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- ナノ -


初出20170722 - 20170731 加筆20230629

探偵奇譚


二十五

 十一月の初旬だった。シャーロックは、前期から続けて取っている物理学の授業に出席をした。わたしの隣に姿勢良く座って気障ったらしくウインクをした彼は、髪を切り、襟を揃え、いつもよりきちんとした身なりをしていた。少し格好いいなと思ったのは、内緒である。
「なんだか、すごく久しぶりだね」
「そうかい?」
 メモ帳とボールペンを小さな鞄から取り出し、シャーロックはわたしと目も合わせずにそう答えた。
「毎日会ってたころと比べたら、そりゃあ、久しぶりだと思うよ。でしょう?」
 わたしの当たり前すぎる答えに、シャーロックは「まあね」とだけ言った。教授が入ってきて、授業が始まる。シャーロックが隣に居ても居なくても、この教授の嫌味ったらしさは少しも変わりなかった。
 授業がいつもより十分早く終わり、わたしはシャーロックと席を立つ。隣に立ったシャーロックの背の高さに、わたしは初めてびっくりした。それだけではない、彼の話し方も、表情も、笑い方も、目線の配り方も、今までこんな感じだっただろうか、というくらい、新鮮に見えてしまった。それは決して悪い意味ではなく……わたしの中では少し気まずさがあるけれど……つまり魅力的だったのだ。あの、シャーロックが。
「おっと」
 シャーロックがわたしの腕を引いた。すぐ側を男子学生が駆け抜けていき、わたしはシャーロックが引っ張ってくれたおかげで当たらずに済んだ。
「まったく、なまえは昔からぼーっとしてるなあ」
 ごめん、と言ってわたしはシャーロックから離れる。別にいいさ、とシャーロックは平気そうにしている。なんだか、わたしばかりが深く物事を考えているみたいだ。
「なまえ?」
 シャーロックがわたしの顔を覗き込む。わたしは、目の前にシャーロックの端正な顔立ちが急に現れて驚愕と混乱で言葉を失った。
「今日はどうしたんだい? いつもの悪い癖以上じゃないか」
「な、なにが?」
「ぼーっとしてるってこと」
 シャーロックは髪を掻き上げて言う。散髪したてなので、いつもよりさっぱりとした動作だった。わたしはぼーっとしていた理由を、ぐるぐると頭の中で考えた。そして、取って付けたような理由を述べた。
「シャーロックと久々に会ったからじゃないかな?」
「ぼくと?」
「うん。接し方を忘れた、っていうか……」
「こんな長い付き合いでそんなことある?」
 疑心され、どきっとする。あるかないかでいえば、ある。何故なら現に今、まさしくそんな感じだからだ。
「判った。きみ、最近亜双義と一緒にいるからだよ」
「そんなことないよ」
「ぼくよりは一緒にいるだろう」
 そう言って、シャーロックは手を振って去って行ってしまった。ああ、なんか大したこと話せなかったな。取り方によっては、半分ほど喧嘩のようでもあった。わたしは肩を落としながら、その日はそのまま家に帰った。

 わたしはここのところ、本当にシャーロックに会っていない。今日授業で会ったのと、この間紅茶をご馳走になったのと、たまに教室で見かけるくらいだった。シャーロックは探偵部の活動をしに来ないし、普段何をしているのかもよく判らない。
 最近、シャーロックのことをよく考えてしまう。高校生のとき、厳密には大学一年のころまではあんなに一緒だったのに、と思う。一緒にいることが当たり前だった。それの一部は運だったかもしれないけど、それを当たり前にするくらいの努力があったのも事実だ。わたしの勉強をシャーロックは四六時中見てくれた。わたしが勉強に嫌気がさして、先生だったり両親だったりに心配をかけるくらい何をしなかったときも、シャーロックだけは毎日様子を見にきて「一分だけでも英単語を見ないか?」と声を掛けてくれた。
 だから、わたしは思うのだ。自分に都合のよい解釈かもしれないが、シャーロックはわたしのことを、きっと強く想ってくれている。だから、一真くんがやってきた途端、部室に来なくなったのだと思う。それでも探偵部を残すと言ったのは、わたしがあの部屋に居ることのできる理由を作るためだ。そして活動に来ないのは、わたしと一真くんの姿を見ないため、もしくは邪魔をしないため、という理由があるからだ。もしシャーロックがそういう風に振舞っていたのだとしたら……なんだか、胸が苦しくなった。嬉しい気持ちと悲しい気持ちが混ざっているような感覚だった。悲しいのは、彼の心情を思ってのことだ。では、どうしてわたしは、嬉しいのだろう?
 一方でわたしが一真くんと上手くいっているのかというと、微妙なところだった。仲の良い友人ではあると思う。一応恋人という取り決めではある。でも、一真くんは友人以上のことをしてこなかった。何故かはよく判らない。そしてわたしのほうも、一真くんと抱き合いたいと思ったことがなかった。キスしたいとも思ったことがなかった。わたしは何に恋をしているのか、ということが、判らないままなのである。一真くんが素敵な人であることは確かだ。でも、だからこそ、本当に一真くんのことを一途に想ってくれる女の子こそが、彼に相応しいのではないだろうか。

 そんなことをもやもや考えているうちに一週間がすぎて、物理学の授業がまたやってきた。シャーロックはまたわたしの隣までやってきて、姿勢よく座った。わたしたちの間には、会話がなかった。機嫌が悪いということでもないと思う。わたしたちは時に、言葉を交わさないコミュニケーションを取ることがあるのだ。しかし一方で、それがすべてを疎通させるものではないことを、わたしは知っていた。わたしには今、彼に確かめないとどうしたらよいか判らないことがある。だから、訊かなければならない。訊いたら最後、口を利いてもらえなくなる可能性だってあるけれど……。わたしは意を決して、口を開いた。
「シャーロック」
 思った以上に、掠れた声が出る。
「どうしたんだい」
 シャーロックは、わたしのわりに真面目な雰囲気を察知してくれたのか、携帯をいじるのもやめわたしのほうを向いてくれた。でも、余計に緊張してしまう。こんなこと、軽い世間話くらいで訊いてしまえばよかったのに。
「シャーロックって、好きな人いる……?」
「好きな人?」
「うん、好きな人」
 どきどきした。これは今までわたしたちの間で一回もなされなかった会話だった。好きな人がいるかどうかなんて、友だちであれば話にのぼって当然のような気もするのに、もしかしたらわたしたちは無意識にこの話題を遠ざけていたのかも、しれない。そんな質問を投げかけることで、シャーロックが傷つく可能性もあった。関係が崩れる可能性もあった。そのまま何も起こらないかもしれないし、もしかしたら傷つくのはわたしのほうかもしれない。彼は現状、表面的には普通のように見える。元々表情をコントロールできるタイプの人なので、顔に出していないだけかもしれない……。
「いないなあ」
 シャーロックは少しだけ考えて、そう言った。いない。わたしは彼の言葉を頭の中で繰り返す。シャーロックは、恋をしている相手が、いない。
 わたしが何も返せないでいると、シャーロックはこう続けた。
「というか、ぼくは判らないのさ」
「判らない?」
「恋心ってやつがさ」
 ずきん、とわたしの心がとても身勝手に傷ついた。『シャーロックはわたしのことを好きだったが、一真くんのことを考えて好きでいることをやめた』。好きな人がいない、という答えは、この自惚れた仮説にはぴたりと当てはまるようだった。しかし、恋心が判らないとなると、シャーロックは今まで恋を自覚したことがない、ということになる。それならば、彼が「かわいい」と言い続けていたのはやはり揶揄うためだけだったのだろうか? 一瞬でも本気にしたわたしが自惚れていただけなのだろうか? 途端、悲しくなってきてしまった。
 そして、わたしは自覚をしたのだ。シャーロックのことがどうでもよければ、わたしは悲しむ必要などなかった。悲しんだということは、つまり、信じられないけどそういうことなのだ。たとえ奇妙で信じがたいものであっても、すべての可能性を取り除いていった末に残ったものであるならば、それは紛れもない事実なのさ。有名すぎる、ホームズ譚の一節だった。

