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ホームズと大学で探偵部を立ち上げるも亜双義率いる法律研究部に部室を乗っ取られる。幼馴染と優等生の恋のさやあて 本編全28篇(ネタバレなし) 大逆転裁判 | 名前変換 | 初出20160328-20170731 加筆20230629

探偵奇譚



 トーマスは言った。この事件は難解であると。しかしぼくは思った。この世に解けない事件などないと……。
 これは、探偵部部長が先日書き残した、彼の二作目にあたる探偵小説の冒頭である。
 
 受講していた講義を終えたわたしは友人らと別れ早足で部室に向かったが、そこは真っ暗であった。暫く廊下からじっと部屋の中を覗いて見ていたのだが、黒と赤で造られたカーテンの端が僅かに揺らぐのを見て、ああまたここでアノヒトは寝てるのだな、と直感した。ずかずかと部屋に上がり込み、叱咤激励の意を込めてそのカーテンを思い切り引いてやる。そのすぐ下にある古びたベンチで、やはり想像通りの人物が寝息を立てていたのだから、わたしは思わず勿体ぶったような溜息が出た。
 数冊の本を枕にしていた彼は、窓の外から飛び込んでくる太陽の無数の恵みに、まるでヴァンパイアのように苦しみながら起きた。
「またここで寝てるの? 講義は? 単位まずいんじゃないの?」
 矢継ぎ早にわたしは問い正す。彼は聞いているのだか聞いていないのだか、フワウアと間抜けな欠伸をしながらぐっと背中を伸ばす。白いリネンのシャツは着崩されて、袖は取れかけのロールアップがくしゃくしゃになっていた。気取ってつけた胸元の赤いリボンも、一体どうしたらそうなるのか判らない位に皺だらけになっていた。
「お早う」
「二時」
 わたしは時計を指差した。年代物の時計はブウウンと低く鳴り続けている。彼は深い呼吸をして、判っているさ、と小さく言った。
「なまえ! 昨日はあれから大変だったんだ、クロを追いかけて追いかけて、結局海まで出ちゃったんだぜ?」
「嘘でしょ、海なんて?」
「嘘じゃないさ、その証拠にぼくの靴は砂だらけだ」
 彼はベンチの下から、いつも履いている茶色の革靴を引き寄せた。確かに砂だらけで、見るからにとても汚い。靴がこれなら、部室の床には一体どれだけの砂が積もっていることだろう。掃除は決まって、いつもわたしの役目だ。
「それで?」
「で、クロを捕まえた。だけど、猫を持ったままタクシーやバスに乗るわけにもいかないだろう? だから、ぼくはそれから来た道をそっくりそのまま帰ってきて、つい先程までその疲れを癒していたわけだ。そう、このベンチでね」
 ふふんと鼻を聳やかす彼、シャーロック・ホームズの指先にはひっかき傷が見受けられた。机の上には見慣れない封筒がある。おそらく、猫を見つけた報酬と思われる。
 
 勇盟大学探偵部部長を務めるシャーロック・ホームズは、あのシャーロック・ホームズではない。しかし、全くの無関係ということでもない。彼は、かの有名なシャーロック・ホームズの正真正銘の玄孫なのである。
 なぜあの有名な名探偵と同じ名付けをしてしまったのか、彼の両親のセンスは疑われるべきである。入学式、自己紹介、バイトの面接、なにかしらの申し込み、荷物の受け取り等々、要所要所で不便なことが予想されただろう。しかし、実のところ本人は全く気にしていない。それどころか、何の運命のいたずらか、彼は迷うことなく探偵を志し、大学では部を立ち上げるほどの熱の入れようであった。
 探偵部。ある日は白い猫を探し、またある日は三毛猫を探し、そのまたある日はアメリカンショートヘアを探す……そんな部活である。あの無計画なシャーロックが立ち上げたわりには、月に二回ほど依頼がくるので、わたしからしてみると意外にもきちんと活動できているような気がしていた。
 しかし、一年前に彗星の如く誕生したそんな探偵部も、今や廃部寸前に追い込まれている。
 
「ああ猫探し以外の依頼こないかなあ暇だなあほんとに暇だなあ、暇すぎてぼく鬱になっちゃうなあ昨今のニホンは平和だなあ」
「そんなに暇なら授業に行きなよ」
 わたしは箒とちりとりを持って、先ほどシャーロックが撒き散らした砂を掃いていた。
 「ぼくに必要なのは単位じゃない。事件なのだよ」
 彼はキリッとした目をする。物騒なこと言わないでよ。わたしは箒の柄で彼を小突いた。少し痛がっている。
「シャーロック、ちゃんと考えてるの? 単位まで落としたら余計廃部に近付くんだよ?」
「考えてるよもちろん。勉強するよ」
「出席をしようよ」
「なまえは真面目でかわいいなあ」
「ふざけるのはやめて」
 部活が廃れる原因は明確で、単にあまり活発でないことや、人数の不足はもちろん、実績のなさが決定的であった。事実、猫探しだけでは存続理由として弱いのである。新規入部者も、ここ一年募集してまったく集まらなかった。魅力がないのだろうか。まあ理由は判るような気もするけれど……。
 そんな弱小の部活なので、部費もままならない。わたしたちは猫を探し、その暁に貰ってはいけないはずの報酬をありがたく戴いているのだけれど、そんなこと口が裂けても言えない。言ったら即、出席停止の単位没収である。
「それはそれとしてなまえ、小説は書いてきたかい? 〆切近いんだから早く」
 そんなわけで、廃部の危機を救うためシャーロックは何を始めたかというと、なんと探偵小説を書き始めたのである。文学部サークルに出張して出してみたり、なんかそういうイベントで販売してみたり、それで実績を残そうというのである。それにわたしも巻き込まれてしまって、毎晩睡眠を削って話を書いているのだけれど、これがうまくいかない。なにしろ、わたしはミステリなんて読まないのだ。
 シャーロックはぐっと伸びをすると、窓を開けた。錆びつきのひどい窓の鍵は脆いくらい簡単に開き、金属と金属が擦れるキュルキュルという音が妙に耳触りだった。
「トーマスは言った。この事件は難解であると。しかしぼくは思った。この世に解けない事件などないと……」
「なに、それ?」
「ぼくの書いた探偵小説の冒頭だよ」
 春の風が外から吹き込んでくる。冷たいようで心浮き立つような温かさも含んだそれは、さやさやとわたしのスカートを揺らした。
「機関車と探偵の話?」



