×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -


初出20170506-20170621 加筆20230629

探偵奇譚


十三

 夏休みに突入してもテストがあるというのは、大学ならではの不思議な制度だった。ほとんどの授業が前倒しして夏休みに突入していく中、物理学の授業だけは予備期間に試験が実施された。物理学は、唯一シャーロックと受けている授業である。
 正式には、夏休みは予備期間終了後開始というのが正しい。しかしこの予備期間というのは、あってないようなもので、ほとんどの授業は予備期間を迎える前に試験が実施される。そのため多くの学生はこの期間から夏休みが開始したと認識してしまい、運悪くここまで試験がずれ込んだ生徒は、なんだか損をしたような気持ちになる。
 そんな流れで損をした気持ちを抱えたまま、わたしは教室内でシャーロックと久々に再会した。試験前の静まり返った教室の中で、シャーロックはわたしより後に教室に入ってきて、わたしの姿を見つけると近くまでやってきて、椅子一個分空けて隣に腰かけた。わたしはその動きをじっと見ていて、その間シャーロックもわたしをじっと見ていた。そしてお互い自然と目を逸らして、ノートを見返し始める。気まずくて視線を外したわけではない。話しかけたくてじっと見ていたわけでもない。わたしたちはあの三秒くらいの中で、ああ来たね、来たよ、くらいの確認を無表情で行なっていただけである。もしかするとシャーロックの頭の中では全く別のやりとりがなされていたかもしれないが、そこの整合性の高さはまるで必要ない。わたしたちの間には、そういう空気感があるのだ、時として。
 教授がいつも通り嫌味に靴音を鳴らし教室内に入ってくる。付き人のような手伝いのゼミ生に用紙を配らせ、試験は六十分だが終わった者から帰って構わない、とひとこと言った。教授はそのあと黙って腕時計を睨み、定刻ぴったりに、始め、と言った。かたかたと筆記具と机がぶつかる音があちらこちらで湧き上がる。教授はまた飽きずに時計を睨み始めていた。
 シャーロックは、この授業を徹底的にサボっていた。だから、いくら事前知識があるとはいえ、わたしから借りたノートで勉強するしかなかったと思う。圧倒的に自分で自分を不利にしているはずである。しかし彼は、わたしから得た知識をわたしより早く答案用紙に記載して、早々に教室を出て行った。
 苛々する。わたしは心の中で溜息をついて、シャーペンを握り直した。シャーロックは、昔はこうではなかった。破天荒には変わりなかったが、昔はもっと優しかったし、むしろ日本語以外の勉強はすべて教えてくれた。数式も英語も彼の方が断然得意だったから。今はもう、逆だ。いや、もっとよく考えてみると、シャーロックはわたしから大学の勉強を教わっているのではない。彼はきっと、大学の文系クラスで出るような数式くらいなら解けるし、多少の物理学も化学も基本がわかっているが故に大体のことはすぐに理解してしまう。ただ単位のために、わたしのノートを見て保険をかけておきたいだけなのだ。そう思うと余計に癪だったから、わたしは考えるのをやめた。
 わたしは試験の時間の最後までいて、教授の「やめ」の合図まで聴いた。わたしはその「やめ」のあと、筆記具をしまって鞄をひっ掴み、肩にかけたカーディガンが落ちてしまわないよう空いた手で押さえながら答案用紙を前に提出した。そしてそのまま前寄りのドアから、他の学生たちの流れに乗って教室を出る。
 先に出て行きすでに帰ったものだと思っていたシャーロックは、教室前のベンチに腰掛けていた。シャーロックが「お疲れ」と声を掛けてくれなかったら、わたしはそのまま気づかずに帰路についていたと思う。
「ねえなまえ、夏休み何処か行かない?」
 シャーロックは単刀直入にそう切り出した。
「何処かって、何処?」
「あー。海とか?」
「海」
「夏じゃないか。江ノ島でも行こう」
 わたしは、黙って頷いた。シャーロックは優しく笑い、右手をひらりと振って先に行ってしまう。何も言わなかったけどあれは、じゃあまた連絡する、行くところがあるからもう行く、さよなら、の意だと思う。シャーロック側では、別の言葉で喩えられているかもしれない。
 シャーロックが、優しく笑った。わたしは、シャーロックのこの表情を本当に久々に見たかもしれない。今までの、ここ一年とちょっとで募った苛々が、涙に変わってしまいそうだ。悲しいから泣きたいのではない。嬉しいから、でもない。懐かしいから泣きたいのである。シャーロックは変わってしまったし、わたしも随分変わってしまった。それを何となく今まで見ないふりをしていたが、とうとう思い知らされるときが来てしまったのだ。
 わたしはシャーロックが立ち去った方向とは逆の道に向かって歩き始めた。わたしの夏休みは、鞄の中にしまってあるレポートを提出するまで始まらない。