 わたし、シャーロックに恋をしているんだ。

「それはそうと、なまえは判ったのかい?」
 シャーロックは平常心を保っているようだった。それは、そうだ。シャーロックは傷つく隙がなかった。だから、わたしのことを無神経だと思わず、これからも友だちで居てくれるのだろう。不幸中の、幸い。
「判ってきたよ。恋って、時に心が痛むの」
「あー……亜双義と何かあった?」
 シャーロックは、心配そうに訊ねる。ううん、なんでもない。わたしは首を振って、目を伏せた。
 知らなかった、恋ってこんなにつらいんだ。こんなに叶わないものなんだ。そして、この時点でわたしは一真くんの恋を裏切っている。踏みにじっている。今すぐにでも謝って、関係を解消しないと申し訳ない気持ちでいっぱいだ……。


幕間

 男三人の誰も得しない奇妙な飲み会は、大学近くのヤキトリの店で行われた。
 はじめ、三人で集まる予定ではなかった。ぼくとホームズで会議兼食事をしていたら、亜双義からぼくに電話が掛かってきて、それで合流することになったのだった。亜双義はそこそこ真面目な用事があってぼくに連絡を寄越したのだと思うけど……ぼくがいつもの店に居ると聞いて、ホームズも居るけど、という言葉を聞く前に、すぐに電話を切ってしまった。
 亜双義は十分ほどでやってきて、開口一番こう言った。
「ホームズも居たのか」
「まあ、誰かしらいるよ。ぼくは一人で飲みに来ないからね」
 ぼくの答えに、亜双義は呆けながら頷いた。心ここにあらず、といった様子だ。大丈夫だろうか。
 店員さんが椅子を持ってきてくれて、亜双義は軽く頭を下げながら腰掛けた。飲み物のオーダーを取られ、迷わずビールを頼んでいた。
「いえーいあそうぎ! げんきー?」
 ホームズは、先程からずっとこんな感じである。話しかけられた亜双義は雑巾を見るような目で彼に一瞥を遣った。
「一体何杯飲んだんだ」
「それがさ、お酒飲んでないんだよ」
「下戸なのか?」
「十九歳なんだって」
 亜双義は言葉をなくし、それ以上ホームズのその状態のことについては触れなかった。
「ところで、どうしたの? 何か相談とかがあったんだろ?」
「ああ……そうだな。……その、言いにくいんだが……実は、公的に提出した稟議書が、いつもおかしくなって返却されるのだ。値段が少し高い状態で、確証はないが、偽造されているみたいで」
「え」
「え」
 ぼくが驚きの声をあげると、ホームズも真顔に戻って同じような声をあげた。
「……探偵部さんでも、同様なことが?」
 亜双義は、ホームズにそう訊く。ホームズが過剰反応する理由を考えたときに、それしか心当たりがなかったのだろう。でも、ぼくは確信していた。ぼくとホームズの思惑は同じである。ぼくたちは、今でもホームズの鞄の中に皺一つなく収まっている法律部の決算報告書のことを考えていたのだ。
「他の部活の稟議書にまで手を出しているのか?」
「でもさホームズ……そんなことって、できるのだろうか」
「そうだ。そこまでやれば好い加減明るみに出る。口止めとか、内通者とか、そういうのがなければ駄目だ」
「なんの話だ?」
 ぼくとホームズの会話を聞いて、亜双義が当然の疑問を呈する。ホームズは亜双義の目を真っ直ぐ見つめた。亜双義はこんなに真面目な様子のホームズを見たことがなかったのだろう、表情ににわかに焦りを浮かべ、ホームズの言葉を待った。
「亜双義、法律部ときみは関係ないだろうね」
「……法律部は、去年の七月に辞めたっきりだが」
「それ以降、法律部の人に会っていないね?」
「この間入部した方を除けば、ない」
「御琴羽さんのことだね。彼女とはぼくも知り合いだから、信じるよ。ところで、本当に関わり合いがないと誓って言えるね?」
「……勿論だ」
 店の中は宴会騒ぎだというのに、ぼくたち三人の周りだけはすごく静まり返っている。そしてその沈黙は、耳より心に響きそうだった。ホームズは「信じよう」と言って、今までの経緯を説明した。横領が行われているであろうこと、主席であるバロック・バンジークスが怪しいこと、歴史ある法律部の体質でその行為が蔓延しているであろうこと……亜双義はそのホームズの推理を黙って聞いていたが、ひと段落して口を開いた。
「なるほど……そういえば、この稟議書もその主席が持ってきたな」
「これはもう確定かもしれないね。よし! 今度、ぼくと成歩堂で話をつける場を設けるよ。できるだけ公的で、逃げ場のない場所を選択する」
「……そう、だな」
 亜双義はなにか引っかかるようだったが、最終的には「頼む」と言ってホームズの申し出を承諾した。
 法律部内の横領、中でも一際特殊な主席という存在、しかしその閉鎖的と思われた一件は外側にも波紋が及び、それが亜双義によってぼくたちの元に持ち込まれた……思わぬかたちでぼくたちのこの調査は最終章を迎えることになりそうだ。が、ぼくも亜双義と同じように、どこか引っかかっている。どこに、だろう? その答えは判らないまま、亜双義はビールを飲んで笑い上戸に代わりホームズはソフトドリンクで再び上機嫌になって、ふたり仲良く意味のないことで笑いあっていた。案外この二人って相性がいいんじゃないか、と思った木枯らしの日だった。


二十六

 部室の前を通りかかると、髪をリボンのように結った小さな女の子が佇んでいた。
「あっ、なまえちゃん!」
 その女の子、アイリスちゃんはわたしに気付いて、可愛らしい声でわたしを呼んだ。わたしは小さく手を振って、どうしたの、と訊ねた。
「あのね、猫探しの仕事が増えちゃって。ぜひ探偵さんに手伝ってほしいの。えーと、シャーロック・ホームズくん? 彼は今、どこ?」
 わたしは、困ってしまう。まずそもそも探偵部は現在存在しないに等しいし、わたしは今シャーロックに会うことができない。これは完全にわたしの中の問題なのだけど……彼の顔を見ると、涙が溢れてきそうになってしまうのだった。そういう理由で、わたしはこの間の物理学の授業の教室に、授業が始まる時間ちょうどに入って後ろの方に腰掛けた。シャーロックは前の方に座っていて、始業の合図があると周りを一回見回した。わたしは突っ伏して存在を消すよう努めた。……バレていたとは思うけど。
 そんなわけで、わたしはアイリスちゃんに、もう探偵部が廃部になったことを伝えた。勇盟大学探偵部が廃部になったことを知っているのは、これで三人になった。アイリスちゃんは特に驚いたりすることもなく、そうなんだ、と相槌を打って、こう言った。
「ねえ! そしたら、なまえちゃんがまたあたしの相棒になって!」
「え、でも、そんな……」
「なまえちゃん素質あるの。ねっ、いいでしょ?」
 アイリスちゃんは折れなかった。それでわたしは結局根負けし、授業の合間を縫ってアイリスちゃんと猫を探しに街に行ったのだ。