 うだつがあがらない日々を送っていたわたしたちであったが、ついこのあいだ事件が起きた。事件といっても、世間一般でいうような事件とは異なる「探偵部の危機」といったようなものであったが、平坦な日常を謳歌していたわたしたちにとっては、まるで日曜の昼下がりに地震があり爆撃され洪水になった、くらいの衝撃があった。急に襲いかかってくるであろう悲劇に対し、準備を怠ってきたともいえる。
 その日は珍しくシャーロックが授業に出席した。唯一、一緒に受講している物理学の授業だった。物理学とはいうものの、文系の物理学は理系のものと比べたら何てことないレベルだとは思うのだが、わたしはこの授業のあらゆることの理解に苦しみ、中間テストも合格点ギリギリで教授に嫌味を言われる始末だった。サボりまくっているはずの彼の点数は、わたしよりも遥かに上だった。そういえば、彼は昔から化学とか物理とかがやたら得意げなのだった。それでも理系の学部に進学しなかったのは、やはり探偵を志していたということがあるからだろう。
 その後、受ける授業がなかったわたしたちは部室に戻った。シャーロックは話の続きを執筆し始め、わたしはベンチで寝転がってゲームで遊んでいた。やることがなかったのだ。
 そんな風にだらだらと平常運転していたそのとき。急に、部室の扉が乱暴に開かれた。窓を開けていたこともあり、扉は思いのほか豪快に開いて、かなり大きな音を立てて壁にぶつかった。わたしとシャーロックが入口に目を向けると、二人の男性が立っていた。彼らは自ら突撃してきたにも関わらず、口をポッカリと開けて唖然としていた。恐らく、「そんなに強く開けてないのに」ということを思っていたのだろうと思う。
「入部希望かい!?」
 一間おいて、シャーロックは喜びの声を上げた。そして、つかつかと二人に歩み寄って、肩を抱いた。さすが英語圏生まれ、初対面にもフレンドリーだ。シャーロックは、実は十歳まで海外にいた。生まれも育ちも英国なのである。
 ただ、気に障ったらしい、肩に手を回された男性はそれをすぐに振り払った。
「入部希望ではない。おれたちは貴方がたに立ち退き依頼をしにきた」
 低く響く声で男性はそう言った。「え?」わたしとシャーロックは同時に驚きの声をあげると、隣にいた男性が「待ってました」と言わんばかりに一枚の紙をばさっと広げた。
「こ、これは……学生部からの立ち退き依頼!」
 シャーロックは派手に驚いてみせた……が、なんとなくそれは演技だろうなとわたしは思った。わたしは内心焦ってはいるものの、シャーロックは多分この状況を楽しんでいる……かれこれ十年の付き合いなので、それが判ってしまうのである。
「というか、きみたち、誰なんだい? 学生部の人?」
「いえ。法律研究部を新たに立ち上げようとしているのです。ここを部室に使ってよいと、学生部部長のヴォルテックス教授から許可を得たもので。ただ、空き部屋のはずのここに出入りしている方が居たので、学生部に相談して、このような書類と勧告を発行してもらったのです」
「ふうん、なるほど」
 シャーロックは顎に手を当て考える素振りを見せた。
「ぼくはシャーロック・ホームズ、探偵部の部長だ。あっちはみょうじなまえ、ぼくの助手」
 助手ではない。
「悪いけど、そんな紙切れでは立ち退けないね。紙の様子とインクの乾き具合からみて、それってついさっき急ごしらえで印刷されたものなんじゃないかい? ぼくんとこの顧問にも確認を取ってない。そうだろう?」
 二人の男性はシャーロックの答弁にやや押し黙った。しかし、男子生徒らは咳払いを一つたてると、こう続けた。
「自己紹介が遅れた。おれは亜双義一真、法学部法学科二年だ。こっちは成歩堂龍ノ介文学部英文学学科二年。たとえ急ごしらえでも、決まったことは決まったことだ。なにしろ、天下のヴォルテックス教授の捺印があるのだからな」
「うーん?」
 シャーロックはわたしを見た。いや、「うーん?」と聞かれても。
「何かの手違いではないでしょうか? そもそも廃部にすらなっていない部活に対して、立ち退きの勧告が出ていること自体おかしいのでは?」
 わたしが亜双義さんたちに話かけると、彼らは顔を見合わせて「それも一理あるな」と言った。シャーロックは「なんだなんだぼくのときと随分態度が違うじゃないかきみ?」と一瞬騒ぎ立てたが、わたしの言葉により何かに気付いたのか、はっと手で口を覆った。
「どうかされましたか?」すかさず、成歩堂さんがシャーロックの様子を伺う。
「いや……ええと。なまえ、ちょっとこっち」
 彼はわたしを手招きすると、部屋の隅まで連れて行き、口元を手で隠しながらこそこそ小声で話しかけてきた。
 そういえばあれを出してない。
 なに、あれって?
 わたしは思わず聞き返すと、今年度部活動活動許可申請書、と長々とした単語が述べられた。わたしはさっと血の気がひいた。つまり、探偵部はすでに廃部になっていたのだ。目の前にいるこの男のウッカリによって。
 シャーロックはその後すぐさま入口になお立ち塞がる男子らに向かって告げた。
「仕方ない! この部室の所有権はそちらへ譲るとしよう。但し! ぼくたちも部室がないと困る……申し訳ないが、引き続きこの部屋の一部を間借りさせてもらえないかな?」
 余裕のある笑みで尤もらしいことを言って説得にかかる。探偵部? なにそれ知らないと言われれば、錆びて使えなくなってしまう諸刃の剣だ。
 亜双義さんは押し黙り、なあ、どうする相棒、と成歩堂さんに尋ねた。いいんじゃないかな、と成歩堂さんはアッケラカンと答え、それを聞いた亜双義さんはなぜかわたしのほうを見て「判りました、認めましょう」と言った。シャーロックは憤慨した。きみ、やっぱり扱いが違うじゃないか云々。
 