十四

 教授室のある棟へ赴き、レポートを鞄から取り出していると、後ろから「なまえ」と声を掛けられた。振り返るとそこには一真くんがいて、一真くんの手には印刷されたばかりのような皺一つないレポートがあった。
「偶然だな、今日は特にこのレポートの締切日でもないのに」
 一真くんはそう言って、一足先にレポートをポストに入れた。そうだね、とわたしはそわそわしながら答えて、ふたたび鞄の中のレポートを探し始める。わたしが皺のついたレポートを引っ張り出してポストに入れるまで、一真くんは大らかに待ってくれていた。
「一真くんは、レポートを出すためだけに学校に来たの?」
「いや、午前中パソコン室で最後の仕上げをして、それで印刷をして持って来た。なまえは?」
「わたしは、さっきまで物理学のテストだったよ」
「それはお疲れ様だったな。物理学なんて、習うだけでも大変そうだ」
 一真くんは肩を竦めた。珍しいなあ、なんてわたしは思う。だって、一真くんは何でもできてしまいそうだったから。それを伝えると、彼は「そんなことはない。基本的におれは頭が堅いようで、日本語以外のものがあまり得意ではないのだ。言い訳にすぎないがな」と控えめに答えた。
 わたしたちは大学の最東端にある教授室の棟を出て、しばらく世間話をしながらキャンパス内を歩いた。古い煉瓦の建物が立ち並んでいる。勇盟大学は割と歴史が深く、英国の偉い先生方が設立しただけあって建物がどれも西洋風だった。それ故に、この大学は教授も学生も英国人が多い。シャーロックのご両親も確かこの大学に留学経験があって、そういったよしみでホームズ一家はこちらへ越してきたという。シャーロックはこの大学しか受験しなかったし、わたしにも受験を勧めて勉強を教えてくれたのも、そういえばシャーロックだった。
 一通りの話を終えた後、一真くんはこのあと時間があるかどうか訊ねてきた。あるよ、と答えると、一真くんはそのポーカーフェイスの下に少しだけ嬉しさを滲ませたように見えて、わたしは思わずどきっとしてしまった。
「そういえば、あの皿をまだ使ってないと思ってな。良かったら、うちへ来ないか?」
 それで、わたしは彼の喫茶へ向かった。

 一真くんの家、兼喫茶は、最寄りの駅を降りて五分ほど歩いた場所にあった。一真くんのお父様が若い時に建てたものらしく少しだけ年季を感じたが、未だ客足の途絶えない生きた店のようである。入口には吊り下げ式の看板が掛けられていて、「十二」と書かれていた。訊ねると、そういう名前の喫茶店らしい。不思議な名前だ。一真くんがお父様に折りにつけ由来を訊いてみるも、十二月に開店したからだとか、昔住んでいた番地が十二だったとか、いつも適当にはぐらかされてしまうらしく、なぜ十二になったのかは未だ不明だそうである。
 表口から入っていくと、店主は一真くんの顔を見るなり「おお」と言いながら下げた食器を持って奥へ引っ込んでしまった。一真くんは小さく、父さん、と呼んだけれど、店主はすぐに戻ってこなかった。
「時間が時間というのもあって、今は誰も来ていないみたいだな」
 一真くんはそのまま奥の方へ行き、二、三店主と話をしてから戻って来た。「客が来るまで自由に使っていいそうだ。好きなところに座ってくれ」
 わたしが腰掛けると、一真くんはまたキッチンの方へ下がった。手持ち無沙汰になり、わたしはあちこち見回してしまう。針の音が大きな時計、陽射しを透かすぼけた窓ガラス、古い木材の匂い。すこしだけレトロで、すこしだけ一真くんと同じ香りがした。ふと机に目を落とす。よく見ると上品な机には、幾つもの細い傷がついている。何年もの時の流れが刻まれているかのようだった。
 一真くんは、トレイに色々乗せて帰ってきた。コーヒーがふたつ、チーズケーキがひとつだった。ケーキは、あのお皿の上に乗せられている。
「チーズケーキは食べられるか?」
 食べられる、と答えた。一真くんは安心したように笑って、向かい側に腰掛けた。
「お客様は、この時間は来ないの?」
「ああ、ランチタイムが終わってすぐは空くことが多いな。三時になるとまた混み始める可能性があるから、そうしたらこの辺りを散歩しないか」
 わたしはそれに肯いた。
 一真くんは、この喫茶の一角で本を読んで幼少期を過ごしたという。ちょうどあの辺り、と彼の指差した先は、入口とキッチンの間のカウンター席の端だった。常連客に頭を撫でられ、飴をもらい、小さい頃は兎角可愛がられた。
 買ってもらったお皿は、あのときと同じように美しかった。チーズケーキもとても美味しかった。コーヒーを飲んで、また世間話を始める。一真くんとの会話は途切れがちだけれど、不意に訪れるその沈黙は苦ではない。静かな空白があり、またぽつりぽつりと、梅の花が咲くように会話が始まる。
 気付くと時計は三時を回っていた。店内は急激に混み合うことはなかったものの、入口のベルが繁く鳴るようになっていた。一真くんは、そろそろ行こうか、と言った。わたしは財布を鞄から取り出そうとしたけれど、一真くんは何も言わずわたしの腕に手を添えて静かに止めた。