「なまえちゃん、やっぱり素質あるの。この二匹、一番手こずってたのに、もう見つかっちゃった」
 アイリスちゃんは嬉々として猫をキャリーバッグの中に収める。これから、この双子の猫たちを依頼人のところへ戻しに行くという。「一緒に行く?」という問いかけに、わたしは「ううん、これからまた授業があるから」と答えた。アイリスちゃんは残念そうにしていたけれど、判ってくれて、わたしたちはその場でお別れすることになった。
「あ、ところでなまえちゃん。探偵さんの小説は読んだ?」
「探偵さんの小説?」
「あ、えっと。ホームズくんの書いた小説」
「ああ、あれね。読んでないよ」
「そうなんだ。読んだ方がいいかも」
「どうして?」
「女の子が出てくるんだけど、多分、あなたをモデルにしていると思うんだ」
 そう言って、アイリスちゃんは去って行った。わたしは、なんとも言えない気持ちになって、のろのろと大学への道を遡り始める。わたしが、シャーロックの小説に。いや、でも、確証はない。頭では判っているものの、どうしても気がそぞろになって、わたしはそのあとの授業もバイトもそこそこの集中力で乗り切らなければならなくなった。

 家に帰り、抽斗の奥にあった、シャーロックの小説を取り出す。改めて見ると余計にお粗末な出来である。安っぽいコピー用紙に刷られ、ページ同士は少しずつずれていて、ゆるめに製本されている。シャーロックが綴じたやつ、かもしれない。ページをめくり、読み始める。
「トーマスは言った。この事件は難解であると。しかしぼくは思った。この世に解けない事件などないと……」
 そんな書き出しで始まった小説は、堅苦しくなく、むしろライトな小説のようだった。主人公は若干お調子者で、しかし直感力だけは人一倍ある。でも、直観力しかなくて、そのロジックを説明するのが下手くそだった。彼自身が言うには、「だって、見たらすぐに判るものに、どう説明をつけたらいいんだ?」とのこと。シャーロックにも、似たような素質があった。彼もすぐに図星をつくくせに、「証拠は?」と訊かれると、的外れなものを指さすことがあった。だから、シャーロックが自分自身を上手に捉え描写しているみたいで、わたしはくすりと笑ってしまった。
 トーマス、という人物は、シャーロックの助手のようだった。ジョン・ワトソンみたいな、気は合うけど考え方は合わない相棒。でも、主人公の迷走をいつもきちんと止めていて、いつも主人公と一緒にいた。とてもしっかりしている様は、一真くんや成歩堂さんのようでもあった。男性ならではの関係性、だ。わたしは、わたしが男だったらもっとシャーロックと一緒にいることができたのかな、と考えてしまう。対等に、本当の意味での相棒のように。そんなこと、考えたところでどうしようもないというのに。
 アイリスちゃんの言っていた女の子は、中盤に出てきた。もしかすると、この女の子は、すさとちゃんも言っていた人物かもしれない。彼女は、ずば抜けて頭がいいわけではない。でも、事件を一個ずつ丁寧に紐解いていきながら真相に近づいてゆく、「探偵」だった。主人公は真相に高飛びするタイプ。彼女は真相に歩いて向かうタイプ。二人は同じ探偵でありながらも、非常に対照的に描かれていた。主人公は、同業者である彼女にときに助けられ、ときに助けながら事件を解決していく。助手とは喧嘩してばかりだけれど、彼女がやってくると、主人公は背筋をすっと伸ばし向き合っていた。彼女のことを、尊敬していたのだと思う。
 その本は、三時間ほどで読み終わるスケールの話だった。読了したときには、時刻はすでに深夜の一時。わたしはアイリスちゃんの言葉を思い出していた。これは、「わたし」なのだろうか? 内容を頭のなかで反芻してみても、よく判らないままだった。それよりも、頭からついて離れない一節があった。
「ぼくたちは生きている限り、大事なものを失いつづける」
 主人公が最後呟く台詞である。主人公は、この話で妹を亡くしていることを告白する。それがきっかけで探偵になり、殺人事件を扱うようになって多くの人々の涙を見てきた。人と人の突然の別れに向き合うたび、彼は大事な人がいなくなってゆくことを想うのだと言う。
 わたしはその言葉を繰り返し読んで、少しだけ、涙をこぼしてしまった。きっと、感情移入をしてしまったわけではないと思う。自分に置き換えて「失う」ということを考え、無意識に込み上げてしまっただけだ。わたしはあの瞬間、相棒と恋を同時に失ってしまった。恋と自覚した瞬間に相棒を失い、相手の恋が存在しないことを知った瞬間に自分の恋を失ったのだ。彼の姿を思い出し、涙はさらに溢れた。
 わたしはぼやけた視界で窓の外を見た。ここから、彼の部屋をまっすぐ見ることができる。昔、窓を開けて小さなトランシーバーで刑事ごっこをしたのを思い出す。それももう、ずいぶん前のことだ。彼の部屋は、今は明かりすらついていない。もう遅いし、きっと寝ているのだろう。こんなに近くにいるのに、どうしてずっと遠くに行ってしまったんだろう。わたしたちは、きっと、どちらかが遠ざかったのではなくて、お互いが別の道を歩んできてしまったのだ。目をこすると、アイシャドウが手の甲についた。指で拭っても、きらきらと光を反射するばかりだった。手遅れ。きっと、もう、色んなことが、手遅れになっている。


二十七・ゐ

 事実は小説よりも奇なり、なんて言葉を耳にしたことがあるかい? ぼくはエディンバラにいた頃、それを祖父から教わったことがあるのさ。先祖代々物を書いてきた彼らは、「面白い話を書きたければ、現実味のあるものを書け」の信念を子孫に受け継いできた。といっても、特別なことは何一つない。ミステリを書きたかったら、推理だけでなく恋愛の要素も書く。その日の天気も空気の匂いも野菜の物価も書く。ありふれたことの組み合わせ。個性と個性のすれ違い。そして、すべてが語られず、解決されない。それが現実で、うまくいきすぎるのがフィクションなのだ。
 これから語るは、ぼくが携わったものの中で取り分け奇妙な話だ。よくある話かもしれないけれど、こういうものはフィクションにはない。どこに行っても読むことのできない、これはまさに、奇譚である。