 しかし、廃部になったものの、晴れて部室の使用権、括弧、一部、括弧閉じ、は勝ち取ったのである。わたしたちは部室の端っこに同じくして追いやられている小さめのグランドピアノの周辺を使ってよいと言われ、そこに簡易的な椅子を二つ並べて腰掛けた。ここは元より古い音楽室だったそうで、年代物の楽器がいくつか置いてある。シャーロックが軒並み触ってみたが、どれもこれも調律されていないので、変な音で鳴る。
「よかったね。引き続き使えて」
「ああ、ほんとによかった。なにしろ、こうやって拠点を構えるのはぼくの長年の夢だったのだからね」
 シャーロックは人差し指を立ててウインクしてみせた。
 そんな彼を見ると、なんだかわたしも嬉しくなる。ふだん色んな迷惑をこうむっているものの、やはり彼にわたしは弱いのだ、恐らく。日本語も話せない状態でわたしの隣の家に引っ越してきて、学校のクラスでも暫く馴染めなかった彼が、今ではこうやって思っていることをちゃんと言葉にできて好きなことを生き生きとやれている様子を見ると、込み上げてくるものがある。彼は昔の彼ならず。有名な作家が言うように、人は十年で立派にも駄目にもなることが、わたしはよく判ったのだった。



 部活としての実績を残さなくてもいいんだ、と思った瞬間、わたしは小説の執筆を辞めたが、推理物が好きなシャーロックは筆が止まらなかったらしく、あれからもずっと、グランドピアノを机がわりに執筆を続けていた。とはいえ、非公式の部活動という体裁には彼も味をしめたようで、たまに入ってくる猫探しの報酬も前よりきっちり取っていたし、書いた原稿も売りさばいてやろうという商人の心意気だった。
 そんな最中、部室のもう半分では模擬裁判やらが行われていた。実際にあった事件を持ち出してきて、実際の証拠と証言をもとに、結構本格的なものが行われていた。しかし、法律研究部も二人しかいないので、人数を確保したいときにはこちらにも声が掛かった。
「なまえには裁判長をお願いしたい。話を聞いてどう思ったか感想をくれるだけで大丈夫だ」亜双義さんが言う。
「ぼくはどうしたらいいんだい!?」
「貴様は被告人だ」
 シャーロックは機嫌を損ねた。
 事件の内容はとあるバーでの密室殺人だった。ナイフ、血痕、指紋、次々と決定的な証拠が提出されていく。すでに判決が下されたようなものだったが、被告人であるシャーロックは審理が始まる前に口を挟んだ。
「これは密室とはいえないね。この店の構造、塞がっているようで、明らかに地下酒蔵がある。明治時代に建てられた建築物で西洋にもよく見られる典型的な構造だ。これは一八七二年、ウィンチェスターで起こったヴァンペルト事件を模しているのかな? ヴァンペルトは健気なことに、地下酒蔵から二百メートル先まで逃走通路を予め掘って犯行に及んだんだ。もしかしたらこの事件の真犯人は何処かの下水に繋がるまで掘っていたのかもね。理由は簡単、事件発覚後、死後一時間というのに店内は相当な腐敗臭で満ちていたというじゃないか」
 検察役を演じる亜双義さんは、両手を振って「無し、無し」と言った。
「ホームズ、そういう資料にない新しい推理を披露するのは無しだ。弁護士がそういう弁論をし出すならまだしも、貴様は被告人なのだから、あまり雄弁にされても成り立たない」
「じゃあぼくを弁護士にしてくれ。成歩堂のほうがよっぽど犯人に向いているんじゃないか?」
「いや犯人って言っちゃ駄目だから」亜双義さんが突っ込む。
「それにしてもやっぱりホームズって色んな事件に詳しいんだな! ぼく感動しちゃった」
「相棒、なにを呑気に。貴様は今、犯人にされかけたのだぞ……」
「なんだかもう無罪でいいと思います」
「なまえ!?」
 結局、その裁判は無しになった。

 木曜日の昼食前の授業。大教室でひとりで座っていると、横から低い声で名前を呼ばれた。この授業はひとりで心細く黙って受けているものだったので、よもや話しかけられる日がくるとは思ってもみなかった。驚いてそちらを振り返ると、そこには亜双義さんが居た。
「隣、いいか?」
 亜双義さんの申し出にこくんと頷く。彼は椅子をひいて腰掛けると、鞄の中からクリアファイルやらペンやら授業の道具を引っ張り出した。わたしは再び前を向いて、どうしたものか、と思案した。亜双義さんと差し向かって二人で話すのは初めてで、戸惑ってしまったのだ。
「なまえがこの授業を受けているの、知ってたよ」
 亜双義さんは準備もそこそこにわたしに話しかけてきた。え、と返すと、亜双義さんは爽やかに笑った。
「だから、あの部室でホームズといるところを見て、少なからず驚嘆したものだ。あれ、あの女の子、いつも木曜日に見かける子だ、ってな」
 そうだったのか、とわたしも驚く。でも、見かけていても不思議はないと思った。学部も同じなのだし学年も一緒なのだから、十分納得できる話だった。シャーロックのように欠席まみれであれば別だが。
「亜双義さんって、この間のゼミ対抗の討論会で、確か賞を取ったんだよね」
 掲示板にそう貼り出されていたのだった。わたしのゼミは緩いので予選で消えた上にその後の展開にだれも興味を示さなかったのだけれど、そういう面に強いゼミ同士の決勝戦的なものがつい先日行われたという。休講情報を見たかったために掲示板を覗いてみたら、大きな文字で亜双義さんの名前が書いてあったのである。亜双義さんのいい噂は、その件を呼び水のようにして次々聞くようになった。仲良しの友達も「あの学科にエリートイケメンがいる」と、最近になって亜双義さんの名を出すようになった。
 亜双義さんは、ふっと表情を緩めすこし照れの姿勢を見せたが、すぐに真顔に戻って「その、亜双義さんっていうの、やめないか」と言った。
「おれはなまえと呼ぶのだし、一真と呼んでもらわないとおあいこにならないだろう」
「そ、そうかな」
「そうだ。練習してみろ。はい、一真」
 亜双義さんは、にっと笑ってわたしに言わせようとする。一真……さん。わたしはそう言うと、惜しい、もう一回、と一真……さんは言った。
「一真、くん」
「……仕方ない。それでおあいこにしてやる」
 一真くんがそう言って前を向くと、わたしは緊張で吸えなくなっていた息を存分に整えた。普段シャーロック以外の男の人と話すことがあまりないので、特に理由もなく強張ってしまう。しかも、相手は学内で有名な人である。私の目から見てももちろん男前であったし、そんな人物相手に緊張しないほうがどうかしていると思うのだった。
 一真くんはその後、わたしを学食へ誘った。わたしはキャベツが山盛りのコロッケ定食を頼み、一真くんは鯵の開き定食を頼んで食べた。わたしの場合は、気が動転してほとんど味を感じられなかった。