 外に出て、わたしは一真くんに「ありがとう、ご馳走様」と言った。一真くんは、また来てくれたらそれで良い、と言って、ぷいと先を歩いて行ってしまう。わたしは彼を追いかける。
「一真くんちのチーズケーキ、美味しかったよ」
「それは、よかった。ケーキ屋のものとは違った味がしたのではないか」
「わたし、完成されたケーキの味より、ああいうもののほうが好きだよ」
 これはお世辞でもなんでもなかった。一真くんはすこしだけ目を瞠ったけれど、またすぐにいつもの冷静な表情に戻った。わたしたちはそのまま特に宛てもなく歩いた。交わす会話自体も、わたしたちの歩みと似たようなものだった。たまに肩がぶつかって、「ごめん」「すまない」というやりとりがあった。それだけわたしたちは近い距離にいて、自意識過剰な言葉で言い換えると、いい雰囲気、だったのだ。でも、その五感もあながち間違いではなかった。
 小さな丘のある公園が見えると、一真くんは「なまえ、あの丘の上まで競争しないか」と言った。
「いいけど、絶対一真くんが勝つよ? 足も長いし、運動神経良さそうだし、初めて来た公園じゃないと思うし」
「わかった、ではなまえに十秒ハンデをやろう。おれはなまえがスタートした十秒後にスタートする。ただし、負けたらおれの頼みをひとつ訊いてくれないか」
 わたしは頷いた。スタート地点をふたりで決め、一真くんがカウントダウンをする。三、二、一、スタート。その声を背後に聴いてわたしは走り出した。フラットなスポーツサンダルで来ていてよかった。わたしは丘まで一直線に走った。傾斜が強まってくると、わたしのサンダルは草と土をずるずる滑らせ登りにくくさせる。やむを得ず、少しペースダウンをする。丘のてっぺんまでは、あと半分といったところだった。実際に登ろうとすると結構距離のある丘だった。
 後ろから足音が聴こえてくる。一真くんがスタートしたのだ。わたしは思わず振り返ってしまう。
「いいのか、おれが勝ってしまうぞ」一真くんは大きな声で言って、笑った。わたしはまた前を向いて、丘を登る。一真くんは、軽い足取りでわたしの真横をすっと通り過ぎた。ああ、もうこれはだめだ。わたしは苦笑を浮かべてしまう。
 すると一真くんは足を止め、わたしのほうを振り返った。
「残りは、一緒に登らないか」
 一真くんはわたしに手を差し伸べる。「見下して言っているわけじゃないんだ、単に、女の子ひとり置いて自分だけ楽に登りきるのってどうなんだ、とふと思ってしまって」
「ありがとう。ちょっと登りづらいなって思ってたところだったんだ」
 わたしは、まっすぐ伸ばされた大きい彼の手を握った。
 登りきったわたしたちは、少しだけあがった息を整えながら、丘の上からの眺望を臨んだ。思ったよりここは高地らしく、遠い場所の町並みもぼんやり見えた。日差しは強く、蝉は鳴き止むことを知らない。湿った土の匂いがした。
 わたしは、唐突に振られた話題や誘いには、実害がない限り基本的にその理由を聞かないことにしている。語るべき理由がある場合はその人がしかるべき時に語ってくれればよくて、それがないのなら、やはり聞くべきではないのだと思う。きっと、聞かれた方も困る。今回の競争のことも、わたしは同じことを思ってただ彼に付いて来た。競争自体にあまり意味がないことはわかっていた。彼の望みは、このあと語られるお願い事にあるのだろう。わたしは繋がれたままの手をぎゅっと握って、「一真くんの勝ちだね」と言った。
「頼みごと、だっけ」
「ああ……」
 一真くんは表情を固くして相槌を打った。わたしはどきどきしながらも彼の言葉を待った。「もしかしたらもう、とっくに伝わってしまっているかもしれないが」と言って、一真くんはひとつ深呼吸をした。
「おれの、恋人になってくれないか。貴女が好きだ。可愛らしくて、聡明で、ひたむきで。特別な人として、大事にしたい」
 途切れ途切れの言葉は、いつも部室で弁論しているのとは違う素の一真くんを垣間見ているようだった。わたしは「はい」と言う。躊躇いも迷いもなかった。
 そういう風にして、わたしの長い夏休みは始まった。