 ぼくは成歩堂と御琴羽さんを呼び出し、今までの調査のおさらいをしていた。バンジークスが主犯と疑っていること、今年編入してきたばかりの彼が主席をやっていることから、バンジークスが買収をおこなっているのではないかということ。法律部では、主席を務めるということ自体にとても価値があるらしかった。法学部に編入できなかった彼はその魅力に負け、主席の座を勝ち取るために買収をした。買収をおこなうために、横領をしたのだ。
「さすが、ホームズ様でございます」
「ホームズ、これからどうやって追い詰める?」
 御琴羽さんと成歩堂が口々に言う。ぼくは指をぱちんと鳴らした。ぼくの普段通りの仕草に不慣れな二人は驚いていたが、ぼくはそのまま言葉を放った。
「ぼくに考えがある。まず、彼を穏便に呼び出す。そして、顧問の前で真実を曝け出してやろうじゃないか」


幕間・一

 穏便に、呼び出す。わたしは自分に「落ち着け、落ち着け」と言いながら、彼にメールを打っていた。彼には、事前に思惑を悟られたくなかった。悟られたら最後、頭のいい彼はきっと、何か策を練ってくるはず、だから。いっそ、悟って気持ちが冷めてくれたら良いのに、とも思う。でも、彼はきっと諦めない。これは自惚れではなく、彼はそういう人だからだ。
 そんなわたしの細心の注意が払われた文面は、我ながら、普段通りの冷静なわたしを装えている。「今日、どこかで時間作って会えないかな?」これをあの人がどう捉えるか、というところだけど……。最後に宛名を確認し、送信した。亜双義一真。送ってしまうと、幾分気持ちがほっとした。
 彼の返事は、五分ほどで返ってきた。「大丈夫だ。十三時ごろ、いつものベンチで構わないか」とのこと。わたしは肯定の返事をして、ディスプレイの明かりを落とした。
 深呼吸を、ひとつ。
 わたしは、一真くんをこれから振ろうとしている。十三時になったら、あのベンチのところで。理由は……もう言うまでもない。これ以上、真面目な一真くんを欺き続けるわけにはいかないのだ。わたしはシャーロックが好きだ。一真くんは格好良くて、素敵で、良いところしかない。でも、わたしは悪いところも含めてシャーロックが好きで、今でも隣にいたいと願ってしまうのだ。だから、わたしは一真くんと別れるしかなかった。
 きちんと区切りをつけるが、わたしの恋はきっと、これ以上発展しないだろう。シャーロックの恋人には、なれる気がしない。それでも、片想いだけはしていたい。わたしはわたしの気の済むまで片想いを続けようと決めた。彼が書いて綴じた小説は、大事に鞄の中にしまってある。彼の紡いだ言葉なのだと思うと、宝物に思えてならないからだった。

 十三時、ベンチのところで一真くんを待つ。一真くんは、いつもみたいに手を振ってやってきた。普段通りの一真くんだ。それはそれで、心が痛む。
「お疲れ」
「お疲れ様」
「珍しいな、なまえからこんな風に声を掛けてくれるというのは。コーヒーが飲めるところに行くか?」
 わたしたちが初めて行った喫茶店のことを言っているのだと思う。わたしは首を振って、こう言った。「大丈夫、ここで話そう」
 一真くんは、隣に腰掛けた。本当に、いつも通りの素振りだ。この日は、十二月に差し掛かるころだというのに寒さが緩んでいて、少しだけ暖かかった。柔らかくて微かに暖かな熱が、高いところまで登った太陽から注がれる。良い天気だ、と一真くんが言い、そうだね、とわたしが言った。
「一真くん。あの、今までありがとう」
「どうした? 急に」
 笑う。笑わないで、そんな朗らかに。
「あのね、驚かないで、聞いてね。一真くんと……これからは、友だちとして付き合っていきたい」
 彼の表情からふっと微笑みが消えた。ああ、どんな反応をされるのだろう。怖い。知りたくない。でも、わたしは向き合わなきゃ。
「おれが、あまりにも、恋人らしくないから、嫌気がさしてしまった、のか?」
 あの口の立つ一真くんが、いつもより言葉を区切って話している。動揺している、のかな。わたしは首を振った。
「寂しい思いをさせてしまった、のだろうか」
 首を振った。
「……ホームズ、か?」
 正直者のわたしは、体を硬直させてしまった。はっきりと肯定はしなかったけれど、勘のいい一真くんには、いとも簡単に伝わってしまった。
 一真くんは、わたしの様子を見て、少しだけ困ったように笑った。やっぱり、というような表情だった。
「ホームズ、なんだな」


二十七・ろ

 ぼくは本当、ホームズの大っぴらさは探偵のような隠密行動に向いていないと、つくづく思うのだった。
 御琴羽さんの情報で、バン……ジークスがこの時間食堂にいるらしいということが判ったぼくたちは、躊躇うことなく食堂に向かい、戸惑いもせず奴に話しかけることに成功した。ただ……この、話しかける、という行為はそう単純なものではない。どんな風に、どんな言葉を使うかによって相手の反応が変わってくる。当たり前だけど、そういうものだと、ホームズだってちゃんと判っているものだと思っていたのだけれど。
「やあ」
 ホームズがバンジークスに声を掛けた。バンジークスはほぼ動じず、ホームズの声に少しだけ顔を傾ける。あまりにも堂々としていて、ぼくは色んな意味で驚いてしまう。同い年くらいなのに、その貫禄はどこからやってくるのだろう。
「貴殿も、留学生か」
 ホームズの姿を見て一言、彼はそう言った。なるほど、同じ外国人同士だから声を掛けられたのだと彼は思ったようだ。しかしホームズは手で払い除けるような動作をして「違う、違う」と言った。
「ぼくは十歳のころから日本にいるのさ。きみは今年から? まだ日本語は不慣れだろう」
「これでも日常会話は問題ないと自負している」
「そうかい? じゃあ二人称に貴殿を使うのはやめたほうがいいと思うぜ」
 なぜそんな無神経なことを言うのか。二人の間にバチバチと火花が散り始める。ぼくと御琴羽さんは、慌てた。バンジークスのほうも、言葉が不慣れなのか母国語でもそうなのかどこか愛想がなく独特なので、人一倍、ホームズの揚げ足取りのダメージが入っているようだった。
「それで法律部の主席かあ」
「……何が言いたい?」
「いやあ、所詮部活動なんだなあって思ったのさ。法律家は口が立たなきゃ。きみはまず、言葉を覚える方が先だろう? きみは法律部で活躍しているのかもしれないけど、ぼくんとこの法律研究部のほうが真面目にやってると思うけどね」
 ぼくはホームズを小突いて、小声で叫んだ。どこが穏便なんだよ! と。ホームズは「?」という反応を見せた。もしかして、本当に悪気がないのだろうか。悪気がなかったとしても、その会話の流れでどうやって穏便に呼び出すところまで行き着くつもりなのだろうか。
 バンジークスは表情を崩さぬまま続けた。
「これでも弁論は得意なほうだ。優秀賞を取ったこともある。もちろん、日本語で競う国内の大会でだ」
「へえ! そいつは素晴らしいね」
「どうだ? お前が放った数々の無礼を弁論で返上するというのは?」
「つまり?」
「三十分後講堂に来い」
 バンジークスはそう言って、がたんと席を立ち去って行った。ぼくと御琴羽さんは、「ああ……」と落胆した声を出した。ホームズは啖呵を切られやっと、「自分が喧嘩を売って、相手に喧嘩を買われた」状況であることを理解したみたいだった。それでもぼくたちのように落ち込んだりはせず、頭を掻いて「なるほどなあ」と言っただけだった。
「やっちゃったなあ」
「やっちゃったなあ、じゃないだろ。どうするんだよこれから?」
「いや、三十分後に講堂だろう? ああ、緊張してきたなあ、まさか講堂とは! 願ってもない公的な場所じゃないか。あと三十分だ、できるだけ人を集めよう! 賑やかしがないと盛り上がらないからね」
「ホームズ、それ、本気で?」
「本気さ! 勢いで、ぼくは法律研究部に所属してることになっちゃったしね。亜双義の顔に泥を塗らないようにしなきゃ」
 ぼくと御琴羽さんは顔を見合わせ、暫くの間心配そうにしていたのだけど、ホームズのあまりのポジティブさに心配する気も失せてきた。そして、ぼくは思ったのだ。何も考えず突っ込んでいっても何とかできるのがホームズであり、その原動力は「ぼくがやる」という非常に前向きな感情なのだ。そういうところは、ぼくの相棒によく似ていた。
 まあ、ついていってみようじゃないか。ぼくたち三人は、食堂を後にした。