 シャーロックは、「明日、文学部の文芸フリマに出品する」と言ってわたしに製本作業の手伝いをお願いしてきた。知らぬ間に書き上げ、知らぬ間に印刷まで済ませていたらしい。わたしは赤い糸を持って不器用に無線綴じに仕立てた。
 隣では今日も二人で模擬裁判が行われていた。慰謝料、養育費、という単語が聞こえてくるので、離婚裁判だろうと容易に想像がついた。その横でいそいそと製本される探偵小説は、一体何部売り上げられることだろう。
 その平坦な作業が一時間を超えだしたところで、裁判に終着を迎えたらしい二人が声をかけてきた。
「やあ、何をしてるの?」
 成歩堂さんは朗らかに訊ねた。
「聞いて驚くなよ……」シャーロックは目にかかりそうなくらい長い色素の薄い髪をかきあげ、存分に間をあけて言った。「前代未聞、空前絶後の大探偵小説! ……を、製本しているところさ」
 まだ一部も売れていないのに、よくまあそんなに自信があるな、と思った。結局わたしはまだ目を通していないが、機関車と探偵の話、という印象があるので、確かに前代未聞で空前絶後の小説だなと思った。
「なまえ、珈琲でも飲みに行かないか?」
 一真くんはそっとグランドピアノの脇に回ってわたしを誘いかける。
「おい、亜双義、勝手になまえを連れて行かないでくれよ」
「ではホームズ、なまえをお借りしても?」
「駄目に決まっているだろう」
 シャーロックは不機嫌そうにわたしを引き寄せてしまった。わたしは当惑して何処を見ればいいのかもわからず、思わず成歩堂さんを見てしまった。彼は、周囲の険悪な雰囲気にも屈せず、わたしとシャーロックの手元を見て「ぼくもやりたい」という顔をしていた。わたしは成歩堂さんに「一緒にやりますか?」と訊ね、彼もまたそれを喜々として受け入れ、グランドピアノの空いているところに収まった。一真くんもやるとのことで、椅子をわたしの隣に持ってきたが、シャーロックは「きみはぼくから直々に教えてあげるよ! なまえはあんまり器用じゃないからね」と言った。苛々した。
 そうして、本は約二十冊ほどできあがった。
「ついでに亜双義、販売の売り子もしてくれよ。きみが居ると売れそうな気がするんだ。なにしろきみって、学内でなかなか人気あるみたいだからね」
「ほう? なまえを貸してくれるならやってやるよ」
「きみも頑固だなあ。なまえは此奴と出かけたいのかい?」
 わたしはそのとき、成歩堂さんと編み物の話で盛り上がっていた。わたしは編み物が好きなのだが、成歩堂さんもそうらしい。好きどころか、小学生のときそういった倶楽部に所属していたとのことである。わたしたちはそのときどういったものを今まで編んできたのか、また次の冬に向けて何を編むかを語り合っていた。「なまえ? ねえ」わたしは話に夢中になるあまり、ピアノの向こう側からの呼びかけを三回ほど無視してしまったようだ。
「なまえ、おれと珈琲でも飲みに行かないか」
 正直、まだ言ってる、と思った。でも、「甘いものは好きか? ケーキを奢ってやる」の言葉にわたしは「行きます」と返事してしまった。シャーロックは「いってらっしゃい」と言った。いつもどおり笑ってくれているが、どこかつまらなさそうだった。