十五

 ホームズに大学脇のハンバーガーショップに呼び出された。
 ぼくは午前中のみの本屋のアルバイトを終え、お腹を空かせて大学最寄りの駅へと向かう。海沿いの路線をたたんたたんと揺られながら、読みかけの本を開いて効きすぎの冷房で指先を冷やした。夏、だ。世間も、ぼくも、夏休みの盛りだった。プールバッグを持った女の子たちが、目の前できゃいきゃい騒いでいる。麦わら帽子をかぶった小学生とおじいさんが、窓の外を観察している。しがない大学生は、文庫本を開き空調で指先を冷やしている。
 二十分ほど揺られると、車両は街中に深く入り込んでいた。大学前、のアナウンスでぼくは席を立つ。その頃にはプールバッグの女の子も麦わら帽子の小学生もおじいさんも、もういなかった。スーツを着た男性と着飾った女性と、おじいさんとおばあさんがたくさんいた。正午すぎだ。
 ぼくは大学前に到着して、他の人の群れに着いて行く形で下車した。

 ホームズはハンバーガーショップの前に居た。ぼくを見つけた途端、その長身を持て余すようにぶんぶんと大きく手を振り、周囲の人に迷惑をかけた。
 ぼくたちは店の中に入る。じわりと暑かった外と比べ、クーラーの効いた屋内はひんやりとしてポテトの匂いがした。ポテト。食べるつもりなかったけど、たまには注文しちゃおうかな、ぼくは心の中で何を食べようか空想した。
 注文の順番が回ってきて、ぼくはハンバーガーとポテトとコーラを頼んだ。後ろからホームズが「あとアイスコーヒーとアップルパイ、会計は一緒で」と言い、ぼくの横をすり抜けるように腕を伸ばし、トレーに千円札を置いた。ホームズの腕から店員のお姉さんに視線を移すと、お姉さんは絵に描いたような完璧なスマイルでぼくらの様子を見ていた。
 ホームズは「お釣りと食べ物受け取っておいて。ぼくは席を取ってくるよ」と言い二階へ行ってしまう。ぼくは受け取った釣りをポケットに突っ込み、迅速に作られていく食事がすべて揃うのを待ってから二階へ上がった。ホームズは、窓の見えるカウンター席を押さえてくれていた。
「ありがとう」
「? いや、別にいいよ」
 ぼくは本当に何にお礼を言われたのかわからないくらいだった。ホームズは「わざわざこんなところまで来てくれて」と補足した。
「いいよ、それよりちょっと久しぶりだな。一ヶ月振り?」
「そうだね。夏休みは充実しているかい?」
 ぼくは自身の夏休みのことを簡単に説明した。バイトがあって、予備校の時からの友だちと飲んだりして、亜双義と部活動(という名の半分は飲み会)をしたり、イトコと遊んだり、そんな感じだった。
「ホームズは?」
 ぼくが訊ねるとホームズはほんの一瞬だけ動きを止め何の反応も見せなかった。きっと、言おうかどうか迷ったのだと思う。しかし最終的には、彼の夏休みのことも礼儀正しく語られた。
「バイトだよ。でも普通のバイトじゃない。探偵事務所で雇って貰ってるのさ」
 ぼくは、単純に驚いて「すごい!」と言いそうになった。ホームズはそれを指一本で静止させ(詳しく言うとぼくの額を人差し指で押さえることによって止めた)、「これはナイミツにね」とウインクした。男のぼくでもどきっとしてしまうくらいの、映画じみた華麗なウインクだった。
「ところで、法律部のことを一緒に追おうって話をしただろう? ひとつ気になる証拠を手に入れたんだ。決定的ではないけれどね」
 ホームズは一枚の紙を取り出した。真ん中に一つ折り目が入っているだけの、皺のない紙だった。開くと、資料のようなものが傾いて印刷されている。コピーするとき斜めに置いてしまったような、そんな印象を与えるものだった。
「左が予算で右が決算だ。予算は三百万なのに、決算は百万……二百万どこにいったんだろう?」
 ぼくはその紙をまじまじと見た。明らかにエクセルで作られたと思われる枠組みの中に桁数の大きな数字が列挙されており、最下部にホームズの言った合計の金額が記されている。予算と決算を比べると、確かに、そこに書かれている数字は端数こそ一致しないものの、凡そ二百万ほど浮いているようだった。
「というか、それどこで手に入れたんだよ」
 ぼくは、きっとこれを見せられた誰もが思うであろう疑問を口にする。こんな内部情報、しかも右上に「持出厳禁」とあるような資料を、ホームズが持っていること自体が罪であるような気もした。するとホームズはぱちんと指を鳴らし、「法律部内の知り合いの女の子に動いてもらったのさ。これは法律部主席の鞄の中に入っていたものだ」と言った。
「じゃあそいつが主犯なのか」
「ぼくはそう睨んでいるけどね」
「名前は?」
「バロック・バンジークス」
 この大学には本当に外国人が多いなあ、とぼくはまた溜息をついた。ホームズはぼくのポテトを勝手につまむ。ぼくも真似してポテトを食べた。そのバンなんとかという難しげな名前をバイト終わりの疲弊したぼくが覚えられるわけもなく、ぼくたちの夏休みの打ち合わせはポテトの湿った匂いで締めくくられた。