幕間・二

 なまえがこのような申し出をしてくる時が来ること、おれはなんとなく判っていた。初めて探偵部に遭遇したあのときから、彼女たちの言動、やりとり、関係性に、塗り替え難い長い年月を感じていた。周りを拒んでいるのではない。周りが圧倒されるほど、二人はお互いを理解しあっているように見えた。
 おれは彼女と付き合うことになったが、それからもおれはホームズのことが気になって、彼女に恋人らしいことをあまりしてこれなかった。ホームズのことが、憎いわけではない。まして嫉妬に狂って、彼女と彼を引き離したいわけではなかった。ただ、彼女が寂しそうにグランドピアノにもたれている姿を見るたび、二人が笑って楽しそうにしていたころを思い出してしまうのだった。おれは、その代わりにはなれなかった。
 でも、とはいえ、だ。だからといって、おれが諦めなければならぬ理由はどこにある? おれだって、なまえが欲しい。二人の年月の重さなど、此の期に及んで盾にはさせない。
「なまえ、つかぬことを訊くが、ホームズに告白されたのだろうか」
「こ、くはくされてない、よ」
 彼女は、ホームズの名を出してからこのようにずっと動揺していた。
「では、……なまえのほうが、ホームズを恋しく思ったのだな?」
「そんなことは、一言も言ってない……」
「頼む、おれには本当のことを教えてくれ」
 彼女の瞳が、綺麗に揺れた。ああ、なまえはこんな表情もするのか、と、おれは状況をも忘れて見入ってしまった。彼女はこくんと肯いた。そう、か。判っていたことだけれど、心臓に悪い回答であった。
「なまえ、おれはそれでもあなたが好きだ。諦められない。だから、はっきりさせてはくれないだろうか? なまえからホームズに話をして、二人が結ばれるなら、おれは何も言わぬ。しかし、もしそうならなかったら……おれの元に、戻ってきてほしい」
「だめ、一真くん、諦めて……わたし、そんな器用なこと、できないよ」
「なぜだ? なまえ、あなたは不器用でいい。おれのことは幾らでも傷つけてくれていい」
 どうして。なまえは、いよいよ泣きそうになっていた。どうしてそんな、都合の良すぎることを言ってくれるの?
 おれは、努めて笑顔をつくって、こう言った。
「おれは、あなたが幸せそうに笑ってくれたら、それで十分なのだ」
 こんなこと、本当は、おれだってつらい。

 そのときだった。キャンパス内が異様に騒めきだし、人の群れが我先にと、勢いよくひとつの流れを作り出した。あまりに、急だった。おれもなまえも、訳がわからぬまま、流れの中州に取り残される。「号外ー!」と後ろから大きな声が聞こえる。新聞部だ。学生運動やらデモが起きる度、兎角騒ぎ立てる連中だ。おれたちはベンチから離れ、新聞部のやつから号外を受け取った。
「前代未聞! 講堂にて天下の法律部主席と法律研究部期待の探偵が、決闘……?」
 おれは表題を読み上げる……表題というか、それくらいしか言葉は打たれていなかった。「たった今、やりあってる最中ですよ!」新聞部のやつはおれたちにそれだけ言い、また号外号外と叫んであたりを走り回った。
「探、偵……」
 なまえは申し訳なさそうに呟いた。おれたちの身近にいる探偵といえば。
「彼奴しか、いない……」


二十八

「告発しよう。ここに、法律部主席のバロック・バンジークスを!」
 どよめきと話し声がさざ波のように講堂に広がった。シャーロック・ホームズはその声を合図にしたかのように、歩き出し、明朗かつ快活な声で話し出した。
「きみは、はるばる英国からこの国へ法律を学ぶため留学してきた……しかし、きみが編入することを許されたのはなんと文学部! 絶望の淵に立たされたきみは、ついに希望の光を見つける……そう、法律部さ」
 静かに耳を傾けていた聴衆がまた騒がしくなる。野次も飛んだ。「いい加減にしろ!」「いいぞ、もっとやれ!」「法律部なんて潰しちまえ!」「さっさと降りろ、偽探偵!」……等々。シャーロック・ホームズは嬉しそうに指を鳴らす仕草をする。注目を集めていることが、心の底から嬉しいと言わんばかりに。
「何やら法律部では、主席を務めるということ自体にとても価値があるらしい……きみはその魅力に負け、主席の座を勝ち取るために力のある諸先輩がたを買収をした!」わあっと歓声が上がった。「そして買収をおこなうために、横領をしたのだ!」
 朗々と叫び指を差す。その指の先には、あの、バロックさんがいた。