 一真くんは大学を出てすぐのところにある雰囲気のいい喫茶店に連れ出してくれた。創業七十年の老舗とのことで、店内は全体的にレトロな雰囲気だった。わたしたちは二人席に向き合って座った。
 一真くんはその日、昔から在りそうな簡素な白いシャツを着ていた。その格好も相俟って、この由緒ある明治大正時代風の空気になかなか見事に溶け合っていた。顔が良いのであまり気にならなかったけど、髪型も今風ではないから、そういった部分も加算されて、わたしは思わずタイムスリップしたような心地になる。
 一真くんは約束通り、苺のショートケーキを奢ってくれた。口に運ぶとホイップがふんわりと溶け、砂糖の甘い味がして、幸せな気持ちになった。
「なあ」一真くんは珈琲を嗜みながら話しかけてきた。「ホームズって、本名か?」
「うん。そうだよ。親のセンス疑うよね」
「そうなのか……。いや、親御さんのセンスをどうこう言うつもりもないが、彼奴なかなかに変わった人だし、普段から偽名か、と思った次第だ」
 そうなんだね、と差し障りのない返事をする。なんだか、わたしが一方的にシャーロックのご両親の悪口を叩いたみたいになってしまった。まあ、その思慮深さも一真くんの人柄、魅力といったところなのだろう。フォークに突き刺した苺を噛む。果汁が口の中で弾ける。
「あの本名であの見た目ならば、もう少し有名になっていそうなものだがな」
「あの見た目?」
「どこから見ても外国人だろ? しかもシャーロック・ホームズ。おまけに男前ときた」
 そうか、シャーロックって男前なんだ。わたしは当たり前の事実を再確認した。シャーロックは男前だ。隣に越してきたときは、そういえば、天使みたいだなと思ったのだった。今の今まで忘れていたが。最近は辟易することが多くて、またあまりにもお互いを理解しすぎてしまって、話すことすべてがお笑いみたいな雰囲気になってしまうから、よもや男前であることを意識していなかった。
 そして、わたしは彼が無名である理由もなんとなく判っていた。一年中猫を探しまわり、引きこもって推理小説ばかり読んでいたら、人は有名にはならないのだ。
「わたしは、シャーロックがちゃんと授業さえ出てくれたら、もう何も言わない」
 つい、独り言みたいに呟いてしまった。
「そんな輩など、放っておけばよいではないか。そもそもなまえは、近所の友だちだから、そんなに面倒を見ているのか? 一緒になって部活を立ち上げるほどに?」
 珈琲の湯気が一真くんの表情をぼかした。心情の読めない一真くんの問いはまるで、法廷で追及している検事のようだった。きっと、その問いに深い意味はないのだろう。なにしろ一真くんは口が立つ。将来、えらい人になるタイプだ。
 わたしは、別に面倒を見ているつもりなど毛頭なかった。あの人は、強引なのだ。わたしのことをいつまでも巻き込むから、現在このようなことになっている。でも、彼といると、大変の連続の中に心から楽しい瞬間が一瞬だけ訪れる。生きる探偵小説。そういうものが単に見たいだけかもしれなかった。わたしは、それをそのまま一真くんに言った。
 彼は一言、ふうん、と言った。

 そのまま当り障りのない会話をして、わたしたちは喫茶店を出た。とても素敵なところだった、と伝えると、また連れて来てやる、と一真くん。兄気質というかなんというか、頼りになる人である。
 そのまま駅に行くと、駅前のたこ焼き屋で成歩堂さんとシャーロックがたこ焼きを食べていた。シャーロックは目ざとくわたしを見つけると、おういと呼びかけた。
「これ、なんだと思う?」
「たこ焼き?」
「ブー、ハズレです。正解は、成歩堂と割り勘した、たこ焼きでした」
「やっぱりたこ焼きじゃない」
 別行動している間に、シャーロックは成歩堂さんと随分仲良くなったようである。いや、おそらく、成歩堂さんが社交的だから為せる業ともいえる。現に、一真くんはシャーロックを変な目で見ている。
 成歩堂さんは英語を勉強中ということもあってか、ネイティブであるシャーロックと英語で話し込んでいた。そういった共通項もあって、割り勘のたこ焼きが今彼らの手の中にあるのだろう。
「まったく、陽気な探偵サマだ」
 一真くんは呆れて笑った。



 わたしが部室へ訪れると、そこは真暗であった。探偵部が非公式の部活となってから早一ヶ月が経とうとしていた。そのときからだと初めてではないだろうか……この部屋が真暗になっているのなんて。
 わたしは明かりをつけて窓を開けてしまうと、グランドピアノのほうへ寄った。誰もいないようである。どうしようかなあ、とわたしは困ってしまった。シャーロックがいないと、本当にやることがないのである。
 彼がいないと。
 わたしはそんなことを思ってなんだかどうしようもない気持ちになっていた。所詮、わたしは探偵の助手なのだな、と。探偵不在だと、探偵部は成立しないのだ。

 わたしは、今はもう法律研究部に譲りつつある古いベンチに腰掛けた。そしてそのままずるずると身体を沈めてしまい、しまいにはベンチにぴったりと、くっつけられるだけ身体をくっつけてしまう。初夏のさわやかな風が頬を撫ぜる。薫るる風と逃げ水。だれかが歌っていた美しい歌の歌詞を思い出した。同時に、わたしの頭の中には幼かった頃のシャーロックが、そのきれいな色の髪を揺らして草原に佇んでいた。そのときは朧げだったに違いないが、その草原はとてもこの世のものとは思えないような耽美さを持ち得ていた。柔らかな草の匂い、心地よい日差し、春の気温、そういったもので満たされていて、その中心に彼がいたのだ。
 彼は微笑みながら何かを喋っている。多分、英語なのだろう、とわたしは思った。あの子は英語しか話せないのだ。日本に来たばかりだから。
 わたしはその場から、うまく動けなかった。どこに自分がいるのかさえもよく判らなかった。わたしは映像を見せられているのか、本当に彼と同じ地面を踏みしめているのか。そういった理知的な部分が全部溶け合った不思議な出来事だった。
 いつの間にか、わたしはシャーロックに手をひかれ歩いていた。彼は何かしらをしきりに話していた。よく聞き取れないのか、または理解し得ない言語だったのか、わたしはそのときの彼の言葉をひとつも判ることができなかったのだけど、ふしぎなことに彼はわたしを冒険に誘い込んでるような気がしたのだった。言い知れぬ深い吐息。彼とわたしは走っていた。びゅんびゅんと周りの風景が過ぎ去っていった。泥と土、水の空、花の集合体、笑う時計、棘、煉瓦の街、曇った窓、いろんなものを擦り抜けて、最終的にわたしたちは古い絨毯の敷いてある暗い部屋にいた。
 ボーンンン……。
 シャーロックの家だった。この時計の音には聞き覚えがある。イギリス製のアンティークの時計だ。彼のお父さんはそれをえらく大事にしていたのだ。シャーロックはよく、自分の部屋でなくこの部屋にいた。わたしを遊びに誘うときもこの部屋だった。ここには本がたくさん置いてある。それゆえに、この部屋は古い書物の匂いがする。陽に焼けるのを防ぐためにカーテンは大抵ずっと閉められていて、だからとても暗い。
「たとえ奇妙で信じがたいものであっても、すべての可能性を取り除いていった末に残ったものであるならば、それは紛れもない事実なのさ」
 人差し指を立てて得意げに彼は言った。彼はすでに成長して大人の男性になっていて、その言葉はわたしたちの共通言語だった。