十六

 蝉が目覚まし時計の音さえも掻き消すようだった。汗だくになって起床したわたしは、なぜ自分がその時間に起こされたのか数秒考えないといけなかった。今日はバイトもないし遊びの予定もない。映画のDVDでも借りてこようかな……そこまで考え、ふと思い出した。そうだ、今日はシャーロックと海に行くんだった。わたしは寝癖だらけの髪をシャワーで強制的に戻し、からからになった肌に化粧水と日焼け止めミルクを与えた。クローゼットを開けて、ある中で一番気に入っているものを引っ張り出した。今日もとても暑くなりそうだ。日除けのための麦わら帽子も引き寄せた。
 シャーロックは定刻通りにわたしの家の前にいて、手持ち無沙汰に辺りを眺めていた。白のカラーシャツに、ベージュのチェックのクロップドパンツ。暑そうな見た目なのに、シャーロックがまとうと不思議と涼しげに見えてしまう。おそらくほとんど汗をかかない性質と全体的な色素の薄さが、暑さの印象を寄せ付けないのだと思う。
「いやあ、夏だねえ」
 わたしを見つけたシャーロックは一言、それだけを言って蒸し暑い空気を仰いだ。

 電車に乗って海へ行くまでの間、シャーロックはこの間の試験のこと、原作のホームズ譚のこと、自分の書いた小説のこと、色んなことを喋った。わたしは煩い弟を嗜めるみたいに、なあなあに頷きながら聞いた。
「ねえシャーロック、探偵部ってまだ続けるの?」
 彼が次の小説の構想を練っていると発言したあと、わたしは単刀直入に彼に聞いてしまった。続けるも何ももう消滅しているのだけれど……学校的には廃部になっていても、部長が廃部を決めない限りは実質残っていると思ったのだ。
 するとシャーロックは「それは難しい質問だ。探偵部は今、最大の過渡期を迎えている」と言った。そんなこと、今更仰々しく言われなくてもわかっている。
「どちらにせよ」
 わたしは溜息まじりに口を開いた。「探偵部は、大学を卒業したらなくなっちゃうものなんだよね。シャーロックはもしかしたら、その後本当に探偵になるかもしれないけど……」
「なまえは、なくなっても問題ないのかい?」
 電車の窓が風を受けて大きく揺れた。ふと音のした窓を見ると、濃い群青の水平線が窓枠のかたちに切り取られていた。海だ、と一瞬だけ思った。でもすぐにわたしは、シャーロックの先ほどの問いのことを考えなければならなかった。
「なくなったらそれはそれで寂しいよ? でも、何のために続けているのかよくわからないのも事実だし」
「目的なんてないさ。手段に過ぎないだけで」
「手段?」
「おっと」
 シャーロックは大げさに手で口を押さえ「危ない、危ない」という顔をした。
「もう、ふざけたいの? それとも、わざと少ない言葉で通じないように言ってからかってるの?」
「いいや! なまえはかわいいなあと思ってね……あっはっは! 本当に! なんだか笑いが止まらないよ!」
「ほら、ばかにしてる!」
 こんなやりとりはもう何回もした。わたしが怒ると、シャーロックはかわいいなあと言って至極楽しそうに笑うのだ。本来の意味での「可愛い」とは思っていないのである。でも、そういえば大学に上がってからは初めて交わしたかもしれない。高校生時代を思わせる、とても懐かしい感じがした。

