、わたしの手元を見て言った。見たはいいけど、暗くてよく分からなかったのだろう。
「あの色ですよ」
「どれくらいの頻度で塗り直すの?」
「うーんと……二、三日くらいですかね。特殊なネイルなので、そのくらいで剥がれてきちゃうんです」
「ふうん……大変だね」
 信号が青になる。ツワブキさんは車を発進させた。「でも、綺麗なものにはいつまでも手をかけていいって思うよね」
「ツワブキさんは、綺麗なものがお好きなんですか?」
「んー……そうかな。そうかもしれないね。綺麗で、硬くて、強いものが好きなんじゃないかな。まあ……答えとしては、ひどく曖昧だよね。ぼくが石を好きであることに、あまり理由はないんだろうね。どれも後付けでしかなくて、どうもしっくりこないんだ」
 前を向いたまま運転に集中するツワブキさんは、いつもより言葉を濁しながら話していたように思う。不思議な気持ちで彼の横顔を見た。
「わたしも綺麗なものが好きです」
 ゆったりとした口調で、そう告げる。そうすると彼は笑って、「じゃあやっぱりきみとは、採掘に行かなくちゃね」と言った。

 たどり着いたレストランでも、わたしたちは裏口から入った。ツワブキさんが贔屓にしているお店らしく、色々融通をきかせてくれるのだと彼は言う。表から入ると、なにかと騒がれてしまうことが多いらしい。通された席ももちろん個室だった。
 ツワブキさんのスーツは、店の照明に照らされて控えめな光沢を見せた。机の上に無造作に置かれた指には、男性らしい大ぶりな指輪が幾つもはめられていた。どこに目をやればいいか、わたしは迷って、とにかく彼の指輪ばかり見ていた。シルバーが似合う華奢な指で、もしかするとわたしより綺麗な手をしているかもしれない。
「これがね、この間採ってきた石なんだ」
 ツワブキさんはいくつか石を取り出して机の上に並べた。岩肌の目立つ、いかにもな石たちだった。わたしは拍子抜けしてしまい、思わず何の言葉も発することができなかった。
「ああ、ごめん。これじゃ予想外だよね」ツワブキさんは、慣れたように笑って説明を始める。「この一部分だけなんだ、本当に求めているのはね。これは原石っていって、たぶんみょうじさんが想像している宝石の前身で、この原石を削って磨いていくと宝石になるんだよ」
「わあ、そうなんですね……!」
 わたしは、ごつごつとした岩肌の間から覗く綺麗な宝石を見つめた。確かに、きらきらしてる! わたしは、もっと近くで見たくて身を乗り出した。ツワブキさんはわたしの見ていた石を手に持って、「触って見てごらん」と手渡してくれた。わたしはずっしりと重いその重量を感じながら、照明を透かせてその光の部屋をいろんな角度から覗き込んだ。
「研磨された宝石とはまた違っていいだろう?」
 ツワブキさんが言う。わたしのためにそういう言い方をしてくれたのだとは思うが、恥ずかしながらわたしは本物の宝石とやらを今まで一回も見たことがなかった。
「研磨されたものと、輝き方が違うんですか?」
「うん。やっぱり職人が手をかけた石は、光が乱反射する角度に削られていくから、よく光るようにはできているよ。面白いかどうかは、捉え方によるかな」
「ツワブキさんは、どっちがお好きなんですか」
「ぼく……?」ツワブキさんは、指を顎に添え数秒考え込んでしまう。「ぼくは、そこで線引きを入れない。好きになったものなら、どちらでも構わない」
 わたしは、ほう、と感嘆して、また石を眺めた。両手で、様々な方向に傾けてみる。石の良さ、は全然わからなかった。でも、わけもなくずっと見入ってしまう魔力のようなものは感じた。
「みょうじさんの爪、やっぱり綺麗だ」
 ツワブキさんは、ぼそっとつぶやくように言った。
「ネイルすれば、だいたいこんな感じになると思いますよ……?」
 控えめに、わたしは微笑んだ。でも、ツワブキさんは真面目な顔をずっとしたままで、「……でも」と続ける。
「爪の形もいいのかな。元の爪の色とか。多分、他の誰が塗ってもこうはならないよ。例えば、ぼくとかはさ」
「そ、そうですかね?」
 ツワブキさんがピンクのネイルをしていたら……たしかにちょっと不釣り合いかもしれない。でも、それはツワブキさんがれっきとした男性だからだと思う。
「もっと近くで見てもいい?」
 心臓が飛び跳ねる、とは、まさにこういうことを指すのだろう。動悸が強くて、わたしは如何様にも返事をすることができなかった。ツワブキさんは返事を待たずに、わたしの石を持った手ごと、自身の手で包み込んだ。わたしが先ほどやっていたように、ツワブキさんもいろんな角度でわたしの爪を見る。
「……ちょっと透明なの?」
「はい……クリアネイル、です」
「触ってもいい?」
 手を掴んでおいて、今さら何を言っているのだろうか。わたしはおずおずと頷いた。ツワブキさんは、爪の表面を撫でる。まるで慈しむかのように、彼の指先はわたしの指先を滑っていく。何度も往復があり、わたしは体の奥底から震えた。彼の動いていないほうの指がわたしの柔い皮膚を逃さないように絡め込んでいる。いたくはないが、すこし、痺れてきてしまう。
「厚みがあるんだ。そして透明だから、石みたいな輝き方をするんだね。で、やっぱり下地にあるみょうじさんの肌の色が透けて見えている。これってなんの素材でできているの?」
「ええと、胡粉といって……たしか、貝殻だったと思います……」
「貝殻か……」ツワブキさんは、うっとりするように言った。「海は、やっぱり綺麗なものを運んでくるね」
 ツワブキさんはわたしの手をそっと解放する。ツワブキさんの粗めの皮膚がざらりと離れていくと、わたしは途方もない安心感を得た。
「ぼくはわかってしまったよ、みょうじさん」
 ツワブキさんは少しためらいながらそう言った。わたしは、「え」と言った。言ったつもりが、とても掠れていて、音声としては彼の耳に届かなかった。
「ローズクォーツより綺麗なものを見つけてしまった」
「宝石より?」
 悪い予感がわたしのお腹の底を這い回る。
「うん。きみだ」
 ツワブキさんは迷いのない一筋の目線をわたしにくれる。わたしは唖然としてしまったが、すぐに
「いや、わたしじゃなくって、わたしの爪ですよね?」と言った。
 するとツワブキさんは、「そこに線引きは必要ないだろう?」と言って、ずっと傍で出番を待っていたメニューを手にとって眺め始めてしまう。「何食べよっか」
 わたしは、手を引っ込めて膝の上で丸めた。さきほどまでツワブキさんが愛でていた胡粉の乗った爪が、わたしの掌にぐっと食い込んだ。
 つまり、どういうことなのだろう。お付き合いするの? 恋人? それとも、人間として好きだってこと?
 ツワブキさんは、何を食べようかあれこれと考え込んでいる。「ねえ、みょうじさんはローストとステーキどっちがいい?」……そんなこと、今どうだっていいじゃないですか。それでも「ローストですかね」と答えてしまうくらい、そのときのわたしは随分おろかしいものだった。