 そこで、夢と、自覚した。「探偵さん。ねえ、探偵さん?」わたしは急に現実世界から呼び戻されて、古めかしい日陰の部屋は砂のように崩れて消えた。
 目を開けると、そこには小さい女の子がいた。わたしの顔をぐっと覗き込んでいる。わたしは驚きの余り声すら出ず、ただ目を大きく見開くのみだった。
「十五時にここに来るよう言われて、来たんだけど。猫探しの手伝いをお願いします」
 女の子は可愛らしく結った髪をちょこんと揺らし、そう言った。十五時。時計を見ると、十五時を五分過ぎているところで、部室にはシャーロックの姿はなかった。わたしは約束をした覚えがないので、必然的に彼のお客さんだと判断できる。あの人、約束をすっぽかしているな……。
「ごめんなさい。依頼を受けた本人が戻るまで、ちょっと待っていてくれませんか」
「んー、実はあまり時間がないの。お姉さん探偵部の人じゃないの? お話だけでも聞いてくれない? あたし、手伝ってくれなくとも、一人で探さなくっちゃならないの」
「そっか……そうだよね、大事な猫だもんね」
「まあ、大事だよね、だってあたしの仕事だもの」
 女の子は意味深なことを言い言い、わたしがそこに言及する前に「お姉さんお名前は?」と訊ねた。わたしは鞄から名刺ケースを取り出して、名刺を渡した。シャーロックに無理やり作らされたのである。
「なまえちゃん」女の子はにっこり笑った。「わたしはこういうものです」
 なんと、女の子も名刺を持っていた。わたしはよもや目の前の小学生ほどの女の子から名刺を貰えると思わず、戸惑ってしまったが、受け取ってその内容を拝見した。
 アイリス・ワトソン。猫探しエキスパート……?
「探してるのは、あたしの猫じゃないの。ちょっと今回苦労してるから、手伝ってくれないかな?」
 アイリスちゃんは誰かさんのように人差し指をおでこに当てて得意げに言うと、鞄から様々な資料を取り出した。まるでシャーロックより本格的に仕事をされている。いくら困っているからといって、あんな適当男に助けを求めていいのだろうか。
 兎も角、わたしはアイリスちゃんの話を聞くことにした。


幕間・一

 文芸フリマは大学の中庭を用いて行われていた。中庭といってもコンクリートで舗装されていて、あちこちくり抜かれたところに木が自生しているような、とてもきれいな作りであった。その一画に「文芸フリマ」と、手書きのひょろひょろ文字で書かれたなんともいえぬ看板が立っており、その向こうに妙なまとまりを持って出品者の机が立ち並んでいるのであった。
 おれは、気が進まないながらも、部室の半分を貸してやっている部活の部長の手伝いとしてこちらに訪れている。彼は充てがわれた小さな机に意気揚々と向き合って、昨日せっせと綴じた本を並べていた。本当に小さなスペースだった。飛び入り参加すると、どうしてもこうなってしまうのだろう。
 このフリマの一番の目玉は、同人誌より古本であるようだった。ブース内には古本を運んできたと思われるワゴン車が一台乗り付けてあり、どっしりと構えた大きな机の上に、大量の本が背帯びを天に向けて並んでいた。何冊あるか判らぬ。しかし相当な数だった。フリマの開始時刻はまだ少し先であるが、すでに古本の周りには人が群がっている。他の出店者が、自分の店の設営をほっぽいて夢中になっているようだ。それほどに、あの並びは魅力的なのであろう。
「亜双義、これつけてくれよ、看板代わりに」
 ほいっと見当違いに投げられた段ボールを、おれはなんとか受け取った。適当に切られた段ボールに、恐らく首に掛けるための粗悪な紐がついており、段ボールには「前代未聞の探偵小説!」と書かれている。全面的に非常に雑だった。誰がこんなものつけるか、と突っ返すと、ホームズは口を尖らせた。
「仕方ない。ぼくがつけるか」
 斯様にして、小さい机の中央に段ボールで変な武装をした外国人と、その隣に不機嫌な男が佇むような、奇妙な売り場となったのである。果たして、この本は売れてくれるだろうか。


六・ゐ

 品種、三毛。名前、ワガハイ。特徴、赤い首輪、しゃがれた声で鳴く、またたびの容器を指で叩いて鳴らすと寄ってくる。依頼主、夏目氏。探偵部への報酬、五千円。アイリスちゃんは淡々と説明し、地図のコピーをグランドピアノの上に広げて、こことここは調べた、でもここはもう一度調べたい、ここはまだだけど可能性が低い、と予めついている印の説明をしてくれた。
 多分だけど、シャーロックはこんなしっかりとはやっていなかった。こういう地図や資料を今まで一切見たことがないのだ。わたしは依頼されている側なのに猫探しのネの字も判っておらず変に緊張した。
「ねえ、あたしの依頼した人はいつ戻ってくるの?」
「本当にごめんなさい、連絡がないの」
 先ほどシャーロックにメールをしたが、返ってこない。暇人のくせに何をしているんだか……わたしはそのとき、文芸フリマのことをすっかり忘れて考えていた。シャーロックにしたって、依頼があったことをすっかり忘れているのだろうけれど。
 ふうん……とアイリスちゃんは腕を組み考え込むと、
「代わりになまえちゃんがお手伝いしてくれるっていうのはだめ? だって、なまえちゃんも探偵でしょ?」
 と無邪気に言った。
「わ、わたしは……探偵じゃないの」
「わ、そうだったの? 助手さん?」
 助手というつもりでもなかった。ただ誘われるがままに立ち上げて、たまに依頼の手伝いをした。今思うと、一緒に過ごした時間のほとんどは、無意味ともいえる雑談としようもない笑いで埋め尽くされていた。
 なんだか、胸がちくりと痛んだ。それは一瞬の出来事だったので、どうして痛いのか見当もつかなかった。一方、アイリスちゃんはしたり顔で笑った。「じゃあ、相棒ってやつだ」
相棒。わたしは、シャーロックの相棒なのだろうか?
「なまえちゃん、今だけあたしの相棒になって!」
 アイリスちゃんは、わたしの手を取り立ち上がる。そしてわたしは手を引かれるまま部室を出た。相棒。まだその言葉に頭の中がチカチカする。もしその言葉の通りだったら、わたしはシャーロックともっと対等にならなくてはいけないんじゃないだろうか。能力の面でもそうだし、気持ちにおいても、きっとそう。