 電車を降り、わたしとシャーロックは海に向かった。ごうごうと大きな波の音がして、わたしもシャーロックも「おおー」と気の抜けた声を漏らした。ビーチやビーチ周辺の道路には、ビーチサンダルに軽装の人がたくさんいた。人々の楽しそうな声が、海の音に混じってかすかに聞こえてくる。クリア素材の浮き輪、クリームソーダ、カラーサングラス、ハンバーガー、小麦肌、少しの香水のかおり、入道雲、照りつける陽射し。
「亜双義は元気かい?」
 シャーロックは急にそんなことを訊いた。まるでその問いはこの時間にされることが予約されていたみたいだ。急な身なりをしていながら、繊細でよく練られた意図や気遣いが含まれている気がした。
「知ってるの?」
「まあ、なまえを見ていたら何となくね」
「本当に人の観察が上手なんだね」
「なまえは特にわかりやすいのさ」
 わたしが意地を張った瞬間すらもシャーロックは見落とさなかった。「ばかにしてないよ。きみのそういうところ、いいと思うぜ」そんな真偽不明のフォローを入れながら。
「まあ、きみは探偵部唯一の良心としてあの部室の隅っこを守っててくれよ。隣に亜双義もいるわけだし退屈しないだろ? ぼくも秋はちゃんと顔を出すからさ」
「活動はするの?」
「するさ。猫探しとかね」
「小説書いたりとか」
「そうそう」
 シャーロックは歯を見せて笑った。だから、わたしもつられて笑った。少し、ほっとした。わたしとシャーロックは腐れ縁のようなものだけど、そこに友情がなかったわけではなかった。部活動という縛りから形式的には解放され一真くんと懇意になっていくわたしを、シャーロックが受け止めて、それでもなお変わらないでいてくれることが嬉しかったのかもしれない。
 そのあとわたしとシャーロックは、素足で海に入ってしばらく遊んだ。


十七

 ぼくが日本にやってきたのは十歳の九月のことだった。ぼくはそれまで英国にいて、外国の地へ降り立つのも、なんなら飛行機に乗ったことでさえも、日本へ越してきたときが初めてだった。ぼくが生まれ育ったのは、スコットランドのエディンバラ。親戚はみなロンドンにいるが、両親の仕事の都合でぼくはエディンバラ出身だった。しかしあのホームズ譚は兎角有名すぎて、ぼくはエディンバラでも名前のことで何かとからかわれた。きっと世界中の何処へ行ったとしても、ぼくの名前は仰々しい印象がついて回るのだろう。しかしぼくはその点においては昔から馬鹿だったので、注目されてるんだと思ってちょっと嬉しいくらいだった。幸いにも名前負けしないくらいの頭脳も持ち合わせていたし、ぼくは将来探偵になるのだと信じて疑わなかったほどだ。
 日本へ発つことになったのもまた、両親の仕事の都合だった。ぼくの新しい家の隣には、同い年のなまえという女の子が住んでいるらしい。引っ越してから数日後、ぼくの母親がそう教えてくれた。「約束取り付けてあげるから、友だちになってみたら?」母はぼくに提案した。ぼくは女の子が苦手だったが(彼女たちは感情的すぎるんだ)、新境地においてぼくはかなり暇だったし日本語を覚えなきゃいけない境遇でもあったので、その提案を受け入れてなまえの家にお邪魔するようになった。

 日本語のわからないぼくになまえが熱心に言葉を教えてくれたことを、ぼくは今でもよく憶えている。ぼくとなまえは、はじめ本当に言葉が通じなかった。だからいざ遊ぼうとなっても、何で遊んだらいいのか、互いの意思疎通すら取れない状況だった。しかし彼女は狼狽することもなく、少しだけ考えて、「まず言葉を教えよう」と決意したようだった。彼女は机の引き出しからクレヨンと紙を持ってきて、絵を描きながら、どれが何でどう発音するのかを逐一教えてくれた。
 彼女は赤いクレヨンで丸を描いて「りんご」と言ってぼくの目を見た。日本語を教えようとしてくれてるんだ、とぼくは思って、ぼくはお手本の真似をした。
「りーんご」
 同様に発音したつもりだが、初めの一語が伸びてしまう。なにしろ、ぼくにとっては「こんにちは」の次に教えてもらった言葉だったのだ。彼女はまた「りんご」と言った。ぼくもまた発音した。良かったのか良くなかったのかわからぬまま、りんごはそれで終了する。
 今度、彼女は赤いクレヨンで三角を描いて「いちご」と言った。ぼくも例にならった。それも何回か訂正され、何回めかで免許皆伝し終了した。
 なまえはおそろしく絵が下手だった。ぼくも人のことを言えたものじゃないが、まだぼくのほうが上手に描けた自信がある。彼女の描き味は固かった。まさに、絵を描き慣れていない人のそれだった。とにかく下手だったので、「りんご」が Apple で「いちご」が Strawberry であることにぼくが気付いたのはかなり後になってからだった。