 何が起こっているのか、わたしにはさっぱり検討がつかない。しかし舞台の上で口論している人たちは、わたしもよく知っている人たちだった。シャーロック。成歩堂さん。すさとちゃん。そして、バロックさん。こんなにたくさんの人たちを集めて、歓声と野次を浴びて、一体何をやっているのだろう?
 一真くんも、呆けた様子で彼らを見ていた。わたしたちは一言も言葉を交わさず、その夢の中のような光景を眺めていた。これは現実なのか?
 すると、バロックさんが反論を始めた。
「横領だと? 一体何の証拠を持って言っている?」
「知らないとは言わせないよ。この紙に見覚えがあるだろう?」
 シャーロックの応答にあわせ、成歩堂さんが紙を広げた。バロックさんはそれを見てこう続けた。
「その紙とわたしの関係性とは? 関係があったとして、その紙が公的なものだと示せるのか? それは、コピーだろう。朱肉も黒くなっている。粗いコピーなら、幾らでも偽造することができる。何が言いたいか判るか? その紙は信用ならないと言っているのだ。……探偵よ、コピーだけではどうにもならないことを、そろそろ知ったほうがいい」
 わたしは、聞き覚えのあるフレーズを頭の中で繰り返した。コピーだけでは、どうにもならないこともある。バロックさんの言い分に、講堂はかなり盛り上がった。
「ああ! 原本をご所望だったとは! これは失礼……では今からお見せしよう」
 会場内はがやがやとより一層煩くなる。あまりの騒音に、舞台上の声が聞こえなくなるほどだった。すると突然、なにか大きなものが高いところから落ちたような、鈍くて大きな音がした。バロックさんが、その長い脚を振り落としたのだ。小槌を振り落とされたかのように、騒めきは次第に落ち着いていった。
「探偵……それを……どこで……?」
「どこで、って。きみが渡しに来たんじゃないか! きみは法律部の横領だけでは飽き足らず、法律研究部の財産にも手を出した! まさしくこれは、その稟議書の原本なのだよ!」
 あれって。わたしは、記憶の片隅に追いやっていた思い出を思い起こした。バロックさんが、渡しにきてくれたあの稟議書?
 わたしは一真くんを見た。一真くんも、わたしを見た。一真くんは、不安な表情をしているわたしの頭をいつものように撫でようとして手を伸ばしてくれたが、結局撫でずにおずおずと手を下ろした。
「なるほど……」
 バロックさんは、そう言った。頭を抱え、少しだけ狼狽しているように見えた。しかし、不思議だ。この違和感は、なんだろう? バロックさんは間違いなくシャーロックに追い詰められていて、確かに言い返す言葉もないようだったけど、シャーロックの勝ちでバロックさんの負け、という状況ではないように思えた。なんとなく、シャーロックの言った言葉でバロックさんが何かを悟った、そんな感じのように見えた。
「はいっ!」
 そのとき、成歩堂さんがスッと手を挙げる。
「ホームズ、ちょっとおかしな点があるようなのだけど……もし、バンジークスがぼくらの稟議書の分も横領をしてたとして。その偽の稟議書を、わざわざ届けにくるだろうか」
「ああ、でも、戻さないわけにはいかないだろう? 法律研究部に」
「でも、それでは気付かれてしまうだろう? 稟議書は、顧問の印が押されたらそのまま学生部に持っていけばいいんだ……わざわざ戻さないで、学生部に持っていくほうがいい」
 シャーロックは得意げな表情のまま黙っている。
「金額が、変わっていたのか?」
 バロックさんは、成歩堂さんに問いかけた。
「変わっていました」
 成歩堂さんは、そう答えた。
「東洋人よ」
「は、はい」
「喧嘩は終わりだ。ついてこい」
 バロックさんはそう言って立ち去った。シャーロックと成歩堂さんとすさとちゃんは、顔を見合わせ戸惑っている。しかし、三人は少し会話をし、肯いて、バロックさんの後について行った。この大盛況の一幕は、特に締める言葉もなく、境目がほとんどないような状態でお開きになる。講堂は野次でいっぱいになった。わたしは、一真くんに「行こう」と言われて外に出た。わたしも、一真くんも、先ほどまでのドラマチックな別れ話をとうの昔のように思いながら部室を一回覗きに行った。あの三人は、そこにはいなかった。
「一体、何だったのだろうな……」
 一真くんは、溜息交じりに頭を抱えた。
「一真くん、あの稟議書って」
「ああ、なまえが作ってくれたものだ。でも、なまえは気にしなくてよい」
 一真くんは、それ以上のことは言わなかった。

 わたしたちは、流れで大学近くのあの喫茶に足を向けていた。なんとなく、このまま帰るのは気が引けた、のだ。一真くんは授業があったはずなのだけど、今日はいいと言って、日が暮れるまで一緒にいてくれた。喫茶に入って席に着き、ケーキとコーヒーを注文した。
「なんか、シャーロックは関わり合ってはいけないものを、敵に回した気がする……」
 わたしはそう呟く。一真くんはコーヒーを飲んで、「そうか」と言った。わたしは、今まであったシャーロックの数々の冒険を一真くんに話した。そのどれもが、今回の件より小さくて可愛いものだった。
「おれが思うに、あの主席は、ホームズたちと同じ目的だったんじゃないかと思うよ」
「そうなのかな」
「稟議書の原本を見て、目の色が変わっていた。何でもいいから、偽造された原本が欲しかったのだ、彼は。その、法律部内の不正を正すために、な」
 わたしはチョコレートケーキを食べた。ふわふわで、甘かったけれど、味覚が遠い。自分が食べてる感じがしなかった。食べているのは自分なのだけれど、自分のことのように感じられないくらい、上の空だった。
 もうすぐ、十二月になる。


終幕

 十二月は師走というけれど、まさに今年の年の瀬は忙しく、たくさんの人に会い、再会を誓ったり永遠の別れを告げたりした。

 まずわたしがばったり遭遇したのは、バロックさんだった。道端で出会い、会釈だけして通り過ぎようとしたが、すんでのところを止められた。バロックさんは、法律研究部の稟議書の原本のことで、ずっとわたしにお礼が言いたかったそうだ。
 あの講堂にわたしも居たことを伝えると、バロックさんはちょっとだけ笑った。恥ずかしいところを見せた、と。
「あのあと、あの稟議書が動かぬ証拠となって、横領を働いていた連中を捕まえることができた。感謝している」
「そんな。わたしは、何もしていないです」
「いや。もしあのとき、そなたが部室に居なかったら、代わりに学生部に届けていたところだった……まさか、偽造されているものとは露ほども知らなかったのでな」
「そう、ですか……ところで、訊いていいのかわかりませんが……横領を働いていたのは、先輩方だったのでしょうか」
「顧問とOBやOGたちだった。法律部名義でセミナーを開き、その援助金を主に、丸々取って行っていたようだ。法律研究部の稟議書については、OBやOGのやり口を見た不慣れな現役学生が、小遣い稼ぎ感覚で手をつけたらしい。不慣れが過ぎて、隠蔽が不完全だったようだが……そのお陰でこうして暴くことができた。法律研究部という存在があってこそ、だ。改めて、感謝申し上げる」
 バロックさんは深々と頭を下げた。わたしは手を振って、普通にしていてくれるよう言った。バロックさんが頭を下げている様子は、道行く人が思わず注目してしまうくらい目立っていた。
「わたし、実は正式な部員ではないんです。だから、お礼を言われるようなことはしていませんよ。それより、部長の亜双義さんや、成歩堂さんに伝えてあげてください」
「そうであったか。また随分と奇妙な巡り合わせがあるものだ。わたしはこの十二月で英国へ帰る予定だ。それまでに、彼らにも改めて伝えに行くとしよう」
 そう言って、バロックさんは去っていった。その十二月以後、わたしはバロックさんと会うことはなかった。