幕間・二

 驚くべきことに、ホームズの本は、売れた。そのフリマには数々の出店があったが、一番の賑わいを見せていたのがホームズの店だった。正直、おれという存在はこの場では全く興味を持たれなかった。「亜双義一真」は法学部では名が知れているかもしれないが、文学部生が多いこの場では無名に近い存在だったのだ。ホームズは何の縁か意外と文学部のほうに知り合いがいるようで、知り合いが知り合いを呼び、噂が噂を呼ぶような、そんな連鎖反応がここでは起きていた。大盛況。こう言わずして、何と言おうか。
「いやあ、こんなことならもう十冊は作っておくべきだったかな」
 得意げに言う奴の首には「売切御免!」と書いてある段ボールがぶら下がっている。憎いことに、その段ボールは売れた後に急拵えしたものではなく、売切前に用意したものだということだ。段ボールの端には、いろんな生徒の名前と連絡先が書いてあった。先刻、増刷分の購入を希望した者たちが書き残していったものである。ホームズも、さすがにそこまでは予想していなかったらしい。手頃な紙を持ち合わせておらず、急遽段ボールにサインをさせて逆に女生徒たちを笑わせた。客は、圧倒的に女性が多かった。やはり、ホームズの外見に惹かれるものがあるのだろう。
 これをなまえが見たら、どう思うのだろうか。ふと彼女のことを思い出してしまい、おれは首を振った。そんなこと、気にしたって仕方ないだろう……。
「亜双義! 机片付けるの手伝ってくれよ! あとこれから部室に戻って増刷と製本もあるからよろしく」
「貴様、どこまで人を使えば気が済むのだ。しかも、結局おれは居ても居なくても良かったではないか。腹立つ」
「まあまあまあ。手伝ってくれたらさ、なまえの女子高生の時の写真見せてあげるからさ?」
 おれは思わず唸ってしまう。ホームズは人の悪い笑みを浮かべ肩を組んできた。なんと悪知恵の働く男なんだ、全く悪どい、許せん……と思いつつも、おれの足は自然と部室へと向いていた。


六・ろ

 今、わたしはまたたびの容器を持たされて、とある住宅地の車が一台しか通れないようなアスファルトの道の上で、じりじりと一匹の猫と対峙していた。アイリスちゃんと手分けして探し始めて約三十分。車の下にいる三毛猫を、運良く見つけてしまったのである。三毛違いかも、と思いきや、その猫は赤い首輪をつけていた。いや、でも、赤い首輪をつけた別の放浪猫かも、と思ったが、車の下でしゃがれた声で一声鳴いた。これは、もう、当たりでしかない。
 その道は、夏目氏の家からちょっと離れた場所だった。アイリスちゃん曰く、家を出た猫は、意外と家のそばを離れず放浪する猫が多いとのこと。その子が道に迷ってしまったとき、初めて遠くに行ってしまって見つけづらくなってしまうらしい。すなわち、ワガハイちゃんはもう一日遅かったら見つからなかったかもしれないのである。
 わたしは、しくじるわけにはいかなかった。またたびの容器を叩けば寄ってくるのは知っている。問題は、そのあとどうやって穏便に捕まえるか、である。
 意を決して容器を叩いた。車の下の二つの目が光るも、出てこない。もう一度叩いた。二つの光が揺れた。どうやら、こちらへ近づいてきているようだ。車の下から這い出てきた猫は、そのままわたしに近づいてくる。戸惑った様子を見せるものの、ゆらゆらと尻尾を立てて興味深そうに容器に狙いを定めている。わたしは、満を持して容器の蓋を開け中身を手のひらに開ける。そうすると、猫は一目散にわたしのほうへ近寄ってきて、手のひらに頭を突っ込んだ。
 やった! わたしはそう思ってワガハイちゃんの体を持った。しかし、ワガハイちゃんはまたたびに夢中になりつつも、普通に嫌がって暴れた。体をくねらせ逃げようとし、わたしも負けじと胸で抱え込み、腕は引っかかれ噛まれた。大変な騒ぎだった。
「アイリスちゃん! アイリスちゃん!」
 彼女が捜索している道に命からがら駆け込むと、アイリスちゃんは驚愕して駆け寄ってくれた。そうして手早くワガハイちゃんを抱き上げ猫用の移動ケースに誘導した。ワガハイちゃんは興奮した様子でフーっと唸っていたけれど、じきに大人しくなった。
「なまえちゃん大変! 血だらけなの」
 アイリスちゃんは鞄から消毒液と綿を取り出してわたしを手当てしだした。とてつもなく痛い。猫に引っかかれた人しか判らないかもしれないけど、猫による引っかき傷というものは、地味ながら非常に厄介なものだ。細くて長い引っかき傷が無数に残る腕には絆創膏を貼ることもできないから、しばらく長袖で過ごさないといけない。そしてどういうわけか、どこかにぶつけるたびに鈍い痛みも走るのだ。
「よし」アイリスちゃんは言った。「お風呂のとき沁みるから気をつけてね」
 わたしはただ頷いた。
「ありがとう、なまえちゃん。なまえちゃんのおかげで助かった」
「役に立ててよかった。格好悪かったけどね」
「ううん。そんなことないの。あたし、このまま依頼主の元に行っちゃうけど、今度必ず正式にお礼しに行くね。そのときに、探偵さんにすっぽかした文句となまえちゃんの名相棒っぷりを報告するからね」
 じゃあねとアイリスちゃんは歩いて行ってしまった。わたしも痛む手を振って、大学の方へ向かって歩き始めた。そのまま帰ることができたら良かったのに、荷物を全部あの部屋に置いてきてしまったのだ。