 しかし、なまえとぼくの努力は無駄にはならなかった。ぼくはしばらくの間クラスにも授業にもなかなか馴染めずにいて(だって何言ってるのかわからないんだぜ。しかもぼくは「シャーロック・ホームズ」だしね)外国人の多くいる学校に転校する話さえも出たほどだったけど、結局のところ小中高となまえと一緒のところに通った。こういうことを言うのは恥ずかしいけれど、日本という知らない土地の学校生活でなまえは両親より助けになって……謂わば心の支えのようなものだったのである。おかげでぼくは日本語がそこそこ喋れるようになり、 もっとちゃんと言葉を知りたいと思って本を読みまくった。原作のホームズ譚がいろんな日本語で訳されているのを見て、不思議な気持ちになったのもいい思い出だ。
「シャーロックってずっと推理小説読んでるんだね」
 なまえは学校の休み時間にぼくの席の近くへ立ち寄ってはそう言った。もっとも、ぼくは彼女の言葉がわからず、彼女に何回も言い直してもらってやっと理解するような状態だった。「日本語、はやく、覚えたい、から」とぼくは言った。本当に、こんな片言で授業も理解できないのに、よく学校に通ったものである。
「今度、その小説読みに行ってもいい? シャーロックの家に」
「家に、小説?」 
「わたし、読みたい、シャーロック・ホームズ」
 Okay. ぼくがそう言って、なまえは Thank you. と言った。
 もう昔のことだ。


十八

 ナルホドーぼくはね、この授業に出席しているあいつが大変怪しいと思うのだよ。
 肌寒くなってきた十月の半ば、コーヒーを片手に持ったホームズが何処からともなく現れた。ぼくは驚く間も与えられないままホームズのもう片方の手で首根っこを掴まれ、ずるずると教室の隅へ連れていかれた。
「あいつって」
「バンジークスさ。法律部主席の」
「ていうか、久しぶり」
「ああ、一ヶ月半ぶりだね」
 ホームズの手はようやくぼくから離れた。ホームズはプラスチックの蓋が付いた紙のカップを傾けて飲む。かすかにブレンドコーヒーの香りがした。「ホームズってコーヒー好きだよな」ぼくがそう言うと、「本当は紅茶の方が好きなんだけどね。アレは外で飲むのに向いていなくてね」と言ってまた一口、コーヒーを飲んだ。
「で、そのバンなんとかはもうこの教室内にいるのか?」
「それがね、バンなんとかは結構直前にならないと入ってこないんだよ。まあぼくは後ろの方に座って張っておこうと思うけどね……あ、御琴羽さん!」
 ホームズは手を振った。話しかけられた女の子も手を振ったが、女の子はそのまま友だちと席についた。
「知り合いなのか?」
「本を出したとき買ってくれて。彼女はバンなんとかと同じ法律部でね。やつの調査に協力してもらってるんだ」
 バンなんとか、という呼称がぼくらの間で定着した。
 この間ホームズは、女の子を巻き込むわけには、なんていってみょうじさんには内緒にしていると言っていたけど、たった今嘘であることが判った。出会ったばかりの女の子とみょうじさんでは、私情の厚みがちがうのだ。いい意味にしろ、わるい意味にしろ。そしてそれはきっと、言葉で説明のつくものではないのだろう。
「ところでホームズは、この授業履修してるの?」
「いやいや、そんなわけないだろう。これは文学部限定の授業だろう? ぼくはきみの相棒と一緒で法学部だからね。それよりぼくはそろそろ席に着くよ。バンなんとかが入ってきたらきみに紙ヒコーキでも飛ばすから注目してみてくれ」
「メールで頼むよ」
 ぼくとホームズはそれぞれの席へついた。ぼくはしばらく手帳などを眺めて時間を潰していたが、携帯電話が揺れてホームズの名前が液晶に表示されたとき、ぼくは反射的に教室の前の方を見た。それもアカラサマに。ぼくの目に、暗いグレーの髪の長身の男が映った。顔まではよく見えなかったが、外国人としか思えない骨格と風貌だったから間違いない。ぼくはホームズのメールを開いて中を見た。空メールでもよかったのに、ホームズはなぜかサングラスをかけた顔の絵文字をひとつだけ打って送ってきた。ぼくはお返しとして、考え事をしているなんとも言えない表情の絵文字をひとつ打って送った。そのあと返事はなかった。