 授業を受けるため教室に行く。いつもの席に、一真くんは座っていた。わたしに気づくと、彼は小さく手を振って、そしてこまねく。わたしは彼の隣に座り、鞄を置いた。
「レポートは書いてきたか? 今回のは、おれとしては少し難しかったよ」
 一真くんは、自身のレポートを机の上に用意しながらわたしに訊ねた。
「うん。わたしも、苦し紛れに三千字に乗せたよ。句読点いっぱい打って」
「判るよ」
 わたしたちは、一旦、友人という間柄に戻っていた。でも、変わったことといえば、一緒に行動をしなくなったところだけだった。居合わせれば隣に座るし、普通に話もする。でも、教室を出たら手を振って別れる。教室へ行くための待ち合わせもしなくなっていた。
「なまえは最近ホームズとはうまくいっているのか?」
 ふと、一真くんが問う。
「ううん……最近はね、全然会ってないの」
「そうか。では、なまえが諦めるのも時間の問題だな?」
 伺うように訊かれ、わたしは顔をそらす。一真くんは、会うたびこうして一回は積極的に誘いかけてくる。わたしはそんな言葉を投げかけられると、目を逸らしてしまう。それを見て、彼は笑うのだ。自分で言うのもなんだけど、とても愛おしそうに。なんか、わたしきっとすごく勿体無いことをしているのだろうな、と思う。
「もしクリスマスが暇なら、成歩堂と一緒におれの喫茶に来るといい」
「成歩堂さんは、彼女はいないの?」
「昨日の時点では居ないようだったな。今みたいに誘ったら、絶対行く、と言い切っていたし」
 授業が始まり、わたしと一真くんの会話はそこで止まった。授業が終わると、一真くんは鞄を持って、すぐ席を立っていった。

 アイリスちゃんとは、繁く会うようになっていた。猫探しも手伝うし、メールを交換することもある。なんだかお互い気が合うのだ。わたしのバイト先まで、ケーキを買いに来てくれることもあった。わたしが退勤間際のときは、少し待っていてもらって、買ったケーキを二人で食べる。そういうとき、大抵アイリスちゃんのほうも仕事終わりだったりして、彼女はまだ十歳なのにこんなことを言う。
「あーあ、働くって、たいへんねえ、お互い!」
 そうだねえ、とわたしものんびり言ったりする。
「そういえば、ホームズくんの小説は読んだ?」
「読んだ読んだ。あれ、本当にわたしだって思う?」
「思うの! ホームズくんはなまえちゃんが居ないとだめだと思うんだけどなあ」
 一回しか会ったことないけどね、とアイリスちゃんはショートケーキの苺を頬張って言う。彼女には、わたしがシャーロックに恋をしていることも、うまくいっていないことも、雑談程度に話を聞いてもらっていた。だから、彼女のシャーロックの印象は、多少わたしのバイアスが掛かっているといっても過言ではない。
「でも、なまえちゃんのほうは別に、誰とでもやっていけそうって思うの」
「そうかなあ」
「相棒のあたしが言うんだから、信じてよ」
「判った、信じるね」
 アイリスちゃんは、にこっと笑った。本当に可愛らしい笑顔だった。

 すさとちゃんには、呼び出された。というと、語弊があるかもしれない。ご飯に誘われたので、お昼の三十分だけ、彼女と食堂に居た。
 すさとちゃんは綺麗な箸づかいで魚の身をほぐし、丁寧に食べる。わたしはスプーンでカレーとご飯を雑に掬って食べていた。すさとちゃん曰く、今日はなまえさんに相談したいことがあるのだと言う。わたしは若干気がすすまないまま、彼女の話を聴き始めた。
 しかし、嫌な予感は的中していた。彼女は、シャーロックに告白をしようと考えている、と言ったのだ。
「ホームズ様の思慮深さには、感服しております。探偵部が実は廃部になっていたことを、わたしはついこの間聞きました。だから、法律研究部への入部を勧められたのです。本当に、嘘のお上手な方でございます」
 それは思慮深さなのかなあ、とわたしは思う。思いつきの可能性も十分にあるし、それを知らないすさとちゃんは、やはりシャーロックの限られた一面しか知らないのだと思う。
「ホームズ様のことが好きです。……今度、この気持ちを伝えてしまおうかと、思っているのです」
 わたしは、ああ、と思った。意味のある言葉は、思い浮かばなかった。ただ「そうなんだ」とだけ思うのみだった。でも数秒経って、一個だけ、返す言葉が見つかってしまう。わたしはその言葉を、少し疑ったけれど、もう遅くて、口の方が早く動いていた。
「すさとちゃん、恋に恋してるんだよ」
 言われた彼女は、きょとんとする。ああ、判ってしまった。この言葉が口をついて出てくるときの気持ちが……。「ねえ、シャーロックのどこが好きなの?」
「優しくて、頼りになり、ジョークのお上手なところ、でしょうか」
 嬉しそうに話すすさとちゃんの瞳は、まさに恋をする乙女だった。でも、わたしは見ないふりして淡々と述べる。
「探偵は嘘をつくんだよ。本当の彼は、ずるくて、人任せで、気の利いたジョークなんて言えない。言えるのは、丸暗記したシャーロック・ホームズの台詞だけ」
 本当は、優しいし頼りになるところもあるし、時にジョークだって言えるけど。
 わたしはそれだけ言って千円置いて帰ってきた。ごめんね、すさとちゃんのこと嫌いではないのだけれど。でも二度と会わないであろう人に、自分の気持ちを押し殺してまでにこやかに気を遣う必要なんてないと思ったから。それに、これで驚いているくらいでは、彼女はやはり恋のことをまだよく知らないのだ。恋をすると、ときに手段を選ばなくなる。

 食堂を出ると、成歩堂さんに出くわした。成歩堂さんは「あ、お久しぶりです!」と明るくわたしに声を掛けるものだから、わたしは先ほどの一件で気持ちが沈んでいたことをつい忘れそうになる。
「最近、部室に来られないですね」
 成歩堂さんは、朗らかな笑みのままだった。実は探偵部なんて、ないんだよね。そう言おうと思ったが、
「実は探偵部はもう廃部になっていた、とか。ホームズから、聞きました」
 成歩堂さんに先手を打たれてしまい面食らう。
「亜双義とも、友人の仲になったそうで」
「成歩堂さんは、何でも知ってるね」
「ええ。でも、ホームズの一件は、さすがに吃驚しちゃったけど」
 へへへ、と苦笑いをする成歩堂さんだったが、わたしはその一件とやらがピンとこない。「探偵部の件?」と訊くと、成歩堂さんもピンとこない様子でこう訊ねた。
「あれ……? まさか、みょうじさん、知らないですか? ホームズ、大学を辞めちゃったんですよ」
「え!?」
 大きな声を出したせいで、周りの通行人にじろじろと見られた。わたしは口で手を押さえる。成歩堂さんは、わたしが知らなかったことに驚いているみたいだった。
「みょうじさんに言わないなんて、よっぽどだな……」
 成歩堂さんは気まずそうにそう言った。でも、その成歩堂さんの挙動にわたしは構うことができなかった。彼の一言で、言い知れない動揺を得てしまったのだ。
 手遅れ。
 そんな言葉が、また頭に浮かんだ。しかし、わたしはシャーロックにまだ、確かめないといけないことがある。一真くんとの約束のこともあったし、すさとちゃんとの一件のこともあった。なにより、今のシャーロックがどんな心境でいるのか……それを知ろうと思うのは、罪なことだろうか。