 わたしが部室へ戻ると、そこは真暗ではなかったものの、人はひとりもいなかった。にわかにインクの匂いがする。グランドピアノの上に、大量の紙の束が乗せられている。わたしはピアノに近づいてその紙を覗き読んだ。
「ぼくはその瓶の底を念入りに見て元の場所に戻した。トーマスはその瓶をぼくがしたみたいに目を皿のようにして覗き込んで……」
 シャーロック、またこれ刷ったんだ、とわたしは呆れた。わたしは上着代わりの長袖パーカーを羽織り、荷物をまとめてその場を離れようとする。しかし運悪くシャーロックが部室にやってきて、騒々しく引き止められた。
「なまえも印刷手伝ってくれよ。今日中に終わる気がしない」
「今日中に終わらせなくたっていいじゃない。わたし疲れちゃったから帰るね」
 わたしはすたすたと多量の紙を持つ彼の横を横切ろうとした。が、彼は「待ってくれよ」と言ってわたしの腕を不用意に掴んだ。傷んだばかりの腕はパーカー越しの接触でも過剰に反応し、わたしは思わず悲鳴を上げてしまっていた。「なまえ?」シャーロックは驚いて、もう片方の手にあった紙を手近な棚の上に素早く置くと、パーカーの袖を捲ってしまう。
「ひどい傷だ。どうしたんだい、これ?」
「……猫探ししてきたの」
「猫探し? なまえが?」
「シャーロックがすっぽかしたやつを、代わりに」
「ぼく? ……あ」
 シャーロックは、しまった、という顔をした。わたしは、なんだかたまらなく恥ずかしくなってしまう。こんな傷だらけのところを、彼には見られたくなかった。彼だけには。だって、あんまりにも格好悪すぎる。格好つける必要なんてどこにもないのだけど、どうせなら軽く出かけて軽く捕獲して偶然ばったり出くわしたシャーロックに小言の一つでも言ってやりたかったのだ。こういうところは、わたしもそうだしシャーロックもそうだ。プライドが高くて、面倒くさい。
 一方シャーロックは、そんなわたしの気持ちに微塵も気づいていないのか、どこか嬉しそうに笑っていた。観察眼だけは探偵向きのあのシャーロックが、わたしの気持ちの揺れには目もくれず、なにがそんなに嬉しいのだろう。「なに? 離してよ」とわたしは素っ気なく言った。彼は腕を離してくれた。にこにこと笑ったままである。わたしは、もう自由に動けるというのに、その場から動けなくなってしまった。
「なまえがさ、本気でぼくと同じことに取り組んでくれたことが」
「……うん」
「ぼくは、嬉しかったのさ」
 朗らかに彼は笑った。こんなに穏やかに笑う彼を見たのは、随分と久しぶりな気がした。一瞬、またすこしだけ昔を思い出した。優しい風の吹く原っぱで、やわらかい曇り空の下、夢中になって母国語を喋る小さなシャーロック。わたしは、その無邪気な微笑みを見るのがずっと好きだった。ついこの頃まで忘れてしまっていたが。わたしのシャーロックへの思惑は、長い時間をかけておかしな方向にねじ曲がっていった。でも、それが今、ふと解かれたような感覚があった。
 まあ、いっか。そう思ってわたしも微笑んだ。
「それはそうとなまえ、きみ、今日が文芸フリマだってこと忘れていたろう?」
「え? あ、今日?」
「やっぱり忘れていたな! 道理で顔を見せに来ないわけだ。まあ、全部売れたから何も困らなかったんだけどね。今は増刷をしているところなんだよ。忘れてたわけだし、なまえも手伝ってくれるね?」
 わたしは閉口した。いや、忘れていたのは事実だし、それを引き合いに出されなくたって、今普通に手伝ってと言われれば手伝ってやらないこともなかった。でも、この人だって、自分の仕事をすっぽかしていたわけで、いささか自分のことを棚に上げすぎなのではないだろうか。
 どう返してやろうかと考えていると、一真くんが廊下の角を曲がって登場した。両手には大量の紙が抱えられている。わたしは堪らず呆れてしまう。シャーロックは一真くんのこともこんなにこき使っていたのか……と。
「一真くん」
「なまえか。お疲れ」
「一真くんこそお疲れさま。あの、シャーロックの頼みは普通に断っていいからね?」
「ちょっとなまえ。余計なことを言わないでくれたまえ」シャーロックは横からしゃしゃり出てくる。
「だってそうじゃない。見返りも期待できないんだし」
「あっはっは! 見返りね……」
 シャーロックがちらりと一真くんに目配せする。一真くんは、すっと目線を窓の外へ移した。
 ……怪しい。とても、怪しい。
 わたしは、その二人の雰囲気を見てあることを悟ってしまった。明らかにシャーロックが優勢に立っているこの状況、どう考えてもシャーロックが一真くんの弱みかなにかを握っている。それで、きっと揺すっているのだ、一真くんを。シャーロックが。
「一真くん、御愁傷様。あと、ようこそ。歓迎するよ」
「なまえ? それはどういう意味で……」一真くんは冷や汗をかいていた。
 部屋の中からシャーロックが、日が暮れちゃうぞと叫んでいる。わたしたちは観念して部屋に戻り、大量の紙をページ順に並べた。その作業は夜の九時まで行われた。