 授業が終わったあと、ぼくはホームズに誘われ食堂へ移動した。名目的にはバンなんとかに関するホームズ独自の調査をぼくにインプットするための場所として食堂を選んだのだけれど、ぼくのお腹が盛大に鳴ったため、ぼくたちは食事をとることに決めた。昼過ぎの食堂はやや混んでいたが、なんとか二人がけの席を見つけ、交代で食事を買いに行くことによりその席を死守した。
 その日ぼくはカレーを食べ、ホームズはサンドイッチを食べた。ぼくのは食堂で買った大盛りのカレー。ホームズのは、コンビニで買った二百五十円の、二組入っている薄いサンドイッチだ。
「それだけ?」
 ぼくは思わず訊いてしまった。「これだけだよ」ホームズの返事は至ってシンプルだった。ぼくは驚いて、スプーンを皿にぶつけてしまう。陶器と金属の相性悪そうな音が食堂の高い天井に響いた。
 女の子だって、もっと食べるんじゃないか? ぼくはそう思った。ここ暫くは茶碗三杯は余裕で食べる亜双義ばかり見てきたということもあって、ぼくはかなり衝撃を受けた。
「消化にエネルギーを使いたくないんだよ。ほら、食べたあと眠くなるだろう」
 ホームズはぼくの衝撃に対しそう説明をつけた。確かにそうかもしれないが、空腹になったら何も考えられなくなってしまうと思うし、そっちのほうが困ってしまうような気がする。あくまで、ぼくの場合は、だけど。
 そのあとホームズは、バンなんとかの周辺情報を漏れなく話してくれた。ぼくのせいだけど、あれ以来ホームズは彼の名前をそういう風に呼んでしまうので、ぼくは結局彼の正確な名前をこの時点で把握することができなかった。彼は文学部に所属している。本来は法の道に進みたいらしいのだが、この大学では文学部の交換留学しかなかったため止むを得ず文学部に所属しているという。しかし法の勉学は、部活動である程度享受することができている。法律部だ。実は、勇盟大学法律部はかなり有名らしく、それを目当てにこの大学を志す若者も数多いらしい……。ぼくは今までそのことを知らなかったけれど、部活の人数や活動の様子をホームズから聞くに、勢いがあって潤沢な部であることがよくわかった。ぼくたちの部活とは本当に桁違いだ。
 そこで、ぼくはつい、思ってしまった。どうして亜双義は、法律部に入らなかったのだろう? わざわざ低予算の道を選んで、法に疎いぼくなんかを誘って、彼に一体何のメリットがあったのだろう……?
 ぼくは思い切ってホームズに訊いた。
「いやあ、それはぼくだって知りたいくらいさ。むしろなんで成歩堂が知らないんだい?」
「あー……返す言葉もないよ」
「まあ、いいんだそのことは。でも、正直、本当のところを知るまでぼくは亜双義を疑い続けるだろうね」
「疑う?」
 ぼくは、ばかみたいに鸚鵡返しした。ホームズは少しだけ苦い顔をして肩をすくめる。
「いいかい、怒るなよ。ぼくはあらゆる疑問点を、私情を無視して疑うようにしているんだ……亜双義が、横領に関わってるんじゃないかってね」
 今までホームズと法律部の話をしてきて、これほどまで背筋が凍ったのはこのときが初めてだった。ホームズはぼくの反応を眉をあげて目線だけで伺い、閉口する。食堂のおばちゃんが食器を洗うがちゃがちゃとした音がやけに大きく聴こえた。
「それ、みょうじさんは知ってるの?」
「まだ言ってないから、知らないと思うぜ。まあ事実かどうかも判らないことを言って、恋仲を引き裂くわけにもいかないしね」
「ホームズは……」
 ぼくは言いかけて、やめた。ホームズが「何だい」と拾おうとした手も、「何でもない」と振り払った。こんな愚問中の愚問、訊く訳にはいかない。ホームズは、本当にそれでいいの? なんて、相手の心を土足で踏み荒らすような問いは。