 曇天がどこまでも広がっている。わたしは成歩堂さんに別れを告げ、どうやってシャーロックに会おうか作戦を練った。恐らく、普通に呼び出すことは難しいのではないかと、思う。大学を辞めたことをわたしに伝えなかった彼の気持ちを思うと、そこに負の感情がないとは言い切れないからだ。
 そして、こちらから一方的なのでは、だめだ。何が何でも「なまえの元へ行かなくては」と思わせないと……。
 わたしは、シャーロックを騙すために電話を架けることにした。
「なまえ?」
 彼はツーコール以内に出た。用件を聞く前から今忙しいなどと言っていたけれど、出てくれたことに、少し安心した。
「お願い、早くきて、悪い人に追いかけられてるの」
 わたしはできるだけ切羽詰まった様子で言う。シャーロックは電話越しに「すぐ行く」と言った。そして、電話は切れた。ぷつん、という音が耳を刺し、わたしは携帯を耳から離して画面を確認した。本当に切れている。わたしがどのあたりにいるのか、訊かなくてよかったんだろうか。もう一回架け直したほうが良いのだろうか。というか、本当に来てくれるのだろうか? さすがに、シャーロックがこういう約束まで破るとは考えられなかった。とにかくわたしは「逃げ回っていて切羽詰まっている身」なので、それ以上何もせずシャーロックを待った。彼は、わたしの心配をよそに二十分ほどでちゃんとやってきた。
「大学構内にいて、誰に追いかけられてるって?」
 息が切れたシャーロックは、静かに佇んでいるわたしを見て少し怒っていた。
「来てくれてありがとう。どうしてここが判ったの?」
「チャイムが聴こえたから」
 シャーロックはそう言うと、俯いて息を整え始めた。
「何か、用が?」
「うん、用が」
「何だい」
 シャーロックは膝に手をついて暫く息を整えていたが、すぐに回復して、いつものようにすっと背筋を伸ばした。わたしの目線は彼の表情を追って上に流れる。ああ、この角度だ。わたしがいつも見ている、懐かしい彼の姿は。やっぱり、この距離で見上げなければ、いけない。
「シャーロックのことが、好き。ねえ、わたしの推理を聞いてくれる?」
 彼は、一寸ほどの驚きすら見せず、表情を変えないまま白い鼻先をわたしに向けていた。
「シャーロックは、高校生のときから好きだった女の子がいた。でも、彼女はとても鈍感だったし、シャーロックのことを男の子として見ていなかった。それでもシャーロックは、彼女のことが好き。どうしても同じ大学に行きたくて、体たらくな彼女にたくさん勉強を教えた。一緒にいる手段として、探偵部まで立ち上げた。活動内容なんて、どうでもよかった……そう、彼女と一緒にいられるのであれば。
 でも彼女は、あなたのその明るいところとか、優しいところを今更魅力になんて思わなかった。大学の授業に出ず不真面目になったあなたに、辟易していたくらいだった。
 そんなとき、部室のドアが開いて、亜双義一真がやってきた」
「なまえ」
 シャーロックは眉をひそめ、苦しそうに呼んだ。わたしは無視して続ける。
「亜双義一真は完璧だった。真面目でしっかりしていて格好良くて、彼女の理想の男だ。しかも、彼女のことを好いている。ちょうどそのタイミングで偶然廃部になってしまった探偵部の運命みたいに、二人の仲は急変してしまった。
 だから、あなたは身を引いた。彼女と亜双義一真は、付き合うことになった。これで良かったんだ、とあなたは思った。彼女が幸せなら……と。そして大学まで辞めた」
 我ながら芝居がかっていると思った。十年も、シャーロックと一緒に居たんだ。わたしはシャーロックに似たし、シャーロックだってわたしに似た。
「……見事だな。筋が通っている」シャーロックは少しの間口を閉ざしていたが、苦笑混じりに感想を述べ、そして問いかけた。「一体、いつからそう思ったんだい?」
「シャーロックが、わたしに恋に恋してるって言ったとき。言葉にできないけど、あのときのシャーロックの言動は心に引っかかる要素がたくさんあったの」
「なるほど。でもさ、証拠なんてないだろう?」
 木枯らしが、樹木を揺らす。塵埃がわたしたちの間をすり抜け、わたしの瞳には朧になった陽の光が映った。雲が散ってきている。シャーロックは、証明してごらん、と言った。ぼくがきみを好きだっていう証拠を。彼の透き通った瞳は、鈍いわたしを試しているかのようだった。
 でも、わたしは判っていた。そんなこと今更自らに問わずとも明らかだった。何も難しいことなんて、ない。だって。
「さっき、急いで来てくれたじゃない」
 わたしは、飾り気のないまっすぐな気持ちでそう述べる。決定的な証拠では、なかった。シャーロックの口上なら、「困っている人を放っておけるわけがない」等言い訳して逃げおおせることだってできると思う。でも、わたしだって追いかけることができる。答えは一つしかなくて、シャーロックは最初からそれを判っている。わたしはそれを、ただ順を追って説明しているだけなのだ。
 曇り空は晴れ上がり、シャーロックは背に太陽を背負っている。後光が差していて、よく顔が見えなかったけれど、彼は観念したように「……負けたよ」と一言告げて、わたしの肩を抱き寄せた。

 その後、答え合わせをするかのように、シャーロックのこれまでの気持ちをシャーロック自らが語ってくれた。わたしのことは、もう随分と前から好きだったこと。高校時代のクラスメイトは、ほとんど全員シャーロックの好意に気づいていて、知らないのは最早当人のわたしくらいであったこと。絶対に大学時代を一緒に過ごそうと決めていたこと。しかし一方で、大学の授業は非常につまらなく、わたしと過ごせれば他は何でもよいと思っていたこと。亜双義一真が現れて、自分は身を引こうと思ったこと。自分はわたしの兄のようなポジションで、亜双義一真とわたしの行く末を見守ろうと決めたこと。恋人同士の癖に大して仲睦まじくないわたしたちに対して苛っとして、「恋に恋してるんじゃないか?」と言ってしまったこと。それから暫く元気がなさそうなわたしを見て、純粋に心配はしていたこと。わたしに「好きな人いる?」と訊かれて、この話が長引いて悟られるきっかけを作ってしまわないように咄嗟に嘘を吐いたこと。やけ酒をしたい気分だったが未成年なので、やけソフトドリンクをして気を紛らわせたこと。相席した亜双義一真がなかなか面白く、シャーロックは彼を見直し「こんな彼だったら、時間は掛かるだろうけどなまえも幸せになれるだろう」と思い直したばかりだったこと……など。

「ところでなまえ、ぼくが大学を辞めた理由までは推理できたかい?」
 わたしとシャーロックは、久々に一緒に大学を後にして、家路についた。シャーロックは、恋のことで辞めたものだと思ってたけれど……どうやら違うようだ。「ううん」とわたしは返事をする。
「来年、イングランドに行くんだ。叔父が探偵業をやっていて、助手が欲しいから、良ければ来ないか、と言ってくれてね。ぼくは、若いうちにそんな経験ができるなら、と、決断をしたのさ。なまえの幸せも見届けたことだし、日本で解決しておきたい事件も解決できたしね……まあ結局、なまえはこうしてここに居るわけだが……ああ、そういえば、なまえはきっと知らないだろうね。とても大きな事件を、ついこの間解決したばかりなのだよ」
 知ってる。わたしはその言葉を飲み込んで、ふうん、と笑って聞いた。
「なまえも春休みになったら、ロンドンへおいで」
 うん、と肯くと、煉瓦畳みが見えてきた。もうすぐ、家だ。わたしたちが今まで、たくさんばかなことをして笑って通った道だ。もう、そんな日々は戻らない。でも、もっと大事なものは、すでに手の内にあった。